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番外編
ゲームセット 後
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アパートの駐車場に辿り着いたとき、二階へと続く階段から水島が降りてくるのが見えた。肩にはいつもの大きな袋を下げている。たぶんまた食材を持ってきたのだろう。地面に足を着いた彼女は、突然目の前に現れた俺に、いつものほわっとした笑みを浮かべた。
「お帰りなさい」
何事もなかったように挨拶を口にする水島。俺は逸る気持ちを抑えて平静を装った。
「来てたのか?」
「はい。でも留守だったので帰ろうかと」
白い息を吐く水島の鼻の頭は真っ赤。当然だ。大晦日の今日は珍しく朝から雪が降っている。いくら昼過ぎとはいえ気温は大分低い。寒くない筈がない。
「それでは、良いお年を」
ぺこりとお辞儀をして、逃げるように俺の隣りをすり抜けた水島の手をとっさに掴んだ。
「どのくらい、ここにいた」
あまりの冷たさに息を飲む。
「十五分です」
少し間を開けて水島が答えた。できるだけ問い詰めないつもりだったが、明らかな嘘に自分の声が低くなるのが分かった。
「いつからだ?」
「三十分、かな」
「水島?」
大抵の女がびくつく俺の睨みに、怖がるどころか全くたじろがない水島は、悪戯がばれた子供みたいに舌を出した。
「一時間とちょっとです」
それを聞いて俺は絶望にも似た気持ちになった。
事の起こりは三十分程前。毎年盆も正月も特に帰省しない俺を、涼と同じ大学の友人である高橋が誘ってきたので、家の近くのファミレスで昼飯を食っていたときのことだ。
「そういえば脇坂、お前女嫌い治ったんだな」
豚肉を口に放り込んで、クリスマスに水島が焼いた肉の方が美味かったな、と勝手に比べていた俺に、高橋は寝言と思しき発言をした。
ちなみにクリスマスは、スーパーで買物を済ませた後、菓子店で水島所望のチョコレートケーキを買って、俺のアパートに帰った。考えてみれば誰の家に行くかなんて相談は、一つもしていないのだが。
すぐに水島がサンドイッチやパスタ、鶏肉のソテーを作ってくれたので、一緒に食べながらスーパーで会った老婦人の話をしたり、テレビでファン感謝祭に行った野球チームの特集を観て大笑いしたり。ついでに見せられた古墳の本も意外と面白くて、何だかんだ結構楽しく過ごしたと思う。
「彼女可愛いじゃん」
「誰が彼女だって?」
俺が不機嫌丸出しで凄むと、高橋は意味ありげに口の端を上げた。
「またまたぁ。毎日お前の部屋の前で待ってるじゃん」
女という時点で該当するのは水島しかいないが、あいつも自分の都合が良いときだけだから、毎日は来ないぞ。
「たぶん俺の妹じゃないかな。脇坂に勉強を教えてもらってるんだ」
いい感じに助け舟を出してくれた涼も、腑に落ちないといった顔をしている。
「何だ、そうなのか。待ちぼうけを食らってるのに、毎日訪ねてきてたからさ」
ここ二週間、バイトに向かう際に高橋が俺のアパートの前を通ると、必ずその女がいたという。
二度繰り返された、毎日という言葉が引っかかった。水島は暇なときにうちに来ていたんじゃないのか。俺が留守だったらすぐに自宅に戻っていたんじゃないのか。
ーーまさか今日は?
「遅くなるなら、連絡くらいしてやれよ。合鍵を渡すとかさ。まぁ、彼女でないなら無理か」
気がついたらフォーク代わりの箸を置いて、体が勝手に座席から立ち上がっていた。涼に昼飯代を頼もうと財布に手を伸ばしたところで、珍しく厳しい顔つきの彼と目が合った。
「女嫌いの脇坂を気遣った結果だろうから、葉菜を責めないでやって」
俺は目を瞬いた。責めるつもりなんか毛頭ないし、そんな筋合いでもない。
「風邪をひいたら大変だろ」
そう。ただそれだけのことだ。
「そっか。分かった。ありがとう」
何故か嬉しそうな涼と、がっかりしたような高橋に見送られ、俺は久しぶりに全力疾走でアパートへ戻った。そして黙って一時間以上も俺を待っていた、待っていた素振りを微塵も見せなかった水島を捕まえた。
「最初は病み上がりの脇坂が気になって様子を見に来ていたんですけど、そのうち習慣になっちゃって。買物のついでについ」
落ちては溶ける雨のような雪が降る中、余計なことをしてすみませんと水島は謝った。
「毎日、こうやって待っていたのか?」
濡れた頭から雫を払うと、水島は僅かに首を竦めた。
「えぇと、はい」
約束なんかしていないのに平日は学校帰りに、休日や冬休みは昼から、時間の許す限り俺を待っていた。帰って来ない日は今日のように黙って姿を消して。
「涼に言えば俺に連絡を入れてくれただろう?」
「脇坂そういうの嫌いでしょう」
うっ。それは確かにそうなんだが。
「それに私、脇坂の嫌いな女ですしね」
何でもないことのように水島はさらっと零したが、俺は槍にでも突き刺されたような息苦しさを覚えた。お前が俺の嫌いな女だと?
「ごめんなさい。これからは用があるときだけ、前もって兄に電話して貰ってから来ますね」
俺の車に乗せた、俺の部屋に入れた、俺の意思で一緒に出かけた、唯一の女であるお前を嫌いだと?
「では今度こそ良いお年を」
泣きそうなくせに無理して笑おうとする水島が、またもや俺の前から去ろうとした瞬間、俺は力いっぱい彼女を抱き締めていた。氷のように冷え切った華奢な体が、買物のついでに時間を潰していたのが嘘だと証明していた。
「脇坂?」
戸惑っている水島の声が震えている。
「帰るな。頼むから」
「でも」
「じゃあ何故お前は俺を待ってたんだよ」
「あれ? どうしてでしょう」
思考回路がショートしたのだろうか。水島は俺の腕の中で、自分で自分に首を傾げている。
ーー言葉の意味を分かってる?
俺の脳裏にいつぞやの涼の問いが蘇る。二人の間に生まれつつあるぬくもりに心が温まる。俺はそっと目を閉じた。答えは出ている。もう認めないわけにいかない。
「試合終了だ」
どうやら俺は嫌いな女に惚れてしまったらしい。俺の敗けだ、水島。
「お帰りなさい」
何事もなかったように挨拶を口にする水島。俺は逸る気持ちを抑えて平静を装った。
「来てたのか?」
「はい。でも留守だったので帰ろうかと」
白い息を吐く水島の鼻の頭は真っ赤。当然だ。大晦日の今日は珍しく朝から雪が降っている。いくら昼過ぎとはいえ気温は大分低い。寒くない筈がない。
「それでは、良いお年を」
ぺこりとお辞儀をして、逃げるように俺の隣りをすり抜けた水島の手をとっさに掴んだ。
「どのくらい、ここにいた」
あまりの冷たさに息を飲む。
「十五分です」
少し間を開けて水島が答えた。できるだけ問い詰めないつもりだったが、明らかな嘘に自分の声が低くなるのが分かった。
「いつからだ?」
「三十分、かな」
「水島?」
大抵の女がびくつく俺の睨みに、怖がるどころか全くたじろがない水島は、悪戯がばれた子供みたいに舌を出した。
「一時間とちょっとです」
それを聞いて俺は絶望にも似た気持ちになった。
事の起こりは三十分程前。毎年盆も正月も特に帰省しない俺を、涼と同じ大学の友人である高橋が誘ってきたので、家の近くのファミレスで昼飯を食っていたときのことだ。
「そういえば脇坂、お前女嫌い治ったんだな」
豚肉を口に放り込んで、クリスマスに水島が焼いた肉の方が美味かったな、と勝手に比べていた俺に、高橋は寝言と思しき発言をした。
ちなみにクリスマスは、スーパーで買物を済ませた後、菓子店で水島所望のチョコレートケーキを買って、俺のアパートに帰った。考えてみれば誰の家に行くかなんて相談は、一つもしていないのだが。
すぐに水島がサンドイッチやパスタ、鶏肉のソテーを作ってくれたので、一緒に食べながらスーパーで会った老婦人の話をしたり、テレビでファン感謝祭に行った野球チームの特集を観て大笑いしたり。ついでに見せられた古墳の本も意外と面白くて、何だかんだ結構楽しく過ごしたと思う。
「彼女可愛いじゃん」
「誰が彼女だって?」
俺が不機嫌丸出しで凄むと、高橋は意味ありげに口の端を上げた。
「またまたぁ。毎日お前の部屋の前で待ってるじゃん」
女という時点で該当するのは水島しかいないが、あいつも自分の都合が良いときだけだから、毎日は来ないぞ。
「たぶん俺の妹じゃないかな。脇坂に勉強を教えてもらってるんだ」
いい感じに助け舟を出してくれた涼も、腑に落ちないといった顔をしている。
「何だ、そうなのか。待ちぼうけを食らってるのに、毎日訪ねてきてたからさ」
ここ二週間、バイトに向かう際に高橋が俺のアパートの前を通ると、必ずその女がいたという。
二度繰り返された、毎日という言葉が引っかかった。水島は暇なときにうちに来ていたんじゃないのか。俺が留守だったらすぐに自宅に戻っていたんじゃないのか。
ーーまさか今日は?
「遅くなるなら、連絡くらいしてやれよ。合鍵を渡すとかさ。まぁ、彼女でないなら無理か」
気がついたらフォーク代わりの箸を置いて、体が勝手に座席から立ち上がっていた。涼に昼飯代を頼もうと財布に手を伸ばしたところで、珍しく厳しい顔つきの彼と目が合った。
「女嫌いの脇坂を気遣った結果だろうから、葉菜を責めないでやって」
俺は目を瞬いた。責めるつもりなんか毛頭ないし、そんな筋合いでもない。
「風邪をひいたら大変だろ」
そう。ただそれだけのことだ。
「そっか。分かった。ありがとう」
何故か嬉しそうな涼と、がっかりしたような高橋に見送られ、俺は久しぶりに全力疾走でアパートへ戻った。そして黙って一時間以上も俺を待っていた、待っていた素振りを微塵も見せなかった水島を捕まえた。
「最初は病み上がりの脇坂が気になって様子を見に来ていたんですけど、そのうち習慣になっちゃって。買物のついでについ」
落ちては溶ける雨のような雪が降る中、余計なことをしてすみませんと水島は謝った。
「毎日、こうやって待っていたのか?」
濡れた頭から雫を払うと、水島は僅かに首を竦めた。
「えぇと、はい」
約束なんかしていないのに平日は学校帰りに、休日や冬休みは昼から、時間の許す限り俺を待っていた。帰って来ない日は今日のように黙って姿を消して。
「涼に言えば俺に連絡を入れてくれただろう?」
「脇坂そういうの嫌いでしょう」
うっ。それは確かにそうなんだが。
「それに私、脇坂の嫌いな女ですしね」
何でもないことのように水島はさらっと零したが、俺は槍にでも突き刺されたような息苦しさを覚えた。お前が俺の嫌いな女だと?
「ごめんなさい。これからは用があるときだけ、前もって兄に電話して貰ってから来ますね」
俺の車に乗せた、俺の部屋に入れた、俺の意思で一緒に出かけた、唯一の女であるお前を嫌いだと?
「では今度こそ良いお年を」
泣きそうなくせに無理して笑おうとする水島が、またもや俺の前から去ろうとした瞬間、俺は力いっぱい彼女を抱き締めていた。氷のように冷え切った華奢な体が、買物のついでに時間を潰していたのが嘘だと証明していた。
「脇坂?」
戸惑っている水島の声が震えている。
「帰るな。頼むから」
「でも」
「じゃあ何故お前は俺を待ってたんだよ」
「あれ? どうしてでしょう」
思考回路がショートしたのだろうか。水島は俺の腕の中で、自分で自分に首を傾げている。
ーー言葉の意味を分かってる?
俺の脳裏にいつぞやの涼の問いが蘇る。二人の間に生まれつつあるぬくもりに心が温まる。俺はそっと目を閉じた。答えは出ている。もう認めないわけにいかない。
「試合終了だ」
どうやら俺は嫌いな女に惚れてしまったらしい。俺の敗けだ、水島。
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