空っぽの薬指

文月 青

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本編

23

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リビングのテーブルの上に置かれた一枚の婚姻届。そこに記入された一人分の氏名、三条拓也さんじょうたくや。会ったことも話したこともないけれど、この方は主任さんの前のご主人なのだそうだ。二人の離婚の原因は全く知らないし、例え主任さんが和成さんのことを忘れられなくて別れたのだとしても、何故ご主人の署名捺印入りの婚姻届が和成さんに届けられるのだろう。謎だ。

「主任との復縁の橋渡しを佐伯に頼みたいとか?」

七月終わりの暑い夜。退社後に真子先輩と連れ立って我が家を訪れてくれた島津さんが、げんなりした表情で和成さんに視線を向けた。こういう届が好きな夫婦よねと毒を吐いた真子先輩も、

「男から男に渡す意味が分からない」

首を傾げながらやはり和成さんを窺っている。

「希さんの三角関係やBL発言は信じないで下さい。俺は無実です」

「でもこの一連の事件の発端は間違いなくお前だしな」

慌てて反論した和成さんに島津さんが刑事さんよろしく詰め寄った。おっ、久々に二時間サスペンス復活ですね?

「そもそも佐伯さんはこの人と面識はあるんですか?」

真子先輩の取り調べが始まる。片平なぎさはいつ登場すればいいでしょうか? ソファでぐったりしつつも、わくわくを隠せない私を和成さんが軽く睨んだ。

「当時は主任が担当していた取引先なので、直接会って話したことはないですね。移動で俺が引き継いだときには、あちらも担当替えをした後だったので。だから名前だけです」

「島んちょは?」

「俺も名前しか知らんな」

どうでもいいけれどすっかり二人の呼び名が、「ごりまこ」「島んちょ」で定着している。ネーミングセンスはともかく、なかなか息の合った組み合わせだと思う。

「それじゃ復縁の橋渡しの依頼でも、佐伯さんに横恋慕しているわけでもなさそうね」

「だから違います」

真子先輩と島津さんが神妙に頷きあう中、和成さんだけが必死に誤解を解こうとしているのが可愛い。会社ではクールで通っているらしいけれど、私はこっちの和成さんしか知らないから不思議な感じ。ただ。

「やっぱりモテモテですね、和成さん。男にも女にも」

これだけは変わらないんだろうなぁ。

「全くだねぇ」

楽しそうに同意するごりまこ島んちょコンビ。そこで吐き気がもよおしてきたので、私は断りを入れて一旦席を外した。まだ悪阻は続いているけれど一時期よりは吐く回数も減り、起きていられる時間も長くなった。

「苦しくないですか?」

わざわざ背中を擦ってくれる和成さんに、いつも申し訳なくなってくる。こんなところ見せたくないし、見て気持ちのいいものじゃないから付き添わなくても大丈夫だと言ったら、あなたは俺の子供のために頑張ってくれているんでしょうと、せめてこのくらいさせて下さいと答えた和成さん。

「爪の垢でも煎じて飲ませたい」

この話をしたところ、実家の母と義姉がそう声を揃えた。どうやら父と兄はここまでしてくれなかったようで、私はとても恵まれていることを改めて知った。

「さっきのことですが、俺は希さんにだけもてたいんですからね」

和成さんがそっと囁く。トイレでそんなこと言われたらますます咽ちゃいますよ。



梅雨は長かったものの、明けた後はからっとした暑い夏が始まった。悪阻で食事を取れず貧血気味だった私は、八月初めの今日、検査のために病院を受診していた。

主任さんの前のご主人さんについては、目的が分からないので、結局次に接触してくるまで様子を見ようということでその日の話は終わった。もちろん何事もなければそれに越したことはない。今回の婚姻届は和成さんに直接送られたこともあり、私に被害が及ばないのも皆が安堵している理由だ。

「今度来るときは、張り込み喫茶店のタルトを持ってくるわね」

私の体を心配していた真子先輩が、帰り際に嬉しい約束をしてくれた。つくづく私は幸せ者だ。まぁ張り込みの一言に和成さんは眉を顰めていたけれど。

「佐伯希様」

病院の待合室でお会計を待っていた私は、名前を呼ばれて立ち上がった。ここはうちの近所にある産婦人科。実は最初に昼食を吐いた日は、妊娠しているとは露ほども思っておらず、当然のように内科を受診した私。先生に苦笑いされたのは言うまでもない。

「そういえば佐伯さん、先程ご主人がみえましたよ」

お会計を済ませて帰ろうとしたら、ふいに受付の女性に声をかけられた。仕事柄これまで和成さんが病院に足を運んだことはない。悪阻もずいぶん楽になってきたし、今朝はそんな話はしていなかった。時間ができて寄ってくれたのだろうか。

「外でお待ちになると仰ってましたが」

ひとまず私は受付の女性にお礼を告げて病院を後にした。適温だった院内からかっと太陽が照りつける外に出て、すぐに周囲を見回してみたけれど、入り口脇の休憩スペースにも駐車場にも和成さんらしき人影はなかった。連絡は来ているだろうかと、切っておいたスマートフォンの電源を入れても、着信もメールもない。

「佐伯希さん」

黙って帰る人じゃないのにと訝しんでいたら、今度はいきなり背後から男性の声で名前を呼ばれた。ゆっくり振り返ると、そこには白いワイシャツ姿の見知らぬ男性が立っていた。ずっと院内にいたのか汗もかいておらず、ゆったりとした笑みを口元に浮かべている。

「初めまして」

予め私と分かっていて声をかけたらしく、こちらの返答を待たずに挨拶をされた。

「初めまして」

この人物に心当たりはなかったけれど、とりあえず私も軽く会釈する。落ち着いた雰囲気から、和成さんよりも年齢が高そうだ。

「突然ですが、私と結婚して頂けないでしょうか」

これはまさかプロポーズなのだろうか。いや、そもそも私は既婚者。第一この方は誰?

「どちら様でしょうか」

「これは失礼しました」

すっとお辞儀をする男性。和成さんほどではなくても姿勢が綺麗だ。もしかして営業職に就いている人なのかなと呑気に考えていたら、その人は悪戯を仕掛けた子供のような顔で名を名乗った。

「三条拓也と申します」



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