ツイン=リフト

magus of argdiscus

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2:if you want, anyone can't stop your future. but..

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2:0

 ランドリーコーナーのある屋上、逸朗はひっそりと考えにふけっていた。
「…………」
 少し離れた所で洗濯機と乾燥機がモーター音のうなりをあげている。都会の空気を少しだけ含んだ堰島の風が、逸朗の髪を、頬を撫でる。その風にふうっと逸朗の呼吸が混ざる。感嘆や、ため息というより思考を固定しようというような動作。
 ピーッと、先ほど洗濯物をつっ込んでおいた乾燥機が電子音で停止と終了を知らせてくれた。
 それを合図にするように、逸朗はこの後の動作と行動を決定した。――彼の目に、なんらかの決意の意志が灯ったのを見ていたのは、本当に、先ほど彼の髪を撫でた風くらいなものだった。


2:1

「さーちゃ、俺だけど。あのさ、うん、もっかい連絡したらさ、橋の上に来てよ。……そう、席田橋むしろだばしの。……いや、別に、いつも通りの……え? ああ、今日はバイト休み。そんな毎日も働いてられねえもん……うん、そう。じゃあ、また後で」


「本当に、いいの?」
「そもそも、俺ほとんど来てませんから」
「……妹さんの話は聞いているけど、面倒見るの大変なの? どうして君が、」
「いいんです。仕方ないんで」
 夏休みの最中、職員室にいる私服の生徒に、夏休み中の雑務をこなす数名の教師達からちらちらと視線が送られるが逸朗は気にも止めず、担任の教師と相対あいたいしていた。
 担任のデスクにて、隣のデスクのイスを拝借しての相対である。
「いいんです」
 押し切ろうとする逸朗に困惑する五十近い男性教諭の手には一枚の紙切れがあった。
「君の将来があるし、妹さんはご両親にお任せして、……ってそれができないからこうなったって言いたいんだね、君は」
 逸朗の表情から察した担任教師はため息混じりにそう言った。この教員は、やたらと物わかりが良く察しやすいのでこの状況になってしまった事も、咎める事もなくただ引き留めようとしていた。だからこそ、この教員は逸朗の担任になったとも言えるが。
「本当はちゃんと卒業してほしいんだけどね。そりゃあ僕たち教員全員の願いだもん。毎年いろんな生徒いるけど……二年は君の状況を見てレポートと定期テストだけで進級させてあげたけどね、ちゃんと登校して卒業して欲しかったよ」
 心底残念そうに深くため息を置く。彼は諦めを示すように、手に持っていた退学届けの紙を逸朗に渡した。


『もうすぐ席田橋に戻る』
『わかった』
 電車の中、ぱたりと携帯を折り畳む。
――一つのことから自由になった。
 平日昼間の、乗車客も少ない電車の中、トンネルをくぐり抜ける気持ちで車窓から夏の日差しを見つめる。軽くなったわけでもないが、自由になったのだと逸朗は息を吸い込んだ。


 電車から下車し、駅を出て公園の反対側の陸橋で早実を待つ。だらだら流れる車が橋の下をくぐり抜けてどこかへ行く。それを見送る事もなく、ぼんやりと眺めている。
 いつ来るだろうと駅の反対側の登り口を見ていたが、
「いつく」
 予想していた反対側、駅の入り口から慣れ親しんだ愛称での呼びかけが聞こえた。振り向けば、夏休み中だというのに夏の制服を着込んだ早実が立っていた。
「なんで、制服?」
「補習。むしろ、夏休みの方が学校に行きやすいから」
「ああー、確かに」
「夏休みの方が普通に教室にいられる」
「あいつらと真逆だな」
 皮肉っぽい話だが、小学校からいじめられていた彼らにとっては当たり前の話だった。
 他愛もない会話をしながら、陸橋を降りる。この所、早実は前の様にまともに話せるようになっていた。口数は多くないが、言うべき事も返答もちゃんとしてくれる。
――そういえば、久しぶりかもしれない。
 バイトを始めるまでは毎日一緒にいた。一緒にいない日の方が少なかった。たとえ法事や、帰省があっても住む事路も近い親族ともあって一緒に行動する事が多かった。
 離れてみていろいろ感じる新鮮さがあった。
 こういうのも、実は必要なんじゃないか。と階段の一歩一歩を流しながらふと思う。
 どこに行くとも言わず、陸橋を降りてすぐのファミレスに入る。


 ドリンクバーだけを注文して、一杯目を入れに行ってまもなく逸朗が口を開けた。
「さーちゃ、二人で家出しよう。あの家に居たら、さーちゃは潰れてしまう。俺も嫌なんだ、あの家の全てが」
 唐突に切り出された話に驚かずにはいられなかった。
 くんできたジュースにも手を出さず、数十秒、あるいは一分と数秒か、早実は驚いたまま静かに黙した。
「家を、でるの? 私と、いつくで?」
「そう、出るんだよ」
 不安げに、早実はうつむく。
「俺は、俺一人でもどうにかなる。でも、さーちゃは……その、」
「いいよ、わかってるから」
 傷つけまいと言い淀んだが、無用と早実が静かに逸朗の言おうとしている事を肯定した。
「金貯まったら出よう。出ても俺が働くから。さーちゃは何の心配もしなくていい」
 本気の視線に早実も折れたのか、出来なければそれでいいと思ったのか、
「わかった、いいよ」
「……そっか、そう。……うん」
 逸朗はほうっと安堵の息をもらした。浮き上がってしまいそうな感情を、確かめるように頷き落ち着かせようと試みるがはみ出た喜びが逸朗をそわそわと落ち着きなくさせている。
「俺、バイト頑張るよ」
 そういってこれ以上無いほど、屈託無く笑った。小さい頃以来、ずっと見ることがなくなっていた逸朗の笑顔に、早実も嬉しくなりつられて微笑んだ。


2:3


 逸朗は家を出る資金を得るためバイトを増やし朝も昼も夜も働いて、妹の見舞いも欠かすことなく行った。きちんと行けば父親は小遣いをくれるし、バイトだと思えば行かなくてはならないという苦痛が軽減された。妹はそんな兄の変化を感じ取ったのか、一切口を利かなくなった。逸朗はただ淡々とやるべき事をやって、すぐさまアルバイトへ向かう。アルバイト自体は、大変ではあるが楽しんで働けたので苦痛はなかった。目標に向けて頑張る若者を非難する人間は、少なくとも職場にはいなかった。
 そんな生活を繰り返し、あっと言う間に夏休みも終わり二ヶ月が経過していた。
 秋の気配をはっきり感じられるようになったある日の夕方だった。
 次のアルバイトへ向かう途中に自転車を停め、自販機で飲料を購入。下の受け取り口に手を差し込み、そして顔を上げたとき見覚えのある背中を見つけた。
――まさか。
 逸朗は見つけたがここは平城崎市でもなくはだ市でも逢坂おうさか市でもなく門屋町単語かどやちようであって、ここにいることを知っている知り合いは早実くらいなものだ、人違いだろうと通り過ぎる。それにうっかり話しかけて面倒な事にになっていらつかなければならないとなると本人であった場合本当に厄か――
「ちょッちょちょちょ、ちょーーーーッッと! なんで行っちゃうんですか思い切り後ろから見てましたよね!」
――何故走ってついてくる。
「確実に見える角度にいまし、たよね! 冷たいにもほどが! まっ……! 待ってく、走るの、そんなに得意じゃ……!」
「なんでいるんだよ」
「待ってたからですよ!!」
「はあ、なんで待つ必要があるんだよ、ていうか待つなよ」
「用があるから待ってたんじゃないですか! わかってる癖にひとでなしーッ! てか停まりやがれーですよ!!」
 やいやい言いながらもついてきていたのだがだんだんと遅れが生じ、叫び声も遠のき始めた。さすがにちょっとこれは可哀想かなあと思い、逸朗は自転車を停め振り向いた。息も切れ切れにセーラー服の少女が自分の両膝に手を置きくの字に身を屈めぐったりしている。
――栗原時香である。
「なんで知ってんだ、ここ通るの誰かに聞いたのか?」
「ええ、方々聞き回って見つけました」
 ぐったりした体勢のまま、親指をぐっと上に向け瞳をきらりとさせる時香。
「…………」
「なんですかその心底嫌そうな顔は」
「そうやって聞いてくる時点でさらに……なあ……」
「こっちだって、わりと必死で!」
「まあ、いいわ。で、何? 悪いけど急いでるから用件は五分で手短に頼む」
「つ、つめたい……バイトを始め、社会の風に当たり段々と冷たさを覚えていっているのですか……? 大人の階段登り始めちゃってるんですか? そうなんですかー!?」
「一分経過」
「わ、わわわかりました! 手短に!」
「わかればいいんだよ」
 逸朗のタイマーカウントにあたふたと無駄口を塞いだ時香はごそごそと肩に掛けていたトートバッグから、何かごつごつした物が入っているような、書類などが入っているとは思えない輪郭をした少し大きめの封筒を取り出した。
「これ一ヶ月ほど預かってて!」
「え、はあ? なんでそんな、」
 疑問ばかりで納得もしないうちに時香は封筒を押しつけて走り去った。逸朗の進行方向とは逆方向に走りながら、
「頼みますよ! 報酬は封筒の中です!」
「って、おい! 時香、待てって!」
 呼びかけもむなしく、角を曲がって見えなくなってしまった。
「なんなんだよあいつ……ていうか、これ何?」
 封がきっちりとしてあって中を確認するには破くか切るしかないようだ。
「あ、やべ! バイト!」
 就業開始時刻が差し迫っている事を思い出し、とりあえず謎の封筒を自転車の籠に放り込み自転車を走らせバイト先へ向かった。


 バイトを終えて帰宅した逸朗は、自分の部屋に戻るなり時香から預かった封筒を開封した。
「また、箱? いや、なんか白いな。こんなもの使ってあいつらなにしてんだ」
 これで見るのは三度目だ。やはり大方の予想通り、入っていたのは立方体だった。ただし、今回は色が白っぽく、そして幾何学模様の筋が彫り込まれていた。やはり金属なのかなんなのかわからない。金属の様に冷たくもなく、重くもなく。樹脂やプラスチックの様に軽い質感でもなく、木製としてもほど遠い。
――何かやばいもの押しつけられたのではないか? 逸朗はもやもやした嫌な感触が腹の底に落ちていく感じがした。無理矢理苦笑いを浮かべるが、その”嫌な感じ”は拭い去れない。
「なんなんだろうなー、あいつら未来か、宇宙からきたとか? あはは、キャトルミューティレーションとかされんのかなー……」
 冗談ぽく言ってみたものの、それが本当に起こったらどうしようもなく恐ろしいことだと謎の立方体を床に放り転がしてベッドにふっぷし、寝ようと試みる。
「……あ! 報酬!」
 一つ確認しそびれていた事を思い出す。ベッドから跳ね上がる様に起きると、乱雑な動作で封筒を拾い直して、ベッドに座りなおし口を広げて逆さまにする。
「………………え」
 どうせ多くて一万円とかだろう、と適当な動作でひっくり返した逸朗は予想に反してぱらぱらと落ちる紙片の枚数の多さに驚いた。
「………………ろく、なな、はち、九、十……じゅう?」
 拾わず、指さし数えた逸朗は十まで数えてしばしベッドの上で固まる。――一万円の紙幣が十枚。五千円でもなく千円でもない事実をもう一度確認する。
「これもう俺やばくないか、やばいだろ、預かるだけで十万とかやばいだろ」
 嫌な汗というのは本当に不快なんだな、と逸朗はやや混乱した思考の隅で思った。
 本人に返そうか。いや、その前に連絡先を知らない。どこに住んでいるか、どこの学校に通っているか全く知らない。そもそも本当に学生なのかもよくわからない。
「あーもーこえーよー」
 ひとまず封筒に紙幣を戻し、枕に顔を沈め足をぱたぱたさせる。
 駄々っ子のようになっていた逸朗はふと動作を止め、考える。
――返せないのなら預かるしかない。
――それとも、どこかに捨ててしまおうか。
――……いや、どうせなら。
 また再びがばっと身を起こすと、足をひっかけながらばたばたと入り口近くに置いてあったバッグの中の携帯電話を引っ浚った。
「さーちゃ、出よう。金が貯まった」


 翌日の昼、逸朗は早実と一緒にいつものファミリーレストランにいた。
「最低限の荷物で良い。夜になったらそれを持ってよく行くネカフェに来るんだ。俺は先に入って待ってる。いいな」
「わかった」
 それを聞くと、早実は頷き立ち上がり店を出ていった。


 逸朗は一度荷物をまとめに自宅へと戻った。栗原時香から渡された報酬十万円と、二十万と少しの残高が記載された通帳。親に取られたりしないよう、親たちが使っている物とは別に銀行用の印鑑も作っていたのでそれも一緒にボストンバッグにつっこむ。持てるだけの衣類と、必要最低限の生活必需品と。
「…………」
 ふと、機能していない勉強用の白いデスクの上に転がしてあった、時香から預けられたキューブが目に入る。
――途中で捨てていこう。
 キューブも鞄につっこんでいく。
 それを持って午後五時をすぎた頃に、ネットカフェへ向かった。
 まとまったお金がある時に、時間つぶしに良く来ていたネットカフェは八幡(はちまん)通(どお)り商店街の、五つに分かれた通りの一つのアーケード入り口付近で営業していて、ネットカフェとしての機能を充分且つ平均的に備えていた。四階建てのビルの二階に受け付けがあり、二階から四階までを施設フロアとしていた。
「一応言うけど、ここ未成年は二十四時以降は強制退店って決まりだからね。見つかったら営業停止だよ?」
「わかってる。ごめんって」
 話し相手はこの店の店長だ。女性でよく気が利くタイプのアラサー。中学生の頃からよく知っていて、近隣のよくない弓削家の噂も知っている。その上でいつも温かい目で迎えてくれている。逸朗は大概の大人を信用出来ずに思春期を過ごしていたが、この女性店長だけは例外だった。
「最近見ないから逆に安心してたんだけどさ、家で何かあったの?」
 貸し出しルームの登録をしながら彼女が尋ねた。
「…………」
 無言が返事と受け取り、
「まあ、一応は他人だから余計な事は言わないけど」
 一連の動作を済ませ、レシートを挟んだ大学ノートの半分くらいの大きさのファイルを渡す。逸朗は無言で受け取り、四階のフロアに続く階段に向かう。
「辛かったら、言いなさいよね」
 受付カウンターを振り向く。店長が柔和な笑みで逸朗に視線を送っている。
――ああ、身近にいたんだな。こんな大人が。
「……うん。わかったよ」
 柔らかい表情で、逸朗は頷き階段を登る。


 早実は、リビングにいるであろう母親の聡美に悟られないようなるべく足音を立てず旅行バッグに荷物を詰め、暗くなるのを待った。午後六時になれば、リビング側のキッチンで夕飯の支度を始めるので母親はそこから動かなくなる。父親は夜遅くならないと帰ってこない。
 ベッドの脇に膝を立てて座って、不安と期待で揺れるこの状況をどう思っていいのか考えながらそのときを待った。
 太陽が沈みかけ、ゆっくりと薄暗闇がやってくる。
「六時……」
 すっと立ち上がり、リビングのドアに耳をそば立てる。――水の音が聞こえる。夕飯の支度を始めたようだ。
「……行こう」
 そっとドアから離れ、荷物を掴み玄関へ。
 さらに慎重にドアをゆっくりと締め、ほとんど音を立てず家を後にした。

 その後、何事もなくネットカフェで逸朗と合流し、その場で高速バスの予約をし二人席で眠りに就いた。


 翌朝、早朝に店を退店し、予約したバスが待っている三室みむろバスターミナルへ。
 三室バスターミナルは、席田橋から秦市駅へ行き秦市駅から京逢けいおう電鉄でんてつに乗り換え、県を跨ぎ烏啼大路からすなきおおじで下車。そこから市営バスに乗り換えていくのが最短ルートである。しかし、席田橋の駅は気づいた親たちが張っている可能性がある為に遠回りのルートを選んだ。
 席田橋から少し歩いて離れた場所のバス停から循環バスに乗り、そしてもう一度平城崎ならさき市営バスに乗ってモノレールの駅を目指す。いくつか電車を乗り継いで、モノレールの駅にたどり着く。攪乱の意味もあったし、自分たちの親、もとい早実の両親がいつ気づいて探しに来るか不透明だ。気付いて駅で待ちかまえていても彼らが予測している時間とタイムラグがあれば逃げられる可能性が上がる。逸朗はそう考えていた。
 モノレールに乗り、秦市駅に到着した。秦市駅はすぐそばに京逢電鉄の駅があり、すぐさま乗り換えが出来る。幸いにも誰も待っていなかった。順調に乗り換えを済ませる。
 そこからはひたすら電車に揺られ烏啼大路まで行く。
 長い電車の道のりの中、乗り換えの連続で疲れたのか電車の揺れと共につらつらと眠りに落ちた早実に肩を貸しながら流れる景色を見つめていた。
――これでよかったのか。
――これで良かったんだ。
――これで、良いのか?
――力を得たと勘違いしていないだろうか。
――自分たちは非力だ。それは自覚している。
 ぼんやりしながらも思考はまだ動いていた。
 行く末が不安なんだろうかと、自問自答している。側で眠る早実の横顔を見遣る。
――でも、俺は――目を閉じる。
「早実を、自由にしてやりたいんだ」
 静かに微かに、そうつぶやく。
 願いをつぶやく。――自分が自由になれたように、彼女も自由になれと。


 烏啼大路に到着し、市営バスに乗り換える。予約した高速バスは午後四時頃発、現在は午後一時。まだ時間があったため、コンビニで適当に買って市営バスを待つ間にバス停のベンチに座り昼食を済ませた。お互い空腹を満たし、到着した市営バスに乗る。
 高速バスの行き先はここから十時間以上先だ。しかも途中乗り継いで出来るだけ北の方にゴールを置いていた。
 遠いところまで来た。――もっと遠い所へ行く。
 二人、得も言われぬ高揚感がじわじわと沸きつつあった。
――自由に、なれるのかもしれない。
――もっと、自由に生きていける。

――神様がいたら――この時、二人は祈ることもせず、恨むしかない事に絶望した。

 バスを下車して、高速バスの乗り口を探していた。
「たくさんある……」
「ああ、でっかいターミナルだからな」
 バスの出発までまだ時間はあったが、大きな駅を取り巻く様にバスターミナルがあり、多数ある乗り場に、二人はなかなか見つけられず右往左往していた。大きな駅だけあって、商業施設も充実しており平日でも通行人が多数いた
「あっちかも。いつく」
「んー? そうか? 待ってチケット――に、…………」
「……? いつくどうし――」
 鞄からチケットを取り出して、バス停名とチケットの行き先とを照らしあわせようとしていた逸朗が何かに気づき、固まる。早実も、逸朗の視線の先に何があるのか気付いた。
 簡単に言えば、信者だ。見たことがある。母親たちが通い詰め、自分達も連れて行かれていたあの宗教団体の信者がいる。まだ距離はある。おそらく、昔から顔を知っているので繰り出されたのだろう。
「……早実、逃げるぞ」
「うん」
 早実の腕を掴み、走る。気付いた信者が追ってくるのが音でわかった。
――ここで、捕まったら、早実はもう二度と……!
 息を切らし、人混みを切り分けながら走る。
 ここで捕まってしまえば、早実の拘束はきつくなり、すべてがダメになってしまう。
「いつ、く」
 運動が得意ではない早実は早くも限界が来てしまった。
――どうにかして振り切らないと!
 その時通行人が、早実にぶつかってしまった。しっかり掴んでいた腕が離れる。その勢いで早実が転倒してしまった。
「あ、……っ!!」
「さーちゃ!!」
 人混みが邪魔ですぐ側にいるはずの早実に腕を伸ばせない。通行人を蹴散らしたい衝動を抑えながら無理矢理割って入ろうとする。
「クソッ……!」
 届きそうで届かないその距離にのばした手の先が空振りしてしまう。
「――逸朗君と、早実ちゃんだね」
 ふいに後ろから聞こえた。
 ぞっとするような、恐怖にも似た焦燥感が逸朗の背中を凍り付かせる。
「…………」
 振り向こうとする前に数名に腕を捕まれ拘束されてしまう。
「……ッ! やめろ! 離せッ!!」
 もがいても男数人掛かりの力には勝てない。
「さーちゃ、さーちゃ!」
「いつく!」
 声のする方を見る。やはり、早実も信者の一人に捕まっていた。力のない彼女には、男一人ですら振り解けない。
「離して! いつく、いつく!!」
 抵抗も甲斐無く、一人引き離されバスロータリーに横付けされていた車に乗せられてしまう。
「やめろ!! さーちゃは、早実は、……お願いだ! 彼女を離して、くれ……」
 何も出来ず、ただ見送るしかない。彼女を乗せた車は無情にも逸朗の視界から消えてしまう。
 ぼろぼろと涙が溢れる。悔しいのか、虚しいのか。
 車が去ったのを見ると、逸朗を取り押さえていた信者達は手を離しどこかへ散会していった。
 ひとり、絶望に打ちひしがれる逸朗だけが残された。
「くそ、くそ、くそおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
 血がにじむほど、自らの無力さと愚かさと稚拙さを呪い、舗装された地面に何度も拳を叩きつける。ひとしきり叫び、やおらじりじりと痛む拳をぎゅっと抱えるように握り締め、ふらつきながら立ち上がる。
「俺は、まだ、諦めない……」
 痛みと怒りを両抱えにして、また彼は歩き始める。


 三室バスターミナルから席田橋まで一時間半以上、その道のり。
 コントロールの聞かない感情が、逸朗を混乱させ、奮い立たせ、縮こまらせる。
 京逢電の車窓から、今朝来た道のりと逆方向に流れる景色を眺めながらあふれては沈む感情とひたすら戦い続けている。
「…………まだ、まだ――」
 来ていたパーカーのフードを深く被る。せきとめられない涙を隠すように。


 席田橋を降り、全力で走り真央宅へ向かう。疲労と焦りで足がもつれ、よろりとよろけながらも走る足は止まらない。
 しがみつくように早実自宅マンションのドアノブを掴む。幸いにも鍵はかかっていなかった。
「早実!」
 ドアを開け、転がり込むように中へ。早実が奥のリビングにいる。姿を見つけ駆け込む。
「いつく?!」
「貴様はあああぁぁぁぁ!!」
 リビングのドアまでたどり着いた所で真央由紀夫ゆきおに掴みかかられる。
「離せ!」
「おまえが早実をたぶらかしたんだな?!」
「うるせえ、さーちゃはここにいちゃいけないんだ!」
「おまえが決める事じゃない!」
「おまえらさーちゃの事、なんもわかってねえだろ!」
「親だ、私は親だ、私が一番分かっている!」
「何が親だくそ!! ジジイ、おまえが一番早実の事なんも見てねえじゃねえか!!」
 もつれながらリビングになだれ込み、逸朗がソファにぶつかり転ぶ。
「おまえがいなければ、もっと早実はまともだった!」
 転んで体勢が上になった隙に、由紀夫に頬を殴られる。
「ッ! 人のせいかよ!」
 力任せに体を捻り、上体を起こしながら更に由紀夫を無理矢理横に投げ飛ばす。
 完全に立ち上がった所で後頭部に鈍く重い打撃を感じ、くらくらする意識で振り向く。
「……な、なんだ……?」
「お父さんに、なにするの」
 早実の母、聡美さとみ。ゴルフクラブを構えてふるえている。震えながらも二度、三度クラブを振り回す。あたりが破損、散らかり惨状になりつつあることも気にも留めない。ふらふらしながらなんとかすべてを避けきる。
「お母さん止めて!」
 早実が聡美にしがみついた。
「もう、言うこと聞くから、いつくを傷つけないで」
「さーちゃ、ダメだ、俺と一緒に」
「行かせん!」
 起きあがった由紀夫が逸朗に殴りかかる。なんとか避ける。
「さーちゃがどれだけ苦しい思いしてるのか、あんた知らないだろおおおぉぉぉぉ!!」
 加減もせず、由紀夫をぶん殴る。由紀夫は、よろけたが再び起きあがり逸朗に殴りかかろうと拳を握る。
「――早実が悪くなると私、お父さんに嫌われてしまう」
 逸朗の動きが止まる。その隙にごすりと由紀夫に殴られ、ぐったりと崩れ落ちる。
 視界の向こうに、アイランドキッチンの壁にへたりこんで怯えた様に絶句している早実が見えた。
「やめろ、さすがにやりすぎだ……!」
 由紀夫が慌てた様子で聡美の腕を掴もうとするが間に合わない。じわじわと腰あたりの痛みが増していく。何かが体から失われる痛みだ。痛みと殴られた衝撃で聡美に馬乗りにされることも許してしまう。

――あれ、なんだっけ? ああ、ペーパーナイフだ。

 振りあげた聡美の手に握られたぎらりと光る銀色の硬質な反射を見て逸朗は思った。次の瞬間、強烈な腹部の痛みによって、強制的に意識は閉ざされた。


 ぼんやりとした視界に、すごい勢いで流れていく天井が映る。

――俺、死ぬのかな。何も出来ないままに。

 まともに動いてくれなさそうな思考が、そんな事をぽつりと思った。
 諦めるのか、そうか、と目を閉じる。


――神様、お願いだから、早実は幸せに。

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