最期の時まで、君のそばにいたいから

雨ノ川からもも

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💧Life2 蒼きジレンマ

「私のために生きてよ……」

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 *

 次に気がついたときには、辺りはしんと薄暗くなっていて、窓を覆う厚いカーテン越しに、日暮れの気配を感じた。
 壁の時計は、午後三時半過ぎを指している。今度はおやつの時間だとでもいうのか。規則正しさを通り越して、お節介な体だ。
 目覚めて最初に視線がいったのは、やはり枕もとのスマホだった。
 早朝から、すでに二回。考えようによっては、ストーカーの域に片足を突っ込んでいるかもしれない。
 だけど、最後にもう一度だけ。
 この一回がつながらなかったら、今日は本当に諦めよう。何せ緊急事態なのだ。他人にかまっている余裕などないのだ。
 そう自分に言い聞かせながら、寝転んだままスマホを手にして操作し、通話ボタンをタップした。
 情のかけらもないアナウンスに変わらないことを祈りながら、重なるコールを数える。
 一、二、三、四……
 もはや絶望的かという思いが胸をかすめたとき、
『――もしもし』
 小さな奇跡に歓喜して、
「純さん……」
『すみません。丈じゃなくて……』
 ほんのちょっぴり落胆して、
「あっ、あのっ! 丈は? 丈は大丈夫なんですか!? 意識は――」
 すぐさま焦燥感が沸き上がった。
『落ち着いて。大丈夫です。意識は搬送されたときからしっかりしてますし、普通に会話もできます。状態もだいぶよくなってきました。体が弱ってたせいか、飲んでる薬の副作用が出ちゃったみたいで』
 その言葉に、様々な負の感情に凍てついていた心が、すーっとほぐれていく。
「……丈に、代わってもらえませんか?」
 無理を承知で願い出た。
『えっ、でも今あいつ、一応集中治療室にいて……』
 純もさすがに難色を示す。それでも引き下がれなかった。
「五分だけでいいんです。責任なら私が取ります」
 一瞬でもいい。ふたりで話したい。話して、伝えたい。伝えられるうちに、全部。
『……分かりました』
 熱意に押されたのか、渋々承諾してくれた。
「ありがとう、ございます……」
 苦しく脈打つ胸もとを握りしめながら、礼を述べ、心の準備をする。
 ややあって、耳にかすかな雑音が届いた。
『……何?』
 それを破ったのは、恐ろしいほどに低く、とげとげしい声だった。
 いつもひらがなを連想させる、人懐こさもあたたかみもまるで感じられない、漢字の「何?」――たった、それだけ。
「ねぇ――ねぇ丈。やっぱり死ぬの?」
 緊張のせいか、乾いた唇で紡いだ言葉は、自分でも思いがけないものだった。
「やっぱり、あんなふうに、死んでいくつもりなの……?」
 違う。違う。言わなきゃいけないのは、こんなことじゃないのに。大丈夫? って、まずはそこから始めようと思っていたのに。
「あんな、血だらけになって……」
 脳裏に描きだされるのは、黒ずんでいるのに鮮明な赤。荒れたベッド。――その上で背中を丸めて、苦しげにあえぐ彼。
『そうだね』
 彼の返答は、どこまでも淡白だ。
「嫌……」
 呼吸は乱れ、手は震える。
 同じだった。いつか、純にすべてを打ち明けられたときと。昨日の夕方、惨状に取り残されたときと。
「嫌だよ、丈……」
 何が腹を括るだ。何がとことん向き合うだ。
 私はまだ、何も変わっていない。なんの覚悟も、できていやしない。
「私のために生きてよ……」
 たまらず、歯の浮くような台詞をかすれた声で呟いたとき、スマホを隔ててつながるふたりの空気が、かすかに揺らいだ気がした。
 長い静寂に、包まれる。
『――なんだよ、それ』
 しかし、彼の反応は思った以上に辛辣だった。
『唯一の家族すら置いていこうとしてるのに、赤の他人のためになんか、生きられるわけないじゃん』
 もっともな指摘に、口をつぐむしかなくなる。
『じゃあ、そろそろ五分だから』
 実に事務的な一言を最後に、通話は一方的に切られた。
 上の空で、スマホを持ったままの右手を、おろす。
 涙が、あふれた。
 今この瞬間までずっとこらえていたことに、初めて気がついた。
「っ……」
 拭っても拭っても、止まらない。
 どこかで期待していたのだ。
 どんなときも、彼は結局優しいから、怖い思いをさせて悪かったと、もうどこへもいかないと、そんな甘い言葉でなぐさめてくれるんじゃないかって。
 今まさに沈みかけている、熱い夕陽とは少し違う。レースカーテンの隙間から差し込む朝日のように、いつも一歩引いて寄り添いながら、周囲を明るく照らしだす。
 そんなふうにあたたかな彼でも、死に限っては信じられないほど冷徹になるということを、いつの間にか忘れていたのだ。
 寂しくて不甲斐なくて、ただ、ひたすらに泣くことしかできなかった。

 *

 無言でスマホを突き返す。
「あーあ。いいのか? あんな突き放し方しちゃって。まだ五分経ってないし」
 受け取った兄の声には、挑発と呆れの色が滲んでいた。
「うるさいな。いいから早くしまえって」
 つっけんどんに言いながら、丈は出入り口側にいる兄に背を向けて、ベッドに横たわった。
「だいたい、なんで俺のスマホ持ってんのさ……」
「あのとき、血まみれのベッドに放置されてたから、壊れちゃいけないと思って、とっさにジーンズのポケットに突っ込んだんだ。すっかり忘れてたけど」
 個室で、今は無事に心電図も取れて、点滴以外の医療用具をつけていないとはいえ、仮にも集中治療室だ。無断使用がバレたら、ただでは済まされないだろう。
「昨日から着替えてないのかよ。汚い」
 まぁ、全部自分のせいだけれど。
「好きな女の子を泣かせるような男は、最低だぞ?」
 ――本当に、うるさい。
「そういう少女漫画みたいな思想は口に出さないほうがモテると思いますよお兄さん」
 ひと息に言って茶化すと、兄は微笑交じりに「否定、しないんだな」と呟いた。
 なんのことだかさっぱりわからない。ほんとうに、まったくもって。
「っていうか、泣かないでしょ? あまねのことだし」
 むしろ泣きたいのはこっちのほうだ。
 そう思いながら、窓の外を眺めた。
 初冬の青空は、西日の橙を受け入れ始めても、なんだか鼻につくくらい凛としている。外気に触れたら、肌がヒリヒリしそうだ。
 叶うものなら、今すぐにだって飛んでいきたい。こんな心苦しいことに巻き込んでごめんと、床に手をついてでも謝りたい。
 悲しさや寂しさに震えているのなら、そばに寄り添ってあたためてあげたい。
 だけど、できないから、ああするしかなかった。
 やっぱり近づくべきじゃなかった。せめてもっと早くに距離を置くべきだった。
 もうどう転がっても、傷をえぐるだけだ。
「お前、ほんとに後悔しない……?」
 背中で聞こえた、独り言のような問いかけ。
 最近の兄は、容赦ない。
 三十分ほど前に目覚めたとき、最初に目に入ったのは、兄の泣き顔だった。家族が死んで間もない頃によく見たそれとはまた異なる、ほっと安堵した泣き顔。
 別に意識不明になったわけでもなんでもないのだけれど、病院に到着するなりストレッチャーの上でもう一度吐き、ぐったりしたまま諸々の検査。その後、集中治療室のベッドへ移り、着替えて点滴やら投薬やらを受けて体が楽になると、昨夜からの寝不足を取り戻すようにすーっと眠り込んでしまったのだ。
 大量出血からの集中治療室だし、心電図なんて大袈裟なものはつけられているし、二十四時間近く経っても目覚めないしで、医師から薬の副作用だとの検査結果を伝えられた後もなお、もしかしたらもうこのまま……と不安になっていたらしい。
 そんな彼に「なに泣いてんだよ。言ったじゃん、まだ死なないって」と笑いかけて心電図をむしり取り、「おしっこ漏れるぅ」とおどけながら病室の外にあるトイレへ駈け込めるくらいには、体力は回復している。
 今や、一番近くにいる彼ですら、この頑なな死生観を受け止めようとしてくれているけれど。
「――後悔するだけ、無駄だよ」
 死ぬのは怖くない。でもきっと、自分がやろうとしていることは、尊厳死なんて大層なものじゃない。
 ――私のために生きてよ。
 大切な人からの、青臭くて切実な一言だけで、こんなにも揺さぶられてしまうのだから。
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