最期の時まで、君のそばにいたいから

雨ノ川からもも

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💧 Life3 ふたりのかたち

「だって、こんなにかわいいんだもん」

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 *

 大袈裟じゃなく、生きた天使だと思う。
 丈は、お昼寝布団の中ですやすやと眠る無垢な我が子に、だらしなく頬を緩めた。
 丈譲りの茶色がかった髪に、あまね譲りのどこか涼やかな目もと。
 灯すに希望の希と書いて、ともと名付けた。
 僕らの人生に、希望の光を灯してくれたこと。そしてこれからも、そういう存在であり続けてくれるように、と。
 時が過ぎるのは、あっという間だ。ついこの前まで、あまねの食べづわり問題に悩まされていたはずなのに、気づけば息子にメロメロの日々。赤ちゃんの成長もこれまた早いもので、先日生後三ヶ月になった。
 きっと、こうやって寝顔に癒されたり、把握反射で指をぎゅっとされて、あまりのかわいさにとろけそうになったりするのも、今のうちだけ。超期間限定なんだろうな。
 まだ新米中の新米パパのくせに、一丁前にそんなことを考えてしまい、少しばかり切なくなっていると、
「ただいまー」
 玄関のほうから、耳馴染みのある声が聞こえた。
 午後五時前。ママのお帰りだ。
 あまねは、ゆったりとした足取りで部屋までやってきて、開け放たれた出入り口からひょっこり顔を覗かせると、もう一度「ただいま」と言った。
「おかえり」
 丈の返答にも、やわらかく微笑む。そして灯希のほうへ歩み寄ってひざを折り、ふっと愛おしげに目を細めた。
「今日もいい子だった?」
「うん。相変わらずよく寝るよ」
 夫婦ふたりでとりとめもない一言を交わしたのち、しばしの間、何をするでもなく、灯希の寝顔を眺めていたが、
「……っ」
 ふいに、あまねがこめかみのあたりを押さえて、顔をしかめた。
「どうかした……?」
 訝しげに思いながら声をかけると、
「ううん、なんでもない。ちょっと頭痛いだけ」
 こめかみから手を離さずに答える。
 彼女は灯希が生後二ヶ月になり、また自身も二十歳を迎えたタイミングで、仕事を派遣の事務に切りかえた。
 子供ができて出費も増えたから、さすがにバイトだけで生計を立てるのはきつい。かといって万が一、丈が体調を崩して、今の生活パターンが乱れたときのことを考えると、正社員も厳しかった。
 このところはがらりと環境が変わったせいか、以前にも増して疲れがたまっているようだ。
「さて、トモが起きる前に、夕飯済ませちゃわないとね」
 気を取り直すように言ってすっと立ち上がり、リビングダイニングへ向かうあまねの背中は、なんだかとても小さく感じた。

 柵の片側だけを外して、ダブルベッドとくっつける形で置いているベビーベッドから、今夜も最初の泣き声が上がった。
 普段はめったにぐずることもなく「おりこうさん」な灯希だが、夜ばかりはそう都合よくもいかない。一、二時間おきに目覚めては泣き、そのたび授乳しないと絶対に寝てくれないのだ。
 もちろん丈も一緒に起きるが、あやしながら、まだ完全にすわりきらない首を支えてやるくらいしか、することがない。
 男はここでも無力だ。うっかりそんな本音を口にしたら「それを無力とは言わない」とあまねに叱られそうなものだけれど。
 今日も今日とて、ベビーベッド側に寝ていたあまねが体を起こし「あー、分かった分かった、おなかすいたねぇ。よしよし」となだめながら抱き上げて、授乳の姿勢を整える。すると、ぴたりと泣きやみ、無我夢中で飲み始めた。
 優しく清らかな瞳で我が子を見つめる、あまね。
 しかしそんな彼女の横顔には、やはり暗く重たい影が差しているように見えた。夜の闇のせいばかりではないのだろう。
「ねぇ、ほんとに大丈夫? なんか夕方からずっと顔色悪いけど」
 灯希の頭に手を添えながら、心配になって尋ねると、
「あぁ……うん。頭痛薬飲んだんだけど、あんまり効いてないみたいで」
 彼女は困ったように苦笑する。
 言われてみれば食後に錠剤を服用していたな、と思い出しつつ「辛いなら今日はミルクにしようか?」と提案してみたが、これにはやんわり首を横に振った。
「昼間、家にいないんだし、こんなときくらい甘えさせてあげないと」
 たしかに、環境面や衛生面を考慮して、日中は基本的にミルクだ。
 乳房の張りを感じて搾乳し、冷凍保存しておくこともあるけれど、いつもじゃない。となると、灯希が新鮮な母乳にありつけるのは、この夜間帯から朝にかけてのみである。
 どうやらそこに負い目を感じているらしく、彼女はどんなに疲れて帰ってこようと、夜中に何度起こされようと、文句ひとつこぼさない。
「私なんて、楽させてもらってるほうだと思うよ? 家のことは、ほとんど丈に任せっきりなんだから」
「そんなこと。よそのうちと立場が逆転してるだけで、負担は一緒だろ?」
 それに男は、仕事から帰ってきた後、深夜に数時間おきの授乳を課せられるなんて、ありえない。
 そう言うが、あまねは何も答えず「私ね」と呟いた。
「産まれるまでちょっと不安だったんだ。自分の母親はろくでなしでちっちゃい頃に離れちゃったから、母親像なんてないに等しかったし、愛されてこなかった私が――ううん、本当は愛されてたのかもしれないけど、それに気づけなかった私が、この子をちゃんと愛せるのかなって」
 母乳を吸ったまま、ウトウトとまどろみ始めた息子の髪をそっと撫でながら、彼女は言う。――でも、きっと大丈夫だよね、と。
「だって、こんなにかわいいんだもん」
 微笑み交じりのその一言を聞いたら、もう何も返せなくなってしまった。
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