そらのとき。~雨上がりの後で~

雨ノ川からもも

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🌈Epilogue or Prologue

終わり 始まり

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 今日で、本当に最後だ。

 昼食を済ませて子供部屋に足を踏み入れた大和は、奥まで歩を進める。そして、薄水色のカーテンをゆっくりと引き、窓を開け放った。
 春の草木のやわらかな香りが室内へと流れ込み、鼻孔をくすぐる。

 壁の時計を見やった。約束の時間を五分ほど過ぎている。

 どうしたのだろうと思いつつ、大和は大きく息を吸って、空を見上げた。

 雲ひとつない、すっきりとした青。
 この先はきっと、こんな晴れの日ばかりじゃないけれど――

 すると、玄関のほうでチャイムが鳴った。出迎えたらしい母の声が聞こえ、ゆったりとしたリズムで足音が近づいてくる。
 大和もゆっくりと、ドアのほうを振り返る。

「ちーっす!」

 明るい声とともにドアを開け、部屋へ入ってきた結乃。彼女は一度深く息を吐きだすと、疲れ果てた様子でその場にへたり込んだ。どうやら、声の主は彼女ではないようだ。

「今叫んだのって……」
「そうだよ。私」

 問いかけにかぶせるようにして、結乃の腕の中にいる白猫が口をパクパクさせる。

「え、今日はその、この前みたいなテレパシー的なのじゃないんだ?」

 するとソルト――栞奈は少し考えるように天井を見上げ、答えた。

「あぁ、うん。あのときは預けた魂の一部を使って天界から話してたけど、今日は私が直接憑依してるからね」

 この通り自由に動けちゃいます、なんて言って彼女がひょいと腕の中から抜け出す。そのとき、結乃が「ごめんね」と口を開いた。やっと落ち着いてきたようだ。

「栞奈ちゃんが最後に桜見たいって言うから、公園に寄り道してたら遅くなっちゃって……」
「何それ。聞いてないんだけど」

 思わず食い気味に返す。
 すると、カーペットの上を歩き回っていた栞奈が、

「ノンノン。女子特有の深ーい話をしてたんだから、男は入ってきちゃダメよん」

 なんてよく分からない理屈をこねながら、まるで本物の猫のように、足にすり寄ってきた。いや、本物なのだけれど。
 流されるままに大和も腰をおろし、構ってやる。
 が、こうなると、目の前にいるのが栞奈なのかソルトなのか――両方正解なのだが――もう頭の中がごちゃごちゃだ。

「もー、お姉ちゃんごまかすの大変だったよぉ。『なんでデートにソルトまで連れてく必要があるの?』ってうるさくて」

 結乃が疲れ切った声を漏らす。本番はこれからだというのに、すでにかなりのエネルギーを消耗してしまっているようだ。よりによって、志歩に目をつけられるとは。

「どうやって切り抜けたの?」

 尋ねると、彼女はまた深いため息をついた。

「一回預かってもらったら、愛着が沸いちゃったみたいだからって。まだ納得してなさそうだったけど、そのまま逃げてきた」

 うちの母がそれに近い状態なので、あながち間違ってはいない。

「ところで……ほんとに来るのか?」

 ふと疑念が湧いて、無防備にさらされた白いお腹を撫で回しながら尋ねた。
 当の栞奈は、「まあまあ、そうあわてなさんな」と悠長に構えている。

 そう。このうららかな春の日、大きなアクシデントを乗り越えて心を決め、ソルトから譲り受けた命のタイムリミットを目前にした彼女は、「天国」へと昇るのだ。
 そんな彼女を見送るべく、秘密を知っている者だけがひっそり集合したというわけである。
 最近、現実離れした事柄に巻き込まれすぎて感覚が麻痺したのか、何の疑問も抱かなくなってしまった。
 栞奈によれば、太陽が最も高くなる時刻――午後一時にお迎えが来るらしい。あらためて壁の時計を確認すると、運命の時間まであと二、三分だ。

 彼女たちに続いて神様まで遅刻するんじゃないだろうな、と眉根にしわを寄せたとき、ふと、手の甲に優しさを感じる。
 顔を上げれば、和やかな笑顔があった。

「大丈夫だよ、きっと」

 ありふれた一言が、あたたかく、切なく胸の奥に沁みわたる。無意識のうちに強張っていた頬も、自然と緩んだ。

 と、それまで右手の下で気持ちよさそうに伸び縮みしていた小さな体が、とたんに動きを止めた。
 さっと視線を落とす。
 右側を下にして人間のような体勢で目をつむったソルトは、腹をわずかに起伏させ、すやすやと眠っているようだった。

 確かめ合うように結乃と顔を見合わせた、その直後。

 開け放った窓から、勢いよく風が吹き込んできた。
 カーテンが煽られる音と、凛とかわいらしい鈴のが、室内を包む。
 それらが余韻を残しつつ消えると、大和は思わずかたく閉じてしまっていた両目を、そっと開けた。

 眩い光を感じて、結乃と同時に背後を振り返る。

 目の前には、過去に再会したときと同じ、白いドレス姿の栞奈が、微笑みをたたえて、窓際に立っていた。
 そんな彼女の左肩の上で、手のひらサイズの、天使らしき男女の子供が、控えめに羽をはばたかせている。
 栞奈が静かにまぶたを閉じると、男の子の天使が、手に持った鈴を鳴らして飛び立つ。
 もうひとりの女の子も、その後に続いた。
 ふたりは無邪気なはしゃぎ声を上げながら、円を描くようにして栞奈の頭上を飛び回る。すると、その道筋に沿って、光のが降りてきた。
 さらに、女の子の天使が脇腹のあたりに回り込む。そして、片手に持った小さなスティックを、左脇と右脇でそれぞれ一回ずつ振ると――立派な白銀の翼が、栞奈の背中を彩った。
 ゆっくりと見開かれた瞳。それは、闇夜に沈む海のように黒く、穏やかに揺れていた。
 あまりの美しさと驚きに、結乃とふたりで息を呑む。

 彼女はつつましやかにその場でひざを折り、もっと寄り添うようにと、手振りで伝えてくる。
 大和と結乃は、お互いに距離を詰めた。
 次の瞬間、空へ舞い上がりそうなほど軽くやわらかな羽が、ふわりと、ふたりを包み込む。

「どう? 天使になった私は」

 ちょっと誇らしげに問いかけた栞奈に、「きれい……」と熱っぽい声を漏らす結乃。
 照れくさそうに笑った彼女は、静謐せいひつな空気の中、別れを惜しむようにじっとしていた。
 が、やがて短く息をついて、告げる。

「大丈夫。どんなに長い時間も、過ぎてみればあっという間だよ」

 自身に向けた励ましのようにも聞こえる一言を残し、羽の心地よさが離れていく。
 自分たちの背中に回されていた透き通った手が、今度は、少し後ろで眠る白猫にそっと差し伸べられた。

「ありがとね、ソルト。あなたがいなかったら、私、今頃どうなってたか分からない」

 きれいに整った毛並みをゆっくりと撫でながら、彼女は感謝の言葉を口にする。
 するとそのとき、窓枠に腰かけて様子を見守っていた天使たちが、再び鈴を鳴らした。
 栞奈は顔を上げ、じっくりとこちらを見つめると、

「じゃあ、またね」

 と陽だまりのように笑った。

「またね、栞奈ちゃん」

 結乃の声に、本当の別れが、より現実味を持って胸に迫る。でも、痛みを伴って熱くなったのは、目の奥でも鼻の奥でもなく、心だった。

「またね……栞奈」

 呼べた。
 彼女がいなくなってしまってから、ずっと呼べなかった名前を。
 最後のこの時に、ようやく呼べた。

 彼女は、いっそう笑みを深める。桜色の唇が、音もなく「ありがとう」と紡いだ気がした。

 もう一度鈴の音が響き、強い風が舞い込む。
 次に目を開けたときには、カーテンの裾が春風になびいているだけだった。
 結乃とふたりで座り込んだまま、夢から覚めたような、ふわふわとした心地に浸る。
 と、

「――」

 ふいに、控えめな鳴き声が聞こえた。視線を落とすと、いつの間に目覚めたのか、蒼い瞳がこちらを見つめている。

「おつかれさまー」

 結乃は、幼い子供に話しかけるように言ってソルトを抱き上げ、自分のひざの上に寝かせた。
 大和も少しためらいがちに、あごの下を撫でてやる。
 ソルトが、もっと撫でて、と催促するように首を持ち上げたとき、軽やかな音色が響いた。
 あの事故を境に愛用するようになったという、パステルブルーの首輪に付けられた、小さな鈴の音だ。
 その音は、先ほどまで室内に満ちていた、天使の鈴にとてもよく似ていて、胸の奥がとけるようにあたたかくなる。
 結乃はソルトの背中をさすりながら、栞奈がたった今旅立っていっただろう遠くを眺めて、呟いた。

「めずらしいこともあるんだね。大和が泣かないなんて」
「あっ、今ちょっとバカにしただろ」
「してないよ」

 ソルトを撫でながら、そんなことを言ってじゃれ合う。
 ふいに目が合い、くすぐったさに、ふたりそろって笑みをこぼした。
 そうだ。
 涙の雨に濡れる日も、怒りの風に荒れる日も、君となら、最後にはこうやって笑い合える気がする。
 彼女のにびいろの左脚が、太陽の光を受けて、眩しく輝いていた。

「……行こっか」
「へ? どこに?」

 突然の提案に、間の抜けた反応を示した結乃。
 察しの悪い彼女に、大和は嫉妬の視線を向ける。

「桜、僕だけ見てない」

 拗ねたように言うと、くすっと小さく笑われた。

「もう、しょうがないなぁ」

 彼女はそう答え、「すぐ戻るから、ちょっと待っててね」とソルトをひざからおろして立ち上がる。
 そして窓を閉め、用心深く鍵もかけた。
 きっと、もう二度と、悪夢を繰り返さないために。

「これでよしっ!」

 満足そうに言った彼女は、ふっと表情を崩し、ほっそりとした手を差し出してくる。

「ゆっくり歩いてくださいね」

 その言葉に、大和も微笑んで、「りょーかいです」と愛しいその人の手を取った。
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