1 / 8
1:what youthful givin' to you
しおりを挟む――少年と少女の話をしよう。
少年を弓削逸朗といい、少女は真央早実といった。
二人の母親は姉妹であり、お互い従兄妹同士だったんだ。
奇して生まれた日は同じで、同じ年に生まれた。まるで双子のようだね。
彼らの両親はどちらも優しい人ではなかった。
それぞれが別々の問題を抱えていてね。それも、『どこにでもあるが、誰にとっても辛いこと』だったんだ。愛情なんてひと欠片も感じられないまま幼少期を過ごしていたんだ。
姉妹である母親たちはとある宗教の信者でね。あまりに熱心で小学校から出入り禁止になったほどだった。そのせいで二人はいじめられていたんだよ。『頭のおかしな親の子だ』とね。
つらい、その一言では表せないほどの疎外感と苦しみの中で自分たちで自分を守るしかなかった。身を寄せ合い、孤独に耐え二人は十七歳になった。
――十七歳になっても、二人はふたりで孤独だった」
ぱしりと乾いた音が、簡素な白い天井にはね返り反響して霧散した。
「触らないで」
ガーゼと医療用テープが巻かれ点滴のチューブが繋がった十四、五の少女の痩せた腕が、弱々しくもぞりと動いて差し伸べられた手をはたいた。
「千夜子、泣くとまたかぶれるよ」
少女、千夜子の兄、弓削逸朗がガーゼで拭おうとするが、
「やめて、触らないでよ」
またもはね退けられてしまった。
「お兄ちゃんなんか大嫌い」
少女は、枕に顔を埋めてぐぐもった嗚咽をもらすだけで兄の顔を見ようとはしない。逸朗は困り果てる――わけでもなく無表情のままめくれた布団をかけなおす。
「看護士さんの言うことをちゃんと聞いて、ちゃんと食べて、」
「うるさい。出ていけ」
逸朗の呼びかけに、千夜子は嫌悪感を隠そうともせず枕に伏せたまま突き離すように言った。
こうなっては話など聞いてはくれない。逸朗は諦めて、病院ベッド脇にまとめてあった洗濯物を取り部屋を出た。そのまま屋上のランドリーコーナーまで行き、慣れた手つきで洗濯機に放り込み終わるまでの時間をぼんやりと景色を眺めながらすごした。
少し離れたところに電車の高架が見える。家は近所ではないので、あの路線に乗って病院まで来る。自宅はもっと湾岸、海から数キロの場所だ。何も考えず、ぼんやりするうちに洗濯の終わりをチープな電子音が知らせてくれた。あとは乾燥機にかければ終わる。その動作もいつも通りだ。乾燥が終わると引き出してまとめ千夜子のいる病室に戻る。
千夜子は泣きつかれて寝てしまったようだ。目はもとより、頬のほうまで赤く腫れている。
この妹はアレルギーがひどく、諸処病気を抱えており皮膚も極端に弱い。不自由だらけの生活を生まれたときから過ごしている
逸朗は、布団から出ている千夜子の腕をそっと布団に押し戻すと小さく息を吐いた。
今の状況になってからだいぶ経つ。この病院の近くの高校を選んだのは母親だ。それに抵抗する気もなかった。逸朗には夢もないし、やりたいこともない。それにこうして妹の面倒を見ていれば、自由に振舞っていても親はなにも言わないし逸朗もそれで良いとも思い始めていた。
乾燥機の熱がまだ残る洗濯物を畳み、ベッド脇のテーブルの上に置いて音も静かに病室を後にした。
がたごとと電車に揺られる。平日の午前は空いていて、なんなく座ることも出来る。逸朗は学生なので、本来は教室の自分の席に座っていなければならない身だが、全くそちらへ向かう気配もなく朝来た経路をそのまま逆に進んでいく。入学式と最初の始業式だけいって、あとは行っていない。十七であり、真面目に通っていれば高校三年になっているはずなのに留年していて、担任はあれこれ危惧しているようだが必要以上の事は言わなかった。親がそもそも興味も示さないので、他人である一介の教師がつっこんで言えるわけもなかった。
だらだらと流れる車窓の風景、だらだらと流れる人の波。意識することもなく、自宅の最寄り駅へとたどり着く。
駅からのびている歩道橋の上で立ち止まり、ポケットから携帯電話を取り出す。今時なら高性能の端末くらいは持っているのが普通だが、彼は必要性も感じなかったのでごく普通の、メールと電話、それと少しネットが出来る程度の携帯電話しか持っていない。二つ折りの電話機のボタンをかちかちを操作し短い文を打ち込む。登録している番号は、あまり多くない。送信ボタンを押して携帯をぱたりと閉じる。ポケットには戻さず手に持ったまま、歩道橋の上に留まり返事を待つ。さほどの間もなく、小さく電子音が鳴る。
『いまどこ』
『席田橋の陸橋』
『午前で帰る』
『丘公園のてっぺんで待つよ』
『うん』
最小限の文字数のやりとり。逸朗は返信のメールを確認するとまた携帯電話を閉じてズボンのポケットへつっこんだ。おもむろに駅の方へ戻って先ほどいた陸橋とは反対側の通路へ向かい、そして崎津(さきつ)競技場の案内が掲げられた連絡橋を渡って競技場入り口とは反対の方向へ行く。
丘公園――碩台公園は、競技場を囲うように、そして天井を覆いつくすように整備された公園だった。木々が多く、公園からは競技場の面影も施設の壁もほとんど見えない。
競技場のドームの形状に沿って整備された道を歩く。雑然としているようで、きっちり計算されて植えられた木々。細い水路や傾斜を利用した人工の滝、水路に木材とコンクリートで掛けられた橋。それらがドームを取り巻いて螺旋状に設置されていた。ひたすらにぐるぐる回ってスロープを登れば迷うこともなく頂上にたどり着くが、階段が螺旋を突っ切るように貫いているのでそちらを上がっていくほうが早く着く。何度も脚を運んでいる逸朗はむろん、後者のルートを選ぶ。何度も登っているが、通常の建物の四階分はある高低さに息が切れる。
平日の昼前とあって人の影は少ない。見かけても現役をとっくに引退したであろう男性や初老の女性がペットの犬を引き連れて歩いているくらいである。
登りきった頂上には、競技場のドームの一部であろう半円球が、鉄柵と生け垣の間から顔を覗かせている。その半円球を取り巻く遊歩道にそって、雨ざらしでボルトが錆付いているベンチがぽつりぽつりと等感覚に並んでいる。頂上にたどり着いた者を労ろうと待ちわび迎えようとしているようだった。
逸朗はその一つに腰掛け、長い階段の道のりで上がった息を静かに呼吸し整える。生活のさざめきが、高台のここまでひびいている。地上100メートル、競技場の表面に敷設整備されたこの公園は、生活の喧噪とはほんの少し引き離されていてずいぶんと遠くまで見渡せる。
公園近くをぱらぱらと走る車、いつもいくファミレスの看板、無機質な雑居ビル、住宅。視線を遠くに渡せば、グリーンの塗料で着色された、四角い鉄筋の大型コンテナリフトや湾岸を走る高速道路、強固なワイヤーで吊られた白い架橋が見える。港から北側、そのずっと向こうには高層ビルがかすんでその姿を見せている。
港からは距離があるため海は見えないが、どこかしこに湾岸の気配を感じさせる。どこか空気がずっと先にぬけているような、誰もいない砂浜を思わせるような。
初夏の清々しい風が逸朗の横を通り過ぎる。この場所は、何もかもが見渡せる気さえするのに、何も見えないのが不思議だった。おそらく、それらがこの安心感をもたらせてくれているのだろう。――ここを逃げ場にしてからずっと見ている光景。
安堵感とともに、すっと息を吐く。
ぱちり、と携帯電話を開き何をするでもなくボタンを操作する。彼の会話の相手は一人しかいない。その唯一の相手もどうせこちらへむかっているところだ、メールを送る必要もない。
携帯電話をいじりながら、こちらへ来る道すがら適当に自販機で購入した缶コーヒーを開封し口にする。――ただ時間をつぶすだけの挙動。何分、いや、幾十数分経ったか、しばらくしてそんな動作にも飽きて顔を上げる。まだ独りである。
地面に視線を落とすと、視界の端に定年をすぎたばかりの男性に連れられた犬の足がとぼとぼと歩いているのが見えた。のそりと携帯電話をポケットにつっこむ。どれくらい経ったか。千夜子の入院する堰島の有川病院を出たのが午前十時くらいだったはず。携帯電話を触っていたのに画面端に表示されているはずの、『時間』が脳裏の隅にも掠らなかった事に気付く。
ふっと、皮肉と共に逸朗は鼻で笑った。
逸朗が降りた駅から二駅先の、咲津港駅の向こうに咲洲という埋め立て地がある。その人工島にはぱらぱらと施設が点在していて高層ビル、フェリーターミナルなどがあり、他にもタワーマンションや大学施設などもあり開発がまだ進み続けている街であった。
その施設の一つ、平城崎大学と、その付属高校である咲島高校はポートタウン駅のほど近くに建てられている。いわゆるエスカレーター式の私立学校で、通う子供らは平均以上の収入の家庭で育った子供ばかりである。堅牢さと品の良さ、両の雰囲気を醸し出す校門を抜けて、生徒たちは各々自分たちの教室へ入っていく。
そんな中で、同じ経路をたどれない生徒が一人いた。
伏せ目がちで、いきる活力など欠片も感じられない暗く沈んだ目、セミロングほどの髪を野暮ったく後ろに髪留めでまとめ、咲島高校の制服をまとった十七歳の少女。
正門とは反対側、職員用通用口から入りそのまま保健室へ向かう。それが彼女の日常のルートだった。原因はどうしようもないほどのいじめだった。ほんのわずかに表面に出てはいるものの、教師たちは特に対応する事もなく保健室に彼女を放り込んだだけでそれ以上は何もしてくれなかった。少女、真央早実の日常は当たり前の幸福とはほど遠いものだった。
十時を回った頃だろうか。保健室で課題をやっていたものの、具合が悪いといってベッドに横になっていた早実はそろりと身を起こした。数日前の痣と、今朝受けたばかりの痣をやおら撫でる。腕と足、数カ所に青黒く沈んだ痣。
――もう慣れてしまった。
いじめられている事実よりも、その状況の方が早実にとっては胸が痛かった。
まだ午前で、教室では授業が当たり前のように行われている。早実はもう一度横になろうと、緩慢とした動作で布団にもぐ込もうとする。ふいに、枕元に置いてあったタッチ操作の携帯端末がバイブレーション機能で唸りを上げた。音もなく端末を操作して確認する。メールだったらしく、ささっと指を滑らせ会話を済ませるともう一度布団に潜り込み、何時頃に出るか思案しながら目を閉じた。
――空が青いな。
逸朗はそれだけを心に浮かべた。遠くに聞こえる車の走行音もどうでもいいものであり、時間を浪費している事もどうでもよかった。それこそ、”死んだ魚の目”で空を見つめ、カラになったコーヒーの缶をもて遊んでいる。
ぼんやりしすぎたのか、うつらうつらし始めた逸朗の脳裏に「今何時頃だろうか」と思考が掠めたが確認するのも億劫だった。
――どうでもいいな。時間は腐るほど、いや、本当に腐っていってしまうくらいあるのだし。
ぼんやりした思考に割り込んできたぱたぱたと階段を上がってくる足音に、そろそろかと瞼を開いたが姿を現したのは早々に家事を切り上げて散歩に来た様相の主婦らしき女性だった。
待つのにも飽きて視線を地面に落とした。そうした視界の隅に見覚えのあるローファー靴が見え、落とした視線を戻す。
「さーちゃ」
「寝てた」
彼しか呼ばない愛称で呼ぶと華奢な足がぱたぱたと駆け寄り、逸朗の隣に座った。
――数秒の無言。
「……どこいく」
「どこでも。……いつくの行きたいとこ」
『いつく』は早実だけが呼ぶ逸朗の愛称である。
「とりあえず商店街行くか」
「うん」
最低限の会話だけで行動を開始する。
「…………」
立ち上がった逸朗が、ふと彼女の腕に目を留め、動きを止めた。
「アザ、増えてないか?」
指摘された早実は、夏服の袖では隠し切れない痣を手でぎゅっとこらえるように隠した。
「気のせい」
「……そうか」
それ以上を追求する事なく、逸朗はいつものように着ていたシンプルな淡いブルーのパーカーを脱いで早実に手渡した。
「着とけ」
早実は無言で受け取る。現代の平均的な身長より少し高い逸朗のパーカーは、早実にはひどくぶかぶかで制服を覆ってしまう。平日制服でいるとどうしても職質にあってしまったり、入店を渋られる事があるため、こういうとき毎回逸朗の服を借りていた。
振り返りもせず階段を降りていく逸朗の背を追いかけ見ながら、「どっちなんだろうな」と、早実は微かに思った。
硯台公園の入り口から、駅へ戻り駅から延びる陸橋を渡り、降りた道の先、住宅街の多い道の中に八幡通り商店街のアーケード入り口がある。そのアーケードを中程まで進むとの商店街独特の広場に出る。赤と黄色でステンドグラス町調に飾られたドーム型の天井はまるで太陽の様でもあった。その広場から枝分かれするように五本の道が延びている。
二人は中心の広場の一角にあるスーパーへ行くと、適当に昼食を見繕って商店街の出入り口のひとつ、中学校がそばにある方へ行きアーケードと学校の間にある三角公園と呼ばれる、その名前の通り三角形の敷地をした公園のベンチに腰掛けた。平日の昼間だけあって、やはり同年代の子らはいない。ビニールの袋をがさがさ漁って購入したパンやおにぎりをそっけなく早実に手渡す。早実も無言で受け取ると、開封しむしゃむしゃとかぶりついた。
逸朗も食べ終わり二人手持ち無沙汰ではあったがお互い特にやりたいこ事も行きたい所もなかったので、そのままベンチに座ったままぼんやりとしていた。その二人に近づく影があった。
「あーれー? 弓削くんじゃないですかー。ええと、お隣さんはー、さー、さーなんだっけ、まあいいや久しぶりですねー!」
二人が座るベンチの後ろからのぞき込むように一人の少女が声を掛けてきた。セミロングの髪を低い位置で二つに束ね、見知らぬ学校のセーラー服を着ている。年はおそらく十七か十八だろう。高校生だとしたらこのあたりの学校ではない。ほとんどがブレザーでセーラーを着るのはふた駅向こうの、早実が通う私立学校くらいだ。早実のそれとも違う制服の少女にふたりやおら警戒を抱く。
「小学校以来だったっけー? ずいぶん前だから忘れちゃってるかもですよー……」
「……知ってる?」
「いや、知らん。さーちゃは?」
「知るわけない」
勝手に話を続けようとする少女に戸惑い、小声で聞き交わす二人。
「二人ともあんま変わんないんだねー。でいきなりだけどさ、バイトやんない?」
唐突な申し出にさすがに二人、黙り込んで訝しげに様子を窺う。
「そうだよねー、久しぶりに会っていきなりバイトとかさーうさんくさいよねーまあ仕方ないよねー」
「そもそも、誰なの」
仰々しくリアクションをとりながらぺらぺら喋る少女に早実が問いかけた。
「あちゃー、忘れているのねー追憶の彼方なのねー悲しいわー。と冗談は置いといて、私は栗原時香。ただのしがない高校生だよー。で、バイトやる?」
「……てかなんで。ていうか、内容知らんのにやるかよ」
「そりゃそうだよねー! ちなみに時間のない私の代わりにちょっとした荷物を指定場所で手渡すだけ! 簡単でしょ?」
「……報酬は? やばいもんなのか?」
「いつく、やめとこ」
話に乗りかかっている逸朗の服の袖を引き、こそりと囁き引き留めようとする。
「まったくもってやばさはないよー? ただのおもちゃみたいなもんだから」
「なんで自分で行けないんだ」
「タイムイズマネー。時間には限りがあるんですよ? にっちもさっちも、キャントゴーな時もある……ちなみに報酬は前金5000、受け渡し時に5000ね」
「……さーちゃ、どうする」
大仰に悲哀ぶって演技臭い口振りをする時香の言葉に迷いを見せる逸朗。早実は不安げな表情を残したままうつむいて、
「……どっちでもいい」
そう一言だけ言って、そこからはもう黙りこんでしまった。
「受けるんですかー? やめますかー?」
「受けるよ」
逸朗が承諾したので、時香はわざとらしく”満面の”笑みを作って彼の手を握り、
「君ならやってくれると思っていたよー! 本当に助かるよー!」
逸朗はその挙動に白々しさを感じながらも、
「いいから前金とぶつ渡せ」
「あらあらー、急かしちゃいやですよーそれともそういう上からプレイがお好み、」
「もういいから話進めろよ」
苛立ちを隠せなくなった逸朗は嫌悪感をあからさまにする。さすがにやりすぎと感じたのか時香はすまなさそうな(振りにしか見えないが)表情でへこへこと頭を下げた。
「おイタが過ぎましたよねー! さっそくだけど、これが指定場所の地図、でこれが時間ね」
「やけに細かいな」
ざっくり書かれた簡易の地図と、別の紙に書かれている住所、の横に書かれた経度と緯度らしき数値。時間も何時何分何秒と指定が細かい。地図はどちらかというと補助のようなものらしい。
「時間にうるさい人でしてねー! 何事もきっちりしてないといけないんですよー」
「まあなんだ、ここに行けばわかるんだろ?」
「そうですよ。あとこれがぶつです! 必ず手に取って持っててくださいね! じゃないと、えーあー、怒られます!」
途中慌てたのを誤魔化したような素振りが気になったが、中身は特に確認せず荷を受け取る。
どこにでも売っているような紙の茶封筒に何か立方体のようなものが入っているようで、ごつごつとした感触を伝えてくる。
「それじゃ私は急ぐのでー、頼んだよちゃんとやってね渡してね! 前金だけで逃げたらさすがに命の保証できないよ!」
「うるせえよ」
「…………」
二人のやりとりのそばで黙り込む早実に気づき、時香が走り去った後、逸朗が声を掛けた。
「大丈夫だろ、これでネカフェいけるし」
早実は、「さすがに無鉄砲だ」と思ったが言わなかった。
無言のまま、駅に向かって歩き始めた逸朗の背中を少しだけ睨んだ。
紙に書かれている指定場所は席田橋からひと駅行って少し戻ったところにあるようだった。歩いていってもそれほど遠くないが、早実が定期を持っていたので電車に乗る。短い時間電車に揺れ、咲津港駅で下車する。
席田橋も高架の上に駅があるが、咲津港駅も同様に高架上にある。高い位置から流れていく景色をぼんやり見ているだけであっと言う間に目的の駅に着いてしまう。
会話もなく逸朗の背を追いながら、港駅らしくブルーで塗装された階段を下りていく。湾岸線の高速道路や線路が入り組んだ複雑な高架群を横目に地図を見ながら進む。
このあたりはあまり商店などもない。開発の中心が埋め立て地などに移ってからというもの、付近のシャッター率が上がってしまっている。住民も席田橋の方へ移っていて逸朗たちもこのあたりはあまり用がない為、来る頻度はかなり低い。閑散とした道を黙々と歩く。このあたりでは一番大きい咲津みなと病院が高架の向こうに見える。地図には病院を過ぎたあたりに待ち合わせポイントのマークが付けられている。幾数分歩けば指定場所のようだ。
逸朗がずんずん進んで行くのをもやもやした気持ちで早実は追いかけていた。しかし、早実はあまり自分の意見を言わない。気持ちを表現することが苦手、というのもあるがそれ以上に早実は逸朗任せにすることが多かった。――たとえ、あまた疑問を抱えていても。
黙々歩くうちに指定場所付近にたどり着いた。
「さーちゃ、経度と緯度、検索で見つからないか?」
「あ、うん。やってみる」
逸朗に言われ、端末を操作する。聞きながら数値を打ち込むと、あっと言う間に正確な位置が表示された。現在地より数メートル先のようで、端末に表示される現在地のマークと検索結果のポイントが重なるようにそろそろと進む。
「ここ……なのか?」
もう何年も前に時を止めた、そんな言葉がよく似合う廃墟とかしたビル。一階の路面に面した喫茶店らしき店舗も荒れ果て主などいるはずもなく、空間の空気すら硬直しているようだ。
逸朗が割れた窓の隙間から覗くと、何年もふれられていないのだろうか埃がふりつもったカウンターテーブルと、転がったままのカウンター椅子、埃をかぶった照明カバーが天井からぶら下がっているのが見えた。
もう一度端末で指定場所と自分たちのいる位置を確認するが、検索結果と現在地のアイコンはぴったりと重なっている。
「ここみたいだな……」
「うん」
指定の時間までまだ十数分あった。言われた通り、紙袋の中の物を取り出して手のひらに乗せた。逸朗の手のひらに程良く収まるそれは、完全な立方体であり、金属なのか樹脂なのか曖昧な質感がシルバーの光を鈍く反射している。硬質であるが触っただけでは判別がつかない。継ぎ目も特になく、黒っぽいシルバーで重くもなく軽くもない。逸朗はまじまじと立方体を眺めていたが、やがてそれにも飽きて時間が過ぎるのを待った。とうとうと流れる時間。
無言の二人の間に車が通過する音だけが流れていく。指定時間はあっと言う間に過ぎていた。
二人がこの場所に到着してから三、四〇分ほど経った頃だろうか、二人の前にごく普通のどこにでも居そうなサラリーマン風の男がすっと現れて無言で小さめのありふれた、長型の茶封筒を差し出してきた。
「…………?」
二人は戸惑いを見せたが、差し出された封筒に書かれた文字を見てこの男が何をしに来たのか理解した。
『栗原時香から預かった物と引き替えだ』
逸朗はその指示に従い、持っていた封筒と立方体を男に引き渡し男が持っていた封筒を受け取った。その受け渡しを不安げな表情で早実は見つめていた。その立方体が何なのかも、細かく指定された位置、時間の必要性も理解出来ない。早実の不安を余所に、逸朗はサラリーマン風の男が立ち去ると封筒をズボンのポケットにつっこみ席田橋に向かって歩き始めた。
「ネカフェいこうか」
「あ、うん」
不安はあったが、過ぎたことと早実は忘れることにして逸朗についていった。
「しかし、なんだったんだろうな、あれ」
「……知らない」
なんとはなしに問う逸朗に小さく苛立ちを覚え、踵でも蹴ってやろうかと早実は思ったがそうしなかった。
前日の妙なバイトの事などなかったかのように当然のごとく夜は明けて、逸朗は妹の所へ様子を見に行き、早実は学校へ向かう。
――本当は行きたくなんかない。
早実は気持ちを押し殺して電車に揺られる。
学校に到着し、正門を避けて裏門に回ろうとした所で同級生らしき女子生徒が、
「あげる!」
と言って早実の手に何かを押しつけていった。
二つ折りにされた紙切れ。押しつけて走り去っていった生徒は友達のグループに駆け寄りけらけらと笑っている。
嫌な予感を覚えながら紙を開くと、ブスだの、死ねだの、転校しろだのばり罵詈雑言が乱暴に書き殴られていた。――早実の表情がすっと冷える。
早実がいじめられ続けて覚えた防衛だった。傷つきそうになるとき、無感情を装っていれば必要以上に絶望する事がなくなる。代償はあるが、そうしなければ心が死んでしまう事を痛いほど早実は実感してきた。
紙を手に持ったまま、いつもの様に裏門へと向かう。そのまま保健室へ行き、入ろうと戸に手をかけようとしたとろで声を掛けられた。
今度はなんだろうと声の方を向くと、早実のクラスの副担任がいた。
「真央、話がある。職員室までついてきなさい」
この時ばかりは無表情ではいられなかった。言われることはわかっていたから。早実は、副担任である教師の後ろを歩きながら心底嫌そうな表情をしていた。
職員室に入り、そこに座りなさいと適当な椅子に座らされ無理矢理相対(あいたい)させられる。
「真央、このままでは出席日数が足りない。早退遅刻も多すぎるしこのままでは内申点があげられない。もう少しきちんと学業に取り組んでくれないか。特別に保健室での自習も認めているじゃないか」
――認める? 何もしてくれないのに。早実は内心で教師を睨んだ。
この話は、もう何回も聞いている。――しかし、今日ばかりは少し違った。
「真央。進路、考えているか? 行きたい大学とかやりたい事とかないのか? 就職したいならインターンとかがあるが……」
早実の感情が、苛立ちから戸惑いに変わった。
いつもなら、『お前のために言っている』とかなんとか押しつけがましい事を言って終わる。
「この学校はエスカレーター式でもあるが、そのまま進む必要性もないんだ。やりたいことがあるなら……――」
早実はそれ以上を聞く事が出来なかった。その後の言葉はぼろぼろこぼれ落ちてただの雑音にしか聞こえなかった。
(やりたいこと、なんて、……)
――そんなこと、考える事もできないのに。
職員室から解放され、保健室に戻った早実はもやもやしたまま二限が終わる前に早退を申し出て、逸朗にメールで連絡した後学校を後にした。
いつものように硯台公園、通称、丘公園の階段を息を切らしながら登りきると頂上のベンチ逸朗がぼんやりと座っていた。特に声も掛けず隣に座る。
無言のままただ時間だけが過ぎる。遠くの生活音がざわざわとした心地よいノイズになってあたりを漂っている。
早実の脳裏にあの教師の言葉がよぎった。
「ねえ。進路、考えてる?」
ぼんやりしていた逸朗が驚いて早実の方を振り向いた。が、無言のままうつむいて苦悶の表情を浮かべた。
「……そっか」
それが逸朗の答えだと知ると、早実もうつむいて何も言わなかった。
逸朗も、先の未来の事など考える気持ちを持てなかったのだ。余裕がない、というのとは違う。考えようとするとぼろぼろこぼれ落ちるようで、考えようとも自分たちにはまともな未来なんて待っているとは欠片も思えなかった。
彼らの未来に希望なんてない。ただ時間が過ぎるのを待っているしかなかった。
いつものように特に何もせずだらだらと時間を浪費し、自宅へと帰宅した早実。席田橋駅から歩いてほどない場所にあるごく普通のマンションのエレベーターを上がり、小さい頃から見慣れたドアを開ける。
「遅い。なにしていたの」
冷たい目線を向けているのは、早実の母、真央聡美だった。
「なにも」
「何もってなに? あんた一日何もしてないの? まさかまた学校さぼったの? 聞いてるの? 嫌な所だけお父さんそっくり。何よそのふてくされた表情は!」
早実は、『また始まった』と、ばれないように微かにため息をついた。
「勉強もろくしないし、ぐずだし、本当にお父さんの子なの? 信じられない。お父さんみたいに、きちんと勉強していい大学行って、いい会社に入れたら恥ずかしくもないのにねえ。本当に似てないわ。ああもう、あんたみたいなのが家に居ると陰気くさくてお父さん帰って来れない」
――じゃあ、家にいなければいいの?
と、言いたくなったがこれを言ってぶたれた事があるのを思い出し、口をつぐんだ。
「あんた! どこいくの! ごはんでしょ!?」
自室に入ろうとした早実を怒鳴りつけ、引き留めようとする。
「食べてきた」
心底嫌気がさしてもこらえて平坦に答えたが、
「なんで言わないの?! そんなとこお父さんに似ないでよ! あんたの為に作ったのに! もう作らないわよ?!」
案の定、大声で怒鳴られる。無視してばたりとドアを閉めて勝手に取り付けた小型のかんぬき錠をさして布団に倒れ込んだ。
ドアをしばらくどんどんとたたいていたが、やがて諦めたのか音が止み、静寂が戻った。
早実の住むマンションから十数メートルの場所にある、弓削家の実家。二階建ての一軒家で、現在逸朗が住んでいる家だった。両親が結婚した際一度出たのだが、祖父、祖母が亡くなったのをきっかけにこの家に戻ったのだった。相続しただけあって少し古めかしかった。
早実とほぼ同時刻に帰宅して、居間でテレビを見ている父親に声を掛けた。
「千夜子はどうだったか?」
「いつも通り、明後日検査がある」
「そうか」
それだけ聞くと立ち上がり、財布から紙幣を数枚取り出し無言で逸朗に渡した。
「いつかよくなる、千夜子はかわいそうな子だ。いつか普通に笑って走り回れるようになってほしい……」
独り言の様に言うと逸朗に興味をなくしたのか、居間に座り直すと何も言わずテレビに興味を移した。いつもの事だが時々無性に腹が立ってくる。見舞いに行く度、小遣いをもらえるのはありがたいが、親たちがどういうつもりでいるのかと苛立ちを覚えてしまう。
二階の自室に戻りながら、逸朗は呟く。
「家政婦か何かかよ……」
苛立ちを隠せず、バタン! と強くドアを閉めた。
翌日もいつものように午前のうちに学校を抜け出し、席田橋で待ち合わせて陸橋を降りてすぐのファミレスに入った。適当に注文して、だらだらと時間を浪費する。無味乾燥とした時間のさなか、ドリンクバーの安っぽいグラスを傾けながらぼんやりと早実が呟いた。
「ひとり暮らしって難しいのかな……」
はじかれたように逸朗は早実を見た。
「さ、さあ、俺もしたことねえし……金はいるんじゃないかな」
「そっか」
そんな言葉を早実から聞くのは初めてだった。動揺でむせないように慎重にストローでジュースをすする。感嘆より遙かに不安と動揺の方が強い。
――何故? 家の状況が辛くても早実がそんな事を言うことなんて一度もなかった。そもそも早実は消極的で臆病な性格だ、あの家が嫌でも飛び出そうなんて考えるはずもない。
逸朗だって、心底嫌でも家を出る勇気なんてない。高校中退、実質中卒で働いた事もない人間がまともに自立なんて出来るとは思えない。
「バイト、しようかな」
再びぽつりともらした言葉に、逸朗の胸にあった動揺がはっきりと不安と焦りに切り替わった。逸朗は早実の言葉に、否応なしに不安を覚えた事に苛立ちすら感じ始めていた。
「まあ、いいんじゃ、ないか」
感情を押し殺して平然を装い、言ってみたが非常にぎこちない。
――なんだよ、俺は。一体何に不安になってんだ。
抽象的すぎるその感情が逸朗の心を圧迫しようとしていたが、所在のわからない感情を振り払う事が出来ない。
彼は、くわえたストローをぎりぎりと噛みながら後ろ髪を漫然とかき乱した。
数日後から早実はとりあえずなんでもいいからと、手あたり次第にバイトの面接を受けたが落ち続けていた。自分のどこにそんなバイタリティーがあったのだろうかと思うほど、落ちては受けを繰り返しやっとの事でどこにでもあるようなチェーン店のうどん屋の面接に受かった。
「うちで働いてもらう事になるけどねえ、君の学校私立でしょ? 私立は後から言われると困るから学校から許可の証明書もらってきてね」
「はあ、証明書? ですか」
「そう、保護者のサインがいるはずだよ」
なくてもなんとかならないか、学校に問い合わせてみたがやはり私立ということもあってアルバイトには厳しく、回避は出来なかった。仕方なく提出用の書類を貰って帰宅した。
『保護者のサイン』という言葉に、不安を覚えながらも書類を手におそるおそる承諾のサインをもらおうと、母親と対峙した。
「はあ? アルバイト? 冗談でしょう? あんたみたいなぐず雇う所なんてあるの? うまく行くわけないわよ。それにバイトなんて時間の無駄使いよ。別に就職がうまくいくわけでもないし。まさか、バイトしてるからって勉強しない言い訳にするつもりじゃないでしょうね! バイトなんて、ダメ。ぐずが勉強しなかったら馬鹿のぐずになるでしょ! そんなのただのクズ! ただのゴミ! あんたただのゴミになりたいの?」
ある程度覚悟はしていたが、予想以上に苦しかった。許可証明の紙をくしゃくしゃくに握りしめて自分の部屋に駆け込むと、ベッドに倒れ込み声を殺して泣き崩れた。
――頑張ったのに、つらくても諦めなかったのに、やっと成果を手に入れたのに。
――私は、働く事もできないの? みんなと同じように。
呼吸を止めようとでもしているかのような息苦しさが、早実の胸を締め付ける。
「うっ……ふ、あ、あぁ……」
日が暮れて薄暗くなった部屋に早実の咽び泣く声が響く。
そのまま泣き疲れ、気を失うように眠りについた。
翌日、早実は学校を休みそのまま丘公園で逸朗が来るのを待った。
用事を済ませ、丘公園のいつもの場所に到着した逸朗はすぐに早実の様子に気づいた。
「さーちゃ、目腫れてる」
「……」
「とりあえず、どっか行くか」
「……」
逸朗がそういうと無言で立ち上がり、後ろを付いて歩いた。
手頃なファーストフードの店に入り、ひとまず注文し空席に座る。
「さーちゃ、なんか言われたのか」
普段はあまりつっこんで聞かないが、さすがに様子が変だった。
「バイト、見つけたのに、働けない」
そういうと、嗚咽をもらして泣き出した。
「反対されたのか?」
「許可、ない、と、働けない、の」
嗚咽で途切れ途切れながらも、早実は絞り出すように言った。ポケットからくしゃくしゃになった紙を出しテーブルに置いて、
「サイン……貰いたかった、のに……お前には無理だ、って」
「貸せ」
そこまで聞いて、逸朗は紙を浚うように取るとペンを握り慎重に紙に滑らし始めた。
何をしているのかと覗こうとした早実の面前にくしゃくしゃの紙が突っ返される。
「……」
彼が無言で返した紙の保護者の欄に、早実の父親の名前、『真央由紀夫』の文字が書き込まれていた。めいいっぱい背伸びした、大人の振りをした文字で。
「……ありがとう」
受け取った早実は、ぐずぐずの顔で少しだけ笑った。
無事に書類提出をすませ、初出勤を果たした早実。何もかもが初めてでわたわたとうどん屋のユニフォームをまとい、何もわからないまま客前に出た。
「最初は出迎えだけでいいから。いらっしゃいませっていうんだよ。ほら、やってみて。いらっしゃいませー!」
「い、いら……」
「お客さんきたよ。いらっしゃいませー!」
「い、あ……」
声が出ない。客前での緊張と周りからの見えないプレッシャー。頭がまっしろなままぐるぐる回る。見えない壁がずんずんと迫ってきているような気さえする。
指導係が何か言っているが、混乱した頭は言語を理解しようとしてくれない。
このとき、早実は『学校でいじめられているような人間がバイトでいきなり変わるわけではない』ということを身を持って知らされている、そんなような気分に陥っていた。
「君、聞いてるの?!」
はっとして、指導係の顔を見た。
「もういいよ、裏で洗い物の手伝いと掃除してて」
投げやりに言われ、ただうなづくしかない早実。
キッチンへ行き、ひたすら無言で皿を洗うしか出来ない自分が情けなくただ辛かった。
「…………」
泡だらけの手に視界を滲ませた液体がぱたりぱたり落ちる。
――お母さんの言うとおりかもしれない。
そうなってしまっている事があまりにも悔しかった。
手にしたどんぶりを落としてしまう前に、と早実は顔に泡が付かないように慎重にユニフォームの袖で拭うともくもくと作業を続けた。
『バイト、どうだった?』
「うん、大丈夫、だった」
電話越しの逸朗に嘘をついた。
『……』
数秒間の沈黙が何かを察しているようだった。
「明日学校もあるし、切るね」
『さーちゃ、』
慌てて電話を切ろうとしたが、
『無理だったら、無理すんな』
「…………」
何も言わず、通話終了ボタンを押した。
マンションのベランダで、生ぬるい夏の気配を含んだ夜気をすうっと吸い込んで彼女はぽたりと涙を落とした。
「まだ、少し、頑張りたい」
弱々しいながらも、胸に潜む確かな意志。
ひとり誰かに伝えるわけでもない言葉をおいて、自室へ踵を返した。
――変われるなら、変わりたいという思いを連れて。
だが、その思いもむなしく、彼女の心はしぼんでいく。
「さっさと洗いなよ、接客もできないのに置いてもらってるんだしさあ」
「ちょっとやめなよ」
くすくすと笑う声。
――何も変わらない。
「い、いらっしゃ、……!!」
「やーだ、ごめんねー? 誰ここに備品置いたのー」
「すいませーん」
キッチン入り口で躓いた早実をにやにやと見ている男の先輩。
ひそひそ話し、何かくすくすと笑う人たち。
――何も変わらない。
「ねえ、もっと笑顔でやってよ。辛気くさい!」
「は、はい……」
「ほーら、皿洗いの仕事いっぱいあるよー? のろまちゃん」
「それいじわるすぎません?」
「えー。親切だよ、これは」
言って馬鹿にしたような笑み。
――何も、変わらない。
毎日のように泣いて、這いつくばっても何も変わらなかった。
頑張ればよくなると思っていたが、ただ頑張ればいいわけではない事は確かだった。でも、具体的に何をどうすればいいのかまったく検討もつかなかった。
――これはやみくもに時間を浪費してきたツケ? 確かに自分には居場所なんてどこにもなくて、だからこそいつくの側にいた。それが間違いだったっていうの?
そんな考えが彼女の頭にしがみついて離れない。
気持ちも考えもまとまらないまま三週間ほど過ぎた頃、学校からの呼び出しがあった。
『毎日のように帰りが遅いのは何故か』――普段何もしない父親が学校に問い合わせたことでアルバイトをしている事が両親にバレてしまった。
――何故こんな時にだけ父親面するの?
「提出された書類に、お父さんの名前があるのにどうして当の本人がそれを知らないのかな」
「…………」
「黙っていても話は進まないよ?」
もうおしまいだ。何も変わらないし、何もかもがそのままだ。
「承諾してしまったこちらにも落ち度はあるけど、あちらはアルバイトをさせるつもりはないそうだから。悪いけど、バイトは辞めてもらえないかな?」
「…………」
「いいね?」
ただ、うなづくしかなかった。
日々を漫然と過ごし、漠然とした未来を見る余裕もなく、ひらひらと落ちる枯れ葉のごとく社会の風に吹かれどこへゆくとも決められない。
自分には生きる資格すらないんだろうか。
一日の生活を終え、帰宅し、早々に母親からの「ぐず」「雇う奴の頭はおかしい」「無能」などの罵詈雑言を浴びながら早実は沈んだ心を持ち上げる事もできないままなすがままされるがまま絶望にもあそばれるままになっていた。
「言ったでしょう、おまえには無理だって。一番側にいるんだ、私にはわかる。実際だめだったんじゃないの? 顔に書いてあるよ!」
言って玄関から立ち去り、リビングのドアをぴしゃりと閉めた。
――そう、そうだった。そうなんだ。私には、無理だったんだ。
ずるずると足をひきずるように自室のドアの向こうになだれ込むように歩み入り、そっとドアを閉めた。
一日中、何もせず、薄暗い中でじっとしているだけで時間がどんどん流れていく。
学校にも行かなかった。社会から、世界から置いて行かれるどころか、時間からも置いて行かれるような錯覚。何もしたくない、何も考えたくない。そう思っても涙は勝手にぼろぼろ流れ落ちていく。
そうして一週間が過ぎた。
真夜中だった。窓を誰かが叩いている。
不審に思い、早実は起きあがって窓の方へ歩いていった。
――誰か、いるの?
怯えながらもカーテンを引いた。
「さーちゃ、さーちゃ」
窓の向こうに、小声で呼びかける逸朗がいた。
ベランダに面している部屋の為、普通に立ってはいられるが、
「さすがに、死ぬかと思った。二階までは余裕だったんだけどな」
早実の自宅はマンションの五階にある。どうやって登って来たのかは不明だが、よく無事にこれたものである。
「さーちゃ、ケータイ、電源切ってるだろ。しゃあねえだろ」
驚く気力も残っていないのか、無言のままの早実。
「いこう、さーちゃ」
「……え?」
靴を脱いで、勝手に上がり込む。
そのまま早実の腕をつかみそろそろと足音を立てないように進入する。小さい頃から出入りしていて部屋の間取りをよく知っているので迷うこともなく玄関にたどり着く。
戸惑ったままの早実に靴を履くようにジェスチャーで促し、そのまま外へ出る。
「着とけ」
ばさりと後ろから何かがかぶせられた。いつもの逸朗のパーカーだ。
もうすでに夏に突入していて、このパーカーを着るには些か暑すぎる気温だったが早実はその優しさが嬉しかった。袖は通さず、肩に掛けフードを目深に被った。
時刻が0時を回っており、どこも閉まっている。いつも行くファミレスは二時くらいでしまってしまう。が、他に行くところもない。とりあえず、店に入り、ドリンクだけ注文する。
「…………」
いつも通りだ。むしろいつも通りにしようとしているのではないだろうか。
早実はただうつむいていた。そのまま幾十数分が過ぎる。
逸朗がちらりとさちかを見た。
「……バイト、お疲れさま」
早実が顔を上げた。逸朗はどこともなく違う方を見ている。ふと、動きを止めて、
「……なんもやる気なくても俺には会いに来い。部屋に篭もるな。体に悪い」
キザっぽいかな、と逸朗は鼻の頭をかいていたのだが、
「……そうだね」
早実はそれだけぽつりと言った。
逸朗に言われたとおり、早実は翌日も、その次の日も、そのまた次の日も逸朗と一緒に行動していた。きちっと制服を着て出かけ学校へ行く振りをし、コンビニや商業施設のトイレなどで私服に着替え、逸朗が来るのを丘公園で待った。
逸朗は二日に一回、もしくは三日に二回くらいのペースで妹の千夜子の入院する病院に世話をしに行っていた。病院に行くと昼前までは帰ってこない。そうなると朝から昼まで彼が戻るのを待たなくてはならなくなる。
そんな一人の時間を、丘公園のベンチからひたすら遠くを見つめて過ごした。――そうすれば、今ある現実から目を背けられる――とでもいうように。
そんな意味のない毎日を繰り返し、日差しが真夏の厳しさに変わった頃、逸朗がいつものファミリーレストランでこう切り出した。
「俺、働くよ。学校なんて行く気もない。義務教育はとっくに終わったんだし、どうしようが俺の勝手ってやつだろ。だから、俺、働くよ」
適当に頼んだフライドポテトをフォークでつつきながら、表情をあまり変えずに逸朗はそう言った。早実は俯いたまま、ストローでジュースをすすっだけで何も返さなかった。
普段からあまりべらべら喋る方ではなかったが、最近の早実はこういう黙りが多くなり少々頭を抱えていた。考えていることはわからなくもないが、言葉無しに意志疎通できるわけではない。生まれた年も、生まれた日もまったく同じの二人だが、双子ではない。多少の不安を覚えなくもなかった。
ファミレスで時間をつぶすのにも飽きてきて、二人は店を出ることにした。あてなくふらりふらりと大きな道路沿いに歩き始め、少し進んだ所で一度聞いた覚えのある軽い口調の少女の声が二人を呼び止めたので振り向いた。
「やや、弓削くんと、えーっと誰だっけ、さ、なんとかちゃん! 奇遇だね奇遇ですよもはやこれは奇跡? 奇跡としか言いようがないーよう」
――なんだ、こいつか。無言のため息で返すしかない。
「ちょいちょい、ここは突っ込むところですよ? アイウォントゥドゥ上方ツッコミ」
「うるせえよ」
相手をすればいらいらするのは必須なようだ。逸朗はそれだけ言って立ち去ろうとするが、
「これも何かの縁ですよ、いつろうくん。バイト、しない?」
にっこりにんまり笑みでもはやいらつきを飛び越して馬鹿にしたくなるほどの軽さで時香(いつか)はそう持ちかけてきた。――怪しい。さすがに今回は逸朗もそう思った。
「それがですね、GPS的なデータを収集しないといけないんですけど、私とっっっても忙しいので、いつろうくんにお願いしたいんですよー」
「断る」
「ええっ、今回は先払いで一万円! お願いですよー」
「だから、そんなクソ怪しい、」
「いいじゃないですか。この機械持って立ってるだけでいいんですよ! じゃあ、じゃあじゃあ、引き渡しの際また一万あげます! そうさせますそうします!」
「うるせえよ! やらな、」
「――やります」
「え? なんでだよさーちゃ、おまえ前やった時反対したじゃねえか」
「話のわかる人だー! サンクスサンクスまじダンケシェン! スパシーバ!」
何故か黙って後ろで見ていた早実が承諾してしまい、戸惑う逸朗を余所に早実に猛烈な感謝の握手をかましまくる時香。
「ということで、善はいそげ! ハリアーッです! ほらここ、時間は着いてすぐ! いってらっしゃーい!」
早実の手にメモらしき紙と紙幣をわしりと押しつけ、早足で離れながらひょいと立方体をした箱のような物を逸朗に投げてキャッチさせると、
「皆に幸あれー!」
そう叫んで、脱兎か研究室を抜け出したラットか何かのようにささーっと去っていき、時香は街並みの向こうに見えなくなってしまった。
「おい、さーちゃ、いいのかよ。さすがに今回は怪しすぎるだろ。なんで受けるんだよ」
「……行こう」
不機嫌なのか、なんなのかわからないが早実は無表情でメモを見ながら歩き出した。
「おい、さーちゃ!」
逸朗が呼びかけても答えない。仕方なく、慌てて追いかける。
指定ポイントはなんの変哲もない住宅街のどこかのようだ。早実が知っている場所らしく、すたすたと迷う事なく進んで行ってしまう。
「おい、さーちゃさすがにあれは怪しいんじゃねえか? 前のは今のところ何にも起きてねえけど……おい、さーちゃ聞いてくれよ」
無言でずんずん先を歩いていく早実の手を、引き留めようとして掴んだがするりと払われてしまった。
「……何か怒ってるのか? 何も言ってくれないとわかんねえよ」
「怒ってない。ただ……いや、なんでもない」
「なんだよ……」
言いかけたのに、また歩きだしてしまった。困り果てながらも逸朗は彼女の後ろについていく。いつもの逆だなあ、と逸朗は彼女の背を見ながら心のうちにぽつりと呟く。
そのうちに、早実がふと漏らすように、
「変われたら、いいな」
そう呟いた。
しばらく歩いて、メモのポイントにたどり着いた。逸朗が、ポケットから時香から手渡された立方体を取り出して早実の手のひらにぽんと置いた。
「おまえが受けたんだろ、おまえがやりなよ」
「……あ、うん」
投げやりながら、若干の優しさを早実は感じとっていた。いつもの逸朗だな、と早実はほんの少し微笑む。彼から受け取った、手のひらの立方体を見つめながらかすかな未来の光を感じ取ろうとしていた。
――私の、未来。
見ることも思うことも、彼らには辛いことだった。――周囲からの敵意、疎外感、家族からの軋轢、妨害、言葉の暴力。これらからひたすら逃げることしか自分たちにはできないのだと思っていた。逃げなければ、きっと心はあっと言う間に壊れてしまう。その恐怖と、苦しみを引き替えにすれば、今ある可能性を捨てて逃げる方を選ぶ方が圧倒的に楽だった。
逸朗がいれば独りではなかった。
早実がいれば、ひとりではなかった。
逸朗は早実の横顔を見ながら過去を思い返し、二人でいながらもやはり孤独だったなと思わずにはいられなかった。
危ういながらも、自分たちの未来は動き出している。ほんの少しの高鳴りが、二人が未だかつて感じたことのない“希望”なのだと、水面上をすっとなでるほどのものではあるが感じ始めていた。
「そういえば、いつまでって聞いてたか?」
「あっ」
「……この前みたいに取りに来るんだろ、たぶん」
「……だといいけど……」
時香に確認を取りたかったが、連絡先を聞いていない。逸朗はあんなやつと連絡先交換なんてしたくないと思ってはいたが、この状況下では聞いておけばよかったと思わざるを得ない。ともあれ、わからないままただ立っているしかないのでそのまま時間だけが流れていく。
「これが『終わった』って、知らせてくれたら……」
「そんな機能あんのかな」
まじまじと見るが、前回預かった物と同様に素材すらわからない。繋ぎ目もいまいち見あたらない。こんなものを預かってしまったことに、少々の危うさを感じる。本当に、何もなければいいが、と心の端がひりひりするような小さな危機感を感じる逸朗。
「さーちゃ、なんかあったら俺にすぐ連絡しろ」
「……?」
「いいから」
ひとまず早実にこう告げることでしばらくの間、胸の内の“危機感”には黙っていてもらうことにした。
来てから三十分は経過しただろうか、立っているのも疲れたのか逸朗がしびれを切らして、
「何も起きないな。誰かが取りにくる様子もないし」
「うん」
「もう行こうぜ、引き取りに来なくても一万はもらったしさ」
「……わかった」
現場に見切りを付けて自宅へ歩き始めた。
「おい、どこへいく」
ふいに引き留められた。
二人が振り向くと、これといって特徴のないダークグレーのスーツを着た男が立っていた。どこにでもいる日本人の顔をし、痩せているでも太っているわけでもない。背も日本人の平均だ。もしやとは思ったが、
「栗原時香からの預かり物を持っているか」
「代金は」
「一万円だと聞いている」
その言葉で確信した。男があの少女の仲間だと信じられたので、四角い物体、キューブを男に渡そうとした。
「……その前に聞きたいんですけど、これ、なんなんですか」
渡す寸前に手を引いて、逸朗が尋ねると男は表情を変えずに、
「答えられない。答える義務はない」
――企業秘密ってやつ? 怪しいが、聞いても俺らみたいなただのガキには教えてくれないだろうな。
「まあ、いいか。引き替えだな」
疑問は残ったがこれを持っていても何の利もない。男にキューブを渡し、現金を受け取った。
男を見送った後、受け取った報酬を早実に渡そうとしたが、
「いい、半分。私はもうもらった」
「いやでもこれ、さーちゃが」
「いつくがいなかったらたぶん、うまくいかなったし」
早実は意外と頑固だ。普段は逸朗に任せっぱなしなのだが、時折頑なに譲らない時がある。こう言い始めると押し問答したところで無意味なのは十七年、一緒にいてよく知っている。
――こうなったら、もう受け取らないか。
頑なモードの早実の横顔を見ながら、諦めてため息と一緒にズボンのポケットにくしゃっと突っ込んだ。
その翌日から、逸朗は求人誌や求人広告の『未経験でも可!』の文字をひたすら探し、手あたり次第に電話し半月後にはいつくかのバイト掛け持ち状態になっていた。ちょうど学校が夏休みに突入したこともあって気兼ね無くバイトに打ち込めた。こんな普通に働いてていいのか、と思えるほど彼は柔軟に職場にとけ込んでいた。心が解放されるようでもあった。
誰もあの嫌な親の事を知らない。学校でいじめにあっていたことも知らない。わざわざ知り合いや中学の同級生がいないであろう市外を選んだのもその理由が大きかった。
平城崎(ならさき)市と、妹が入院する堰島(せきしま)病院がある逢坂(おうさか)市の間にある秦市(はだし)。その隣にある門屋町(かどやちよう)という小さな町を中心にアルバイトを掛け持ちしていた。
この街ならば、同級生にあう確率も低く自宅もそう遠くなく病院も近い。繁華街ではないが、力仕事ならいくらでもあった。
「よう、坊主。よく働くね」
「えっ、いいんですか?!」
「そんくらいでそんな顔すんな」
土砂処理場の気っ風の良さそうな、伸びているのか剃っているのか曖昧な髭を放置している現場の社員の男がひょいと、軍手をしたままの逸朗の手に冷えた缶コーヒーを放り込んだ。
工事現場から出た土砂を現場から引き受け堆積しリサイクルしている会社で、逸朗は重機を扱う為の免許を持っていないため雑用ばかりだが、力はあるほうなのであれこれ仕事を言われなにかと信頼を得ていた。
「ありがとうございます!」
休憩時間はまだの為、貰った缶コーヒーを作業着のポケットに無理矢理押し込む。
「暑いんだから無理すんなよ!」
「はい!」
夏の日差しは容赦ない。現場に慣れている男連中は頑張る若造に思いやりをかけてくれる。逸朗はその状況に生き甲斐すら感じ始めていた。
――もっと早くからこうすれば良かったのかもしれない。滞っていた時間がするりと動き出している。そのことを逸朗は実感として受け止めることが出来た。
休憩時間に入り、汗で湿った軍手を脱ぎ捨て、貰った缶コーヒーぱきゃりと開ける。時間が経っていてずいぶんぬるくなってしまったが、ひとしおに、人の善意に触れ胸が一杯だった。
現場の隅に立てられたプレハブの事務所建物の一室、休憩室とされた部屋で存分にクーラーの冷気を浴びながら夏の日差しで上がった体温を下げる。ぬるい缶コーヒーをくいっと煽る。人の優しさが身に染み入るようだ。
「おまえさん、なんでそんなに頑張るんだ? なんか欲しいものでもあんのか?」
長袖の作業着の上着を脱ぎ捨て、シャツの襟をぱたぱた扇いでいるところに、現場の主任がそう尋ねてきた。
答えようとして、特に何もないことに気づく。
「……なんとなく、っす。その、今はただ働くことが面白いっていうか、楽しいっていうか……」
「楽しい、か。うらやましいなあ! 若い頃は俺もそう思えたんだけどなあ」
逸朗はこの返答を予測していなかったので、どう返していいかわからず曖昧に返事を返す。
「頑張れよ」
ばしんと背を叩かれる。現場仕事を長年やっている男の手で勢い良く叩かれ呻きをあげそうになるが、浮かれてしまいそうなほど逸朗は嬉しかった。
――こんなこと、今までなかった。
その後も、にんまり笑ってしまうのをこらえながら仕事をしていた。突き抜けるような快晴の空にそのまま自分の心が浮かんでいる様だ。――まさに、“浮かれている”なと逸朗は自嘲気味にも笑った。
ここの現場の仕事は午前十時頃から夕方十七時まで。それが終わると急いで着替え、買ったばかりの自転車にまたがり次のバイト先に走る。十八時から少し行った所のラーメン屋、もしくは居酒屋の皿洗いのバイトが午後七時からあった。未成年の上、一応は学生なので午後十時までしか入れないが、そこも逸朗は気に入っていた。
飲食店はまかないが出るところが多く、逸朗のバイト先のラーメン屋も例外ではなかった。豪華ではないし、あまりものや客に出せないチャーシューの切れ端などで作ったわりといい加減な丼ぶりが多かった。店に入るとすぐさま着替え、そのいい加減だがなかなかにおいしいどんぶりをかき込み食らい、仕事につく。
忙しくて目が回りそうな日もあったが、逸朗は働くことを楽しんでいた。
ずっと遠くで見ていた笑い声、自分たちに向けられる事もなかった笑顔。とても近くにあって、そしてそれは遠くなかった。
――ずっと続けばいいのに。
逸朗はそれを切に思い始めていた。
すべてのバイトを終え、ほくほくした気持ちで自転車のペダルをぐっと踏み込む。数十分で自宅へ到着し、ガレージに停めて玄関の扉を開けた。ここで逸朗の笑顔はシベリアにでも飛ばされたかのごとく暗く冷たく沈んでいく。
「逸朗、最近あんた千夜の所あんまり行ってないんじゃないの?」
母親だ。自転車を停める音でも聞きつけたのか、ドアを開けたらすでに仁王立ちで待っていた。
逸朗は母親とはほとんど話をしない。例によって、無言でほぼ無理矢理脇を通って自分の部屋に向かおうとする。
「逸朗! 聞いてるの?! なんなのその態度! ほんっと可愛くない」
――この歳で可愛いとか可愛くないとか言うのかよ……。
と口をついて出そうになるが、
「るせえよ」
と小声で行って部屋に向かう。が、
「逸朗か?」
振り向くと父親が今から顔を出してこちらを見ていた。
「おまえ! 千夜子の面倒ちゃんと見ていないだろう! あいつがどれだけ辛い思いしてるのか知らないわけないだろう!」
呆れすぎて言葉も出ない。「はああ?」と言いたい口が息だけになって出ていた。
そんな事は百も承知だ。なのに、何故自分で行こうと思わない?
「おまえは健康に生まれたんだ。その分学校にも行けない千夜子にきちんと接して――」
言葉を遮るように、ゴッ、と音を立てて逸朗の拳がそばの壁に打ち付けられる。
「俺は、千夜子の、妹の世話係りじゃねえ」
押し殺すように怒りを吐き出す逸朗。
「誰もそんなこと言ってないだろう!」
「うるせえよ! 俺には俺の時間があるんだ!」
「学校も行ってないくせに偉そうにいうな!」
「学校も行かず世話していたのは文句言わねえのかよ!」
「やめなさい逸朗!」
「なんだよ! そもそもてめえが千夜子の所行ってればこんなことになってねえんだよ!!」
「生意気言うんじゃないわよ!」
母親まで加わってしまい、夜中だというのに三つどもえの怒鳴り合いになってしまった。数分怒鳴り散らしていたが、
「いい加減にしてくれよ!!」
その状況が嫌になった逸朗は吐き捨てるように叫ぶと、また再び家を出ていった。夜半近くには不謹慎と言えるほど大きな音を立てて怒りのままに強くドアを閉め、夜の薄ら闇に飛び込む。
「俺の人生なんだ。邪魔、しないでくれよ……」
泣き出しそうな震えを含んだ呟き。
当て所無く近辺をうろつき、二十四時閉店のファーストフードで頭を冷やした後、自宅へ戻り両親が寝静まったのを確認して自室へそっと帰った。
逸朗は翌日から妹の見舞いに行くようにした。頻度は下がって三日に一回程度だったがアルバイトで忙しい逸朗にとってはかなりの負担だった。
しかし、働く事に喜びを感じ始めた逸朗は親にあれこれ文句を言われたくなかった。アルバイトを辞めろなんて言われたら怒りでどうにかなりそうだとも思った。
実の所、アルバイトの事自体は報告していなかった。報告の義務も感じなかったし、たとえ家に長時間いなくても彼らは気にもしていない。彼は、実の子だというのに自分自身には興味がないのでは疑心を持ち続けていた。
唐突に、ぱしゃりとコップの水を浴びせかけられた。
その対象は逸朗であり、犯人は妹の千夜子だった。
「お兄ちゃんなんか嫌い。嫌い……お兄ちゃんが来なければお父さんもお母さんも来てくれるって思ったのに! どうして! なんで二人来ないの?! もうこないで! みんな大っ嫌い!」
濡れた髪も服もそのままに何の抵抗もなく。弱々しく自分の手や身体を闇雲に叩いてくる手に刃向かうでもなく。毎回のように泣いて苦しそうな妹をじっと見つめ、逸朗は胸に微かに胸に沸き起こる何かを感じていた。しかし、それが何か理解する前に、
「洗濯行ってくるよ」
言うだけ言って、つかみかかってきた腕を振り払おうともせず身体を離すだけでほどいて、必要物を持って病室を出ていってしまった。――そこに小さな少女の嗚咽を残し置いて。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる