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🌈Last time 君は、心の傘
弱い人 強い人
しおりを挟む気がつくと、暗闇の中で二段ベッドの下段に横たわっていた。パジャマ姿で、全身にじっとりと嫌な汗をかいている。
僕、何してたんだっけ……?
おぼろげな記憶の中にあるのは、冷たい雪の感触と、黒ずんだ不気味な赤色。それからあの子の――そう、彼女の、
「結乃っ!」
叫んで勢いよくベッドから飛び起きる。直後、鈍くも強い痛みが鐘のように頭を打った。
それでも大和は、こめかみを押さえつつベッドからおり、リモコンを探して部屋の電気をつける。そして、曖昧な記憶のピースをはめるため、室内を右へ左へと歩き回った。
雪景色の中、彼女を抱きかかえながら救急車を待って、その後どうした?
今の状況からして、何かしらの行動を取ったことは間違いないのだろう。けれど、考えても、考えても、さっぱり分からない。
こうも全体的に抜け落ちていると、今自分が覚えているわずかな記憶は、本当に全部悪い夢だったのではないか、という気がしてくる。
そのうち、思い出すことを拒絶するかのように、意識が朦朧とし始める。前屈みになって、刺すような尖った冷たさを保つ窓に、頭を預けた。
いつの間にか、外は濃い闇に覆い隠されている。窓に映る自分と目が合うと、その生気のない瞳と、彼
女の懇願するような瞳が、記憶の中で重なった。
そうだ、猫。僕はちゃんと捜したんだろうか。約束したのに。
死期を目前にした病人のような自分の姿をこれ以上見ていたくなくて、深いため息をついて視線を外す。そのとき、見つけてしまった。
夢ではないと、証明するものを。
勉強机に置かれた、無残にひび割れ、赤にまみれたスマホを。
そのとたん、
「……っ!」
背筋を這うような寒気とともに、胃の中のものがせり上がってくるのを感じ、大和はとっさに両手で口を塞いだ。
そのまま全速力で階段をおりてトイレに駆け込み、胃液と一体化した酸味のあるそれを、一気に吐き出す。
何とか嘔吐物を流してトイレから出たが、もう立っているのも辛くて、その場に力なくへたり込んだ。胸の奥にはまだ、しつこいむかつきが残っている。
脳を重みのある石で押さえつけられたような、鈍い頭痛に耐えながら、不快に歪む世界の中でうずくまっていると、
「……大和?」
物音を聞きつけたのか、父がダイニングから顔を出した。父が帰ってきているということは、もうかなり遅い時間のようだ。
「どうした? 吐いたのか?」
駆け寄ってきて尋ねる父に、弱々しくうなずく。
すると、その節くれ立った手が、そっと額に触れた。
「熱いな」
そう言って、父は素早く自分を担ぎ上げると、二階の子供部屋まで行き、再びベッドに寝かせる。
「ちょっと待ってなさい」
短く言い置いて一旦退室し、戻ってきた父が持っていたのは、冷却シートと体温計だった。それと、これからしばらくお世話になるであろう、トイレットペーパーを敷き詰めた洗面器。
手渡された体温計を挟むと、皮膚に触れた金属部分が、異様に冷たかった。
数分後、控えめな電子音が鳴り、息子の脇からそれを取り出した父は、渋く顔をしかめる。
「明日病院だな、こりゃ」
この苦しさで微熱なわけがないだろう。具体的な数字を知ってしまうと、余計に具合が悪くなりそうな気がして、訊くのはやめておいた。
「体もびっくりしたんだろ。ゆっくり休んでなさい」
額に冷却シートを貼ってくれ、枕もとに洗面器を置きながら、父は言う。それは、明らかに何かを知っている口ぶりで。
「父さん……」
部屋を後にしようとする背中に、小さく呼びかけた。父は何も言わずこちらを振り返る。
――結乃は?
その疑問を、どうしても口にできない。尋ねても、その先には絶望しか待っていない気がした。
だから、
「今日って……何日だっけ?」
ほんのわずか、ありえない期待を抱きながら、代わりにそう訊く。父は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに、
「二十四日」
と落ち着いた様子で答えた。壁の時計を見ると、十二時を回る少し前だ。
「何月の?」
「十一月の」
遠回りしたところで、やっぱり待っていたのは絶望だった。
十一月二十四日。悪夢から目覚める前と、同じ日付。――もう、受け入れるしかない。
「……そっか。おやすみ」
荒れ狂う心を必死に抑え、それだけ言って背を向ける。
父も、静かに電気を消し、一階へとおりていった。
灯りのなくなった部屋で、大和はひとり考える。
夢じゃない。夢なんかじゃ、ない。
脳裏に残る彼女の悲惨な左脚も、そこからあふれ出す赤も、消え失せそうな声も、すべて現実なのだ。
どうして、こんなに変わってしまったのだろう。「今日で付き合って一ヶ月だね」なんて笑い合ったのは、ついこの前なのに。
そんなことを考えていたら、また喉の奥から嫌な感覚が戻ってきて、枕もとに用意されたばかりの洗面器を、早くも汚してしまった。
*
今日こそ、ちゃんと向き合うんだ。
重く曇った冬空を見上げながら、大和は決意を新たにする。
突然の体調不良との闘いはすぐに終わらなかったが、二日後の土曜には吐き気がおさまり、その翌日には無事に熱も下がった。
週明けから学校に出席して、今日で五日目。つまり、悪夢の日から一週間以上経っているにもかかわらず、大和は結乃が一命をとりとめたこと以外、何も知らなかった。
事情をよーく把握している人物が、今もすぐ隣を歩いているというのに。
いつもと同じ、三人での帰り道。普段なら慶太が他のふたりに挟まれる形なのだが、偶然か意図的か、今日は大和が真ん中だった。
隣の志歩に、ちらちらと視線を送る。
肉親が事故に遭ったなんて嘘かと思うほど、彼女はこの一週間、かえって不自然なくらい変わらなかった。
普通に勉強して、普通に友だちと喋って、普通に笑っていた。
どことなく重い空気の中、そんな彼女に向かって、声にならない声を叫んでいると、
「なに?」
たびたび送られてくる視線に我慢ならなくなったのか、ついに志歩が口を開く。
「えっ、いや、その……」
結乃、結乃だ。せめてその名前を言え! そうすれば察してくれるはずだから。
繰り返し自身を激励するも、なかなか行動には移せない。
すると志歩は、心の準備をするように短く息を吐き、
「結乃なら、まだ眠ったまんま」
両手で持ったスクールバッグを、ひざの前で落ち着きなく揺らしながら、言う。
「轢かれたときと、左脚の切断手術したときの出血がひどかったみたい。それに、車にふっ飛ばされて全身打撲してるからね。無理もないよ」
その事実を聞いた瞬間、ふたつの衝撃が、大和の胸を打った。
覚悟をはるかに上回る、結乃の痛ましい現状に驚いたのはもちろんだが、志歩がそれを事もなげに説明するから。
「ソルトもどっか行ったまま帰ってこないし、今うち三人。静かだよー」
不謹慎だとか軽率だとか、そういう意味ではない。ただ単純に、自分にはない強さを持つ彼女が、眩しく見えたのだ。
よほど驚いた顔をしていたのだろうか。彼女は少し困ったように笑って、
「泣いて戻ってきてくれるんだったら、一日中でも泣くんだけどね」
まるで、聞き流しても構わない独り言のように、そんなことを言った。
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