空っぽの薬指

文月 青

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本編

ごりまこの憂鬱 2

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ようやく梅雨が明けたと思ったら、今度は一気に夏真っ盛りとなった。とにかく暑い。蝉の鳴き声も苛々する。こんな状況では妊娠中の希には堪えそうだ。そういえば悪阻が酷くなったと言っていたが大丈夫だろうか。先輩といえどこればかりは助けになれないので、私としてはかなりもどかしい。

「ごりまこ」

幾分声は抑えているものの、周囲にはっきり聞こえる程度の声で島んちょが呼ぶ。既に周知の総務のメンバーが遠慮もせずに笑い出した。

「真子です」

むすっとしながら訂正しても相手はどこ吹く風。ぽいっと書類を放ってよこした。

「これ頼むわ。それから今日の帰り、佐伯ん家までつきあってくんね? 何かまたトラブってるみたいなんだ」

「あぁ、希からちらっと聞いた。とうとうBLだって?」

そこで島んちょは苦笑する。希ちゃんらしいね、と。確かに深刻に捉えないのはあの子の美点。目のつけ所がずれているのは否めないけれど。

「じゃあ帰りに」

待ち合わせの時間を取り付けて島んちょは仕事に戻っていった。

「最近仲いいじゃない。希効果であんた達もくっついたりして?」

同僚に楽しそうに肩を叩かれたけれど、私は顔色一つ変えずに首を振った。

「絶対ないわ」

断言するには理由がある。

「これからうちに来い、ごりまこ」

珍しく真顔で島んちょに誘われたあの日。どういった思惑があったのかは知り得ないけれど、私もどことなく淋しい気分だったから、彼もきっと同じなのだろうと解釈して、しばらく逡巡した後にとりあえず頷いた。誘っておいて島んちょは驚いていたが、それまでと何ら変わらない距離で、どうでもいい話をしながら自分の家に向かった。

初めて訪れた島んちょの部屋はワンルームで、広すぎず狭すぎず、しかも嫌悪しない程度に散らかっていたおかげで、ベッドがあってもさほど緊張せずにいられた。考えてみれば男の人の部屋に入ったのは久しぶりだ。一方の島んちょはこういったシチュエーションは日常茶飯事なのだろう。特に臆したふうもなく途中で買ったお酒やおつまみを食べながら、希達のことや会社のことで盛り上がっている。

そのうちお酒が回ったのか、島んちょは妙な呪文を呟いてぺたんとテーブルに頭を置いた。そのまま寝てしまいそうな雰囲気だったので、急いでその辺を片付けてベッドに行くよう促す。

「ベッドはごりまこが使え」

むくっと起き上がった島んちょは、どう見ても彼には狭いだろうという小さめのソファに横になった。

「絶対帰るなよ」

勝手な命令を残してさっさと鼾をかいている島んちょ。身動きが取れなくなった私は、渋々島んちょの匂いのするベッドに一人で潜り込む。別に島んちょと男女の仲になろうとか、一晩だけ慰めあおうとか考えていたわけじゃない。もちろん一人暮らしの男の部屋に行くのだから、そうなったらなったで自己責任だとも。

でもこれは予測していなかった。この状況は一体何なのだろう。友達として大事にされていると喜ぶべきか。女としての魅力に欠けるのだと落ち込むべきか。

「まさか本当にごりらだと思ってんじゃないでしょうね」

うっかり低い声でぼやいたら一瞬鼾が止まった。起きているのかとソファを窺えば、すぐにまた煩いぐおーが開始される。結局その晩ろくに眠れなかった私は、着用したまま寝たせいで皺になった服も気になり、寝ぼけ眼の島んちょに挨拶もそこそこに帰る旨を告げて、始発の電車で自分のアパートに戻った。

あれから一週間。島んちょの私への態度はいつも通りで、彼の中ではきっとああいうことはよくあることなのだろうと合点がいった。でも私としては例え肉体関係はなくても、数多の女を家に上げている男は恋愛対象にはならない。だから「絶対ない」のだ。

不思議そうに自分の持ち場に戻る同僚を見送り、私は島んちょが置いていった書類に手を伸ばしたのだった。



島んちょは急遽残業が入ったというので、私はすっかり常連になった会社近くの喫茶店で彼を待つことにした。希のお勧めのタルトとコーヒーを頼んでゆっくり味わう。お土産に持って行ってあげたいけれど、今はとても食べられないだろう。

何気なく窓の外に視線を投げれば、佐伯さんと例の主任が懲りずに並んで歩いている。仕事だし外ではさすがに節度ある行動を取っているようだけれど、ここであの姿を目撃したときの希の気持ちを思うと、現在も同じ業務に携わる
二人に複雑な気持ちが湧く。

「あぁ、佐伯と主任か」

いつの間に仕事を終えていたのか、窓の外を睨みながら島んちょが向かいの席に座った。不愉快なのだろう。苦虫を噛み潰したような表情をしている。

「希ちゃんはこれを見ていながら、営業から移動しろとも転職しろとも騒がずに、佐伯を毎朝会社に送り出してるんだよな。ほんと強いよ」

喫茶店に着くなり注文を済ませていたらしく、島んちょはすぐに運ばれてきたコーヒーを飲んだ。

「でも強いから平気なわけじゃないよ」

私はそっと息を吐く。希は確かに強い。けれど強くたって同じように傷つく。それを言えば佐伯さんが困るからーーそこまであの娘が意識できているかどうかは謎だけれど、敢えて口に出さないのだと思う。分ってはいるだろうが、佐伯さんにはそれを忘れないで欲しい。

「そっか。そうだよな。時々あのずれ加減でうやむやになっちまうけど、しんどくないわけないよな」

「さすがから揚げ十個で希を誘惑した男」

ふふんと鼻で笑ってやると、島んちょは面白いくらい動揺した。

「あれはだな、希ちゃんを元気づけようとしただけで他意はないんだ。本当だ」

主任から送り付けられてきた離婚届を佐伯さんに委ねた希。その希の心境を慮って、島んちょが冗談を言ってくれたと彼女も話していた。

「分かってる。ありがとう」

希の気持ちを少しでも楽にしてくれて。私も感謝している。ところが素直にお礼を伝えたのに、島んちょはぐっと言葉を詰まらせたまま微動だにしない。

「お前な」

やがてはーっと大仰にため息をつく。いつものチャラさが形を潜め、情けないくらい眉が八の字になった。

「ごりまこの理想って高いんだろうな」

唐突な質問に私も眉を顰める。

「俺じゃ役不足なくらい」

「何の話よ?」

さっぱり意味が通じなくて訊ねると、島んちょは信じられないと言わんばかりに目を見開いた。

「だから、この前。俺ん家にお前が来た日。俺、寝る前に、その、訊いただろ?」

変な身振り手振りを入れつつ、しどろもどろ気味に喚く島んちょ。私は一週間前のあの夜を振り返る。飲んで食べて適当に喋ったところで、上手い具合に島んちょが酔い潰れた。それでベッドを使えとか帰るなとか命令されたぐらいで、特に訊かれたことなんて…。

「あぁ、びびでばびでぶう?」

呪文という単語が思いつかず、咄嗟にそんな台詞が飛び出していた。確か島んちょがテーブルに突っ伏したとき、妙な文言を耳にした覚えがある。

「まさか、聞いてなかったのか…」

呆然と呟いた後、島んちょは何故か両手で頭を抱える。もしかしてあぶらかたぶら? それともちちんぷいぷいだった?

「さすが希ちゃんの友達だ。佐伯の気持ちがようやく理解できた気がする」

失礼ですがそれは悪口じゃないでしょうね? 営業職に就いているくせに、相手に確認も取らずに商談を終わらせた自分の失態を棚に上げて。これだからチャラい男なんてご免なのよ。あぁ早く希に会いたい。希を充電したい。

「さっさと行くわよ」

可愛い希を求めて素早く立ち上がった私とは対照的に、島んちょは先は長いとかこんな展開初めてだとかぼやいては項垂れていた。





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