そらのとき。~雨上がりの後で~

雨ノ川からもも

文字の大きさ
33 / 38
🌈Last time 君は、心の傘

目覚めの前に

しおりを挟む

 *

 けっして広いとは言えない子供部屋で、白い毛むくじゃらの動物が、とぐろを巻いた蛇のように丸くなって眠っている。何とも不思議な光景だ。
 自分が捜しそびれたせいで長らく行方不明になっていた朝比奈家の愛猫が、今朝になって突然帰ってきたという。

 これから結乃のところへ行くから少しの間だけ預かってくれないか、と志歩に頼まれ、悩んでいたところを、母のひと声で引き受けた。今までの事が事だけに、志歩もいろいろと不安になったのだろう。
 しばらくは母に相手をしてもらいつつ一階を探索していたはずだが、階段を見つけて自らのぼってきたようだ。特に追い出す理由もなかったので、好きなようにさせていたら、知らぬ間に眠ってしまった。

 ――結乃のところへ。

 先ほどの志歩の声が脳裏をかすめて、大和は重苦しいため息をついた。
 分かっている。行かなければならないことは。
 病み上がりではあるけれど、熱も下がり、生活に支障がない程度に回復した以上、もう体調不良を言い訳にはできない。
 父の言葉だって、忘れたわけではない。
 でも、あと一歩が踏み出せなかった。
 もはやここまできてしまったら、彼女が危篤きとく状態に陥ったとか、残り数時間しか生きられないとか、そういう最悪の事態に見舞われても、この重い腰を上げられないかもしれない。

「……って、そういうことばっか考えてるからダメなんだよ」

 独り言ちてもう一度ため息をつこうとしたとき、

「――」

 甘えるような声がそれを押しとどめた。
 視線を落とすと、ソルトが催促するように自分の足にその体をすり寄せている。さっきまで寝ていたのに。
 これは、どうしてやればいいのだろうか。
 別に動物が嫌いなわけではないし、こういうしぐさを見れば素直にかわいいとは思う。でも、実際に飼ったことがないから、接し方が分からないのだ。
 躊躇ちゅうちょしつつ背中を撫でてやると、穏やかに目を細めて低く喉を鳴らした。リラックスしている証拠だということは知識として知っているが、声だけ聞くとまるで怒っているみたいだ。
 洗い立てらしいふわふわとした毛は、上質な綿のようで指に心地いい。
 すると、ふいに蒼い瞳がこちらに向けられ、視線がぶつかり合う。心臓が、小さく脈打った。

 ――まただ、この感じ。

 数ヶ月前、夏の夜にもあった。この子の姿を見ていると、ふっと、切ないような、懐かしいような気持ちに、胸をしめつけられることがあるのだ。
 この子に対して何か特別な思い入れがあるわけでもなければ、初めて触れ合うはずなのに、どうして。
 それとも、

「……初めてじゃ、ないのか?」

 無意識の呟きに対し、「なに猫に訊いてんだろ」と一笑しようとしたとき、

「その通りです。初めてじゃありません」
「へっ? ふえ!?」

 どこからともなく聞き覚えのある声がして、素っ頓狂な反応をしてしまった。何だか、ずっと待っていた気がする。

 ――そうか。この声は。

 突拍子もない出来事に、何も言えずに固まっていると、「もう分かったみたいだね。さて、私はどこにいるでしょう?」と楽しそうな声が室内にこだました。
 座ったまま、きょろきょろと辺りを見回していると、

「もう、ここだよ、ここ。すぐそば!」
   
 しびれを切らしたような声が飛んできて、急いで出どころを探す。
 足もとには、おとなしく腰を据えてこちらを見つめるソルトがいた。
 目を凝らすと、その体の輪郭がうっすら青みを帯びている。忘れもしない、死んだはずの栞奈が、初めて自分の目の前に現れたときと、同じ色。

「そうそう。その子」

 集中して耳を傾ける。
 たしかに、栞奈の声はソルトから聞こえているようだった。ただ、何かのアニメのように、声と口の形が連動しているわけではなく、ソルトの体内から響いてくる感じだ。例えるなら、テレパシーみたいに。

「……」
「おっと、まだ泣かないでね。今日は別に、お兄ちゃんと感動の再会をしに来たわけじゃないんだから」

 こちらの心が切なく揺れたのを瞬時に察し、
 感極まる前に、栞奈は落ち着き払ってそう制した。
 少しばかり冷淡にも思える態度に、涙が引っ込む。
 そして、

「今からあなたに、重大なミッションを課します」

 続けられた意外な言葉に、大和は自然と正座していた。

「結乃ちゃんを、助けてください」

 背筋に緊張が走る。

「どうすれば……?」

 そんな一言が口をついた。

「まず、彼女のところに行かないことには、お話になりませんね」

 どこかの偉い教授のような口調で、痛いところを刺される。
 大和は少しためらった後、「……はい」と頭を下げた。

「そしたら、ふたりきりになって、ベッドのそばで眠ってください。結乃ちゃんと一緒に、夢の中で待ってますから。詳しい話はそれからです」

 教授キャラを崩さず言われた要望に、思わず顔をしかめる。

「夢の中って……それに、そんないきなり寝ろとか言われても」
「大丈夫です。そんなときのために、結乃ちゃんの右頬にキスをすれば、嫌でも眠れるようになっていますので」
「キ、キキキキ、キ!?」

 今、「キス」って言いましたか、先生。

「な、なんで……」
「言ったきり保留になっている甘い約束を果たすための、いきな計らいですが、なにか?」

 死後に初めて再会した夜も、「今の私は何でも知ってるんです」と笑っていたけれど、当の本人すら忘れかけていたそんな情報を握っているなんて。もしかしたら、今の栞奈は神にも等しい存在なのかもしれない。

「不慮の事故で深い眠りについた姫は、愛する王子の頬キスで目覚めるのです」

 なんというか、もう唖然として、「はあ……」としか返せなかった。

「ほらほら。早くしないと、間に合わなくなっちゃうよ?」

 そこでようやく口調を崩した彼女に急かされ、立ち上がった大和。だが、最後にもう一度だけ、栞奈――ソルトに不満げな視線を投げた。
 話があまりにも突飛で、結局何ひとつ理解できていないような……
 というか、すっかり雰囲気に呑まれてしまったけれど、こんなことは普通ありえない。猫から亡き妹の声が聞こえるなんて。

「詳しいことは後でって言ったでしょ? とりあえずいってらっしゃい。あっ、もしかしてソルトの心配してる? なら絶対に逃げないから大丈夫。だって今は私に乗り移られてるようなものだもん」

 謎は増える一方だが、「ほら、結乃ちゃんアレルギーになる前に、ね?」と半ば押し切られる。
 大和は、結乃と指切りをしたあの日と同じパーカーに袖を通し、走って病院へ向かった。

 *

 涙を止めるまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
 いったい、どれだけ泣けばいいのだろう。
 結乃の顔を見た瞬間、自分に対する不甲斐なさや、彼女がまだ生きているという安心感が体の内側から込みあげてきて、膨らみすぎた風船みたいに爆発した。

 ――待ってましたよ、みんな。

 恋敵こいがたきにそんな言葉をかけられるようでは、男として面目が立たない。

 大和は、涙に濡れた顔を服の袖で荒っぽく拭うと、さっきまで直人が座っていた丸椅子に腰をおろす。

「ごめん、結乃。ずっと……来なくて」

 まだ座面に残っている直人のぬくもりに背中を押されるように、眠り続ける彼女にゆっくりと頭を下げた。

 来られなかったのではない。来なかったのだ。
 自分次第で、彼女に毎日話しかけることも、その手を握り続けることも、できたのに。

「今、助けるから」

 そう言うと、大和は静かに結乃を見つめた。
 窓から伸びる光に白く照らされた、彼女の横顔。
 主な損傷を受けたのが脚だからだろうか。ガーゼで保護された額の一部分以外、事故に遭ったなんて信じられないほどきれいだった。
 しばらくそうしていたが、眠気が訪れる気配はない。

「……やっぱ、するしかないのか」

 半信半疑で呟く。
 悩む大和を後押ししたのは、ここへ向かう直前に栞奈から告げられた、「間に合わなくなる」という警告じみた一言だった。
 結乃の頭の位置からして、ちょうど今いる廊下側が右になっている。
 そりゃ緊張はするけれど、仮にも相手は恋人だ。ちょっとした練習だと思えば、なんてことはない。

 大和はそう自身を説得して軽く腰を上げ、前屈みになる。
 目を閉じた。
 酸素マスクのチューブに当たらないよう気をつけながら、結乃の頬に――そっと口づける。

 すると、瞬く間に強い眠気が襲ってきて、まるで空気が抜けるように、全身に力が入らなくなった。
 抗うことなく再び丸椅子に座り込む。そして、ベッドの脇に体重を預け、そのまま深い眠りに落ちた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...