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🌈3rd time 曇り空 雨にけぶる幸せ

交わることのないもの

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 ちょっと奇妙で幸せな夜から数日後、大和は重たいビニール袋を両手に、我が家を目指して歩いていた。

 低気圧のせいか頭痛に悩まされ、極力動きたくないという母に、「夏休みなんだから時間持て余してるでしょ」と近所のスーパーまで夕飯の買い出しを頼まれたのだ。
 母が昔から偏頭痛持ちで、薬を常備していることは知っていた。が、昨晩から降り続いた大雨がもたらした強烈な低気圧には、鎮痛剤も勝てなかったらしい。時間を持て余しているのも事実だったので、しかたなく引き受けることにした。
 母から行動する気力を奪った雨は、一時間ほど前にようやく上がり、今は厚い灰色の雲の隙間から、夕日が負けじと琥珀こはくいろの光を放っている。

「おっも……」

 指がちぎれそうなほど大量の商品を詰め込んだふたつのビニール袋と、買い物中に何度も目を通したメモを見れば、食材以外のものが大半を占めているのは明白だ。
 でもまぁ、たまのことだし、そこは目をつむってあげよう。
 車では五分とそこらでも、歩くとなれば結構な距離だ。

 自転車使えばよかったかな、なんて今さら考えつつ、ようやく家の前にたどり着く。
 そのとき、ふいに足音がして隣家に目をやると、朝比奈姉妹が洗濯物を持って裏口から出てきたところだった。
 ずっと雨だったから、これから干すのかもしれない。彼女たちのお母さんは、大の部屋干し嫌いだと、風の便りに聞いたことがある。
 まだ濡れたままのタオルを何枚か手にした結乃と目が合い、自然と頬が緩む。

 ところが彼女は、はっとおびえたような目をして、まるで幼い子供みたいに、おずおずと姉の後ろに姿を隠した。厚い掛布団を抱えていたせいか、それに気づかなかった志歩は、そのままぶつかってしまう。
 よろけた彼女は、「ちょっとぉ、何やってるのよ?」と挙動不審な妹を軽くとがめた。
 結乃がしゅんとした様子で謝罪すると、志歩は視線に気づいたらしく、こちらを一瞥いちべつする。が、すぐに、何事もなかったように洗濯ものへと意識を戻した。

 違和感が心を曇らせる。
 正直なところ、数日前から感じてはいた。結乃との壁を。
 最初は、夏祭りの夜のことで照れているだけかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼女から伝わってくるのは、確かな「拒絶」だった。

 露骨に避けられているわけでもないし、普通に会話だってする。けれど、以前と何かが違う気がしてならない。
 どうしてなんだ、と問うように見つめ続けても、彼女がこちらを振り向いてくれることは、なかった。

 *

「ねぇ、なんで?」

 子供部屋の電気を消し、布団に入った途端そう投げかけてきた姉に、結乃は目を丸くした。
 すぐに察しがついたし、無駄な抵抗だと分かってはいたが、一度「なにが?」と白を切ってみる。

「なんで夕方、私の後ろに隠れたの?」

 今度はストレートに突きつけられた上、「大和、あからさまに傷ついた顔してたけど?」なんて重ねられたら、もう逃げられない。

「……幻滅されたくない」

 ため息交じりに漏らした。
 今ひとつ理解できていない様子の志歩に、結乃は続ける。

「大和は、私のこと買いかぶりすぎなんだよ」

 夏祭りの夜に、彼の想いを知ることができたときは、天にも昇る心地だった。でも、同時に怖くなったのだ。

 別にそう思われるように生きてきたつもりもないし、これは自慢話でも何でもないのだけれど、結乃は昔からなぜか、周囲から「すごくいい子」と過大評価されることが多かった。
 しかし当然、深く関わればそれだけいろんな面が見えてくるのが、人間というものである。
 辛いのは、最初の印象がよかっただけに、相手が短所に気づいたとき、わずかに失望を匂わせる瞬間だった。

 いくら親しい仲とはいえ、大和も例外ではないと思う。「好きな人」なんて加点があれば、なおさらだ。
 でも彼にだけは、絶対にそう思ってほしくない。
 もう癖のようになってしまった笑顔の裏に隠した、みにくい部分を知ったとき、彼は何を感じるのだろう。

 ――ありがとう。

 突然、この恋を叶えるため、ひとりの少年に放った一言が、頭の中でこだまする。この後に続いた、もっともらしい言い訳を最後まで聞いた後、彼は眼鏡の奥の小さな瞳を、すべて受け入れるように細めたのだった。
 もちろん心にもないことを言ったつもりはない。が、どこかで、これで手を引いてくれるだろうと、悪役のように冷めた笑みを浮かべている自分がいた。

「へぇ。じゃあ、他の誰かに取られてもいいんだ?」

 試すような姉の問いに、「それは……」と閉口する。
 すると、「何それ、ただのわがままじゃん」と容赦のかけらもないお言葉が飛んできた。

「……お姉ちゃんはさ、なんで慶太くんと付き合おうと思ったの? 他にいたでしょ? 好きな人」

 何だか悔しくて、思い切った質問をしてみた。今の彼と付き合う前、姉に意中の人がいたのは知っている。まあ、お相手が成人男性だったこともあり、片想いの辛さを味わって終わったようだが。
 露骨な訊き方が気に食わなかったらしく、志歩は「なんかその言い方、私が乗り換えたみたいじゃない」と頬を膨らませた。
 でも、考えるように天井を見つめているから、真面目に答えを探しているようだ。

「うーん、あれはどうせ叶わない恋だって分かってたし、今思えば、恋してる自分に酔ってたっていうか」

 志歩は数年前の自分に少し呆れたように、ふっと乾いた笑みを漏らす。

「それに、言い方悪いけど、慶太と付き合ってるのは、私があいつにほだされた部分もあるからね。不覚にも、ド直球な告白にキュンとしちゃったから、この気持ちに賭けてみてもいいかなって」
「幻滅したことある?」

 あえて素直に尋ねると、「そりゃあもう」と即答された。

「タイプと真逆の人だし、特別何か期待してるつもりもないんだけどさ。夢見ちゃうんだろうね。相手自身っていうより、『恋人』っていう存在に」

 返す言葉が見つからず、黙りこくっていると、志歩は微笑ましげな吐息の後に、こんなことをこぼす。

「そんなに心配しなくても、『理想』の対義語は『現実』ですよ?」
「実際、そういうもの……?」
「そう。近づいたり、遠ざかったりすることはあっても、けっして交わらないもの」

 だからさ、と励ますような口調。

「結局は、自分の気持ちを信じるしかないんだよ」

 結乃は薄闇の中、そのどこにでも転がっていそうな、けれど一番大切にも思える一言を、小声で繰り返してみた。
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