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🌈Last time 君は、心の傘
幸せを噛みしめながら
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この状況は、一体。
目の前には、この数ヶ月、何度も通い詰めた病院。
そして、自分と同じようにぴんと背筋を伸ばし、隣に立っているのは――結乃のお父様だ。
その表情は、くせのある茶髪に隠されてしまっていて、よく見えない。
何だろう。この、今にも心臓がはち切れそうな、今朝食べたものを全部吐いてしまいそうな緊張感は。受験で、数名の面接官を前にしたときとは、まるで比べものにならない。
そんな気持ちをかすかに和らげてくれるのは、弱々しくもかわいらしい小鳥のさえずりと、春の香りを含んだそよ風だけ。
今日――大和たちが通う中学の卒業式の翌日は、結乃の退院日だった。
志歩に、「行くよね? お互いの親とは早めに親しくなっといたほうがいいし」と半ば脅迫的に誘われたのは数日前のこと。
本当にいいのだろうかと思いつつ、家族そろっての迎えに同行させてもらうことになった。のだが……
いざ病院に到着してみると、愛娘の帰りを誰よりも心待ちにしていたはずのお父さんが、中へ入りたがらない。
というわけで、男ふたり、こんな形で待つことになってしまったのだ。
何か喋るべきだろうか。でも、初対面でもないのに、あらたまって挨拶するのも妙だ。
「大和くん」
「はっ、はいっ!」
唐突に名前を呼ばれ、敬礼せんばかりの勢いで姿勢を正した大和。
その後――遅れて、賭けに勝ったような嬉しさが込み上げる。同時に、心の中でガッツポーズした。
実は、卒業式後の食事会で、今日の同行を聞きつけた慶太に、
「あの父ちゃんは手強いぞ。俺なんか、口利いてもらうまでに半年かかったからな」
と、さりげなくプレッシャーをかけられていたのだ。そのときは、
「いやいや、さすがに半年は盛ってるだろ」
なんて軽く流したものの、行きの車中では、本当に一言も喋ってもらえない始末。内心かなり焦っていた。
別に、こちらから積極的に話しかけたわけでもなければ、無視されていたわけでもないのだけれど。でも何となく、空気として扱われているようでならなかった。
やっと名前を呼んでくれた。第一関門は突破と考えていいだろう。
「キスは、してるのか?」
「はっ……え?」
喜んだのもつかの間、続けられた質問に、大和は言葉を失ってしまった。
頭がついていかず、ポカンとしていると、お父さんは何かを思い出したようにはっとして、「あっ、いや……」と言葉を濁す。
今、キスって言ったよな? 素直に答えたほうがいいのか? いやでも、誰にも内緒って約束だし、わざわざ掘り返さないほうがいいか。キス、キスって……
「お待たせしましたー」
そのとき、何よりも愛おしい声が耳に飛び込んできた。
思考が途切れ、大和はすっと顔を上げる。
自動ドアの前には――彼女がいた。しっかりと、自分の力で立っている、彼女が。
緩やかに風がそよぐと、少し大きめのジーンズが煽られる。その隙間から、もったいぶるように「新しい脚」が眩い光を放った。
視界が、雨に濡れたガラスのようにぼやけていく。
「ちょっと、ふたりして泣かないでよ」
結乃の一言に、ふと横を見やると、お父さんが滝のような涙を流して洟をすすっていた。
「お父さん、鼻水垂れてる。みっともないわよ」
「っていうかそれ、なんの涙?」
結乃の隣に立っているお母さんと志歩に、冷めた口調でつっこまれると、
「感動だ……!」
宣言するように声を張り上げ、なぜかこちらに視線を向けてきた。
「そうです! 感動ですっ!」
情けなく濡れた声で、とりあえず同調しておく。
すると、結乃はおかしそうに小さく笑い――一歩ずつ慎重に、こちらへ歩み寄ってくる。
志歩とお母さんは、その場を動かず、ただ静かに見守る。
そして結乃は、自分の前で立ち止まると、
「泣き虫」
包み込むように言って、やわらかな親指の腹で、そっと涙を拭ってくれた。
「かえろ?」
応える前に、ちらりとお父さんのほうを見る。そこには、あたたかな眼差しがあった。
うなずいて、そっと手を差し出せば、命を代償に守ったぬくもりが添えられる。
ふたりは互いの指を絡めると、幸せを噛みしめながら、春の始まりの道を歩いていった。
*
自宅へ帰る車中、後部座席の一番右側で、志歩は「やっぱこいつらかわいすぎ」と思いながら頬を緩めた。
相当気が張っていたのか、隣に座ったふたりは、仲良く肩を寄せ合って熟睡している。
運転席の彼は、この光景をどんな気持ちで見ているのだろう。そう思い、前の鏡に目をやる。
すると、特別険しくもないけれど、穏やかでもない。しいて言うなら悲しそうに見える。複雑な面持ちの父が映り込んでいた。
あらかじめ釘を刺しておいたが、ふたりで待っている間、大和に余計なことを訊きはしなかっただろうか。
頭の隅でそんなことを考えながら、ふと思った。
かわいいふたりが眠っているうちに、父へ一言物申しておこう。
「ねぇ、お父さん」
なんだ、と答えた声は、いつもより少し低い気がした。
「あのさ、私が慶太と付き合い始めた頃は、ガードがっちがちだったくせに、なんか、このふたりには妙に甘い気がするんですけど?」
何せ、慶太に対しては、「そうだな」の一言を引き出すまでに半年もかかったのだ。
目の前で手をつなぐなど、問答無用でNGだと思っていたのに。なんだ、あのあたたかい目は。
お前の思い込みだとか、気のせいだとか、典型的な逃げ道に走るだろうと踏んでいたが、その返答は意外なものだった。
「大和くんは……気の知れない輩じゃないからな」
なんとまあ。そんな、どこぞの暴力団を指すような言い方をしなくても。当時、慶太は父の中でそれと同類だったということか。
思わず、ドンマイと我が恋人の肩を叩いてやりたくなった。
ちなみに、父自身が二十二歳のとき、まだ高校生だった母に猛アタックした過去があるので、歳の差については何も口出しできない――というのは、母から聞いた情報だ。
「じゃあもし、このまま結婚するって言い出したら?」
何だかつまらなくて、究極の質問をしてみる。
「バカ言うんじゃない」
今度は見事に釣れた。
「分かんないでしょ? そんなの。特に結乃なんてずっと大和一筋なんだから、案外あっさりゴールイン――」
「しーほ、あんまりいじめないの」
助手席の母からストップがかかったので、志歩は渋々、「はぁい……」と口を閉ざした。
隣のふたりに視線を戻す。
穏やかな寝顔。お互いを支え合うように触れている肩。
彼らの姿に、幸せの意味を教えられている気がした。
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