最期の時まで、君のそばにいたいから

雨ノ川からもも

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💧 Life3 ふたりのかたち

全部、お見通しみたいだ

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 *

「三十七度七分……だいぶ下がったな」
 父の言葉に、あまねは、ふぅ、と安堵の息をつく。
 救急搬送された日、点滴を終えると、医師からは念のため一晩入院してはどうかと提案されたが、断って実家で静養することを選んだ。
 できるなら家族のそばにいたかったけれど、いくら免疫を引き継いでいるとはいえ、灯希がいては何かと気が休まらないだろうし、丈に移ってはもっと厄介だ。
 まさかこんな理由で、実家が徒歩で行ける距離にあるありがたみを実感することになるとは。
 そんなこんなで実家に戻った後は、水分補給したのをきっかけに、一度落ち着いたはずの吐き気が夕方からぶり返して地獄を見たが、翌日には無事おさまり、さらにその翌日である今日は体温が三十七度台まで下がった。
 冷却シートや氷枕ともおさらばできたし、このぶんなら、明日あたりには自宅へ帰れるかもしれない。
「こんなにまともに風邪ひいたの、いつぶりだっけ……?」
 布団に横たわって天井を眺めながら、ぼんやりと呟く。
 二階の自室はそのままにしてあるが、昨日まで階段をのぼることはおろか、トイレに行くのも這いつくばるような状態だったので、以前何度かそうしたように、リビングに布団を敷いて寝ている。
 風邪の感覚なんて、久しく忘れていた。
 悪寒はひどいし、下すまではいかないもののお腹はシクシクするし、胃に何か入れると必ず気持ち悪くなる。けれど脱水対策のため水分補給をしないわけにもいかず、飲んでは吐き、飲んでは吐きながら、丈もダウンしたときはこんなに苦しいんだろうか……今度からもっと優しくしてあげよう……などと朦朧とした頭で考え、恋しさに幾度も泣きたくなった。
「――四年」
「えっ?」
 父の思わぬ一言に、あまねは素っ頓狂な声を上げた。先ほどの呟きに対する返答だろう。そんなこと、覚えているのか。
「保育園、小中高全部、入学してから一ヶ月くらい経つと、いつも狙ったみたいに高熱出すんだよな。保育園のときはクラス替えのたびだったか。しかも絶対胃腸炎だから、毎回ゲロゲロだし。ったく、汚いったらありゃしねぇ」
 父は一気に捲し立てると、心底迷惑そうに嘆息した。
「お前は環境の変化に弱すぎるんだよ。社会人なってちったぁマシんなったかと思ったら、こんな中途半端な時期にぶっ倒れやがって」
 疲労困憊で寝込んでいる娘に向かってその言い草はあんまりだろうと、思わずねめつける。
「悪かったわね、豆腐メンタルで。そんなこと言うんだったら、お父さんがトモの面倒見てくれればいいじゃない」
 口走ってから、どう頑張っても無理だろうな、と苦笑した。
「やなこった。あんな泣いてばっかのちっこいもん、手に負えるかっての」
 即行拒否である、
 どうやら当の本人も、抱っこする間もなく初対面でギャン泣きされたことを、いまだに根に持っているらしい。
 あの子の人見知りが早いのは、ひょっとしなくても父のせいなんじゃないかしら、とあまねも密かに思っている。
「ひどいなぁ。赤ちゃんは泣くのが仕事でしょう? それに、あなたも人の父親なんだから」
「お前はあんなに泣かなかったぞ?」
「何それ。ある意味問題じゃない?」
 指摘すると、父は「知るか」と吐き捨てた。
「――とにかく、今度は倒れる前に頼れよ」
「『いつまでもあると思うな親と金』って言ってたじゃん」
「あれは、まだ若造だからって甘ったれて必要以上にスネをかじるなって意味だ。しんどいときに助けてやらんとは誰も言ってない」
「トモの面倒見られないのに、そう言われてもねぇ」
 女親がいればよかった、と思うのはこういうときだ。いたところで、あの人が真面目に孫の世話をしてくれる保証もなさそうだけれど。
「ったく、お前な……」
 やいのやいの言い合っていると、今日も玄関のチャイムが鳴った。

 *

 リビングを覗くと、あまねはひとり、布団から体を起こしていた。
「やっほー。母乳もらいにきた」
 ほっとして、丈の声も自然と明るくなる。
 聞けば、今日の分はすでに冷凍庫に保存済みだという。さすがは仕事が早い。
「どう? 昨日はちゃんと寝てくれた?」
 それよりも、と言った口調で訊かれ、丈は笑顔でうなずいて、彼女の傍らに腰をおろした。
「ものは試しと思って、おしゃぶりに母乳つけてくわえさせてみたら、朝方までぐっすり」
 あまねが倒れた初日の夜は、授乳がいつも通りにいかないゆえに、一苦労だった。
 普段から混合なのでミルクを嫌がるようなことはないのだけれど、たいていは眠りにつく前に飲み干して、それでまた泣く。
 こうなってみて初めて分かったことだが、要はお腹が空いたというよりも、口にくわえて安心できる何かを探し求めている感じだった。
 今までは授乳したまま寝入って、ゲップもさせず横向きに――なんてこともよくあったので、いつの間にか癖になっていたようだ。
 とはいえ、哺乳瓶は乳房のように満足いくまで出続けてくれるわけではないし、まどろむのを待って繰り返せば、確実に飲ませすぎてしまう。
 買ったきり嫌がって一度もろくに吸ったことがないおしゃぶりをダメもとで与えてみたが、案の定NG。
 やむを得ず、その夜はミルクも諦め、毎回泣き疲れて眠るまであやしたが、こんなことをしていてはお互いに体力が持たない。
 そこで翌日――昨日の夕方に急遽あまねのもとを訪れて母乳を搾ってもらい、夜中に解凍しておしゃぶりの先につけてみたところ、意外にも効果絶大だった。
 母乳とおしゃぶりで、疑似乳房の作成に成功した、ということだろうか。
 もちろん熟睡させられたとはいえ、こういう特殊な事情でもない限りまだ完全に夜間授乳をやめるわけにはいかないだろうが、数時間おきの夜泣きが空腹ではなく口寂しさからくるものだったとすれば、これで少しは間隔が長くなったりするかもしれない。もう倒れられるのはごめんだ。
 何も言わず事の顛末に耳を傾けていたあまねは「すごい。私よりママしてる」なんてくすりと笑った。その笑みに、また安心感が込み上げてくる。
「だいぶ楽になったみたいだね」
 すると、彼女も静かに微笑んだ。
 昨日は吐き気こそおさまっていたが、まだ高熱があったし、よほど心細かったのか顔を見た瞬間に「じょう……丈だぁ……!」と子供みたいに泣きだすし、搾乳のために起き上がるのも辛そうだった。
 いやはやどうなることかと思ったが、今日は熱も順調に下がっているらしく、顔色もずいぶんとよくなっている。
「正直、初日の夜は、冗談抜きで死ぬんじゃないかと思ったけどね」
「いやん。怖いこと言わないでぇ、あまねさん」
 縁起でもない言葉に、とっさにおどけてみせたが、
「だって、あんたがいないから」
 不意打ちの一言と存外真面目な表情に、危うく骨抜きにされるところだった。
 きた。あまねの無自覚ド直球攻撃。
「少なくとも、お産のときよりはきつかった」
 ――参ったな。今、キス厳禁なのに。
 もどかしさでうずうずしながら彼女の横顔を見つめていると、ふいにきょとんとこちらを振り返り「そういえばあんた、なんか今日、声変じゃない?」と呟いた。
「あ、やっぱ分かる?」
 糸が切れる前に話がそれてくれたので、
「実は久々に熱あるんですよねー」
 そう言って、唇の代わりに額を重ね合わせる。
「うそ。何度?」
「七度五分、くらい……?」
 度重なる非常事態についに音を上げたのか、愛する人がそばにいない寂しさからか、今朝は本当に久しぶりに微熱が出た。発熱を伴う不調は、あまねの妊娠が分かったとき以来のような気がする。
 おかげで心なしか鼻声だし、マスクは二重の始末だ。息苦しい上に耳が痛くなるリスクが倍増だが、背に腹はかえられない。
「私と変わんないじゃん……」
 呆れたように苦笑する姿すら、かわいい。
 マスクをしていなかったら、今度こそ自制できなかったかもしれない。
 いつか彼女は言った。過去はきらきらして見えると。
 きっとどんな瞬間も、後から思い返せば人並みに幸せなはずなのだけれど、皆、そのときには気づけないのだ。生きることに、必死すぎて。
 だから、今こうして幸せに満たされている自分は、この上なく幸福ということなのだろう。
 困ったものだ。大事なものなんて、絶対に作らないつもりだったのに。まぁそんなの、彼女に惚れた時点で負けたも同然か。
「そんなわけだから、僕がいつダウンしてもいいように、早く帰ってきてよね。連絡くれれば、飛んで迎えにくるからさ。トモと一緒に」
「こら、病み上がりをアテにしないのっ」
 小さくむくれてみせた彼女の頭をくしゃくしゃっと撫で、腰を上げようとしたとき――ふっと、額にやわらかな優しさが触れた。
 やっぱり全部、お見通しみたいだ。
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