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アルバイトの件はその日の夕方、叔父さんに丁重にお断りしました。すぐさま我が家にすっ飛んできた叔父さんは、何故だどうしてだ柿崎のせいだなと喚いていましたが、追いかけてきた工藤さんに首根っこを引っ掴まれて、あっという間に車の後部座席に閉じ込められました。
「しっかり残業して下さい」
涼しい表情で毒を吐く部下に、上司はぐうの音も出ません。叔父さんが有能なのは、やはり工藤さんあってのことのようです。というか仕事中に抜け出してきたんですね?
「でも俺も残念だ」
運転席のドアに手をかけながら、工藤さんが淋し気に笑います。夕方の風に髪が揺れ、現実の塊のような工藤さんが少し儚く見えました。
「柊子と一緒に働いてみたかった。君の成長をこの目で確かめたかったよ」
勉強ももちろんですが、工藤さんにはたくさん外の世界に触れさせてもらいました。姉のように自分からあらゆることに飛び込めない私は、彼が見せてくれるものからいろいろ吸収していたのです。デートとはこんな感じかな、なんて想像を醸すことまで。
「柿崎さんに反対されたの?」
私は慌てて頭を振りました。
「違うよ。むしろ柿崎さんは叔父さんの会社なら、余計なちょっかいをかけられる心配がないって言ってたくらい」
「つまり片倉さんも俺も敵じゃないってことか。余裕だな」
工藤さんは何事かぶつぶつ呟いていましたが、一度車内の叔父さんと二言三言会話を交わすと、改まった口調で切り出しました。叔父さんは腕組みをして踏ん反り返っていますが、邪魔をする気はなさそうです。
「先日井坂さんから聞いたよ。柊子と橙子の結婚のこと」
先日とはゴールデンウィークを指しているのでしょう。おそらく例の姉への工藤さんの婿入りと、もしかしたら私と柿崎さんの白い結婚についても。
「はっきり婿に欲しいと言われたよ」
あの日工藤さんが井坂家に戻ると、両親は既に帰宅していたのだそうです。なので回りくどいことが苦手な工藤さんが、単刀直入にずばっと訊ねてみたところ、
「源くん込みでうちでやっていける人間など、日本中探しても君しかいない」
まるでプロポーズのような台詞で口説き落とされたらしいです。父は相当工藤さんに惚れこんでいるのですね。苦笑するしかありません。
「それと柊子の結婚の際に、井坂さんが柿崎さんに条件を付けたのは知ってる?」
私は無言で頷きました。一瞬片眉を上げたものの、工藤さんは構わずに先に進みます。
「一年間は柊子に触れない。ただし守れなかった場合は離婚に応じること」
「え?」
思わず目を瞠りました。約束に続きがあったなんて寝耳に水です。しかも結婚と離婚をセットにしているとは穏やかではありません。
「もちろん柊子の気持ち優先だから、この限りではないということだが、二人の間にどんな経緯があったのかはともかく、柿崎さんはそれを受け入れて柊子と結婚した」
つまり柿崎さんも結婚と同時に、離婚も承諾したことになるのでしょうか。
「一方の井坂さんも、柿崎さんの香苗さんへの思慕の念を承知の上で、柊子との結婚を許したようだ。他にも理由はあるだろうが」
正直頭の中がこんがらがってきました。娘の結婚にそこまでの条件を付ける父も、呑み込んでまで私と結婚する柿崎さんの心理も理解できません。そんな結婚をする必要がどこにあるのでしょう。
「素朴な疑問なんだけど」
そこで私はもう一つの重要ポイントを発見しました。
「約束を破ったかどうかって傍から見て分かるものなの?」
工藤さんが眉間に皺を寄せます。だって柿崎さんが喜び勇んでスキップするとか、実際に行動に移されたらかなり怖くないですか。
「それとも柿崎さんが申告するの?」
「しちゃいましたって?」
疑うようにお互いの顔を覗き込んだ後、私達は近所迷惑なほど爆笑しました。
「勘弁してくれ、その発想。悪いが俺には耐えられない」
「私だって嫌よ。お父さんに昨夜うんたらかんたらなんて報告するの」
しかもその先に待っているのが離婚だなんて、縁起が悪いことこの上ないです。期限付きで子孫を残すなという指示に、一体どんな意味が含まれているか謎は深いです。
「そろそろ社に戻るよ」
今度こそ工藤さんは運転席に乗り込みました。
「気が変わったらいつでも連絡しろ」
待たされて不機嫌極まりない叔父さんが、開けてあった窓の隙間からぼやきます。
「世間ずれしていない柊子を危惧して、この人がバイトの話を持ち込んだのは事実だから。そこだけは信じてやって」
上司のフォローを忘れない部下に、ひとりでに笑みが零れました。大丈夫。叔父さんの根底にあるものはちゃんと分かっています。そうでなければとっくに縁を切っていたかもしれませんから。
ハンドルを握ってエンジンをかけた工藤さんは、やがて緩やかに表情を綻ばせました。
「婿入りは相手が橙子じゃなくてもいいそうだよ」
またねと言う代わりにロケット花火を放ち、颯爽と走り去ってゆきます。でもちょっと待って下さい。それって私も婿取りの対象だと聞こえるのですが。
「しっかり残業して下さい」
涼しい表情で毒を吐く部下に、上司はぐうの音も出ません。叔父さんが有能なのは、やはり工藤さんあってのことのようです。というか仕事中に抜け出してきたんですね?
「でも俺も残念だ」
運転席のドアに手をかけながら、工藤さんが淋し気に笑います。夕方の風に髪が揺れ、現実の塊のような工藤さんが少し儚く見えました。
「柊子と一緒に働いてみたかった。君の成長をこの目で確かめたかったよ」
勉強ももちろんですが、工藤さんにはたくさん外の世界に触れさせてもらいました。姉のように自分からあらゆることに飛び込めない私は、彼が見せてくれるものからいろいろ吸収していたのです。デートとはこんな感じかな、なんて想像を醸すことまで。
「柿崎さんに反対されたの?」
私は慌てて頭を振りました。
「違うよ。むしろ柿崎さんは叔父さんの会社なら、余計なちょっかいをかけられる心配がないって言ってたくらい」
「つまり片倉さんも俺も敵じゃないってことか。余裕だな」
工藤さんは何事かぶつぶつ呟いていましたが、一度車内の叔父さんと二言三言会話を交わすと、改まった口調で切り出しました。叔父さんは腕組みをして踏ん反り返っていますが、邪魔をする気はなさそうです。
「先日井坂さんから聞いたよ。柊子と橙子の結婚のこと」
先日とはゴールデンウィークを指しているのでしょう。おそらく例の姉への工藤さんの婿入りと、もしかしたら私と柿崎さんの白い結婚についても。
「はっきり婿に欲しいと言われたよ」
あの日工藤さんが井坂家に戻ると、両親は既に帰宅していたのだそうです。なので回りくどいことが苦手な工藤さんが、単刀直入にずばっと訊ねてみたところ、
「源くん込みでうちでやっていける人間など、日本中探しても君しかいない」
まるでプロポーズのような台詞で口説き落とされたらしいです。父は相当工藤さんに惚れこんでいるのですね。苦笑するしかありません。
「それと柊子の結婚の際に、井坂さんが柿崎さんに条件を付けたのは知ってる?」
私は無言で頷きました。一瞬片眉を上げたものの、工藤さんは構わずに先に進みます。
「一年間は柊子に触れない。ただし守れなかった場合は離婚に応じること」
「え?」
思わず目を瞠りました。約束に続きがあったなんて寝耳に水です。しかも結婚と離婚をセットにしているとは穏やかではありません。
「もちろん柊子の気持ち優先だから、この限りではないということだが、二人の間にどんな経緯があったのかはともかく、柿崎さんはそれを受け入れて柊子と結婚した」
つまり柿崎さんも結婚と同時に、離婚も承諾したことになるのでしょうか。
「一方の井坂さんも、柿崎さんの香苗さんへの思慕の念を承知の上で、柊子との結婚を許したようだ。他にも理由はあるだろうが」
正直頭の中がこんがらがってきました。娘の結婚にそこまでの条件を付ける父も、呑み込んでまで私と結婚する柿崎さんの心理も理解できません。そんな結婚をする必要がどこにあるのでしょう。
「素朴な疑問なんだけど」
そこで私はもう一つの重要ポイントを発見しました。
「約束を破ったかどうかって傍から見て分かるものなの?」
工藤さんが眉間に皺を寄せます。だって柿崎さんが喜び勇んでスキップするとか、実際に行動に移されたらかなり怖くないですか。
「それとも柿崎さんが申告するの?」
「しちゃいましたって?」
疑うようにお互いの顔を覗き込んだ後、私達は近所迷惑なほど爆笑しました。
「勘弁してくれ、その発想。悪いが俺には耐えられない」
「私だって嫌よ。お父さんに昨夜うんたらかんたらなんて報告するの」
しかもその先に待っているのが離婚だなんて、縁起が悪いことこの上ないです。期限付きで子孫を残すなという指示に、一体どんな意味が含まれているか謎は深いです。
「そろそろ社に戻るよ」
今度こそ工藤さんは運転席に乗り込みました。
「気が変わったらいつでも連絡しろ」
待たされて不機嫌極まりない叔父さんが、開けてあった窓の隙間からぼやきます。
「世間ずれしていない柊子を危惧して、この人がバイトの話を持ち込んだのは事実だから。そこだけは信じてやって」
上司のフォローを忘れない部下に、ひとりでに笑みが零れました。大丈夫。叔父さんの根底にあるものはちゃんと分かっています。そうでなければとっくに縁を切っていたかもしれませんから。
ハンドルを握ってエンジンをかけた工藤さんは、やがて緩やかに表情を綻ばせました。
「婿入りは相手が橙子じゃなくてもいいそうだよ」
またねと言う代わりにロケット花火を放ち、颯爽と走り去ってゆきます。でもちょっと待って下さい。それって私も婿取りの対象だと聞こえるのですが。
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