司祭の国の変な仲間たち2

へすこ(ひしご)

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第二十三章

澄清(ちょうせい)の露

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 激しい雨粒が矢のように窓に打ち付けられていく。
 前の日から前兆があったのは分かっていたが、まさかここまで荒れ放題になってしまうとは思わなかった。
 雨と共に強過ぎる風も吹き荒び、アストレーゼン全体が暗く澱んだ天候になっている。
「荒れてるねぇ」
 陰鬱とした天気とは真逆の晴れやかな表情で、シャンクレイスの第三王子サキトはウキウキした口調で言う。
 彼らは早朝から故郷に向けて出立する予定を組んでいたが、流石にこの悪天候では危険性が高いと急遽発つのを取りやめる事に決定したので上機嫌の様子だ。
 申し訳無さそうなイルマリネと違い、サキトは非常に嬉しそうにロシュの部屋に入り浸っている。
「嬉しそうですね」
 ベッドの中で座っているのも飽きてきたらしいリシェは、軽く体を伸ばしながら目の前で転がっているサキトに声を掛けた。
 完全に緊張感も解れてきたのだろう。まるで自分の部屋にでも居るかのようにごろごろと転がりながら「そりゃそうだよぉ」と微笑んでいた。
 彼の腕にはリシェが愛用しているクマのぬいぐるみが収まっている。非常に抱き心地が良いらしく、彼は司聖の塔に居る間ずっと抱き締めていた。
「だってまだここに居られるんだもの。まだアストレーゼンの大聖堂の中ですら散策してなかったのにさぁ」
「あまり見てなかったんですか?」
「イルマリネが許してくれないんだよ。許してくれたとしてもたった一時間位しか許してくれないんだよ?そんなに少ない時間で全部回れる訳ないじゃない…」
「はぁ…」
 全て見て回る気だったのか、とリシェがぼんやりと天井を眺めていたその時、部屋の扉がノックされた。
 仕事中のロシュが「はぁい」と呑気な声で返事をすると、ゆっくりと厚さのある扉はゆっくりと開かれる。
「おや」
「…あぁ、本当にこの階段は嫌だ…」
 ぐったりした様子の司聖補佐が書類や書物を抱えて姿を見せた。
 普段は上がる手間を嫌い魔法で階上まで飛んでくるので、螺旋階段を使い自力で登ってくる感覚を忘れていたようだ。この悪天候の為、外からここまで来るのを断念した模様。
 彼は仕事が始まる前から完全に憔悴しきっていた。
「おはようございます、オーギュ。随分とお疲れですね」
「この塔のせいですよ…」
 昔からあるものに文句を付けたくは無いが、恨み節を言いたくもなる。だが雨に晒されて全身ずぶ濡れになるのも御免だ。
「おはよう、オーギュ殿」
「サキト様。いらっしゃったのですね」
「ふふ…もうちょっとお邪魔させて貰うよ。僕個人では、この天気の悪さに感謝してるけどね」
「ああ…そうだ。その事なのですがちょっとサキト様のお耳に入れたい事がございまして」
 オーギュはそう言いながら手荷物をテーブルに置く。
「なぁに?」
「国境付近の橋に問題がございまして…もしかして、こちらに来られる際に利用していた場所ではないかとイルマリネ殿にお伺いしました。やはり、帰還の際にも該当する橋を通過するご予定だとか。天候が落ち着き次第剣士達を派遣して、地元の職人を手配した上で修繕作業に入らせて貰います。その間、窮屈かとは思いますがこちらに滞在して頂ければと」
 申し訳無さそうに説明し終えたオーギュを前に、ぬいぐるみを抱えたままのサキトは目を輝かせていた。
「こちらの不手際が続いて大変申し訳ありませんが…って、サキト様…?如何されましたか?」
 彼の様子が変な事に気付き、オーギュは不思議そうな面持ちで問う。
「やったぁああああ」
「え?」
「だって、まだここに居られるんでしょ?んふふ、嬉しい…まだアストレーゼンでゆっくり出来るじゃない!」
 そういう意味か。
 子供らしい喜び方を剥き出しにするサキトに、つい笑みを浮かべるオーギュ。だが予定がかなりズレ込む可能性もあるが、シャンクレイス側は大丈夫なのだろうか。
 アストレーゼンを大層気に入ってくれたのはとても有難い事だが。
「スケジュールは大丈夫ですか?」
「問題無いよ。僕は特別な行事が無い限り、父様よりは遥かに自由なんだ」
「それなら良かった」
「橋の修繕工事をするとなれば、まだしばらくはお世話になるって事だよね?んふふ、それなら雨が上がった頃に少し行ってみたい場所があるんだぁ」
 サキトはぬいぐるみを抱き締めたままベッドからひょいっと降り、室内を徘徊し始める。
 無言のリシェは彼の動きに合わせ、目線を移動させていた。
 良く動き回る人だ…と思いながら。
「大聖堂の近くに有名な水があるんでしょ?雨上がりにしか湧かない特殊な水…確か、ちょう…せいのつゆだっけ?…うん、澄清の露か。アストレーゼンはあまり雨が降らないって聞いてたからさ…滞在する間も晴れてるんだろうなって諦めてたんだよね」
 久しぶりに耳にした名前。
 城下街の外れに位置する廃教会の敷地内に、大柄な大人が手を広げた位の大きさを誇る透明な石が安置されている。
 それは何の変哲も無いただの巨石だった。しかし教会から溢れ出る魔力に巻かれた為なのか、周囲を取り巻く精霊達の悪戯のせいなのか現在でも原因は判明していないが、一定の雨水を含んだ翌日には大層美味だと言われる純水がそこから溢れ出すという。
 その甘露な水は雨が上がるとその都度回収され、大聖堂で聖水の材料としても利用されている。その不思議な石も廃教会と同様に、大聖堂の保護下で厳重に管理されていた。
「おや…まさかサキト様からその言葉が出てくるなんて。何故そこの水が気になるのですか?」
「飲んでみたいっていうのもあるけど、どの位湧くのかな?…ええっとね、ボトルに入れて持ち帰って…飴を作って食べてみたいの」
「飴…」
「だって、普通に飲めるんでしょ?」
 聖水や飲水には使えるが、飴を作るという発想は無かった。
 オーギュはロシュにちらりと目配せする。
「まあ、飲めない事は無いと思いますけど…私の家の敷地内にも似たような系統の水が沸きますからねぇ」
「湧水があるって…ロシュ様のお屋敷って、どんなお家なの?」
「ふふ…たまたまの産物ですよ。気付け薬には丁度有難いですけどね」
 大聖堂から近ければ案内も出来ただろうが、流石に実家があるラントイエ地区は行きにくい距離だ。それならば近場を案内した方がいい。
 ロシュはオーギュに「解放出来る状況でしょうかね?」と問う。
「そうですね…足場は常に悪いとは思いますけど」
 万一転倒し、サキトの大切な服が汚れたりはしないだろうかと不安がある。あの周辺の道は廃教会の敷地内に侵入者が寄り付かぬよう、敢えて悪路のままにしている状態だった。それでも良ければ構いませんがねと答える。
 サキトは目を輝かせたままで「本当!?」と期待に満ちた声を上げた。相当興味があったようだ。
「じゃあボトルを新調しないとね」
「ボトルですか」
「本当は城下街に行きたいんだけど…」
 あちこち移動出来ないのも困りものだ。
 本人が良くても、周囲がそうさせてくれない。サキトは抱き締めているクマのぬいぐるみに軽く顔を埋めて溜息を吐いた。クマはサキトの重みに合わせて軽く凹んでいく。
「良かったら、俺が行ってきましょうか?ボトルを買いに」
「リシェが?」
 リシェはこくりと頷く。ずっとベッドに張り付いているのも辛いから、と言うとロシュの方に顔を向けた。
「宜しいでしょうか、ロシュ様?」
 彼の申し出に、あまり無理をさせたくないロシュはちょっと困った表情を見せるが、買い物位ならば大丈夫だろうと判断してこくりと頷いた。処置も早かった上に魔法の効果もあり、傷口は完全に塞がっている。毒気も完全に無くなっているはずだ。
 ただ、大怪我を負った後なので、彼の保護者としては不安がある。
 しかし、剣士である彼にはリハビリも必要だろう。退屈している状態なのに、動いてはいけませんとベッドに張り付かせているのも酷だ。
「あまり無理はしないようにして下さいね」
「はい。ありがとうございます、ロシュ様」
「じゃあさ、会ったらでいいからスティレンに水汲みに連れていってあげるって伝えておいてくれない?」
「水汲み…」
 …正直言って、あまりにもつまらない理由で連れ出されるのは如何なものだろうか。
 こちらに見舞いに来た際に、彼は我儘王子のお世話なんてもう勘弁して欲しいと吐き捨てていたのを記憶している。サキトが指名すれば結局従わざるを得ない気もするが、スティレンはもう関わりたくないらしい。
 リシェはううんと唸ると、「分かりました」とだけ返した。
「ただ素直に従うかどうかは保証出来ませんけど…」
「ふふ、僕もそう思うよ」
 一緒に居たほんの数日の間に、サキトもスティレンの特殊な性格に順応したようだ。他の人間ならその自意識過剰っぷりに嫌気が差してくるだろうに、サキトの場合はむしろ彼で楽しんでいる所があった。
 お付きの護衛を自ら望んだくせに、役目を果たした瞬間もうやりたくないと心底嫌がっているスティレンを彼は大層気に入ったらしい。
 あんな性質の子なんて見た事が無いよ、と何故か嬉しそうに言う位。
「…ええっと。あのスティレンのどこがそんなに気に入ったんですか?」
「んん?どこがって…素直な所かなぁ。あの子、今まで何の苦労も無く生きてきたでしょ」
 誰よりも周囲から一番大切にされているサキトが言うのもどうかとは思うが。
 リシェは「はぁ」とやや気の無い返しをする。
「思い通りにならないと怒るタイプだからね、あの子。僕が何かしら用事を申し付けたら物凄く嫌そうな顔をして拒否するのさ。面白いじゃない?僕に反論する人なんて今まで居なかったからねぇ」
 その口振りは怒ってはいないようだが、リシェは内心ハラハラしていた。
 故郷であるシャンクレイスの王子にまで自分の気持ちを徹底しているとは思いもしなかったのだ。あまりにも我を通し過る余り、彼の実家の方に影響が無ければいいのだが。
「凄く無礼な事をしてるのでは…」
「ううん、僕も面白いからどうでもいいような用事を申し付けてるの。相手が嫌がるのを知った上で、無理にやらせるのが好きだからさ」
「………」
 何だかお互い様のような気がしてきた。
 スティレンもどうかと思うが、彼もどこか変わっている。
 リシェは着替えてきます、とサキトに告げた後でロシュとオーギュにも同じように報告した。
「天気の回復も遅いので雨具をちゃんと羽織るのですよ。それと…一応護身用の武器も持った方がいい。こういった空が暗い日は物騒な事件に巻き込まれてしまう場合がある」
「はい。任務用の外套も新調してあるので大丈夫です。武器は…剣を振るうのもまだ不安なので杖を持って行きます」
 オーギュとリシェの会話に、サキトは「へえ」と意外そうに声を上げた。
「杖も扱えるんだ?」
「一応…でも魔法に関してはまだ初心者です」
「凄いねぇ、剣と杖を一緒に使えるなんて」
「片方を鍛えるともう片方がおざなりになりそうな気がして…両方を同じく鍛えるのは難しいですよ」
 ロシュを守る為になるのなら、しっかりと両立出来るようになりたい。
 ただ今は、怪我の完全回復を待つしかなかった。
「では行ってきます。…あ」
「なあに?」
「ボトルは一本で良いのですか?」
 肝心な事が抜けていた。
 手に持てるタイプが良いのか、それとも余裕を持って大きめのボトルが良いのか。買い出しの際に悩む所だった。
 サキトはそうだねぇと考えた末、リシェに微笑む。
「あまり大きくなくて良いよ。ちょうど抱えられる位かな?大きいと持ち帰るにも大変でしょ?」
「分かりました」
 リシェはこくりと頷き承諾した。
 空の水汲み用の容器ならば、雑貨屋でも取り扱ってくれているはず。なるべく大聖堂に近い店舗を見つけよう。
 外は変わらず荒れた天気で、雨も止む気配すら無い。
「では、一旦失礼します」
 気をつけてねぇ…と呑気なサキトの声を背にしながら、リシェは司聖の部屋を後にした。

 休暇で宮廷剣士の服を着用するのもどうなのか…と悩んだ末に厚みのある雨避けの外套を羽織る。その下は私服のままで、ベルトの腰部分に杖を仕込み、万全な状態で塔から出た。
 流石に暴漢に襲われるなどというのは無いだろうが、一応防犯の為に持ち出していた。
 剣を持ち歩くよりは、まだ物騒では無いはずだ。
 杖を収納する為に作られた専用のホルダーは、ヴェスカの実家の工房から特別に貰った一点物で、小振りの杖をしっかりと押さえてくれる。革細工なので使い込む毎に持ち味が出てくるだろう。
 しばらくベッドから抜けられなかったので、外の景色が新鮮に見えた。この悪天候の状態なので来客は少なく、ちらほらと見えるのは大聖堂の職員が大半。さすがに荒れてもこちらに足を運びたいという変わり者は少数派のようだ。
 塔から中心部へと続く道を通り、湿った空気が漂う中庭へと進んで行く。中庭の天井部分は外への吹き抜けがある為、それを塞ぐ板も用意されているが、やはりぼたぼたと水滴が零れ落ちているのが見える。
 古くからの建物に加え、どちらかといえば晴れの天候が多いアストレーゼンの人々は稀に大雨が降り続くという概念も抜けているのだろうか。緊急用とはいえ、窓を取り付けるにも簡易用の木の板程度では賄える訳がなかった。
 大聖堂の改装工事の計画も進行中だとは耳にするが、今度はちゃんと窓を付けて欲しいと思う。
 屋根や外を激しく打ち付けていく雨の音を聞きながら、リシェはそのまま中庭を通過し城下街への道を進む。自分の身に纏わりつく湿気を鬱陶しく思っていると、不意に中庭側から呼び止める声が聞こえてきた。
「リシェ!お前、どこに行こうとしてるのさ?」
 いかにも我の強さを感じさせる声音。
 リシェはその声のする方向に顔を向け、「ああ」と口を開いた。
「ちょうど良かった」
 会えば言伝を伝えられると思っていたリシェは手間が省けた事に内心ホッとしつつ、被っていた外套のフードを外して自分の従兄弟の顔を見上げた。
 特別任務明けで休暇を楽しんでいる様子だ。その私服も実に個性的で、一般人とは思えない程優雅さを感じさせる。
 公休でも決して身なりはきちんとしたいという意志の表れのようだ。
「何?」
「お前に会ったら伝えてくれって言われてたんだ」
「誰にさ」
「サキト王子に…」
 その名前を聞くや否や、スティレンは非常に分かりやすい顔を見せてきた。
「お断りするよ!!」
 サキトの名前が出る段階で即答した。
 まだ何も言っていないのに…と言われたリシェは困惑する。
「あの王子様のお世話なんてもうしたくないって言っただろ!!後はお前が全部やるんだね!!」
「いや…俺は王子様に着いて行くけど、お前にも声をかけておいてくれって言われ」
「だから、お断りだって言ってんだろ!」
 人が話している時に、それを遮って自分の意見を通してくるのもどうなのだろうか。
「そうか。一応声をかけて欲しいって言われたんだけどな。お前が嫌なら仕方がない」
 これ以上言ってもスティレンは拒否するだろう。自分はサキトからの伝言を伝えただけで、結果は別に悪くても関係無い。
「ふん、またあの生意気な顔なんて見たくないよ。…で?何の用事で俺を引き摺り出そうとしてるのさ?」
 一応聞く耳はあるようだ。スティレンはふんわりした仕様のシャツの腕を組み、いかにも偉そうな様子でリシェの言葉を待つ。
 リシェはサキトが言っていた言葉をそのまま告げた。
「雨が止んだら水汲みに連れて行ってあげると」
「馬鹿にしてんの?」
 理由があまりにもふざけていて、余計スティレンはムッとした顔を向ける。
「そのまま言われたのだから仕方無いだろう」
「てかそれ位、取り巻きにやらせればいい事じゃないか」
 そんな事言われても、と困る。
 これ以上やり取りを繰り返しても時間の無駄だ。この先、更に悪天候に陥るかもしれない。
「とりあえず伝えたから俺はもう行くぞ。断るんだろう?」
「当たり前でしょ…その辺の水でも汲んどけばいいのに。どれだけ珍しいのか知らないけどさ」
 再びフードを被るリシェは、じゃあ…とスティレンから離れようとした。
 しかし、彼の手はすぐに彼のフードの頭を掴む。
「待ちな!!」
「…っ!!」
「どこの水を汲む気なのさ?」
 結局気になるんじゃないかと鬱陶しげに彼の手を払った。引っ張られた事で襟元が喉に詰まってしまい、苦悶の表情を剥き出しにする。
 その一方でスティレンは悪びれもしない様子。
「行かないんだろ…」
 けほけほと咳き込むリシェ。
 最初から拒否しているのだからもういいじゃないか、と相手の未練がましさに嫌気が差してくる。
「行くわけないでしょ。あの王子様が気になってる水ってのはどんなもんなのか知りたいだけさ」
「晴れた時に湧き出てくる水が欲しいんだと」
「湧水ぅ?」
「今からその水を汲む時に使うボトルを買いに行くんだ。だからもういいだろう」
 ただでさえスティレンに引っ掛かると時間を要してしまう。半分は彼の言い掛かりのような事を言ってくるのでこれ以上は回避したい。
 そもそもサキトの件に関しては、彼が自ら望んで護衛を希望した事でこちらは別に悪くないはず。それなのにお前が護衛から逃げるからなどと言い掛かりをつけてくる。
 彼は友達が出来ないタイプだろう。むしろ居ないに等しいのかもしれない。
 散々周りから甘やかされて培われてきたせいもあるが、この性格で良く今までやってこれたものだと思う。
「湧水って…お隣の人間が注目する位いい質なの?」
「知らないよ…ただ、雨上がりにしか湧かない特殊な水って聞いたけど」
「特殊じゃないのさ」
 こちらに来てまだ間も無いスティレンだったが、この国の気候の特徴は良く知っている。しかも、雨上がりにしか湧かないとなればアストレーゼンにとっては非常に貴重な類に入るだろう。
ふん…とスティレンは何かを考え込む。リシェはいい加減にこの場を離れたくてうずうずしている様子を見せ始めていた。
 時間が勿体無い。
「いいから俺を解放してくれ」
 その口調は若干苛立ちを含む。しかしそんなリシェの言葉を、スティレンは完全にスルーして自分の聞きたい事を聞いてくる。
「効能とかは知ってるの?」
「知るか。サキト様はそれを使って飴を作ってみたいって言ってたからな。何かしら体にいいものでも入ってるんじゃないのか?」
 その言葉を聞くや、そうなんだとやっと理解したようだ。
「じゃあ俺の分も宜しく」
「は?」
 何となく自分のも持ってこいと言われるのではないかとは思っていたが、やはりそうきたか。
 リシェは心底嫌そうに「何でだよ」と返す。
「都合のいい時にばっかり俺を使いやがって」
「言葉悪ぅ…お前、本当に嫌な性格になったよねぇ」
 お前よりはマシだと言いたかったが、言えば言い返されるに決まっている。
「分かったよ…ミニボトルに詰めてくる」
「はぁ!?ミニボトル!?ケチくさ!!」
「水だって重いんだぞ…」
 外は依然として大雨が降り続いている。
 湿った空気が立ち込める中、スティレンは自分本位の希望だけを熱心に語り始めていた。自分の事に関しては、彼はとにかく喧しい位に喋り倒してくる。
「それ位いいお水なんでしょ?俺の美しさを保つ為には、ミニボトル程度の水なんかどう考えたって間に合う訳無いだろ」
 人に物を頼む態度でも無い上に、その要求が大き過ぎる。
「雨上がりにしか湧かないレベルの希少価値のあるものを毎度飲める訳が無いだろ」
「だから、大きめのボトルに詰めって言ってるんだよ」
「馬鹿なのか?何で俺がお前なんかの為に大きなボトルを用意して汲んで来なければいけないんだ」
 馬鹿馬鹿しい、と呆れ果てたリシェはスティレンの要求を完全に無視して城下街へ向かって進み始める。
 ここまで修正の利かない我儘は一生直らない気がした。関わるだけで時間を無駄にしてしまった気がして、耳を傾けてしまった事を心底後悔する。静止役のラスがこの場に居ないのが残念だった。
 その一方、足早に正門へ向かうリシェの後姿に向かって、スティレンは元気な大声を張り上げていた。
「ちょっと、リシェ!!…もう、しっかり俺の分も持ってくるんだよ!ミニじゃないやつで!!」
 最後まで自分の要求を押しつけてくる強引さは褒めてやりたいが、付き合いきれない。病み上がりの疲労感も相まって、神経も擦り減った気がしてきた。
 …あぁ、時間が勿体無い。
 図々しい従兄弟の声を聞き流し、外套のフードをしっかり締めた。

 司聖の塔から戻ってきたサキトは、自分の充てがわれている特別来賓室でスケジュール管理中のイルマリネへ近付く。
 悪天候の上に、更に帰り道が封鎖となればこの先の予定も大幅にずれ込んでしまう。
 サキトの予定も少なからず残っているが、自分達を含めた護衛剣士のスケジュールも調整しなければならない。
 母国への最低限の連絡は済ませてはいるが、今回の件で狂ってしまう予定に関しては再考が必要だった。
 彼は上機嫌な顔にキラキラした目で彼を見上げ、あのねぇと話しかけた。
「天気が回復したら、湧水を貰いに出たいの」
「………は?」
 頭を痛めながら悩んでいる所に、この能天気極まりないサキトの発言にややイラッとしてしまうイルマリネ。
 こっちは仕事の関係で更に頭を悩ませているというのに、と言いたくなるがそこは大人としてぐっと堪えた。
 運の悪い天候不順も、橋の通行が出来なくなってしまった事も、決して彼のせいではない。
 この悪気の無い無邪気さが時に人を苛立たせるが、逆に救われる時もある。イルマリネは自分の中の葛藤を押さえ込み、サキトの言葉に耳を傾けた。
「湧水って…」
「ほら、聞いた事無い?アストレーゼンって雨があまり降らないから、たまに降った日の後だけに湧いてくる特別な湧水が存在するって。その湧水、大聖堂の近くにあるんだって。…それで、雨が上がったらリシェと一緒にそれを取りに行きたいの」
「リシェ殿もご一緒ですか?ええっと…大丈夫ですか?お怪我の具合とかは…」
「大分回復したみたいだよ?ずっとベッドに居るのもキツいんだってさ…リハビリがてら付き合ってくれるって言ってくれたもの。ロシュ様も無理の無い程度ならって許してくれたし」
 そうですか…と理解するイルマリネ。
 流石若い宮廷剣士なだけある。出血が酷かったと耳にしていたが、ああ見えてかなりの体力もあるのだろう。何より司聖が使う魔法の効果も相当功を成したとも言える。
 ここまで早く出歩けるようにまで回復しているとは。
「どうせもう少しだけアストレーゼンにお世話になるんだし、滅多に無い事だから。ね、いいでしょ?護衛にリシェも来てくれるんだよぉ」
 …ただでさえその立場故に行動を制限されているのに、ずっと大聖堂の中に張り付いているのも流石に可哀想だという気もしなくはない。
 ロシュ専属の護衛剣士も付いてくれるとなれば、変な輩に手を出される事は無いだろう。しかし、その護衛もまだ年若い。
 イルマリネは「…そうですね」と一息吐きながら答える。
「条件があります。リシェ殿だけに護衛をお任せする訳にもいきませんから」
「あっ、こっちからも護衛を付けろって事?いいよぉ」
 珍しく頭の固いイルマリネが折れたので、サキトは気分が上がった。
 室内のベッドにドスンと腰を掛け、両足をぷらぷらさせながらやったぁ、と素直に喜ぶ。シャンクレイスの中でもあまりウロウロする事を良しとしないタイプなので、今回の件は珍しいパターンだ。
「お察しが良いですね。私はやる仕事が溜まっていますので、誰か別の人間を探して参ります。しばらくお待ち下さい」
 作業の手を止め、イルマリネは座っていた椅子から立ち上がる。彼の行動は何を行うにも品位があった。他の剣士と比べればそれは一目瞭然で、姿勢もピンと張っていて美しい。
 他の子達もぜひ見習って欲しいね、と常々サキトは口にするが、他の剣士らは性格が荒いので半ば諦めていた。
 お待ち下さい、とイルマリネはサキトに告げる。
「はぁい」
 自分の思うようになる事で満足げの気紛れ王子様は、素直に従者の言葉に従っていた。

 …あぁ、手間のかかるお方だ。
 特別室の扉を閉めた後、イルマリネは一息吐く。
 彼の行きたい場所に大人しく着いて行ってくれる剣士が居ればいいのだが。サキトの普段からの我儘さに、同僚から常に苦情を聞き続けているイルマリネは頭を抱えた。
 こちらは苦情受付係ではないと言いながら、自分はどちらかと言えば本人に一番近いので受け入れざるを得ない。
 しかも彼らは尋常じゃないレベルの短気さを持っていて、少し気に入らなければどうにかしろとこちらに回ってくるのだ。
 大人として気持ちを抑えておけ、としか言いようがない。あまりにも目に余るならば忠告はするが、彼が大人しく聞くタイプだとは思えなかった。
 …さて。
 気を取り直して頭を上げ、廊下を歩く。
 臨時の休暇を与えているとはいえ、仲間達は大人しく部屋に居るのだろうか。
 一番最初に、寡黙なレオニエルの部屋の前に立って扉をノックした。しかし彼からの返事が無い。この悪天候の中、アストレーゼンの街に繰り出し菌糸類の専門店にでも赴いているのだろうか。
 寡黙過ぎて何を考えているのか分からないタイプだが、彼はキノコの育成が趣味な事位は理解している。他国に入った際には、当然のようにその国独特のキノコを探しに赴きたくなるはずだ。それは仕方無い。
 待てど返事が戻ってくる訳でも無く、イルマリネは別の剣士の部屋へ向かった。
 全く期待出来ないアーダルヴェルトの部屋の前に立つと、いきなり扉が向こうからガバッと開かれてしまう。
「うっわ!!」
「!!」
 開けた瞬間イルマリネが居たので、当然のようにアーダルヴェルトは驚き数歩退いた。
「何すかいきなり!?」
「ああ…こっちも驚いたよ。ちょうど良かった」
 彼は今から外出する気だったのだろう。いつもの畏まった制服ではなく、比較的リラックスした格好のままだった。
 また変な頼み事か?と彼は眉間に皺を寄せ、「何かあったんすか」とやや面倒そうな様子を見せた。
 若く自分の感情をフルに見せるタイプのアーダルヴェルトは非常に分かりやすい。なのでイルマリネも全くといって良い程、彼には期待していなかった。
 なのでイルマリネも期待していない言葉で要点だけを掻い摘み、本人に話を切り出す。
「この雨が上がったら、少しサキト様のお付き合いをして欲しいお願いに来たんですが、絶対嫌ですよね?」
 優雅に微笑みながら一応聞くだけ聞いてみる。
 サキトに関しては、彼はとにかく面倒がるタイプだ。
「絶対嫌っす」
「そうですか」
 イルマリネは優雅に微笑んだ。
「アルザスはどこに居るかは分かりませんよね」
 彼が無理なら次もある。
 しかし、その次の剣士もあまり期待は出来ない。どちらかと言えばアーダルヴェルトと似通った性質で輪をかけた面倒臭がりの傾向があった。
「アルザス先輩っすか…あの人、アストレーゼンの女引っ掛けに行って来るって昨日の夜から出たっきりじゃないですかね?暇さえ出来れば酒場に行く性格だし」
「なっ…!?」
 ここにきて女遊びだとは。
 想像以上に酷い内容に、悪趣味極まりないと美しい顔を引き攣らせてイルマリネは呆れた。
「…何と品の無い…格式高いシャンクレイスが誇る護衛剣士の自覚も無いのか、あの人は…!」
「あー…あの人に品位を求めるだけ無駄だと思いますけどねぇ。王子様お抱えの剣士になる以前からあんなもんっすから」
 ちなみにあの人の好きなタイプは熟女っすよ、という物凄くどうでもいい話までされてしまう。イルマリネはそんな情報は必要ないとばっさり突っぱねた。
 いつも苛まれている頭痛が彼を襲い掛かる。
 もういい、とだけ答えた彼に、アーダルヴェルトは「あいつは?」と続けた。
「クロスレイには話をしてるんっすか?」
 彼の庶民じみた言葉遣いにも慣れてしまった。
 最初はとにかく耳に付いて、修正させようとしたが一向に直らず諦めた。
 結局自分の方が、やるだけ無駄だと学習したのである。
「え?…まだだけど、彼は怪我の後遺症もあるだろうし…困ったね。レオニエルは不在だったんだ。居たら彼に頼もうかと思ったんだけど、誰も居ないなら仕方無い」
 リシェだけにサキトの世話をさせるのも申し訳無いが、この体たらくならば彼にお願いするしかないかもしれないと心の隅で考え始めていた。
 大聖堂付近ならば、特に危険性も無いとは思う。
 アーダルヴェルトは「あいつ、もうピンピンしてますけどね」と零す。
「童貞臭い顔して無駄に回復力はあるし。今朝もその辺ウロウロしてましたよ。いきなり暇を与えられた上に休んでろって言われて逆に困ってるんじゃないっすかね?知らないけど」
 いくら何でも童貞臭いとは酷い言われ様だ。
 それにしても、随分と早い回復である。イルマリネは腕を組みしばらくううんと考え込んでしまった。
「俺、もう行っていいっすか?折角の休暇だし街中を散策してみたいんすよね」
 この悪天候で良く行こうと思えたものだと思うが、旅先の休暇は滅多に無い事なので例え天気が悪かろうがどうしても行きたくなるのだろう。
「あ…ああ、構わないよ。悪いね、呼び止めて」
 呼び止めるというか偶然かち合ってしまったのだが。
 アーダルヴェルトは部屋の施錠を済ませ、イルマリネに軽く挨拶をするとさっさと立ち去って行った。
 …またクロスレイにサキト様の見守りを頼むのもなぁ…とイルマリネは考え込んでしまう。前回の事もある上に、彼にはサキトによって施されてしまった拘束具の存在も忘れている訳では無い。
 サキトがどんな意図でクロスレイに対して盟約の証という禍々しい物で繋いでいるのか、側近である自分にもまだ分からないのである。
 イルマリネの指輪に対する印象は、主従の証という綺麗な言葉では言い表せないレベルのものでしか無い。単なる悪趣味な拘束具だ。
 そんな趣味の悪い道具の威力を利用してでも、見習いである剣士を繋ぎ止めたい何かがあるとでもいうのだろうか。
 とは言え、体力が回復して間もないクロスレイにサキトの護衛をさせるのは気が引ける。
「はぁ」
 サキトが直々に選んだ護衛剣士に対し、何かしら期待するのは無謀だとは思っているがここまで忠誠心の無い面子も珍しい。そもそも王子直々に選ばれた事が名誉だとはこれっぽっちも思っていないのである。
 彼らは選ばれた事で自分に箔が付いて周囲からの目線も変化し、収入面でも爆上がりする程度の認識なのだ。忠誠心などある訳も無い。
 だから選ぶ際には敬う気持ちを持った者がいいと口を酸っぱくして言っているというのに、当の本人は「個性的で強い子がいい」と頑として譲らなかった。
 だから余計増長するのだ、と突っ込みたくても口に出せずにいる。
 残る剣士は兄君であるフランドルだったが、彼にはどうにも言い難かった。それ以前に休暇と知るや、橋が修復するまでは自由なのだな!!と喜び勇んで真っ先にアストレーゼンの大自然に飛び出てしまったのだから言える余裕もなかった。
 …前世は野生人か何かだったのだろう。
 参ったなとイルマリネは溜息を吐く。
 そもそも怪我人であるクロスレイに頼む気も無い。時間を置いてこちらに戻って来たレオニエルあたりに頼もうかと頭を悩ませていると、「おや」と声をかけられた。
 その穏やかな声に反応し、イルマリネは顔を上げる。
「何かお困り事ですか?」
「ああ…オーギュ様。こちらまで足を運ばれるとは」
「いえいえ。折角こちらで足を伸ばして頂いているのですから、不備があってはいけません。不都合な事があれば何なりとお申し付け下さい」
 この魔導師とは自分と何処か境遇が似ているような気がする。イルマリネは自然に親近感を覚えていた。
 苦笑を交えながら「実は」と話を切り出す。
 事情を把握し、オーギュはなるほどと理解を示した。
「大聖堂からは比較的近いですし、周囲は邪気避けの結界も張り巡らされていますのでそこまで危険な場所ではありませんが…リシェも病み上がりの身ですから。どうしても気掛かりでしたら、こちらからもう一人お付けしましょう」
「い、いえ…決してリシェ様だけでは不安というのでは無いのです。ただ、全て甘えてしまってもいいのかと気掛かりで」
 あまりにも自分らの剣士達が役に立たないのかを自覚させられてしまう。イルマリネは焦りながらオーギュに説明しながら、こちら側の不甲斐無さに嘆いた。
「…本当に申し訳無いです…何もなければ私が赴けるのですが、彼らのスケジュールの組み立てを考えておかなければならなくて…」
「ああ…」
 肩を落とす相手に、オーギュは思わず同情してしまう。
 オーギュもまた、同じようにイルマリネの気持ちが痛い程良く分かってしまった。こちらはロシュ一人について考えておけばいいが、彼の場合は剣士の頭数が多い上、サキトの事も考えなければならない為に調整するのも相当厳しいのだろう。
 彼を補佐してくれる者が居ればいいのだが。
「サキト様の護衛についてはこちらで対処出来ますので、どうかお気になさらずに…」
「本当に申し訳ありません。ではお願い出来ますか?」
「ええ、ええ。お任せ下さい」
 ようやく安堵して、アストレーゼン側に任せようと胸を撫で下ろす。
 そこまで言って貰えるならば、彼らに甘えてしまおう。
「相談してみて良かったです。ありがとうございま…」
 するとイルマリネが言い終える前に、すぐ近くを大柄な男の影が通り掛かる。来賓用の特別仕様の豪奢な内装とは違って田舎臭さを醸し出すミスマッチな風貌のせいか、妙に悪目立ちしていた。
「あっ…お、お疲れ様です」
 彼はイルマリネとオーギュの姿を確認すると、畏まりながら頭を下げる。
「こんにちは、クロスレイさん。お怪我の具合は如何ですか?」
 イルマリネより先にオーギュが声をかけると、彼は更に頭を数回下げて「は、はい」とオドオドしながら返した。
「大分良くなりました…ありがとうございます」
「あれだけ大怪我をしていたのに、ここまで回復するとは。大聖堂の職員の方々とロシュ様の手厚い看護のお蔭だ。良かったじゃないか、クロスレイ」
 当初は大量出血する位の大怪我で、支えられなければ進めなかったのに普通に歩けるとは。この短時間で凄まじい回復力だ。
 オーギュは改めて素のクロスレイを見上げる。
 あの時の操られた際に見せていた殺気だった表情とは真逆だ。真面目で純朴な印象を受ける。むしろ自信無さげにも見えて、剛腕を振るった本人だとは思えなかった。
「本当に…申し訳ありませんでした…」
 彼はその時を思い出し、しゅんとしながら頭を下げる。
「そんな、あなたが謝る事ではありませんよ。とにかく回復してくれて良かった。まさか普通に歩けるまでになるとは」
「手厚い治療のおかげです。なるべく早くリハビリしないと、また皆さんにご迷惑をお掛けしてしまいますから」
 遠慮がちにクロスレイは笑った。
「リハビリ…か。うーん…やはり、君にまた面倒事を頼むのも酷だな」
「えっと…イルマリネ先輩。何かお困り事ですか?」
 思い悩むイルマリネの様子に何を察したクロスレイ。
 彼はどちらかと言えば周りに気を配る側なので何となく状況を理解出来た。その件に関しては他の者より利口である。
「いや、サキト様がこの雨が止んだ際に行ってみたい場所があるとね。リシェ様が同行して下さるから大丈夫だとは思うんだけど、彼も病み上がりの身だし甘える訳にもいかない。こちらも他の剣士に声をかけてはみたんだけれど」
「あの」
 彼が何を言いたいのか把握する。
「良ければ、俺が付き添いますよ」
 クロスレイは先輩に自ら申し出た。元々、怪我人である彼に期待していなかったイルマリネは驚いた表情を見せる。
「君も大怪我をしたばかりだろう」
「そりゃそうなんですけど…ご迷惑をお掛けしましたし、何か出来る事があれば俺もお役に立ちたいので。軽い付き添い程度なら全く差し支えは無いと思いますし」
 そう言い、クロスレイは照れたような顔で言った。
 彼は少しでも騒動の罪滅ぼしをしたいのだろう。
「それに動くだけでリハビリにもなりますから」
 イルマリネは隣のオーギュに目線を向けた。オーギュもそれに気付くと、ふっと目尻を緩める。
「あなたさえ宜しければ、リシェとご一緒にサキト様の護衛をお願いします。ただ、どうか無理はなさらないように」
 一連の会話を聞きながら、イルマリネは非常に安堵していた。これでシャンクレイス側としても面子も保てる、と。
 恥を偲んでオーギュにこちら側の剣士を追従させる事が出来ないと言った事で、彼のシャンクレイスに対する心象を著しく害するかもしれないと危惧していたのだ。
 しかもサキトの護衛となれば率先して警護にあたるべき事象だ。声掛けをしてみた結果、こちらの剣士はとにかく役にも立たなかった。
 自分には強く命令出来る権限も無いので、彼らには頼む事くらいしか出来ない。サキトに一番近くとも、他の剣士達に対して強制的に従わせる術が無いのだ。
 こういう状況を見据え、自由過ぎる同僚らに対しサキトから選ばれた剣士としての自覚を学ばせた方がいいのかもしれない。
「君が回復してくれて良かったよ、クロスレイ。シャンクレイス側としても面目も保てる」
「目的地の足場は非常に悪くなっていますので、サキト様のお御足が汚れる上に危険が及ぶ可能性もあります。こちらももう一人お付け致します」
「え?」
 そこまで不安定なのだろうか。
 イルマリネが訝しんでいると、オーギュはふっと微笑んだ。
 流石に大聖堂の剣士を追加させる訳にもいかないのではないかと不安になるようだ。サキト一人の我儘の為に、大事な剣士を引っ張らせるのは申し訳無い気がした。
「大丈夫ですよ。宮廷剣士に依頼するのではなく、私だけが個人的にお願い出来る相手に頼みますから」
「は…はぁ。ですが、いいのですか?」
 剣士ではない誰か。
 一体誰に頼むつもりなのだろうか…と不思議がるイルマリネに対し、アストレーゼンの司聖補佐は切れ長の目を更に細くしてにっこりと微笑み、「お任せ下さい」と言い留めた。

『…それでお前は私に護衛を頼むと言うのか?』
 雑務を終えて司聖の塔に戻って来た主人に、ファブロスは呆れたような口調でオーギュに言った。
「私が同行しても構わないんですけど」
 人の姿に化けている召喚獣は、常に主が作業用に使っているソファにどっかり座り長い足を組んで深く一息吐いていた。
 さらりと長い銀糸のような長い髪を主人の手によって纏められ、精悍な顔がはっきりと目立たせながら『お前はやる事があるのだろう』と目を細める。
 それでも、常に忙しいオーギュの様子は良く理解していた。
「でもあなたはオーギュの命令となればちゃんと素直に聞くのでしょう?」
 まるで助け舟を出すようにロシュは二人に割って入った。
 主人の頼みとなれば、従わざるを得ない。それにオーギュの召喚獣である自分はアストレーゼンにおいては役職も無い。従って職務に縛られる立場でも無く、自由な身だ。
 なので特に断る理由など無かった。
 だが常に暇そうだと思われてしまうのも癪である。…実際、暇なので文句は言えない立場なのだが。
『命令となれば話は聞くが…』
「リシェとクロスレイさんはどちらも怪我の後ですからね。何の問題も無ければいいのですが、一応保険を掛けておいた方がいいと思いますので…それに、足元も非常に悪いと思われます。サキト様の足元にも気を付けないと」
『ふん…その言い方だと私の足元は汚れても構わないと言われているようだ』
 若干拗ねたようなファブロスの言葉に、オーギュは困った表情を見せた。
「あまりこちらを困らせないで下さいよ…」
 まるで子供に対して手を焼いているように見えたらしく、ロシュは軽く揶揄う。
 この二人の関係は主従関係でありながら、従者であるファブロスが自分の立場を主張しても主のオーギュはきちんとそれを尊重しているのがよく分かる。
 だからこのような会話が発生してしまうのだ。従来の絶対的な主従関係ではまずあり得ない。
「おや…珍しい。オーギュがこんな顔するなんて」
「色々手を回さなければならないこちらの身にもなって下さいよ。仕事が落ち着いていれば私が同行しますけど、それもままならないんですから…」
 ソファの上でむくれている様子のファブロスだったが、主人が心底困っているのを横目で確認するとふんと一息吐いた。
『…お前がそこまで言うなら仕方あるまい』
「行ってくれるのですか?」
 ややしょんぼりしていたオーギュは顔を上げた。
『私しか居ないのだろう?』
「ありがとうございます」
『礼は後でしっかり請求するとしよう』
 彼の言うお礼の内容はあまり考えないようにしつつ、オーギュは安堵しながら礼を言う。これで護衛の件は解決した。
「何だかんだ言いながら彼はオーギュの言う事は素直に聞くんですからねぇ。とてもいいパートナーじゃないですか」
「大変有難いと思っていますよ。…たまにこうして私が困るのを楽しんでいる様子なのはどうかとは思いますけど…」
 そう言うものの、オーギュも満更でもない様子ではないかとロシュは思う。
 ファブロスの隣に腰を下ろし、仕事を再開しようとするオーギュは「少しでも仕事を片付けないと」と作業を始めた。
 書類を探し始める主人に対し、ファブロスはまるで子供を扱うように話しかける。
 長くなってきた彼の黒髪に指を絡め、完全に甘えている様子だ。余程主人の事が好きらしい。
『オーギュ、私の膝の上に座るか?』
「いえ、結構です…」
『遠慮する事は無いぞ。邪魔しない程度に支えてやる』
「…子供扱いしないで貰えますかね…」
 長年召喚獣として生きているファブロスにとってはオーギュはまだ幼子のようなものかもしれない。しかし人間で言えば、オーギュは完全に成人男性だ。
「私に気を使わなくても良いのですよ、ファブロス」
『お前は私に頼み事をしたのだ。だから私はお前に甘える権利があるぞ。違うか?』
 結局何らかにかこつけて、ファブロスは主人に甘える口実を狙っていたのかもしれない。彼らが一目も憚らずいちゃつく様子を書斎机から眺めながら、ロシュはおやおやと言いながらくすっと吹いてしまった。
 室内の扉がノックされ、ゆっくりと開かれる。只今戻りましたと言いながら城下街へ出ていたリシェが姿を見せた。
「お帰りなさい、リシェ」
「ロシュ様」
 荒れ狂う天候の中を歩いてきたリシェは、ロシュの姿と自分を気遣う言葉を受けて強張っていた顔をようやく緩めると、購入してきた物品をその場に下ろした。彼は司聖の部屋に入る前に雨具を自分の部屋で脱ぎ拭き上げて来たようで、水滴も最小限に留めている。
「まだ荒れていたので大変だったでしょう」
「休み休み移動してきたので…明日には落ち着いてくれるといいのですが」
 買ってきた荷物もあらかじめ部屋で吹き上げてきたらしい。よいしょと言いながら、テーブルに購入してきた物を丁寧に並べ始める。
 給水用の水筒の大きさに自信が無いのか、並べられたのは四種類程度だった。リシェは近付いて来たロシュを見上げながら、「どの位がいいのか悩んでしまって」と言う。
 中でも一番際立ったのが香水のミニボトルサイズの大きさ。
 ロシュはそれを摘み、不思議そうに首を傾げた。
「…これは?どう考えてもサキト様に渡すには小さい気がしますけど…」
 ミニボトルと言うよりは、ちょっとした砂を入れるガラス瓶だった。いくらなんでもケチ過ぎないだろうか。
「それはスティレンの分です」
 真顔のリシェ。
 従兄弟の要望が余りにも図々しかったので腹いせに買って来てしまったとは言いにくい。
「…小さ過ぎやしませんかね…?」
「目的はサキト様の分を買う事でしたから」
 どうやらまた喧嘩をしてきたらしい。ロシュは笑みを浮かべ、彼らは仲が良いのか悪いのか分からないなと思った。
 手に持てる位のサイズが丁度良さそうですね…とそれぞれ見比べる。
「リシェ」
「はい、オーギュ様」
「明日はクロスレイさんも来てくれるそうです。あなたも向こうも病み上がりの状態ですから、ファブロスにも護衛をお願いしています。足元も相当悪いと思いますから」
 意外な人物に、リシェは一瞬驚いた様子を見せた。やはり自分よりも大怪我を負ってしまったらしいという話を聞いて心配になったようだ。
「俺よりも大怪我をしたって聞いたのですが、大丈夫なのでしょうか?」
 オーギュはソファに腰を掛けてこちらに顔を向けた状態でふっと微笑む。
「大丈夫なようですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。あなたと同じようにリハビリがてら動きたいと言ってましたからね。食事会で騒ぎを起こしてしまったというお詫びもしたかったと…彼は何にも悪くないのですけどねぇ」
 確かに、個性的なシャンクレイスの剣士達の中でもクロスレイは一人だけ毛色が違う性質だ。
 比較的大人しく真面目そうな印象だったが、やはり周囲に対して非常に申し訳無いと心底思っているのだろう。
「分かりました。多分、すぐに終わる用事だと思うので散歩のつもりで行ってきます」
 そこまで仰々しく移動するものでもない。何もそこまで人数を増やさなくてもと思ったが、万が一の事を見据えての事なのだろう。
 有難うございますと礼を告げ、オーギュの言葉を受け入れたリシェの横でロシュはミニサイズのボトルを摘んだまま「ううん…」と唸る。
「やっぱりどう考えても小さ過ぎますよ…」
 本当にスティレンの為にこのサイズに入れる気なのだろうかと不思議がっていた。

 結局あいつが貧乏くじを引くんだよな、と気まぐれに付き合わされてしまう羽目になったクロスレイに対してアーダルヴェルトは冷やかすように笑う。
 サキトの護衛の話はどうなったんすか、と自らイルマリネに聞きにやってきた彼は、熱い紅茶を啜り「王子様の面倒事は全部クロスレイに投げてもいいじゃねぇか」と適当な発言を口にしていた。
 イルマリネは変な事を言うんじゃないと後輩を嗜めた後、穏やかな口調で「本人が行くと納得した上での事だよ」と続ける。
 紅茶の香りは部屋いっぱいに立ち込め、調度品があちこちに置かれている来賓室の雰囲気に良くマッチしていた。旅先でも好きなお茶が飲めるように、イルマリネは常に気に入った茶葉を持ち込んでいる。仮に出先で切羽詰まった時でも、持ち込んだ茶葉のいつもの香りに包まれると気分が落ち着くらしい。
 荒くれ者に常に取り囲まれている環境下に居る為か、美的感覚が乏しくなるのを恐れてというのもある。
「へぇ…」
「前に騒ぎを起こしてしまった引け目もあるようでね。何か自分に出来る事は無いかと考えていたようだ。まぁ、彼が悪い訳でも無いんだけど真面目な性格だからね。相当気にしている様子だったから」
「ま、あれだけ色んなもん破壊してきたからな。普段大人しいくせに暴走すると手ぇ付けられなくなるとか誰も想像しなかったっすもんね」
 飲んでいる紅茶をずずっと啜り終え、おかわり下さいとカップを突き出した。
 それを受け取ると、まるで他人事のように言うアーダルヴェルトに、イルマリネはチクリと刺す。
「君達三人でもクロスレイ一人を止められないっていうのもどうかと思うけどねえ」
「先輩はその場に居なかったから分かんなかっただろうけど、あいつ想像以上の馬鹿力だったんすよ…しかもあの部屋狭かったし!その辺の物をぶっ壊してもいいってなら遠慮無く動けたっすよ?そもそも置かれてる家具なんてアストレーゼンの物なんだから遠慮するでしょ普通」
 カップの中にお代わりの新しいお茶を入れ、再び後輩の前に置いた。
「お、あざーっす」
 まともにお礼すら言えないのか。
 イルマリネはアーダルヴェルトを一瞥すると、呆れながら一言注意する。
「君はもう少し言葉を丁寧にする事を覚えた方がいい」
「そんなん言ったらアルザス先輩にも注意した方がいいんじゃないっすかね…あの人、特に口が悪いから」
「君はまだ若いから修正のしようがあるだろう。あの人は何をどう言っても聞く耳を持たない上に性質上無理だから諦めているんだ。君はああいうのになってはいけない」
 その発言で、彼はアルザスに対し相当手をこまねいてきたのがひしひしと伝わってくる。アーダルヴェルトは「そうっすか…」と言いつつも、この二人はそもそも分かり合えないレベルでタイプが違うもんなと同情していた。
 一般からの叩き上げの形で選ばれたアルザスと、貴族出身で品性を最とするイルマリネとは育ちも完全に違えば考え方もかなり違う。お互いに際立った反発は無いものの、イルマリネは最初から彼のような荒い性格の持ち主とは相入れない様子を見せていた。
「てか、あのお坊ちゃんも良く両極端なタイプを同じ場所に入れ込んだもんっすよね。俺もそうだけど」
「サキト様は実力と将来性があれば身分は問わないからね…君もあのお方のお眼鏡に適ったのだから、自覚のある行動をして欲しいものだ」
 イルマリネの話を耳にしながら、アーダルヴェルトは全く有り難くも思えないけどなと思う。
 単に国からの金払いが良いだけで、自分はサキトの為に剣士になったつもりも無いのだ。愛国心など微塵もある筈も無い。
 収入が良い上に他者からの受けも良いだけで、特に国やサキトの為に自分の身を捧げるという気持ち等微塵も無かった。イルマリネが言うように、自覚と選ばれた事に関して誇りを持つようにと言われても全く気持ちに響くはずもなかった。
ただ、言われた事に関しては仕方なくやる程度。その位の気概だ。
「あの人の我儘には付き合い切れないっすよ」
「あぁ…それはまぁ…」
 その場で思い立っていきなり物事を確定する悪い癖だけは勘弁して欲しい。その件に関しては、イルマリネもアーダルヴェルトに同意らしい。
彼の我儘でアストレーゼンまで来たようなものなのだから。
「そう言えば」
 不意にアーダルヴェルトは思い出したように口にする。
 イルマリネは整った顔を彼に向けると、その続きを待った。剣士とは思えない位の整った顔立ちは、母国シャンクレイスの貴族間や民衆の間でも大層評判で、そのスラリとした体型と品のある所作や女性達が想像する騎士像そのままの出で立ちに心を奪われる者も多い。
 彼の姿を見る為にシャンクレイスの城まで足を運ぶ女性も居る位。だが、華やかに女性陣から憧れの目線で騒がれているその裏で、当の本人は周りの自由過ぎる仲間達に振り回され苦労している事など知られる事は無かった。
「何っつったっけ…盟約の証だっけっか。あの王子様がクロスレイに仕掛けたっていう変なやつ?」
「あぁ」
「あれは何だったんっすかね」
 ここで初めてその存在を知ったアーダルヴェルトは、騒動の際にサキトがクロスレイに施した指輪に関して気になっていたようだ。
「あれって一種の奴隷契約のようなもんじゃないんすか?魔法のような感じにも見えたけど。それを何でペーペーの新入りのクロスレイなんかに施してるんっすかねぇ」
 あの時のように操られている場合の制御にはなるかもしれないが、それ程効力があったとは思えなかった。
 サキトの意のままに施された相手に対して動きの制御をするとなれば、人道的に如何なものなのかと思う。
「…さぁ…それはご本人にしか分からないんじゃないかな。あの指輪はサキト様の家系に代々伝わる物だからね。それを何故クロスレイに施しているのかは僕にも分からないよ」
「あんなボンクラに付けたとしても、普通に言う事を聞くんじゃないっすか?全く人の話を聞かない奴にやるならまだしも」
 素直な疑問を呈したアーダルヴェルト。
 確かにクロスレイはサキトの護衛達の中では非常に模範的な剣士だと思う。クロスレイは黙ってても主たる彼の命に動くだろう。あの曰く付きの指輪の効果に頼らなくても十分に要求に応えてくれるはずだ。
「おや」
 イルマリネは不思議がっているアーダルヴェルトの言葉に目を細める。
「その物言いだと自分が指輪の魔力に掛かっても構わないという意思表示なのかな?」
 ちょっと揶揄うだけのつもりで言ってみたが、アーダルヴェルトは非常に不愉快そうに「はぁ??」と顔を歪める。
「俺があの我儘な王子様が心底嫌いだって先輩も良く知ってるじゃないっすか。冗談じゃないっすよ」
 イルマリネは自分のカップに紅茶を淹れ、涼しげな表情で「サキト様の見る目は全く無かったのが良く分かるよ」と嫌味を言った。
 …普段の彼の態度を見れば、すぐに理解出来るが。
 まだまだ自分の感情を剥き出しにするあたり、彼は幼い。
 熱さを物語るように湯気を立たせながら注がれていく紅茶を眺めていた。

 アストレーゼン全域が朝露に濡れ、日の光が一面に広がっていく早朝。
 もそもそと大きなベッドの中でリシェは蠢く。
「うう…」
 隣で眠っているロシュの温もりの心地良さに更に密着した。
 リシェの身動きによって意識が徐々にはっきりしてきたロシュは片目を開け、密着するリシェを確認した後に自分も彼にくっついた。
 温かい。
 お互いくっついていると、もっと繋がりたいという欲が出てくる。リシェの怪我が無ければ、恐らく夜明けまでひたすら抱き潰していただろう。
 自分でもどうしようもない位の欲求が湧いてしまうのは止めようも無かった。それ程、リシェと離れたくないのだ。
 ごそりとロシュはリシェを胸元に収め、彼の温もりと匂いを楽しむ。
 お揃いのシャンプーと石鹸の香りが漂うと、彼は完全に自分のものだと実感した。
 自分は常にリシェに恋をしているのだと。
 サラサラした黒髪に指を絡め、ぎゅうっと抱き締めていると、腕の中の小さな体がふるりと蠢く。
「んん」
 起こしてしまったかな、とロシュは彼の頭を撫でた。
「あ…ロシュ様?」
 うっすらと瞼を開け、リシェは密着してくる相手の顔を見上げた。
「起こしてしまいましたね」
「いえ…起きる時間ですから…」
 周辺の明るさで判断し、リシェはようやく意識をはっきりさせるとロシュの温もりを確かめるように手を伸ばす。
「むしろずっとこのままがいいなぁ…」
「オーギュ様がいらっしゃいますし…」
 ロシュの補佐役は仕事場である司聖の塔へ来るのが早い。自分達よりもかなり早く目を覚まし、準備してやってくるのだ。一体どんな時間に目が覚めるのだと思ってしまう位に。
「晴れたので行けそうですね…」
「ええ。具合は大丈夫ですか?」
「問題は無いと…思います…」
 軽く体を動かそうとしたが、主人の腕によって妨げられてしまう。リシェは「ロシュ様」と軽く嗜めるように彼を呼んだ。
「まだくっついていたいんだけどなぁ…」
 そう言いながら、もそもそと腕を伸ばしてリシェに甘えるように更にくっつくと、彼の首元に顔を埋める。
 柔らかく長い髪が顔や頬に当たり、リシェはくすぐったそうに身動ぎした。
「ロシュ様、くすぐったいです…」
「あぁあ…起きたくない…このままでいたい…」
 折角一緒にくっついているのだ。そう簡単には離れたくはないらしい。
「ロシュ様」
 こうしている間にも時間が経過してしまう。もう少しでロシュにとって恐怖の対象であるオーギュが来るはずだ。
 司聖である以上、本来ならば彼よりも早めに準備をして仕事に取り掛からなければならないと思うのだが、ひたすらリシェにくっついてごろごろしている。
「そろそろ起きないと」
「うぅうう、今日がいきなり休みとかになればいいのに…」
 とても人間らしい発言に、思わずリシェはくすっと笑った。
「俺も護衛の準備をしなければなりませんし」
「あぁああ、嫌だ…リシェとこのままずっと寝たい」
 柔らかい頬の感触を確かめるかのようにロシュはリシェと向き合いながら突く。血生臭そうな剣士とは思えない位、彼の頬は柔らかさを感じた。
 突かれながら、リシェは苦笑する。
「ほら、ロシュ様。そろそろベッドから出ないと」
「もうちょっといちゃつきたいんですけど…ほら、お怪我の具合とかも見ておかないと」
「へ…!?あ、あの!?」
 何だかんだ言い訳をしながらロシュの手がリシェのシャツに伸びてくる。
 朝から変な意味で元気なロシュの手がもそもそと中を蠢いていくと、リシェは「あのぉっ!!」と慌てた。塔の下から大きな魔力の流れを感じる。魔法力が少しずつ身に付いてきたリシェは、その原因を察するまでになっていた。
 自分よりも更に高い魔力の持ち主であるロシュならば、それをいち早く察知出来るはずだが。
 怖いお目付け役がこの状況を見れば、きっと噴火してしまうかもしれない。
「っ!!」
 しなやかな指が弱い所を掠めていく。
 リシェは顔を歪め、びくりと簡単に反応してしまった。未熟故に素直に反応をしてしまい、全身が軽く震える。
 思わず甘い吐息を漏らしたくなるのを寸での所で押さえた。
 ふるふると首を振り、必死に両手を伸ばしロシュを止めようともがく。
「だ、駄目ですロシュ様!」
「相変わらず可愛い反応をしてくれるなんて。はぁあ…食べてしまいたい」
 余程リシェが好きなのだろう。
 優しい手付きで彼の黒髪を撫でながらぐいっとシャツを捲る。ひぃ!!と情けない声を上げるリシェ。
 こちらに迫る魔力の流れに、いよいよリシェは慌てた。
「ロシュ様!駄目です、オーギュ様が来ます!来ますったら!!」
「…んえ?」
 見目麗しい顔から想像も出来ないような間の抜けた声。どうやら夢中になった余り、魔力の流れに気付かなかった様子だ。
 悲痛なリシェの叫びと共に、部屋の外から強烈な風が吹き上げる。
「おはようございます、ロシュ様。今日は昨日とは違いとてもいい天気で…」
 いつものように扉からではなくベランダから侵入したオーギュは、風圧で乱れた髪を軽く直しながら室内に足を踏み入れる。同時に紋様が描かれた手の甲が煌々と輝き、しんしんと彼の体内に棲む召喚獣が出現する予兆を見せていた。
 最後まで言葉を言い終えようとしたその時、オーギュはいつものように書斎机に着いていないのを確認する。
「ロシュ様…どこに」
 不思議に思いながら周りを見回した後、ある一点に目線が届いた。
「………」
「………」
 ベッドでいちゃついていた二人の姿。リシェは慌て、焦りながらロシュの胸元に腕を伸ばしているが、ロシュはリシェの胸元を撫でたままの状態だった。
 完全に変な事をしようとしている図そのもの。
 うぅう、とリシェは恥ずかしそうに身動ぎしながら嘆く。
「だから…言ったのに…」
 ロシュはそのまま体を硬直させ、固まった笑みを浮かべながらオーギュの方へ顔を向けていた。これはやばい、と脳内の何処かから危険な信号を察知する。
「お…おはよう…ございま…」
 薄目で自分の補佐役の表情を垣間見る。
 怖くてまともに彼の顔を見れないが、きっと物凄く怒り狂う前兆を見せているに違いない。
 これから仕事を無視して目覚めの一発を今からします、みたいな格好なのだから。
「ろ、ロシュ様…」
 自分の下で、小さなリシェがベッドから出ようと蠢いていた。
 だから言ったのに、と言いたかったが口に出せない。
 こんな状態でオーギュを迎え入れるなんて、絶対彼は怒り狂うだろう…と目をぎゅうっと閉じて覚悟していたその瞬間。
「…朝っぱらからいちゃつくとか…!だらしないにも程がある!!」
 やはり怒りだした。リシェはひぃっと身を固くしてしまう。
 ロシュもがばりと上体を起こすと、わざとらしい愛想笑いをしながら「お、おはようございますオーギュ」と言って誤魔化していた。
「リシェに添い寝をするのは構いませんがね。メリハリをつけてくれないと困るんですよ」
 朝から青筋を立てるのは良くないですよ…と余計な一言をぶつけると、オーギュは鋭い目付きのままベッドに近付く。
 ツカツカと足音を立てながら。
「…さっさと起きろ!!」
 彼はふわふわの羽毛布団を引っ掴み、ぶわりと剥がすと、朝からだらしないロシュに対し勢い良く怒鳴り付けていた。

 時計塔の針が十の刻を刻む頃に、大聖堂の正門付近でサキト達と落ちあう予定だった。
 朝食を済ませ、軽く準備を済ませた後でリシェはファブロスと一緒に中庭へと足を進めていく。朝から非常に騒々しかったのでやや消耗した様子を見せる剣士に、ファブロスは『あいつはいつもそうなのか?』と怪訝そうに聞いた。
 延々怒られていた主人の姿を思い出しながら、いつもはそうじゃないけど…と複雑な表情で返す。
布団を捲り、早く出ろ!と補佐役に怒られるのを皮切りに、そこに座れと命じられた挙句に説教をかまされているロシュが少し可哀想に思えたが、こちらもやる事がある。
 内心で謝りながらそそくさと用意して今に至った。
『今日はオーギュは朝から変にピリピリしていたからな』
「…何かあったのか?」
『髪が伸びてきて邪魔だという位しか不満は聞いていない』
「………」
 切りに行く時間が無いのだろう。しかも雨上がりの為か、湿気も朝から凄い。時が経過すればそれは解消されるが、じめじめする空気に耐えられないのだろう。
『空気中に漂う魔力にも感化されるのだろうな。天候が悪ければ悪い程、術者の持つ魔力に影響が出る場合もある』
「なるほど…」
『お前は大丈夫なのか?具合は』
「大分良くなった。ただ、今日は剣は使わない方がいいだろうって」
 護身用として過去に貰い受けた小振りの杖を収納用のベルトに掛け、腰に差している。
「一応杖は持って来た」
 恐らく使う事は無いだろうが、何も持たないのは不安だった。
『それに魔力は入っているのか?』
「ああ。オーギュ様に詰めて貰った」
 リンデルロームの魔導師クロネが製作した杖。扱う者が居ないという事で貰い受けた魔石入りの小型の杖だが、術者の魔力を増幅させるには高魔力を持つ魔導師から力を封入しなければならなかった。
 そのままでも魔法を放つ事は可能だが、威力は封入後の方が極めて強い。その為、一般的には他者から強力な魔力を込めて貰った後で使用する者が多いのだ。
 ほぼ空の魔石に魔力を封入する技を流浪の魔導師イベリスから習得したのは記憶に新しいが、既に済ませていたのは知らなかった。
『ほう。それなら良かった』
 大聖堂の天井に掛かる窓ガラスの隙間から差し込んでくる日の光は時間の経過につれて次第に強く明るくなっていく。先日の大荒れの天候が続いていたのが信じられない程、嘘のように晴れやかになっていた。
 正門が見えてくると、既にシャンクレイスの面子が待機している状態だった。待っている間、サキトはその付近をうろうろ歩き回っている。
 行動に関して制約がある身分の為なのか、目に見えるものが珍しいのだろう。
「あ!」
 彼はリシェとファブロスの姿を確認すると、上機嫌な顔で手を振り始める。
「おはようございます、サキト様」
「待ってたよぉリシェ。今日は宜しくね」
 軽やかな足取りで駆け寄り、サキトはリシェの手を取るとぶんぶんと振るった。この日をとても楽しみにしていたらしいのが良く分かる。
 サキトの後方には護衛剣士のクロスレイが慎ましく控えていた。体調は随分持ち直したようで、リシェは安心した。
「お…おはようございます」
 彼はこちらに向けて頭をぺこりと下げる。
「おはようございます。具合はかなり良くなったみたいですね」
「お陰様で…その節は大変ご迷惑をおかけしました」
 遠慮がちな口調のクロスレイは、何度も何度も申し訳なさそうに頭を下げっぱなしだった。
「そうだよぉ、クロスレイ。これからちゃんと尽くしてくれなきゃね」
「は、はい…サキト様」
 悪戯っぽく頬を膨らませ、サキトは自分の従者に向けて言い放った。
 ここまで低姿勢な彼を見ていると、あの凄まじい怪力っぷりを見せていたとは思えないなと対峙していたファブロスは思う。性格はどうであれ、この頼りなさげな顔を見せるクロスレイは剣士としては相当な能力を持っているのだろう。
「ええっと、リシェ」
「はい、サキト様」
「湧水を入れるボトルは用意してあるんだよね?」
「勿論です。ただ、どの位必要なのか分からなくて。色々なサイズを持ってきました」
 リシェはそう言うと、用意していた空のボトルの入った袋を見せる。旅人向けのボトルは持ち運び出来るように折り畳み式のもあれば、手に持ちやすいタイプの小さな大きさもあった。
 大きいボトルは折り畳みのを購入し、程良く手に収まるタイプのボトルは袋にそのまま突っ込んでいる。
「へぇ…」
 サキトは関心するように透明な袋の中身を覗き込む。
「君、本当に準備をしっかりするタイプなんだねぇ」
「色んなタイプがあれば選びやすいかと思って…」
「ふふ、君はとても真面目な性格で良いね。毎日それじゃ疲れないの?」
 袋の中で、カラカラとボトルがぶつかり合う音がした。
『リシェは常にこんな感じだ』
「んっふ…そうなんだ。用心深いんだね。勿体無いなぁ…こっちに残って剣士に志願してくれたら、とてもいい役目を果たしてくれるだろうに」
 サキトはリシェに対し、似たような年齢だしねと残念そうに小さく肩を落とす。彼の従兄弟であるスティレンとは全く質が異なるが、リシェはいい仕事をこなしてくれそうに思えた。
「スティレンと比べたら全然性格も違うよね。不思議だな」
「あいつは…」
 他国に来てもブレないスティレン。
 少しは我儘を控える事も出来ない上に、性格も一切変える気が無さそうなので、比べるだけ野暮な気がする。
『あれは我儘いっぱいに育っているから期待しても思う通りにはしてくれないぞ。それはお前にも分かったのではないか?』
 一国の王子を相手にしていても、ある意味何処にも属さないファブロスは畏まった言い方をする事が無い。お前、という言い方にお付きのクロスレイは慌てて口を挟んでしまう。
「あ、あの…サキト様はシャンクレイスの王子というお立場です。どうか少しだけでも敬う言い方を」
 彼の立場で話を聞いているとヒヤヒヤしてしまうのだろう。
 その気持ちは分からなくもないとリシェは思った。
 ファブロスは整った顔をクロスレイに向けながら『ふむ』と少し考え込む。
『どう言えばいいのか』
 長過ぎる位の命を与えられているファブロスには、大半の者はまだ幼子のようにしか見えないようだ。言葉を考えてくれと言われてもどう接したらいいのか分からなくなってしまう。
 だが間を開けてサキトはふんわりと微笑むと「いいんだよ」と宥めた。
「僕は普通でも構わないけど?君、オーギュ殿の召喚獣って事はかなりの長寿なんでしょ」
『どれくらい生きているのか忘れた』
「へぇ…だから人間の生活に慣れてるんだね」
『そうでもない。…オーギュによって矯正されながら生活しているようなものだ。人になれるなら出来るだけそうしろ、と。獣の姿のままでは他の者に驚かれてしまうと』
 まあ確かにそうだよね…とサキトは理解する。
「とりあえずここから出よっか。きっと湧き水も沢山出てるだろうからね」
 立ち話を延々としているのも良くないと思ったようだ。
 大聖堂や観光客が少しずつ大聖堂へと足を踏み入れて行く中、その場に突っ立って話をしていると迷惑を掛けてしまう。
「あ…そうだ」
 正門を通り抜けた所で、リシェが思い出したように声を上げた。先陣切って歩んでいたサキトは、ちらりと振り返りながらどうしたの?と首を傾げる。
 リシェは宮廷剣士の制服の胸ポケットから書状を出すと、サキトに言った。
「一応、目的地は大聖堂の管轄の敷地になっているので…誰かしら警備に入っている者が居るかもしれません。あの悪天候だったので誰も警備してなかったかもしれませんけど…警備の者が居た時の為に許可証をロシュ様から預かっています。これをサキト様に渡して欲しいと言われました」
「そうなんだ。流石ロシュ様。抜かりは無いねぇ」
 ふんわりとサキトは微笑む。ここでも司聖ロシュの気遣いを感じ、その細かさに関心した。
 書状をリシェから受け取ると、彼はクロスレイに手渡す。
「君が持ってて」
「は…はい!」
 落とさないようにね、と釘を刺した。
 折角の書状を無くすのは大層な無礼を働く事になってしまう。前回の食事会でも相当迷惑を掛けてしまったのに、ここでまた粗相をする訳にはいかないのだ。
 クロスレイは分かりました!と勢い良く返事をすると、その場ですぐに自分の制服の内側ポケットに入れた。
『雨上がりで足元が泥濘むらしい。足場が悪くなり次第、本来の姿に戻ろう』
「ん?どうして?そのままの方がいいのに」
『お前の足を泥で汚す訳にはいかぬとオーギュが言うのでな』
 サキトは目を見開き、ファブロスに「そんな事まで指示してたの?」と驚いた。
「別に僕は構わないんだけどねぇ」
 自分が言い出した事なのに、何もそこまでやって貰わなくてもいいのにと困惑した。出先では何かしら汚れてしまうのは致し方無いと思っていたので、そこまで気を使われても逆に困ってしまう。
 気持ちだけはとても有難いのだが。
『道が悪くなったら私の背に乗れ』
 困ったねぇ、とサキトは言う。
 自分で湧き水が欲しいのだと言いだした手前、余計な手間を掛けさせるのはどうなのかと思うのだ。
「その際は俺がサキト様を担ぐつもりでしたが…」
「僕は自分の足で歩こうと思っていたんだよ…」
「お御足が汚れる事の無い様にとイルマリネ先輩からも言われたので…」
 クロスレイの言葉に、サキトははぁ…と溜息を吐いた。
 これで自分の意見を突き通すのも良く無いだろう。折角の申し出を無碍にするのもどうかと思う。
 彼らの言葉を無視すると余計に話は拗れるのを、サキトは嫌という程理解していた。それぞれの立場や厚意を無視する程、彼は愚かではないのだ。
「分かったよ…じゃあ、召喚獣君にお願いしようかな。本意では無いけど皆の立場も立ててあげないと…」
「それがいいと思います、サキト様」
 城下街へ続く階段を降り切ると、その先には大聖堂とは違う景色に包まれる。アストレーゼンに足を踏み入れた際にちらりと馬車の窓から見た景色をすぐ真近に目にした賑やかな街並みに、下界の景色に慣れていないサキトは「うわぁあああ」と素直な歓声を上げていた。
 一般人が王城や聖堂の環境に慣れていないのと同じく、彼の目には一般人の生活が垣間見える街並みが大層眩しく見えるのだろう。
 時間の経過と共に増えていく行き交う人々や、そんな人々を呼び止めて店内に誘う者の姿。シャンクレイスでは規制されている為か、まず目にする事は無いとサキトは言う。
 狭い路上の敷地を使って商売する露店も相当珍しいようだ。
「時間が余ったら街を散策してみたいなぁ。こっちはとても自由な感じがするね」
「湧き水を取り次第すぐに戻れると思いますので、時間は多少出来ると思います」
 護衛もこれだけ居るのでシャンクレイス側が不安を抱く事は無いだろう。リシェはサキトにそう言うと、早い段階で大聖堂から出てますしと続ける。
「そうだね。じゃ、早々に取りに行こっか」
サキトはふんわりと微笑むと、自分を護衛してくれる仲間達を促し目的地への歩調を進めていった。

 アストレーゼン宮廷剣士の新副士長となったヴェスカ=クレイル=アレイヤードは久方ぶりの休暇で、城下街の外部に飛び出していた。
 新しく副士長となる以前から書面での手続きから始まり、新制服の採寸、各方面への挨拶周り、能力を測る為のテストに明け暮れた挙句シャンクレイスからの訪問者の対応の為に警備の準備、更にそれ以降の侵入者対応に追われて全く休みらしい休みは取れなかったのだ。
 いくら体力馬鹿のヴェスカでも、慣れない事に関しては疲れ果ててややげっそりしていた模様。
 あまりにもハードなスケジュールだったので士長ゼルエが特別に配慮し、臨時で休暇を与えてくれた。それを知るや彼は「釣りに行くから探さないで下さい」と無駄に意味深過ぎる書き置きを残し、城下街から真っ先に飛び出していた。
 別に書かなくてもいいのに、と兵舎の職員の面々は首を傾げたのは本人は知るよしもない。
一日でも自由になれる時間があるだけ十分である。
 気分をリフレッシュさせるにはアストレーゼンの中心に居るのは宜しく無い、と思いそこから離れて大自然に触れるのが一番良いと判断したのだ。
 中心に居れば居る程、煮詰まっていた感覚に引き摺られてしまう。それならば全く関係無い場所まで離れるのが一番である。
 城下から離れ、少しだけ歩いた先に絶好の釣り場があった。恐らく外部を自由に行き来出来る自分にしか分からないだろう。大抵の人間は魔力に感化された動物や生物を恐れ、なかなか城下街の外には出ないのだ。
 忙しさで釣りをする機会が無かったので、護身用の武器と一緒に釣りの道具を引っ張り出し今に至っている。
 先日の荒れ狂った天気とは真逆の、澄み切った空を眺めながらの釣りは最高だ。
 釣った魚はその場で焼けばいい。
「あー…」
 青空を見上げ、頃合いの岩場に座って時期が来るのをひたすら待つ。
 ゆったりとした時間が流れていくのを、雲の動きを目で追いながら感じていると、釣竿に僅かながらの反応を感じた。
 んおっ!?と現実に引き戻される。
 雨上がりとあり、やや増水気味ともあってか水量はいつもより多い。比較的安全な岩場で釣りをしているが、うっかりしていると川の流れに竿ごと持っていかれてしまう。
 きっちりと釣竿を手にすると、引っ張られる感触があった。
「よっしゃ…」
 城下街付近の川はそれほど大きな魚は期待出来ないが、増水しているこの日は別だ。他の水流から押し流されるように、稀に想像もしないくらいの大きな獲物にありつく事もある。
 運良く大振りな獲物が釣れれば、外に出た甲斐があるものだ。
 食いつかれた瞬間に駆け引きが始まる。リールに手を掛け、押したり引いたりを繰り返しながら獲物を逃すまいと慎重に手繰り寄せていった。
「くっそ…重いなぁ」
 ずっしりとした感触からして、結構な大きさなのだろう。
「絶対焼いて食ってやる」
 ヴェスカの頭の中は焼き魚の事しか無かった。腕に掛かる負担が大きいのできっと肉厚ないい獲物のはずだと。
 こうなれば絶対逃す訳にはいかない。下唇を噛み、長期戦を覚悟した。
 うっかりすると全身が引っ張られてしまう。力比べには丁度いいだろう。彼の釣竿を握った手に力が入り、隆々とした筋肉に包まれた腕が更に太さを増した。
 相手が逃げようとするに任せ、やや力を緩める。油断した瞬間を待ちながらひたすら駆け引きを繰り返す。釣り糸がぴんと張られ、切れないように注意しながらこちらに引き寄せていく。
 塩焼きが食いたい。
 そう焼けた大物を脳内でおもいうかべながら徐々に手繰り寄せていった。獲物は次第に疲れが見えてきたのか、抵抗を弱める。
 いい具合だ、と男らしい精悍な顔が強気に緩んだ。このままいけば上等な獲物に辿り着けるだろう。
「よしよし…んん?」
 焼きたての大魚の妄想に笑みを浮かべているヴェスカだったが、遠方からこちらに向かって何か駆け寄ってくる音を耳にする。
 いや、駆け寄るという可愛らしいものでは無い。ドドドという重厚感たっぷりの地鳴りのようなものだ。その音が自分の方向目掛けて近付いてくるのを感じた。
「ええぇ…」
 何もこんな時に来なくてもいいじゃないか、と眉間に皺を寄せた。まさか魔物とか猛獣とかの類ではないか、と嫌な予感がする。
 その騒々しい足音は次第に強さを増す。
「ま、マジかよ…折角いい所だっていうのに!!」
 せめて完全に釣り上げてから来いよとリールを回した。依然として魚は抵抗を再度強めている。こちらの油断を察知したのだろう。逃げるチャンスとばかりに強い力で逃げようと動いていた。
 ぐっ、とヴェスカも粘る。緊急事態で釣竿を離してもいいが、いい値段で購入したものなので惜しいと反射的に握る力が増してしまう。
「くっそ…!!」
 釣ってから対処してやる、と舌打ちすると、自分のすぐ真上で影のようなものが過ぎっていった。その後、細い何かが続けて上空を飛んでいく。
 …まるで影を追い掛けるかのように。
「はぇええっ!?」
 驚く間もなく大きな影は自分からやや離れた場所に落下し、水飛沫を激しく飛ばす。ヴェスカも例外なくその被害を被り、真正面から水の洗礼を受ける羽目になった。
「冷てぇえええええ!!」
 一体何が起きたのか。
 冷水を満遍無く浴び、ヴェスカは何かが落下した方向に目を向ける。同時に大きな塊の存在を確認すると、「は?」と素直に声を放っていた。
 塊の一部には木の槍のようなものが突き刺さっている。かなりの出血の為に、そこから赤黒い血が川に混ざり澱み初めていた。
「い…猪?」
 大自然が育み過ぎたと言っていい程の大きな猪がその場で絶命していた。槍は粗雑に造られていて、いかにも臨時で作りましたと言わんばかりの代物だ。
 どこかの狩猟民族が近くに存在しているのかと思う位、その槍の完成度と殺傷力が高かった。
 一体誰が…とぽかんと口を開いていると、背後から気配を感じる。
「おぉ、いけるものだな!」
「………」
 陽気過ぎる位の明るい声が飛んでくる。ヴェスカはその声がした方へ顔を向けた後、意外な人物に驚き目を見開いた。
「あっれ…あなたは」
「お?」
 相手もヴェスカの存在に気が付き、同じような表情で驚く。
 まさか外部で他の人間と遭遇するとは思わなかったらしい。
「サキト王子の兄上様?」
 サキトの実の兄にも関わらず、専属の護衛剣士という一見変わった印象の王子がいきなり目の前に出現し、ヴェスカは慌てて体勢を整え頭を下げた。
「おお…っ?大聖堂の関係者かな?」
「ええ、一応…宮廷剣士です」
「そうか!ここまで警備の手を広げているのか?」
「いえ…俺は休暇で…」
 どうやら彼は完全に単独行動のようだ。彼を追う護衛らしい者の足音が完全に無い。むしろ、他の人間の気配を全く感じられなかった。
 一国の王子にも関わらずお供も無く単独で外部に出ているのか、と混乱しそうになるのを堪える。
「ええっと…まさか、あの猪って」
「お?ああ!そうそう、そうだった。俺は猪を追い掛けていたんだった」
 彼は思い出したように白い歯を見せながら笑う。
 一国の王子とは思えないような発言に、ヴェスカは「…え?」と間の抜けた声を発していた。
「猪って…」
 兄王子は自分とほとんど変わらない自然な笑顔を保ったまま、川に突っ込んでいる巨大猪の方へ近付いていくと、状態を確認し始めた。
「あのー…」
 あまりにも原始的な狩猟方法で、空いた口が閉まらない。
 ヴェスカが見届けている中、彼は様々な方向から猪を見回すと、こちらに「大丈夫だ」と言った。
「いい肉になりそうだな!」
「え…?まさかそれ、持ち帰る気ですか?」
「ずっと世話になる訳にもいかないからな。大聖堂に厨房はあるのだろう?」
「は、はぁ。そりゃ勿論ありますけど」
 相手の自由過ぎるペースに呑まれそうになる。
 ヴェスカは、それまで抱いていた自分の頭の中にある王子像が変異しているのが分かった。猪を狩る王子など今まで見た事も聞いた事も無い。
「そうか!あれくらい大きな場所だから調理場も大規模だろう。こいつをこのまま持っていってすぐ血抜き作業をさせて貰うか」
「持っていく気ですか!?」
 どうやって!?と疑問をそのまま口にした。
 流石にそのまま城下街へ血液を垂れ流している巨大動物を担ぐには無理がある。今の時間帯、アストレーゼンの城下街には人の通りが激しいはずだ。
 流石に流血したものを連れ出すのは恐怖を与えかねない。
 持ち運ぶには厳しいと危惧しているヴェスカだったが、兄王子はけろっとした面持ちで首を傾げた。
「なるほど、アストレーゼンには流通していないのか」
「へ?流通…?ええっと、すみません。殿下のお名前を失念してしまって」
 兄王子は素直に無礼な事を言ってしまうヴェスカに対し、ふっと目元を緩めると「フランドルだ」と答える。
「フランドル=エルクシア=セラフィデル・シャンクレイス。俺は王子には向いていないからな。普通に呼んでくれて構わないぞ」
「いや、立場上そういう訳には」
 自分よりは遥かに年下であろう相手だが、やはり王家の人間に対する言葉は考えてしまう。心配そうに言うヴェスカだったが、向こうは違う考えを持っているようで「気にしなくてもいいのに」と苦笑した。
「俺は堅苦しいのは好きじゃ無いんだ。…名前は何と?」
「ヴェスカ=クレイル=アレイヤードです、フランドル殿下。宮廷剣士副士長をしています」
 その発言を受け、兄王子のフランドルは屈託の無い嬉しそうな顔を見せた。
「士長クラスだったのか!そりゃいい!」
「いや、なったばかりなんでそこまでベテランでもないんですけど…」
「いやいや、それ位の地位になるには相当な鍛錬と仕事に対する評価があるという事だと思うぞ?それは誇るべきで、自信を持つには十分だ」
 彼はそう言いながら何かを探し始めるが、しばらくして「あれ」と呆けた様子で天を仰ぐ。
「おかしいな」
そう声を上げる。
「どうされましたか?」
「どうやらスポイトを忘れてしまったらしい。困ったな」
「スポイト?」
 フランドルはヴェスカの言葉に頷く。
「正式な名前は分からない。ただ形状がスポイトみたいな形だったからな。こっちが勝手に呼んでるだけなんだが…旅路で得た拾得物や獲物を、魔法で作られた簡易的な空間に突っ込んで保存出来る即席の携帯倉庫みたいな魔道具だ。これはシャンクレイスの魔導師の間で開発した代物で、少量の魔力で作られた空間の中にいくつも物を収納出来るようになっている。…しかし常に持ち歩いていると思っていたんだが、どうやら忘れてきてしまったらしい。参ったな」
 これでは持ち運べないじゃないかと彼はしゅんとする。
 ヴェスカは巨大な猪に目配せしながら「あぁ…」と唸った。
 大の大人が手を大きく限界まで広げた位の大きな獲物を大聖堂まで持ち運ぶには相当無理がある。城下街を通過せずに、直接大聖堂の厨房まで行けるルートがあれば問題は無いかもしれないが、それほど深く出入りしないヴェスカにはその方法を探るのは難しかった。
 せめてこの場に司聖補佐であるオーギュが居ればいいのだが。
「ううん…」
 ヴェスカも腕を組みながら考えた。
 まさかこのまま街に入れる訳にはいかない。仮に布をぐるぐる巻きにして隠しても、猪が出す血や匂いによってすぐに周囲にバレてしまう可能性が高い。
 自分が走って大聖堂に赴き、王子が大物を仕留めたので対応を頼んだとしてもかなり時間を要するだろう。
「どうしよっかな…」
「裏道とかは無いだろうか?」
「それが、俺も分からないんっすよねぇ。分かってたら言えるんだけど、こればかりは」
「仕方無い。このまま持っていくか」
「ええ…持って行く気ですか…?」
 流石にそれは避けたい。流血した猪を見れば、人々は確実に混乱してしまうだろう。
 川の中の獲物に目を向け、二人は呆然と立ち尽くしていた。

 朝露が輝く路面を踏み締める。水分を含んだ独特な匂いが周辺を取り巻く中、リシェ達は順調に目的地方面へ進む。
 城下街を避けるような小道を進むと、大通りとは違った景色が広がっていった。
『この辺でいいだろう』
 ファブロスはそう言うなり、自身を獣の姿に変えた。
 魔力の粒子が彼を取り囲むと、彼の生来の形を象っていく。それを目の当たりにしたサキトは「わぁ」と歓声を上げた。
「召喚獣かぁ。不思議なものだねぇ…」
 筋肉に包まれて艶めく獣の肌と、さらりと風に揺らめく鬣を眺めるサキトに対し、ファブロスは『乗れ』と命じた。
『足元が悪くなる可能性があるからな。今のうちに乗っておいた方がいいだろう』
「ありがと」
 実はちょっと楽しみにしてたんだよね、と彼は笑う。
 小柄なサキトが乗る事でファブロスの大きさが更に際立ってしまう。出来るだけ人間の姿で生活しなさいという主人のオーギュの気持ちが何となく分かった。
 一般的な人間の部屋は彼にとっては非常に狭いだろう。
『しっかり掴んでおけ』
「痛くない?」
『人間の引っ張る力など大した事ではない。気にするな』
 このような機会が滅多に無いので、サキトの目は爛々として輝いていた。逆に付き添いのクロスレイは不安でそわそわしている様子。
 慣れているリシェに、そっと「あの」と声を掛けていた。
「だ、大丈夫なのでしょうか」
 振り払われたり何らかの拍子で転がってしまっては全く意味が無い。召喚獣の背に乗るという経験の無い彼らにとっては、非常に危なっかしく見えてしまうのだろう。
 直接聞けばいいものを、彼は何故かファブロスに声をかけにくそうにしている事から、少し怖がっているのかもしれない。
 操られていた時は普通に対峙していたのに。
 リシェはふっと安心させるように微笑むと、大丈夫ですよと返した。
「ファブロスはしっかり守ってくれます」
「そ…そうなのですか。まさかそのまま鞍も無いままだとは思わなくて…」
 自分は別に乗り物では無いのだが…と背後に居る二人の会話を聞きながらファブロスは思った。しかし、彼が言いたい気持ちも分からなくもない。
 召喚獣というのはあくまで言い伝えられていたという位の特殊な種族だ。余程の能力を持ち、相性が良くなければ召喚獣は術者に見向きもしないのだ。
 彼らのほとんどは人間には興味を持たない。
 大抵は人間を下に見ており、自分達を従属させる事が出来る者はそうそう居ないと考えているのだ。
 余程潜在能力の高い者や、突出した才能の術者でなければ彼らは反応しなかった。自分のように理想な術者に巡り合うなどまずあり得ないのだ。
「仮にバランスを崩されてお怪我をされても、ファブロスは治療の術も使えますので…」
「は…」
 街と下界の境目を示す柵を通過すると、魔除けの結界として地面に埋め込んでいる鋲の存在を確認する。この結界鋲から先は危険地帯となるので注意するようにという立て看板があり、武装しない限り一般民は侵入禁止区域となっていた。
 稀に興味本位で何も持たずに出てしまう一般民も居るが、出てからすぐに魔力干渉を受けた動植物に襲われ命からがら逃げ戻るか、巡回している宮廷剣士らによって厳しく警告を受けて引き戻しを食らうかのどちらかだった。
 この付近は街に近いせいか気軽に出る事が可能な為に要注意地域として剣士や警備員に見張られている。
 リシェ達のように武装している者は手練れの剣士だと見なされ、そのまま出ても問題無いとお目溢しを貰えるのだ。
「ここからは危険区域になります。結界が近いので魔物が寄り付く事はそんなに無いと思いますが気をつけて下さい。俺は今回剣は持ってないので、もし何かが出た場合は前衛をお願いします」
「へ…け、剣を持って来ていない、と?」
 いきなり前に出てくれと言われたような気がしたのだろう。
 クロスレイはリシェの発言に少しばかり焦ったように問う。彼のやや引っ込み思案な性格を何となく把握しているリシェは、「大丈夫です」と自分よりも大きな相手を見上げた。
「俺、魔法も扱えるので。流石にオーギュ様のようにはいきませんけど…援護程度ならお手伝い出来ると思います。それに、ファブロスも居ますから」
「そうですか…あぁ、どうしようかと思った…」
安堵するクロスレイ。
 二人の会話を黙して聞いていたファブロスは、自分の背に乗る少年に『奴は本当に大丈夫なのか?』と疑問を投げ掛ける。
「ん?」
 サキトはきょとんとした顔でファブロスを見下ろした。
『あの一件とは完全に真逆な性格なのだな。もう少し気を強く持たせた方がいいぞ』
「あはは、そうだねぇ。もうちょっと自信を持ってくれてもいいとは思うよ。剣の腕も文句無しだからね」
『下手をすると年下のリシェの世話を受ける羽目になるぞ』
「それは無いよぉ。僕がそれを許さないからさ」
 にこにこと無邪気に笑う。
 クロスレイの立場からして見れば酷な発言だとは思ったが、主人であるサキトは相当彼の能力を買っているのだろう。
 弱気な従者とは対照的な言い草に、ファブロスは声を出して笑った。
『怖い奴だ』
「僕は優しいと思うけどねぇ」
 そんなに酷くないよとサキトが膨れっ面を見せたその時。
 ファブロスは何らかの気配に感付き、ふいっと獣の太い首をある一方へ向けた。
『ん?』
 鼻先を向けた方向は至って普通の牧歌的な景色。
 何者かの人影も見当たらない。彼の様子に気付いたサキトは、きょとんとした面持ちでファブロスと同じくその方向に顔を向けた。
「どうしたのぉ?」
 歩調を徐々に緩め、そしてぴたりと足を止める。
『ちょっと気になってな』
「?」
 彼は後方に居るリシェに声をかけた。
『ここで少しの間待っていてくれないか、リシェ』
 これから先に進むのに待機なのか、とリシェはきょとんとした顔をする。ファブロスは申し訳無さそうに鼻先を下に向けた。
「何かあったのか?」
『いや、気になる気配がある。ここから少し離れた所…見知った気配と血生臭さを感じたのだ』
「血生臭さ…」
 リシェとクロスレイはファブロスが気にしていた方向にほぼ同時に顔を向けた。彼らの目には普通の牧歌的な大自然の景色に、青々とした草木の匂いが鼻を突いてくる程度にしか感じられない。
 人間より鼻が効く召喚獣だから察知しやすいのだろう。
 リシェは「分かった」と頷く。
「誰かが怪我をしているのかもしれないからな」
 もしかしたら外部に出てしまった住民が怪我を負い、帰れずに困っているのかもしれない。
 無事でいればいいが、もし違っていたら大問題になってしまう。
『すぐに戻る』
「ああ」
 ファブロスはそう言うと、サキトにしっかり掴んでいろと一言告げると、全ての足に力を込め地面を引っ掻く。重い土が跳ね上がると同時に、想像以上のスピードを上げて駆け出して行った。
「えあぁああああああ!!さ、サキト様!!」
 猛スピードで立ち去って行くのを見たクロスレイは、サキトの身を案じて思わず素っ頓狂な声を上げる。
「大丈夫でしょうか!?あ、あんなに凄いスピードを出されては振り落とされてしまったりなんてしたら」
 焦り、顔色を変えて戸惑うクロスレイ。
 しかしリシェは駆け出す前のサキトの顔を思い出しながら、あぁ…と返す。
「大丈夫だと思いますよ…何かサキト様、凄く楽しそうにしてたし…」
「で、ですが、もし何かの拍子に落ちてサキト様に重大な怪我を負ってしまったら…!!俺は死罪になってしまうかもしれません!!」
 悲観に暮れる護衛を横目で見ながら、何だか面倒なタイプだと思ってしまった。
 体型は理想的な剣士そのものなのに、内面は非常に弱気。大丈夫だと言っているのに信じられないというのか。
「ど、どうしよう…もしサキト様が最悪な状況になってしまったら…俺は腹を切るしか無い…!!」
 どっちの心配をしているのかは分からないが、流石にファブロスもちゃんとサキトを見ているはずだ。
「何も無ければすぐ戻りますから」
 まずは待ちましょう、と変に弱気なクロスレイを宥めた。
 あっという間に遠のいたサキト達を呆然として見届けながら、クロスレイはその場で突っ立っている。リシェは慣れているかのように、いい岩場を見つけてゆっくりと腰を下ろした。
「少し早い休憩だと思えばいいです」
「は…はい…」
 気にしていない様子の少年剣士の落ち着き具合に、クロスレイは妙な違和感を覚える。
 変に達観しているというか何というか。サキトと変わらない年頃のはずだが、その落ち着きは年相応のものとはかけ離れているような気がした。
「ええっと…リシェ、さんでしたっけ」
「リシェで構いません。俺の方が年下ですし…」
「いえ、そういう訳には。司聖様の護衛をされている位ですから」
 それを言うならサキトを守っているクロスレイも同じような立場だと思う。
 リシェはふっと口元に笑みを浮かべた後、「ではお互い呼びやすいようにしましょう」と返した。しかしクロスレイは遠慮がちに笑顔を向けると、普通にさん付けでリシェを呼ぶ。
 仮にリシェがシャンクレイスの剣士として所属していれば、先輩と後輩の関係になっていたに違いない。
 そう考えると、お互い妙な気持ちになる。
「はい、リシェさん」
 その生真面目な返事を受け、リシェは変わらないじゃないかと思いながら笑った。

 …景色が物凄い勢いで飛んでいく。
 草や木の輪郭を目で辿れる隙も無い程の速さで、まるで全速力で駆け抜ける駿馬に乗っている感覚だ。しかもしっかりした鞍に乗せられている訳でも無いので非常にスリルを感じる。
 サキトは野を駆けるファブロスに抱き付き、その固めの鬣を掴みながら「どこまで行く気なのー?」と問う。
『もう少しだ。大丈夫か?』
 一国の王子を乗せるには非常に荒々しい乗せ方で、彼を置いて来れば良かったなと一瞬後悔していたが、サキトは楽しいよと至って普通に感想を述べる。
『ふん…相当肝の据わった王子様だな』
「兄様が良く荒っぽい馬に乗るんだ。たまに乗せて貰ったりするから、慣れたものだよ」
 可愛い顔をしているくせに、刺激には慣れっこの様子だ。
 その口振りからすると相当激しい動きには耐性があるようなので安心した。彼のような温室育ちは、あまり刺激が強いものには拒否反応を示すのではないかとどこかで危惧していたのだ。
 どうやらサキトが置かれている環境は、自分が想像していた王族の印象とはややかけ離れているらしい。
 見えてきた、というファブロスの言葉を受け、サキトは顔を上げた。いつの間にか浅めの川の近くを走っている事に気付く。そして向かっている方向へ進むにつれ、大きさも広がりを見せていた。
 遠目に見える森の手前に掛かる橋の近くに、人影が見えてくる。人影の数は大人が二人といった所だろうか。
 肉眼で見た限り、怪我人ではなさそうに見える。ファブロスが言っていた血の匂いを放っているようには思えなかった。
 重みのある足音を響かせながらその二人に近付いていくと、ファブロスは『ん?』と獣の大きな目を細める。
「あれ」
 そしてサキトも同じような反応を見せていた。
 同時に、相手側も近づいてくる足音を耳にしたのか警戒の度合いを深めたらしく、一瞬護身用の武器を構える体勢を取る。
「…兄様!!」
 相手側が刃物を出す前に、サキトが大声を上げた。
「兄様、武器を収めて!僕達だよ!」
 彼が自分の兄王子に声を掛けたのと同時に、ファブロスもスピードを少しずつ弱めていく。彼らの近くにあった小規模の橋の外観がはっきりしてきたと同時に、その橋の下にあった大きな動物の塊も視界に入ってきた。
 それは大量の血を流しながら息絶えている様子。慣れない者が目にすると、驚いて気を失ってしまうだろう。
 育ちの良い貴族のご婦人方には決して見せられない光景だ。
 サキトはその血生臭く物騒な塊を見るや、「ええ…」と眉間に眉を寄せた。
「ファブロスじゃねぇか!」
『何だ、ヴェスカか。何をしているんだここで…』
 サキトの兄王子と一緒にヴェスカもその場に居るという偶然。前回の騒動でも、そこまで彼らが絡む事は無かったはずだ。
 ファブロスは二人を交互に見た後、不思議そうに首を傾げる。
「あんたも何でここに」
『ちょっとした用だ。向こうの方でリシェ達を待たせている。血の匂いを感じたから何かと思って辿って来ただけだ』
 血の匂い…と聞くや否や、ヴェスカとフランドルは同時に自分達のすぐ後方に居る猪の死骸に目を向ける。
「こいつかな?」
 至って普通にフランドルは獣を指しながら言う。
「どうやらそのようっすね」
 ヴェスカも苦笑した。
「…血の匂いの正体ってこれだったんだね…兄様、自由な時間となればすぐに狩りに出ちゃうんだから」
 どうやら人の血では無かったようだ。
 ファブロスは『怪我人が居たのかと思ってな』と来た道を振り返る。
「あぁ、なるほど。匂いに反応しちゃったってやつか」
 獣の習性のようなものだなとヴェスカは変に納得した。
 だが、ここにあるのは兄王子のフランドルが仕留めた巨大な猪だけだ。
「兄様、それどうする気なの?まさかいつものように大聖堂に持って行く気?」
 いつものように慣れた風を装い、サキトは呆れた。
 シャンクレイスの城のようにすぐ厨房へ入れる勝手口がある訳ではない。ここはアストレーゼンの国だというのをすっかり忘れているのではないだろうか。
 いきなり血だらけの獲物を大聖堂に持っていかれては、大聖堂の関係者は度肝を抜くに違いない。その辺りも普段から大雑把な性格であるフランドルは考えてもいなさそうだった。
「あぁ!そうだ。それだ。折角の猪だ、持って行けば何かしら美味く仕込んでくれるだろうと思ってな!」
 カラカラと白い歯を見せて楽観的に笑うフランドル。
 やっぱり、とサキトは脱力した。
「これだけの大物だぞ!」
「大物だぞって言われてもさぁ…」
 持って行くにも一苦労だろうに、とサキトは頭を振った。
 馬鹿力を誇るフランドルならば、力任せに引っ張って普通に持って帰れそうだが。
 …ただそうなれば、彼が歩いた後は血の道になる。他国の王子が出先で血の道を作って闊歩するのは流石に印象が悪いだろう。
「持って帰るにしても向こうに伝達しなければ対処出来ないでしょ」
 川で鎮座している猪に目を向けていたヴェスカは、「あ」と何かを思い出す。
「てか、ファブロス。あんた。オーギュ様と意識内で繋がってるんだろ?」
『ん…ああ、そうだな』
 あまりにも暖かい日差しを受け続けていたのか、ファブロスはぼんやりしつつあった。突然声を掛けられてハッと我に返ると、ヴェスカの声に反応する。
「それなら今オーギュ様にお伺い立ててくれない?」
『なるほど。そういう手もあるか。…確かに奴に伝えれば向こうですぐに対応出来るだろう』
 どういう事なのか、と二人の話を聞いていたフランドルは不思議そうな表情で「んん?」と首を傾げた。巨大猪をどう持ち帰るかで行き詰まっていた状況から、どうにか解決しそうですよとヴェスカは笑う。
「何だって?」
「ほら、ファブロスはオーギュ様の召喚獣ですから。離れていても会話は可能なんだそうです。どういう仕組みなのかは俺にはさっぱりだけど…」
 目を伏せ、ファブロスは主人とのコミュニケーションを試みていた。
 普段でも頻繁に行っている為に脳内での会話は朝飯前だ。
 彼の背に乗ったままのサキトは、よしよしとまるで自分のペットのようにその引き締まった肌を撫でている。
「ほう…!それは大変助かるぞ。魔法関連はあまり詳しくは無いのでな。召喚獣ってのはこっちではメジャーなのか?」
 あまりにも簡単に物事が進む余り、フランドルはこの国の魔導師には召喚獣が付いてくるものだと錯覚してしまったらしい。ここまで都合良く話が進み過ぎだと思ったようだ。
「いや…多分特殊じゃないですかね…?」
「そうなのか。アストレーゼンは魔法にも力を入れている国だからな」
「自分が気に入った術者でなければ従わないって言う位ですから。召喚獣は気難しいっぽいですよ。まぁ…長く見ていれば分かりますよ」
 異常なまでのファブロスの主人に対する心酔っぷりを見れば嫌でも分かると思う。あまりにも深いのでうんざりを通り越してどうでも良くなってくるレベルだ。
 この凄まじい溺愛っぷりに、彼に関わったスティレンが「あまりにも酷すぎてドン引きした」と吐き捨てる程である。
 しばらく時間を空けていると、ファブロスは顔をスッと上げて伝えたぞ、とヴェスカに言う。
『大聖堂の裏口で職員を数人待機させておくそうだ。城下街を通過せずとも、大聖堂沿いを進めば案内してくれると。ただ、ある程度の獣の血抜きはして欲しいだと』
 オーギュからの伝言を聞き、フランドルはぱあっと表情を明るくする。
「そうか!」
『出来るのか?』
「狩りには慣れているからな。最低限の事は出来るぞ」
 一国の王子の言葉だとは思えない。
 野生的な兄には完全慣れ切っているサキトは愛くるしい笑みで「良かったね、兄様」と手を叩いていた。
「このまま放置するのもどうかと思っていたからな。流石に川に流したままも良くないだろう」
「はぁ…確かにそうですね…」
「礼を言うぞ、ヴェスカ。これで猪の処理も出来るし、大聖堂にも具材の提供が出来る」
 元からするつもりだったのかい、というツッコミは置いておき、ヴェスカは「いえ…」とだけ返した。自分はファブロスに伝達を頼んだだけだ。言うだけで何もしていない。
「じゃあ俺はこのまま向こうへ引き渡す為の準備をしてから大聖堂に戻る事にするよ」
 仕留めた獲物は大きいので、きっと大聖堂の職員も驚くに違いない。
 …その位の大物を普通に持って帰るつもりのフランドルも凄いと思うが。
『じゃあ戻るぞ。リシェ達を待たせているからな』
「待たせてるのは分かるけど…外部に何か用事でもあるのか?」
 何かしらの任務が無い限りは危険地帯に出る事など無い。
 宮廷剣士であるリシェの動向は副士長であるヴェスカも把握している。自分が知る限り、彼は特別任務の予定も無いはずなのだ。
 ロシュからの依頼となれば話は別だが。
 ヴェスカの疑問に、呑気な口調で答えが返ってきた。
「僕がお願いしたんだよぉ。大聖堂の近くに雨上がりにしか湧かないっている湧き水に興味があってさ。ほら、昨日とかすごい雨だったでしょ?お願いしたら、リシェとファブロスが着いて来てくれたって訳。こっちもクロスレイが着いて来てくれてるけどね」
 特別にお願いして付き合って貰っているの、とサキトは微笑む。
「あー…」
 武器を持たない王子の護衛には若干少ない気もした。
「その人数で大丈夫なのか?」
『別に遠くまで行くつもりは無いから大丈夫だろう』
 そんなものか…とヴェスカは思った。
「湧き水なんてあったっけ?」
『向こうの森の中にあるらしい。深くは私も知らん』
 ではリシェが把握しているのだろうか。
 案内しようにもそれほど場所の把握をしていないとなれば、運が悪ければ迷子になってしまうのではないかと不安を抱いてしまった。
「大体の場所は分かる感じか?」
 するとサキトがふんわりと笑いながら答える。
「廃教会の敷地内って話だよぉ」
 あぁ、なるほどね…と納得した。それならまだ迷う事は無いだろう。深い森の中でも一応道らしい道が残っているはずだ。
 ううんと唸っていると、猪の前処理を施していたフランドルが「おーい」と声を上げた。
「俺はこのまま大聖堂に戻るぞ。手間を掛けたな!」
 適切な処理を終えたらしい。恐らく彼の近くは特殊な匂いに包まれているだろう。
 泥臭い兄王子の言葉に、サキトは気を付けてねと一言返す。
「お疲れ様です…」
 ヴェスカは彼に対して突っ込みたい所は多々あったが、最低限の挨拶に留めておいた。重そうな獣を引っ張っていくフランドルの背中を見届けていると、やがてファブロスが口を開いてヴェスカに声を掛ける。
『お前は何をしていたんだ?』
「え!?…あ…あぁあああ!!釣竿どこやったっけ!?」
『!?』
 やっと自分が今まで何をしていたのかを思い出し、いきなり大声が上がった。フランドルの仕留めた大物に驚いた余り、自分の持ってきた釣竿を放り出してそのままだったのを思い出したのだ。
 やべぇええ!と叫びながら川の方へ走り、釣竿を探し始める。
「ヴェスカは釣りをしてたんだね」
『………』
 川は雨の影響で若干増水しているのだが、果たして無事に見つかるのだろうか。
 二人…いや、一人と一匹は必死に探し回っている彼を目線で追っていた。
 しばらくすると、憔悴したような顔で戻って来る。
「やべぇ」
「どうしたの?」
「完全に持ってかれたわ…」
 どうやら一式流れてしまったらしい。
『置いた場所が悪かったな』
「あぁ…結構お高かったのになぁ」
 運が悪かったとしか言いようが無い。しかも大物を釣る一歩手前だった事も思い出し、余計頭をがくりと垂れた。
「駄目だ駄目だ。多分今日は何をやってもいい方向にいかないんだろうな」
『そうか。残念だったな』
 ファブロスはそう言うと、サキトを乗せたまま踵を返した。
「…ちょっと待てぇ!!何俺を無視して戻ろうとしてるんだお前!?」
 薄情にもそのまま帰る気かと言わんばかりのヴェスカの叫び声にファブロスはがっしりとした獣の首を動かして振り向いた。
 明らかに面倒そうな目をしながら。
『リシェ達を待たせているのだ』
「知ってるよ!」
『お前はそのまま戻るつもりなのだろう』
「まるで戻って欲しいみたいな言い方すんなよ!釣具を流されて何の収穫も無く帰るとか、俺がまるで馬鹿みたいじゃねぇか!!可哀想だと思わねぇのかよ、俺が!!」
 まるで自分で自分を憐れむスティレンのような言い方で同情を誘ってきた。
 じゃあどうすればいいのだとファブロスは困った表情をする。釣具を失った事は確かに不運だが、こちらの責任では無い。
 サキトはううんと考えた後、「こっちに着いてくる?」とけろっとした様子でヴェスカに提案した。
「収穫って言っても、水しか無いけど…」
 こちらの目的は水汲みなので、ヴェスカが期待出来るような収穫は期待出来ない。それもすぐに戻るつもりなので、特別なイベントは皆無だ。
 ファブロスはサキトの提案を聞きながら、『言っておくがそれ以外は何も無いと思うぞ』と指摘する。
 後で水しか無いと喚かれても困る。
「水かぁ。…別に俺は必要じゃないけど、暇潰しとか荷物持ち程度には役に立てるかな」
「君が別に構わないなら、こっちも断る理由なんて無いよ」
「そっか。それならお邪魔しようかなぁ」
 いいよ、とサキトが快く承諾すると、ファブロスはヴェスカに走れるかと問いかけた。サキトと一緒に彼を背に乗せる事も可能だが、距離が離れているので身の負担を考えてしまう。
 しかもヴェスカは大柄で、筋肉の量も人並み以上ある。
 流石に同時に乗せて走るのはきつい。
「あー…どこまで走れるかによるけど」
『そうか。これから二十分位全速力で走る。ついて来い』
「待て待て待て!!…あんたの全速力と人間の全速力を一緒にすんな!!」
 普通に走れと告げる召喚獣に向け、ヴェスカは慌てて静止した。流石に無茶振り過ぎる。
 まさかオーギュにも同じような無茶を強いているのではないかと不安になってしまった。
『分かった。仕方あるまい。ちょっと待っていろ』
「ん?」
『サキトを向こうへ先に置いてくる』
 なるほど…と承諾した。一応護身用に武器は持って来ているので安全面はこちらは心配無い。
「分かった。気をつけてな」
 ファブロスがサキトを乗せて一旦その場から走り去って行くのを見届ける。
 思った通り獣状態のファブロスの全速力は早過ぎて、あっという間に小さくなるのを確認しながら、やっぱり比べ物にならないじゃないか…と苦笑してしまった。

「あ!戻って来たようです」
 待機しながらサキトが戻るのを今か今かともだもだしていたクロスレイは、こちらに近付いてくる小さな黒い粒を見て声を上げる。
 適当な岩場に腰を下ろして休んでいるリシェは眉を寄せながら「良く見えますね…」と感心すると、クロスレイは少しばかり得意げに答えた。
「視力は良い方なんです」
 小さな粒はやがて大きな影となり、その姿形がはっきり見えるようになってきた。
「サキト様!!」
 サキトはその声に反応し、「たっだいまぁあ」と陽気な声で返事をしてきた。ファブロスの走りは馬よりも早いと思うのだが、良く振動に耐え切れたものである。
 ファブロスが二人の手前で足を止めると、『ちょっと待っていてくれ』と言い出した。
「?」
「どうしましたか?」
『ヴェスカに会ったのだ。今連れてくる』
「何であいつが?」
 彼が自分と同じく公休だというのは知っていたが、何故外部に出ているのだろうか。
 リシェの疑問に、ファブロスは『釣りをしていたらしい』と返す。
『だが釣り道具一色を川に流されてしまったそうだ。完全に目的を失ったらしいからな』
「………」
 肝心な物を無くしてしまうとは。
 一体何をしているのだろうか、とリシェは閉口する。
「どうしようもない奴だな。何をしに外部に来たんだ」
 ファブロスはまた行ってくる、と再び地を駆りすぐに去って行く。その間、クロスレイはサキトに大丈夫でしたか?と具合の確認を行う。
 補助具も無いまま騎乗しているのでやはり心配だったようだ。
「大丈夫だよ。あの子の鬣を言われた通りにしっかり掴んでいたし…振り落とされないように毛を何重にして巻いてさ…ぎっちり掴んでたから。むしろ痛くないのかなって思ったけど」
「そ、そうですか…それなら大丈夫…ですかね…」
 本人がそう言うなら問題はないのかもしれないが、この場でお目付役のイルマリネが居れば口煩く注意してくるのだろう。本人は勿論の事だが、護衛として付いている自分にも。
 そう思えば、居なくて良かったと心の中でホッとしてしまう。
 まだサキトの護衛として新入りである自分では、遊びたい盛りの彼を止められるだけの強制力も無ければ説得力も無いのだ。強引に止められるだけの物理的な力はあるものの、それを行使するとサキトの機嫌を損ねる事は間違いない。
「……あっつ!!」
 突然リシェが声を上げる。
 サキトとクロスレイはほぼ同時に彼の方に目を向けた。
 同時にバサバサと鳥の羽ばたく音が聞こえる。
「どうしたの、リシェ?」
 きょとんとした面持ちのサキトは、顰めっ面で手を払うリシェに問う。そしてやけに鳥臭い。
「いえ…ぼんやりしてたら何故かハトが頭を突いて来て。あぁ、腹立たしい…」
「ハトですか…?」
 クロスレイはふっと空を見上げた。
 その問題のハトは突いて満足したのか、既にリシェから離れて行ったようだ。何もしていないにも関わらず、ただ突かれた本人は怒りのやり場を失ってちっと舌打ちをする。
「何なんだ…」
 乱れた頭を直しながら呻いた。
「リシェ…君、ハトに何かしたの?」
「してませんよ…」
 していないから困っているのだ、と思った。
 …そういえばヴェスカの故郷に行った際にもハトの大群に足元を突かれた記憶がある。何か言いたい事があれば言えばいいのにと思うが、相手は鳥類なので聞きようが無い。
「ハト臭…」
 リシェは苛々しながら密やかに歯軋りしていると、一旦場を離れていたファブロスが再び戻って来た。
 今度はヴェスカを乗せている。彼はこちらを見ると、上機嫌に手を振りながら「よーう!!」と大声を上げている。
「いやぁ、悪い悪い。待たせたな。…ん?どうしたんだ、リシェ?やけに機嫌が悪そうだな」
 苛立つ表情を読んだのか、ヴェスカは真っ先にリシェに対して声を掛けていた。
「お前を待っている間、俺はハトに突かれたんだ」
「俺のせいじゃないぞ…」
 変な言いがかり感を覚えたのか、ヴェスカは変に恨みがましく言ってくる後輩に先制するように言う。
「俺はお前の村でもハトに突かれたんだぞ」
 完全な八つ当たりだった。
 そんな事知らんがな…と困惑していると、ファブロスは『随分待たせてしまったな』と謝罪した。
「水汲みに行くんだろ?王子様がアストレーゼンの湧き水に興味があるって事は割といい水なんだろうなぁ」
 ヴェスカはアストレーゼン大聖堂周辺の地理に詳しいと思っていたのだが、まるで初めて知ったような発言を放つ。リシェは首を傾げて「知らなかったのか?」と聞いた。
 自分よりはあちこち動き回る回数もこなしていると思っていたらしい。特に大聖堂周りは迷う事無く通過出来るはずだ。
 ヴェスカは目立つ赤の短髪を掻くと、「あんまり興味無かったんだよ」と返す。
「その湧き水だって滅多に出ないんだろ」
 二人の会話に、サキトは自然に割って入ってきた。
「そうそう。だから余計レアじゃない?きっと美味しいと思うんだよねぇ。リシェにお願いして空のボトルも持って来たし…持ち帰る時は力持ちのクロスレイにもお願いしてるからさぁ」
 ヴェスカは護衛として追従しているクロスレイを見ると、彼はぺこりと頭を下げた。
「おっほ…めっちゃ重いもん持てそうじゃん」
 如何にもと言わんばかりの戦士体型のクロスレイに、ヴェスカはつい口笛を吹きそうになってしまった。まだ自分に自信が無いのか、その表情は頼りない雰囲気を醸し出しているのは実に勿体無い気がする。
「宜しくな。気軽に俺の事はヴェスカって呼んでくれていいから」
「は、初めまして…まだ未熟ですが、宜しくお願いします」
「あぁ、クロスレイはヴェスカと会うのは初めてか。彼はアストレーゼンの宮廷剣士の副士長なんだって。相当なベテランだから、ここで学ぶ事もあるかもしれないよ」
 役職付きの剣士と分かるや、クロスレイは緊張に張り詰めた顔をするが、普段からのヴェスカを知っているリシェはぼそりと呟いた。
「あればいいけどな…」
「いやいや…俺から学ぶもんが無いみたいに言うなよ…」
『普段の行いが悪いからじゃないのか?』
「…善行ばっかり積んでるだろが!」
 そのお陰で昇進したし!とドヤる。確かにそれは実力が認められた結果で、褒められるべき事だ。
 しかしファブロスは呆れた様子で続ける。
『お前、また休憩の時に中庭にボール放り込んで来ただろう。天井が吹き抜けだから良かったものの、ガラス窓を張っていたら大惨事だったとオーギュが文句を言っていたぞ』
 その会話を聞き、リシェは眉を寄せるとクロスレイを見上げて「どうですか?」と問い掛けた。
「これで学べるものがあればいいんですけど」
 彼の場合は注目するべき善行は多々あるのだが、それと同様に変な行動も持ち出されがちだった。いい大人がいい加減落ち着く事を覚えろと上から苦言を突きつけられる場面も多々あった。
 リシェはその注意されている現場を度々目にしていたが、まさか大聖堂目掛けてボールを放り込むとは思いもしなかった。完全に初耳である。
 どう返したらいいのか分からず、クロスレイは苦笑いした。
「俺はそこまで出来る勇気は無いです…」
 かくりと肩を落とし、ヴェスカはうなだれる。変な部分だけを取り入れないで欲しい。
 …結局悪いのは自分なのだが。
「何でそこだけに注目するのよ…仕方無いだろ、ホームランだったんだから」
『勝手に大聖堂を広場にするな。…とりあえずここで駄弁っている時間が勿体無い。さっさと向かうぞ』
 サキトに背中に乗れと促し、ファブロスは目的地の方向へと鼻先を向ける。
「よいしょ…と。またよろしくね、ファブロス」
 言われるまま慣れたように跨ると、ファブロスの背中を撫でた。多少の時間のロスがあった為に、時刻は正午前位になっていた。
 ちょうどそれを知らせる大聖堂の時計塔の鐘の音が数回風に乗って耳に入り込んできたので、大体の時刻は把握出来るのだ。
「あぁ、あの大物の魚が釣れてたらなぁ…」
 今頃塩焼きにして食えただろうにと歩きながらヴェスカは残念がる。
「運が悪かったな。代わりに水を大量に持ち帰るといいぞ」
「水かよ…」
 確かに腹は膨れるかもしれない。
 湿った土や草の匂いを感じながら、一行は目的地である森の手前までようやく辿り着いた。リシェ達が大聖堂を出て大体三時間程だろうか。
「そういや」
 おもむろにヴェスカが口を開く。
「ここ、いきなり霧とか出て来るんだっけっか…」
「ああ」
 その指摘に、リシェも思い出したかのように答えた。
 外部の世界は色々な魔力の淀みに加え、自然に特化した精霊の数も多い。大自然の恩恵が大いに得られる森林や山などは特に集まりやすく、それ故に自分達の縄張りに足を踏み入れる部外者に対し反発心が高かった。
 彼らは自分らのテリトリーに踏み入れた者には、自分達が出し得る限りの妨害をしてくる。前回は森の中の廃教会に赴いた時には濃い霧を発生させ、こちらに対し手厳しい歓迎をしてきた。
 今回も、彼らの手荒い歓迎を受ける羽目になるかもしれない。
「なるべくくっついて動いた方がいいよな。ここ、結構見通しがいい森だと思うんだけど」
 司祭達の浄化された魔力と、それに加えて特殊な魔力も入りやすい大聖堂が近いせいなのか、この森は精霊達の居心地が良いのかもしれない。
「霧が出やすいんですか?」
 ぱっと見てそう見えないのか、クロスレイは鬱蒼とした森の全体を見回した。
『こういう鬱蒼とした場所は精霊達が溜まりやすい。…こういう場所に集うのは下級の精霊達だ。単体では大した事は無いだろうが、下級であっても集団となれば話は別になる。個体が大量に集まっているからな。舐めてかかると痛い目に合う』
「ま、そういう時はリシェかファブロスに任せるわ。驚かす程度に魔法を出してくれれば霧なんて晴れるだろうし」
『今回も霧だといいがな』
 精霊達が仕掛けてくる悪戯が、前と同様ならば対処は出来るかもしれない。
 だが彼らにも様々な能力が備わっているだろう。
 ただ漠然と同じトラップを仕掛けて来るとは思えなかった。
『奴らは可愛らしい外見をしているくせに狡猾だからな。同じまやかしを仕掛けて来る程愚かでは無いだろうよ』
「えぇ…そんな嫌な事を言うなよぉ…」
 ランダムでやられても困る。
 だがどういった悪戯を仕掛けて来るのかはその時にならなければ分からない。
 ううんとヴェスカは考える。
「まぁ、例えば何か引っ掛かったとして。そうなったら森の外にそれぞれ向かうって事にすればいいんじゃないか」
『ふむ…森の外が分かればいいんだがな。むしろ余計迷うのではないか?晴れるまで動かないようにするのが一番無難だろうな。…なるべく離れないように心掛けろ。…リシェ、何かサキトの足を覆う物は持っていないか?』
 急に話を振られ、リシェは「?」と首を傾げる。
『これから入る場所は泥跳ねがあると思うからな。こいつの足に袋か何か被せておけば泥を防げるかもしれない』
「あ…ああ。それなら…ちょっと待ってくれ」
 背負っていた小型のリュックのミニポケットから二枚の袋を引っ張り出すと、サキトの細身のブーツに被せて紐で括っていく。すぐに取れないようにちょっときつめに縛りますね、と前置きし、丁寧に装着させた。
 あまりにも準備が良いので、サキトは思わず凄いねぇとリシェを褒める。これで同じ年頃の少年だとは思えないようだ。
「君、本当に物事に敏感だね。勿体無いなぁ…」
自分の直属の護衛ではない事を悔やみつつ、ここまで気が付く子ってそうそう居ないと思うよと笑った。感覚が熟練の世話人そのものだ。
「任務で遠征に行く際に、足りなかった物をメモしているので。それで何かあった時に持っていると役に立つ時があるので…」
「へえ…なるほどねぇ」
 出来た、とリシェは顔を上げる。ファブロスも歩く時は気を付けるだろうが、予防はしておいた方がいいだろう。
『助かる。…では行くか』
 ファブロスは先に森の中へ入っていった。
 やはり日光が当たりにくい為か、足場は泥土になっていて状態が悪い。うっかりすれば足を取られてしまいそうになる。
「これは流石にサキト様に歩かせる訳にもいかないな…」
 悪路を進む最中、リシェはぼそりと呟いた。その独り言を聞いたサキトは、苦笑いを含めながら言い返す。
「僕は別に歩いても構わないんだけどねぇ…」
「いいえ、大切なお客様の足元を汚すのは失礼に当たりますから…」
 しかも彼の身に付けているものは一体総額でどのくらい掛かってしまうのか。想像するだけで恐ろしく感じる。
 それを土や泥で汚してしまうのは重罪に当たりそうだ。
「はは…俺らの給料じゃ到底払えそうもないだろうし…これだけ綺麗な服だ。クリーニングも大変だと思うぞ」
 恵まれた環境で生きているサキトにはそこまでピンと来ないのか、そっかぁと変に残念そうに言った。
「何着くらいか、汚してもいいような服を準備すれば良かったかなぁ。これから旅先では何着か用意するようにするよ。君達に遠慮されるのも申し訳無いからね」
「それなら一般で流通している動きやすい服が良いですよ。きっとサキト様の周りが用意してくれる物は高価な物だと思うんで…」
 民間人向きのを着せるのは本人が良くても周囲が抵抗を感じてしまうかもしれないが、一、二着位は汚してもいい物があってもいいはずだ。
 恐らくサキトは泥に塗れて遊ぶという事など経験していないのかもしれない。
 泥濘に気を取られつつも、森の先へ進んで行く。
 木々の隙間から外部からの光が差し込んでくるものの、やはり鬱蒼として暗い。これが夕方だと完全に視界が悪くなっているのだろう。
 朝から出てきて良かったとリシェは思った。若干暗くても、辛うじて先は見通せる事が出来る。
 大聖堂周辺では見られない草や動物の影が見え隠れしてくる。魔力の感化に触れていない動物に関しては、少なくともこちらに敵意を向ける確率は少ない。
 警戒してくるものの、逃げるか遠巻きに見守るかのいずれかで、稀に攻撃を仕掛けてくるが基本的には臆病なので軽く払えば逃げていく。
 一番怖いのはその周辺で散会している精霊達だ。
「何事も無ければいいんだけどよ。…んで、その水っていうのは廃教会の近くにあるんだろ?」
「一応敷地内っていう話だ。…ただ、前に行った時にそんな立て札とかも見なかったからどの辺りにあるのかは分からない」
「そんな親切な案内なんて無いだろうよ。ましてや昔からのあれだろ?色々と問題もあっただろうしな。変に進路を与えたりしたら得体の知れない奴らが挙って寄ってくる可能性もある」
 前回廃教会へ足を踏み入れた際に、リシェはヴェスカから簡単な歴史を聞いていた。それを思い出し、「あぁ」と軽く返事をする。
 廃教会の地下に鎮座している呪吸石の存在を公にしたくない大聖堂側が、敢えて廃れたままにして誰も寄り付かないようにしている位だ。
 観光名所のように特殊な湧き水の案内をするはずは無い。しかもその湧き水は滅多にお目にかかれない代物。
「自力で探すしか無いな。…まぁ、なるようになるさ」
 出来るだけ固まりながら先を進んで行くと、周辺は更に明るさを失っていく。どこからともなく鳥の陰鬱な鳴き声が空から降り注ぎ、気持ちを若干萎えさせてきた。
「…凄い場所ですね…」
 鳥の鳴き声を耳にし、クロスレイはやや気落ち気味に呟く。
 木が密集している場所だというのは把握していたものの、実際足を踏み入れるとここまで暗がりだとは思わなかったようだ。
「俺の実家の近所の森でも、ここまで暗くは無かったです…何かしら手入れはしていましたから」
 放置されている森なので木々の間隔もそれほど離れてはおらず、広げられている葉もそれぞれ重なり合う。その為に空からの明るさが遮られてしまうのだ。
「へえ…実家は木が沢山あるの?」
 クロスレイは少し照れたように笑うと、そうですと答える。
「俺の実家、伐採をしているんです。だから周りには木が多くて。状態のいい木は残しますが、危なかったり虫喰いが激しかったりする物は伐採していきます。俺も良く手伝いに駆り出されたりするんですよ」
 なるほど、とヴェスカは納得する。その恵まれた体格はその名残なのかもしれない。
「ここは完全に放置されてる場所だからな。間伐とかずっとしてないと思うぞ」
 これからもっと暗くなる事は覚悟しておいた方がいいと言う中、リシェは腰に付けていた発行石に魔力を込め点灯させた。周囲を照らすには少し小さな光で物足りないかもしれないが、無いよりは余程マシである。
「サキト様、これをどうぞ」
 網袋に入れた発光石をサキトに手渡す。
「僕にくれるの?ありがと!」
「手元が明るいと安心出来ますから」
 サキトは手渡された袋を首に掛けた。石から発せられる輝きを感じながら「これ魔力を込めて光るの?」と問う。
「はい。残力が無くなったらまた入れますので」
「へえ…じゃあ僕でも入れられるんだね。無くなったら僕が入れ直すから大丈夫だよ」
 一応少しは魔法を扱えるからね、と微笑んだ。
 クロスレイにも発光石を持たせていると、ヴェスカはリシェに「俺のは?」と問う。
 そこまで持ち合わせていなかったリシェは無いとだけ返すと、くっついて歩いていれば問題無いだろうと突っぱねた。
 石は人数分位の数しか持ってきていない。途中から入ってきたヴェスカまでは計算していなかった。
「しょうがねぇなぁ。んじゃリシェ、俺と一緒に前に来いよ。万が一霧だの何だの出されたらたまったもんじゃねえからな」
 サキトはファブロスとくっついているので問題無いだろう。
「あ…それでは殿は俺が勤めます」
 自らクロスレイは後方の護衛へ回る事を宣言すると、ファブロスの後ろへと進んだ。
「うーん」
 前方の明かりの加減を見通し、ヴェスカは唸る。そして隣のリシェに提言した。彼の左の腰部分に石をセットしている為か、そちらの方にばかり明かりが集中しているのが気になったようだ。
「なあ、むしろその石俺に寄越せよ。俺の方が広く明かり飛ばせるだろ?」
「お前、俺の背が低いって遠回しに言ってるのか」
 ムッとしながら言い返した。
 流石に上官に向けて言うセリフではないが、常に一緒に行動をしているせいで慣れた発言をしてしまう。
「そんな捻くれた言い方すんなって。俺が首に掛けた方が明るいだろ?お前のその位置だと左側に明るさが集中するんだよ」
 決して悪口のつもりじゃない、と腕を真っ直ぐ伸ばしながら光の方向を説明した。リシェはそこで理解し、腰に掛けていた発光石をヴェスカに手渡す。
 ぼんやりした輝きを放つ石を首に掛けると、下からの光の為に顔が不自然に浮かび上がる。
「なぁ、怖えぇか?」
 まるでお決まりか何かのように彼はリシェに下から照らされた顔を向けた。
 やる事がまるで子供である。
「お前、もしかしてそれがやりたかったのか?」
「そういう訳じゃねえけど」
 普通にしていればいいのに所々で余計な事をしたがるヴェスカに、リシェはさっさと歩けと促す。
「いい年して何してるんだよ」
「かっわいくねぇ奴だなぁ…」
 対するヴェスカは、そんな彼の真面目過ぎる態度に洒落の分からない奴だと思っていた。ここまで極端に相反するタイプにも関わらず窮屈さを感じさせないのは長い事共に行動していたからなのかもしれない。
 二人のやり取りをファブロスの背中に乗ったままで聞いているサキトは、楽しそうだねぇと何か解釈違いな発言をする。
『…そうか?』
「そうだよ。どう見ても楽しげだよ、ねぇクロスレイ?」
 何故かそこで自分の護衛に同意を求めた。
「えっ!あっ、は、はい!!」
 恐らくクロスレイは主人の話を聞いていないだろう。ただ同意に賛同すればいいと思っている節がある。
 森の深くへ進むにつれ、足元が非常に不安定になる。ファブロスの頑丈な足ですらうっかりすれば足を取られてしまうだろう。普段は爪を出しての歩行は控えていたが、ここはやむを得ず爪を少し出して進む事にした。
『泥を跳ねるかもしれない。服に付いたら済まない』
「大丈夫だよぉ。こっちはお願いしている立場だから文句を言ったら罰が当たっちゃう」
 今の所、精霊達の機嫌を損ねる事無く中に進めている。
 このまま無事に目的地まで行ければ一安心だが、帰りの道も警戒が必要だ。
「どの辺りにあるんだろうなぁ。湧き水って山に近い所にあるイメージなんだけどさ…」
 進みながらヴェスカが呟く。
「特殊な石から湧き出すっていうから、山は関係無いっぽいぞ。その石の場所を詳しく把握してないからな」
 例え近い場所に着いたとしても、その石を探さなければならないのだ。
 廃教会の呪吸石のように管理下に置いていれば何の問題は無いが、今回の場合同じように特殊な石でも重要な物として管理されているものではない。
 しかも雨上がりにしか水が湧かないとされている為、危険を顧みず汲みに行く者は少ないのだ。
 呪吸石とは違う意味での希少な魔石なので大聖堂側も放置しているのだろう。そこまで重要視する必要が無いのかもしれない。
「何か地面、凄い水っぽいなぁ。ここまで泥濘むもんなのか?」
 防水効果のある外向きの靴を履いているとはいえ、やけに水溜りの多い道が目立つ事にヴェスカはやや不満そうだ。
 ずっと天気が悪かったからな…とリシェもその先の道に目を向ける。
 必死に目を凝らして道の先を眺めていた彼の口から、「何だか異様に遠くから溢れてないか?」と疑問を投げかける。
「…だよなぁ?これ、下手すると通れないんじゃねぇの?ちょっと待ってろ、見てくるわ」
 ヴェスカはそう言うと、リシェ達をそこに留めさせて様子を見に前に進んでいった。
 厳しいかなぁ、と残念そうにサキトが離れて行くヴェスカを目で追う。折角頼んでまでここに連れて来て貰ったのに、手前で足止めを食らうとは思いたくないようだ。
「この辺りは平地しかないので、洪水とかの心配は無いと思います。ちょっと歩行が困難なだけだと思いますけど…」
 やや時間を置いた後、べしゃべしゃという足音が近付いて来た。
 しばらくしてから戻って来たという事は、もう少し先に行けるのかもしれない。リシェは戻って来たヴェスカに「どうだった?」と話し掛ける。
「おう」
「通れそうか?」
「行けるっちゃ行けるけどよ…教会の近くまでは行けた。ただ」
 やけに何かを言い含めた言い方をする。
 きょとんとした顔でサキトは「ただ?」と次の言葉を促した。
「何かよぉ…居るんだよなぁ」
「何が?」
「いや、行けば分かると思う…何なんだろ、あれ…」
 意味が分からない。リシェは背後に居るサキトやクロスレイに目線を向けた後、ここまで来たなら行ってみるしかないだろうと言った。
「何かって何なんだよ」
「いや、俺も暗がりでしか確認出来なかったんだけどさ…何て言うんだろ、変にデカい塊みたいなのがこう、蠢いてる感じがしたんだよ」
 どう表現したらいいのか分からない様子のヴェスカ。
 ふーん…とリシェは少し考えた後、まずは進もうと促す。
「巨大化した芋虫とかかもしれないな。行ってみるか」
 普通に言い退ける部下に、ヴェスカはサッと顔色を変化させた。身を縮こませ、震え上がって叫ぶ。
「…何よもう!!やめてその言い方!!俺が芋虫系嫌いなの知ってるでしょ!!」
『それが嫌なのはよく分かるが、芋虫の話題になれば変に気色悪い言い方するなお前は…』
「早く先に進め」
 必要以上に怖がるヴェスカを急かすリシェ。発光石を首に掛けている以上、前を見通せる彼が前に出ない事には始まらないのだ。
 ヴェスカは拗ねるように頰を軽く膨らませて「芋虫だったら速攻で逃げるからな」と情けない事を堂々と言い放った。一連の会話を聞いていたシャンクレイスの二人はお互いに顔を見合わせる。
「お前何の為に付いて来たんだ」
「芋虫だったらっていう話だぞ。他ならどうにか出来るよ!それだけは嫌だって俺は前から言ってるじゃないか」
 リシェは元より、ファブロスも呆れた。苦手な物は誰しもあるが、ヴェスカの場合とにかく苦手意識の強い物に関しては非常に敏感過ぎる。
 それ以外ならば強力な助っ人なのだが。
「…芋虫じゃない事を願うしか無いですね…」
「んっふ…ヴェスカってば、そんな体して芋虫がダメなんだぁ?可愛いねぇ」
 サキトやクロスレイがほぼ強引にフォローしているのを聞き、リシェは情けない気持ちに陥っていた。恐らく苦笑いをしながら言っているに違いない。
 暗がりでも何となく雰囲気を感じてしまった。
 …これがアストレーゼンのベテラン宮廷剣士の一人だと思って欲しくない。
「行くぞ、ほら。早く進め。お前、サキト様に役立たずって思われたいのか?」
 何故部下の自分が上官の背中を押さなければならないのだろうか。
 やや渋るヴェスカを押しながら、リシェは廃教会方面へ向けて進む。先程聞いた通り、前に進むに連れて地面の水分量が多くなってくる。
 靴で踏み締める度に嫌な沈み方がした。
「………」
 思わず顔を顰めてしまう。
「あのう」
 沈みそうな足元を見ながら進んでいると、不意に背後のクロスレイが声を上げた。
「なぁに、クロスレイ?」
 突然自ら言葉を放つ護衛に、サキトは問い掛ける。彼の性格を考えれば、あまり自分から何か発言するという事は無い。
 珍しいな、と思いながら後方へ顔を向ける。
 彼はゆっくり前方へ指をさすと、警戒心を剥き出しにして口を開けた。
「前の方…誰かっていうか、何か居ませんか?」
 暗がりの中、遠くで何かを感じたらしい。リシェは先程彼が言っていた言葉を思い出す。
 視力は良い方だ、と。
 そんな彼が言っているのだから、何らかの影をいち早く確認出来るのも納得がいく。
「何かって…」
『…歪んだ魔力の流れを感じる』
「ええ…芋虫じゃないよな?」
 どうしても芋虫が嫌なようだ。
 ファブロスはふんと首を軽く振り、『巨大化した芋虫だったらいいんだがな』と嫌味を言う。いい加減しつこいと思ったようだ。
「…何でそんな意地悪言うのよ!!」
 ぞわりと鳥肌を立てるヴェスカは悲しそうな声で叫ぶ。
『うるさい奴だな、静かに出来ないのか!』
 いくら怖いからと大声を上げてしまうなどと警戒心に欠ける。そう思って注意したファブロスも、同じ声量で怒鳴っていた。
「はー!?静かにって言いながらあんたも怒鳴ってんじゃねえかよ!」
 その時だ。彼の声にその相手が気付いたのか、ふわりと強めの風が一行の頰を掠めた。
「!!」
 同時に強い水飛沫がこちらに襲い掛かってくる。
「うぉあ!?な、何だ!?」
「ひゃぁああああ!!冷たぁあああ」
 水の塊がぶわりと上から覆うので逃げようも無い。いきなり全員水の塊を頭から浴び、急激に全身が水分で重くなってしまう。
 クロスレイが指摘した何かが、こちらの存在に気付いたのかもしれない。
 舞い散る水飛沫に加え、急激に体温が低下していく感覚を覚える。ただでさえ湿気と冷気を帯びていた体に追い討ちをかけられ、一気に不快感が増していった。
「何だこの…」
 ヴェスカが顔を上げ、水の塊を投げつけた相手の存在を目に映そうと視界を凝らしていく。仄暗いその先にある影らしいものをどうにか確認していくにつれ、彼は普段見かけぬ異形の存在に言葉を失った。
「……あぁ?」
 思わず変な声を上げる。
「何だ?」
 身に降り掛かる水滴をひたすら払い除け、リシェはその声に反応してヴェスカと同じ方向に顔を向けた。
 自分達から数十歩先に蠢いている謎の存在。
「ええ…何あれ…」
 サキトもそれに気付き、思わず呟いた。
「石の結晶…?っていうか、集合体に見えるんだけど…」
 その表現の通り、目先にある存在は青白く大きな結晶体に見えた。ただ普通の結晶体と違い、五体満足の人型の形となっている。関節の部分には石のような物に覆われ、しっかりと頭部らしい物も確認出来た。
 のっそりと蠢くその様子は、上から糸で吊り下げられたマリオネットか何かのようにも見える。
「石人形…」
 ぼそりとサキトが言うと、相手は邪魔者をはっきり確認したのか表現のし難い声を発して威嚇しだした。
「…っやっべぇ!!」
 ヴェスカが護身用の武器を構える。だが、対戦した事の無い相手にどう対処したらいいのか分からなかった。水流を放つ事から、魔法を軸にするタイプかもしれない。
 持参していた杖を腰から引き出し、リシェは簡易的な魔法壁を自分達の前に張り巡らせる。威嚇と同時に放たれた水流を壁が見事に弾いた後、役目を果たしたと言わんばかりに消え失せた。
 どうにか形になったか、とリシェは安堵の吐息を漏らす。
「効力は一回だけか…まだ修行が足りないんだな…」
 出来ればある程度持続して欲しかったが、最低限一度でも防げれば合格だと思いたい。
「お前、剣は持ってないんだっけ?」
 ヴェスカは近くで杖を手にしているリシェに問い掛けた。
「持っていない。怪我の後だから、あまり剣を振るうなって」
「ああ、なるほど…」
 全身の体温が徐々に減っていくのを感じる。自分達のように鍛錬された剣士ならばまだ耐え切れるかもしれないが、サキトが心配だ。
『…かなりの精霊の存在を感じる。仮にあの四肢を吹っ飛ばしても、また集合してしまうかもしれないぞ』
「あれも悪戯の一部かよ!!」
 どうすりゃいいんだよ!?と言ったその時。
 再び水流が轟音と共に放出された。ちっ、と舌打ちしリシェが魔法壁を張ろうとするが、数秒の差で相手が早い。
「水が…!!」
 クロスレイが叫ぶと同時に、一行はその水の勢いに巻かれていく。
「クロスレイ、どうにかして!」
 この後に及んでサキトはどうしようもない発言を護衛に命じた。
 しかし彼は「すみません!!」と何故か謝罪する。
「…俺、泳げないんですうううぅう!!!」
 勢いのある濁流に瞬時に飲まれていく。
 相手の攻撃に成す術も無く、全員吐き出された水流によってその場から弾き出されてしまった。

 所変わり、アストレーゼン大聖堂、司聖の塔。
「只今戻りました」
 あれ、とロシュは相方の異変に気がつく。
「しばらく抜けると言ってたからどうしたのかと思ったら」
「………」
 朝に会った時とは打って変わって、オーギュの頭が非常にすっきりしている。どうやら時間を貰った合間に散髪をしてきたようだ。
 今まで肩より少し長かった為に、ばっさりとそれが無くなってしまうと一気に若返った感じがする。
 それなりに丁寧かつ洒落っ気のある髪型の為か、前よりとっつきにくさが無い。これなら持ち前の目付きの悪さでどうのとは言われなくなるのではないだろうか。
「余程邪魔だったんですね」
「もう耐えられませんでしたよ。おまけに雨からの湿気で…お陰で今は物凄く爽快です」
 良い具合にショートにして貰った彼を見て、ロシュも「ほう…」と目を細めた。
「いいですねぇ…何だか見違えましたよ。今まで私と似たような髪型でしたからねえ」
 自分もやってみたくなったらしい。
「何処で切って貰ったんです?城下の方ですか?」
「ええ。時間が押しているので予約を取っておいたんですよ。でないとすぐにやって貰えませんからね…」
「なるほどぉ…」
 やはり突発では施術して貰えないか、と内心残念がるロシュ。
「切りたいんですか?それなら時間を空けますけど…」
「…そうですねぇ…ですが今はまだいいですよ。私は後ろに縛る事も出来ますからね」
 まだ耐え切れますし、と書物を手にする。
 オーギュはそうですか…と返すと、中断していた業務に取り掛かるべくいつものソファに腰を下ろした。
「そうそう、あなた専用に発注した書斎机ももう少しで出来ますのでね。ソファで仕事をこなすのもいい加減きついでしょう」
「え?」
 本当に発注していたのか。
 オーギュはロシュの方へ顔を向けると、「場所を取るでしょうに」と困惑した。
「仕事をするならいい席でやった方が効率も良いですよ。今までとても窮屈だったでしょう?そもそもソファは仕事向きじゃないですからね…もう少しお待ち下さいね」
「そんなに気を使わなくてもいいのに」
「姿勢が悪くなると体も不調になってしまいますからね。あった方がいいでしょう?」
 それはそうだけども、と複雑そうなオーギュ。だが自分の為に動いてくれるのは決して悪い気はしない。丁重に礼を告げた後、彼は「あ」と何かを思い出す。
「どうしました?」
「そうだ…フランドル様が外部で猪を捕獲したそうで。その件もあって外に出ていたのです。取り急ぎ厨房側に話を通して貰って運んできたので、今晩は猪料理が入るかと思います」
「い…猪!?猪って、あの猪ですよね?それは随分と…単独で狩られたのですか?流石に護衛の方々もご一緒だとは思いますけど」
 一国の王子が猪を狩るなど、誰も想像しないだろう。仮にも王族の一員なのに、随分と野性味溢れる行動だ。
「いいえ、一人です。普通に前処理して担いで来ましたよ…かなり手慣れている様子で。職員は全員呆気に取られてましたけどね」
 一人…とロシュは口をぽかんと開けたまま驚いていた。
 こんな話を聞けば誰もが同じ反応をするだろう。
「向こうではあのお方の行動は日常茶飯事なのでしょう」
「は…はあ…いやあ、凄く頼もしいなぁ…」
 唐突な猪の話題に付いていけないロシュ。よく単独で引きずってここまで持ってこれたものである。
 猪ねぇ…と困惑気味に天を仰いでいた。

 強大な濁流に飲み込まれ、来た道とは別の方向に流される形になったリシェ達は急激な寒気に襲われながら衣類の水気を一通り絞っていた。
「あぁ、もう…ただでさえ日が当たらなくてくそ寒いっていうのに、そこから更に水浴びとかあんまりじゃねぇか」
 薄い普段着のヴェスカはずぶ濡れになったシャツを絞りつつ文句を言っていた。
 細かい木の枝を集めて火を起こして暖気を取ろうとするが、この湿気ではそこまで燃え上がらない。
 ファブロスが魔法で出した火だが、環境が悪過ぎた。
「サキト様、大丈夫ですか?」
 小刻みに震えるサキトを気遣うクロスレイ。
「寒いだけで、大丈夫だけど…困ったねぇ。ここまで来たのに」
 代えの服があればいいのだが、すぐに戻るつもりだったのでそれすらも無かった。冷気を遮る外套ですら水に濡れている状況だ。
 彼に被せようにも、水を浴びているのでかえって逆効果になってしまう。
「何かコテージでもあればいいんだけどよ…」
口々にそれぞれの文句を聞いていたリシェは、ヴェスカの一言にふっと顔を上げた。
「コテージ…」
「ん?どうした、リシェ?」
「いや、思い出したんだ。…この森のどこかにラウド家の使われなくなった別荘があるって」
「使われなくなったって…廃墟って事か?」
「廃墟は廃墟だけど、地下の一部は普通に使えた」
「へぇ…何でお前がそれを知ってんだよ?」
 暗がりに僅かな火の明かりに照らされるヴェスカを見上げながら、リシェは「前に連れて来られた事がある」とだけ答えた。
「ただ、その地下に入れるかどうかは分からないぞ」
 少し考えた後、ヴェスカは「場所とかは分かるか?」と続けた。
「そもそも現在地が分からないんだぞ…それに、そこまで場所なんて把握していない。その辺を進めばもしかしたらぶち当たるかもしれないけど」
「最低限寒さを凌げればそれでいいんだよ。それに廃墟だとしても今よりマシに暖が取れるかもしれない。とりあえず暖を取って作戦会議でもすりゃいいだろ。さっきの奴をどうにかしないと進めないだろうし」
 リシェは足元の頼りない火種を見下ろした。
『周辺を見回って来る』
 二人の会話を聞いていたファブロスは、ちょっと待っていろと自ら買って出た。彼は人間より寒さを感じ難く、自然に対しての順応性が高い。ここが暗所でも視界は存分に確認出来る。
 逞しい四本足を自由に駆れば、すぐさま見回りも終わるだろう。
「ファブロス」
『まだあるならすぐに見つかるだろうよ』
 すまない、とリシェが謝ると彼は気にするなと言い残し姿を消した。
「いいなぁ」
 彼が居なくなった後、クロスレイの腕に包まれているサキトは羨ましそうに呟いた。リシェはそんな彼の発言にきょとんとして首を傾げる。
「何がですか?」
「僕も召喚獣とか持てたらなぁってさ」
「ああ…」
 自分の相棒として、また話し相手として常に側に居れば大変心強いだろう。同時に彼らの世話をするのは大変そうだが。
 ただ、サキトには常時護衛剣士が付いているので召喚獣の類はそれほど必要では無い気がする。
「あれを持てるのは余程相手に気に入られた魔導師だからなぁ…ファブロスのオーギュ様に対する溺愛っぷりなんて引くレベルだぞ…」
 主人の自慢やら心酔っぷりを頼みもしないのにくどくどと言ってくるのを思い出し、ヴェスカは辟易気味に言った。
「やっぱりお気に入りにならないといけないのかぁ…僕は魔法は使えるけど、そこまで強くないから知らない世界の話だなぁ」
 残念そうに苦笑していると、見回りを早々に済ませてきたのか風を斬る音と共にファブロスが戻って来る。
「お、どうだった?」
『あった。ここからそんなに離れていない場所に寂れた建物があった。リシェが言っていた通りの廃墟だろう』
 探索の結果を聞き、ヴェスカは安心した。これで今よりは体を温める事が出来るはずだ。
「建物の状態はそんなに悪くないのかな」
『それは中に入らないと分からん』
 この状況を脱出する為には、行くだけの価値はあるはず。
「寒いから行ってみようよ。このままじゃ皆凍えちゃうし、ちょっと場所を借りるつもりで…」
 そうだな、とヴェスカは足元の火を消す。このまま同じ場所に留まるのも御免だ。そしてサキトの体力の事を考慮し、一行はファブロスが示した方向へ進む事にした。
 様々な匂いが鼻を掠めていく。中には動物の死臭のような物も含まれ、不快感に似た何かを嫌という程感じさせられてしまった。大自然の真っ只中に居るのでこればかりはどうしようもない。
 旅人が通過した形跡は無く、明らかに人が落としたゴミの存在は幸い確認出来なかった。もし人間が森を汚し続けていれば、この辺りに棲み着く精霊達の反発も更に大きくなっていただろう。
 足場の泥濘みは前よりはマシだった。
 先程遭遇した謎の魔物の影響を受けていない為なのかもしれない。
『見えてきたぞ』
 ファブロスの声に、それまで足元を中心に気を付けていた彼らは目を凝らして前を向いた。
「ああ」
 リシェは確かにここだ、と呟く。
 廃墟を囲っている木の柵は半壊し、全体的に建物は朽ちそうな様相を見せていたが基本的に頑丈に造られている為か土台はしっかりしていた。何年、何十年経過しているのかは知る事は出来ないが、確かに相当年季が入った建造物だ。
 ヴェスカは全体を見回しながら「うへぇ…」と感心する。
「何でここに作ったんだ…どう見ても日当たりも悪いし、湿気も凄いだろうに…」
 貴族様の考える事はまるで分からないな、と呟いた。
 別荘跡地の入口の階段を上がり、古い扉のドアノブに手を掛けて回してみる。
ここまで朽ちているならば、扉も安易に開くだろう。
「あぁ、あっさり開けられるな。良かった良かった…そうだ、ファブロス。人の姿になった方がいいぞ。重みで床が抜けるかもしれないからな」
『ふむ…そうか。ならばそうしよう』
 ドアノブは砂埃によってザラつきがあったが、意外にすんなり回す事が出来た。
「地下ってのはどの辺りなんだろ」
「確か奥…床に鉄で造られた扉みたいなのがあったと思う。地下に行きたかったのか?」
 歩く毎にミシミシと軋む音が響く。相変わらず湿気に加えて埃っぽい匂いが漂い、陰鬱な雰囲気がした。時代遅れの壊れた家具があちこちに点在し、いかに時間が経過したのかを物語っている。
 僅かばかりの休憩には使えるかもしれないが、決して長居する場所では無かった。
「こんな埃いっぱいの場所より休めるかもしれないだろ?それにお前が来た時は普通に使えたって言ってたじゃねえか」
「それはそうだけど…入れるかどうかも分からないんだぞ」
 周りを警戒しながら暗い室内を進む。
 割れた壺や傾いた額縁、煤けたカーペットを目にしつつ、持ち主によって打ち捨てられた哀れな建造物は静寂を保っていた。
「…これかな?何回か捲られた跡がある」
折り目が目立つカーペットを摘み、軽く捲った。するとリシェが言った通り、鉄製の蓋が出現する。同時にヴェスカは目を輝かせ、軽く歓声を上げる。
「いいねぇ、こういうの大好きだわ。何か秘密基地みたいで」
 鉄の扉という事は結構重みがあるはずだ。ヴェスカはクロスレイを呼び、二人がかりでそれを上げる形で扉を開けた。
「この先も真っ暗ですね…」
 その下部を覗き込みながらクロスレイは呟く。
「ちょい確認してみるか。リシェ、石に魔力突っ込んでよ」
 手元の発光石に魔力を追加し、光の加減をやや増やした後に先陣を切る形で下に繋がる鉄の梯子を降りていく。カツン、カツンと下にヴェスカの足音が響く中、リシェは複雑そうな面持ちで地下を見下ろしていた。
 思い出すのはレナンシェとの事だ。
 ロシュから賜った剣を取られ、まんまとこの地下に閉じ込められた時の印象が嫌でも残っている。心配したロシュが助けに来てくれたのは幸運だったが、もし気付かれぬままだったらどうなっていたのだろう。
 あれから彼に対して警戒心が強くなってしまった。出来るものならば顔を合わせるのは避けたい。
 …流石に今ここで会う事は無いだろうが。
 しばらく間を置いていると、地下の奥を確認し終えたヴェスカが「おーい」と声を上げていた。
 どうした?とリシェは下を覗き込みながら問い掛ける。
「黒っぽい扉があるな。これ、魔法か何かで開くんだっけ?」
「そうだと思う…でも、俺らの魔法で開けられるかどうか…どう開けたらいいのか俺にも分からないよ」
 すると『見てみよう』とファブロスが梯子を降りて行った。簡単な魔力で解錠出来ればいいのだが、司祭レベルの難解な魔法陣を利用しなければならないとなれば開ける事は不可能に近い。
 実際、リシェが魔力を投じて開けようとした際には全く開ける事すら出来なかったのだ。
 ファブロスが下に降りて行った後、不安そうなクロスレイは「どうなんでしょうかね…?」と心配する。
「魔法で解錠出来るのって慣れた分には楽だろうけど、解錠する為にわざわざ魔法陣を作るのって面倒だと思うんだよね。だって一つの扉のセキュリティの為に個人で考えなきゃいけない訳でしょ?その都度思い出すのって時間のロスだと思うよ。別口で簡単な開け方もあると思うんだけどねぇ」
 うーん、とサキトは唸った。
「…術者が考えるんですか?」
「そりゃそうでしょ、鍵の一部なんだもの。考えた術者の記憶力と魔力が相当高くないと魔法陣の扉の鍵なんて作れないよ。物理的な鍵もあってこそ、ちゃんとした扉として機能出来るとは思うけど」
 確かにわざわざ魔法陣の形式を記憶しなければならないのは面倒だ。しかもセキュリティの関係上、一点物でなければならない。だがあの時のレナンシェは、何の苦もなく魔法陣を作り上げて解錠していた。
 彼程の術者ならば、この程度はすぐに覚えられるものなのだろうか。
「リシェ!!サキト様!!クロスレイさーん!!」
 地下の奥からヴェスカの声が響いた。反響した声が若干ブレて耳に届く。
「何だ、ヴェスカ?」
「開いた!!」
 その言葉に、リシェは側に居るシャンクレイスの面々と目線を合わせた後で自分でも想像しない位の変な声を上げてしまった。
「………は??」
「だーかーらー!開いたんだって!!下に降りてこいよー!」
 そんな馬鹿な。
 ヴェスカの呼び出しに応じて、三人は地下へ降りる。
 内部は上とは違って壁や床に特殊な施工を施されている為か、独特な匂いがした。頑丈にする為に別の石と木材が使われているのだろうか。
 発光石の明かりを頼りにヴェスカとファブロスの近くまで進むと、青白い魔法陣が刻み込まれた特殊扉が少し開いた状態になっていた。
「…そんなに簡単に開けられるものなのか?」
 拍子抜けしながらリシェはファブロスに問う。
『仕掛けられた魔法陣の履歴を確認した。だが前回の魔法陣は簡易的な物で、一度使い切ると効果が無くなる類のものだ。これなら開ける事は容易い。ただ記録された通りに復元すれば良いだけだからな』
「り、履歴?」
 何を言っているのか分からないといった風のリシェに、ファブロスは涼しげな顔で続けた。
『扉に触れて記憶を辿ると言った方が良いか?』
「じゃあ、その記憶を頼りに魔法陣を出したって事?」
 察しの良いサキトは感心しながらファブロスに問う。彼は頷き、この扉は開けたままの方が良いなと言った。
『魔力に感化されるタイプの物は変に動かさない方が無難だろう。魔法陣の効力も薄くなっている。それに、少し借りる程度の部屋だしな』
「そんな事が可能なのか…」
『これでも魔法の力を主体とした召喚獣だ。人間が魔法で作り上げる複雑な物に関してはどうにかやれん事は無い』
 さらりと言う辺り、妙にオーギュと似ている。
「じゃあこのタイプの扉に当たれば、ファブロスが居れば開け放題になるんじゃね?下手すりゃ普通に空き巣出来るじゃん」
 宮廷剣士らしからぬ発言を放つヴェスカを、ファブロスは馬鹿かと嗜めた。
『何を期待している?私は人間の持ち物に興味が無い。それに、そんなものに加担したくないぞ』
「俺もそんなんやりたくねぇよ。ただ言っただけで」
『よくそんな発想が出てくるものだな。この場にオーギュが居たら殴り倒されるぞ』
「やだよそんなの…とりあえずお邪魔するかね」
 扉の隙間を縫うようにヴェスカが内部に入っていく。彼の大柄な体を横向きにしてようやく入り込める隙間だ。彼よりもっと大きなクロスレイは大丈夫だろうか。
 奥に入るなり、ヴェスカは「おぉおっ」と声を上げる。
 リシェとサキトは華奢なのですんなりと入り混み、ぼんやりとした明るさの中で室内を見回していた。
『大丈夫か』
「は…はい、どうにかっ…!!」
 どうにか隙間から入ろうと頑張るクロスレイを見兼ね、ファブロスはもう少しだけ扉を広げる。彼の筋肉量が凄いのか、胸元でつっかえてしまうようだ。
 ヴェスカですら頑張って通り抜けたというのに。
「ありがとうございます」
『ああ』
 通りで操られた際にあれだけの破壊力を発揮出来たのか。
 控えめな性格でさえなければ、その能力も遺憾なく発揮出来るものをとファブロスは妙に残念がったが、それはシャンクレイス側がどうにかする話でこちらには関係の無い事だ。
「随分と生活感のある部屋だな。誰か使ってたみたいだ…そんなに埃被って無いし。…なぁ、リシェ。ロシュ様、ここに来たりするのか?」
 しっかりと手入れを施された絨毯に加え、テーブルや椅子もそこまで傷みが無い。果ては暖炉周りも綺麗に掃き清められている。
 あまりにも階上とは違った状況に、ヴェスカは不審に思ったようだ。
 リシェは無言で首を振った。
「ここに来る暇は無い」
 恐らく、アストレーゼンを訪れる度にレナンシェが立ち寄るのだろう。
「前にレナンシェ様に連れて来られた程度だ。ロシュ様が言うには、あの人は大聖堂の堅苦しい雰囲気が好きじゃないみたいだから」
「あぁ…なるほどね。あの人か…」
 過去に一度だけ顔をみた記憶を引き出し、ヴェスカは納得する。
 ロシュのように柔らかな雰囲気とはまた違い、良く分からない近寄り難さがある司祭だった。
 …圧倒されるというか何と言うか。
 司祭としての威厳を内部から醸し出しているのかもしれない。そんな雰囲気を出しておきながら、堅苦しい事を嫌うとは妙なものである。
『隠れ家的に利用していたのかもしれないな。あまりあちこち弄らない方がいいだろう』
「それがいい。後でとやかく言われたくない」
「暖炉位は使わせて貰ってもいいだろ?寒いしさ。発火材もしっかり揃ってるし」
 すぐ近くに大きな収納用の木のケースを開け、中身を確認したヴェスカは黒光りした数本の棒を暖炉の中に放り込む。
 発火材はアストレーゼン内の比較的乾燥した地域から取れる木材から摘出して作られ、長時間利用出来るように特殊加工した物で炊事や入浴時にも利用出来る。加工された棒に火力を与える事で、簡単に燃え上がる物だ。
 小さく加工された物となればちょっとした暖を取る事も出来る便利アイテムとして重宝されていた。
 消えて無くなってしまうまでは再利用可能で、冒険者の間でも良く購入されている物だ。だが特殊な加工材とあり、切りっぱなしの薪よりは割高の為、一般民は安価な薪を利用する。
『終わったらちゃんと掃除しないとな』
 この発火材は便利だが、稀に飛び散る細かい炭は付着すると汚れが目立つという難点もあった。
「分かってるよぉ。…服もしっかり乾かさないと」
 暖炉に火が灯ると、ゆっくり周囲が暖かくなっていく。
「サキト様」
 無事に暖まっていくのを確認した後、ヴェスカはサキトに声を掛けた。
「なぁに、ヴェスカ?」
「こっちで暖まって下さい。風邪ひいたら大変だし」
「気を使ってくれてるの?ありがと…でも僕が前を占領しちゃったら、お部屋が暖まりにくくなるから平気だよ」
 室内を見て回っているリシェは、一部の壁に埋め込まれていたレバータイプのスイッチを上げる。それまで持ち寄っていた発光石だけの僅かな照明で照らされていた室内は一気に明るくなり、部屋の状況が簡単に分かるようになった。
 クロスレイはサキトを暖炉の近くまで誘導しながら「うわあ」と軽く感嘆の声を上げる。
「相当しっかりした部屋だったんですね…」
「上とのギャップが凄いな。むしろ地下がメインなんじゃねえのかって思えてくるわ」
 天井に掛かっている小型のシャンデリアを見上げるヴェスカは、呆れの気持ちを込めて「何だよこのシャンデリア…」と呟く。小型だがやはり貴族の持ち物とあり、クリスタルビーズをモチーフにした派手なデザインの為か一般人には豪奢に見えてくるようだ。
「中心に魔石が入っている」
 同じく天井を見上げ、リシェが言う。
「照明スイッチの上部に小さな石が埋まっている。あれで魔力を補充しておくんだろう。魔力で動かすタイプのシャンデリアだ。…ここまで無駄に凝らなくてもいいと思うんだけどな」
 彼が言うように、シャンデリアのガラスの中心部に、まるで宝石をカットしたような形の魔石が嵌め込まれていた。
 うへぇ、とヴェスカは苦笑いする。
「普通の照明でいいだろうに」
 細部に渡って執拗なまでのこだわり具合に辟易してしまう。
「まぁいいや。ここを使わせて貰ってるんだからあまり文句を言うのもな。一旦休憩して…あの良く分からない石人形みたいなのをどうするのか対策立てていかないと」
 先程の水飛沫によって濡れた外套や上着などを乾かす為に、それぞれ椅子や家具の一部に掛けて放置させる。
 このように暖を取れるだけ相当運がいいと思った。
「…で、どうするんだ?」
 暖炉の前で座り込んでいるリシェは絶え間なく燃え続ける火を眺めた後、誰に宛てる訳でも無く問い掛けた。
「前に来た時はあんなもの居なかったと思うぞ…」
 前回は呪吸石を取りに来た時か。
 確かにあの時は霧の発生位のもので、まだ可愛いものだった。今回もそのタイプのアクシデントに見舞われるのだろうと覚悟していたのだが、想像すらしていない物が出現したのでどうやり過ごせばいいのか分からない。
 ううん…とヴェスカは胡座をかきながら頭を抱えた。
「俺だってさぁ、どうせ撹乱程度だろって思ってたんだよぉ…てか、何なんだよあれ?今までの遠征の時に見た事あったか?明らかに新種じゃねえか」
 魔力に感化された何かだとは思うが、流石に規模が大き過ぎる。背の高さは大の大人が大体三人分程で、横幅もそれなりにあった。
 サキトが思わず呟いていた石人形という名前もしっくりくる。ごつごつとした石を繋げたような異様な形の魔物は、どの過程を経てあのような姿になったのだろう。
 それもただの石では無い。まるで透明感のある水色の結晶の塊を継ぎ接ぎしたようなものだ。ただの石として見れば、光の加減によって相当美しく目に映えるだろう。
「ううん…やっぱり硬いのかなぁ?魔力を発してるって事は魔石か何かだと思うけどさ…」
 こんなに鬱蒼とした場所に魔石があるのか…と唸るヴェスカだったが、しばらくしてハッと顔を上げる。
 あまりにも感情が忙し過ぎる。突然何かを思い出し顔を上げた彼に、隣で座っているクロスレイは思わず「わ!!」と驚いた。
「ファブロス…?」
 そろそろとヴェスカはファブロスに問う。
『ん?何だ?』
「もしかしたらよ…あれが目的の水を出す魔石なんじゃねえの?あの石人形自体がさ。ほら、物凄い勢いで水噴射してたじゃん。何らかの形で変異するとか無いんかなーって単純に思ったんだけど」
『その可能性も無くはないな』
 あまり深く確認出来なかったが、仮に精霊達の悪戯に加えて魔力の淀みによって変異したのならば集合体の核となるものが存在するはず。
 彼らは仲間達と協力しあう際、それぞれ急所の部分を結合し守りを固めていく傾向にある。数人の精霊達が寄せ集まって体を突き出す形で心臓の部分を近付けた後、擬態の形を取っていくのだ。
それは自分達のテリトリーを侵略する脆弱な人間を驚かせるには十分である。
『ちょっと見て来るか…』
 あの石人形がどんなタイプの物なのか確認してくる必要がある。
 精霊達によって作り上げられた物ならば、強度はそこまで強くは無いはずだ。
「え、また偵察して来るのか?」
『核を見てなかったからな。すぐ戻る』
 扉の方へ進むファブロスの背に、サキトは心配そうに「まだ体が暖まっていないんじゃないの?」と話しかける。
 もう少し時間を置いてからでもいいのではないか。
 ようやく室内も暖かくなってきたというのに、と気を使う。
『私はそこまで寒くない。それにただ見に行くだけだ。お前達は休んでいろ』
「そーお?すぐ戻って来てね」
 多少休まないと後が大変になるかもしれないからね、とサキトが念押しするように言うと、ファブロスはふっと目尻を緩ませた。
 彼が一旦室内から出て行くと、ヴェスカはつい苦笑いする。
「別にすぐに行かなくても…真面目だなぁ…」
「ファブロスも気になったんだろう。でもこれで何かしら対策が取れるかもしれないし…」
 まず結果待ちだ、とリシェは暖炉の火を眺めたまま呟いた。
 待つ間、時間を持て余すサキトは室内を回り始める。貴族ならではなのか、室内の調度品類に興味を持ったらしい。
「それにしてもいいものばかり置いてるね。完全に隠れ家みたいな感じじゃない。来賓室って言ってもいい位だよ」
 壁に掛けられている動物の角や、棚に綺麗に置かれている古美術品を見回す。丁寧に並べている辺り、持ち主のこだわりが詰まっていた。
 触れようとしたその時、サキトは一旦手を止めた後ですぐ引っ込める。
「…うわぁ」
「どうしました?サキト様」
 やや引き気味のサキトに、リシェは不思議そうに問い掛ける。
「置物に軽度の魔法壁が張られてる。ただ放置されているのかと思ったら…」
「え」
 見た限りでは壁の存在を確認出来なかった。言われるまま近付いてみると、調度品のすぐ手前に薄っすらとした膜状の壁が張り巡らされていた。遠目では見られないタイプの膜だ。
 魔力のある人間ならば、その薄くキラキラした粒子の壁をようやく確認出来るレベル。
「…盗られたくなければ最初から置かなければいいのに」
 レナンシェの妙に勝ち誇った顔を思い出すと同時に、「この部屋はよくロシュと体を重ねた場所だ」という言葉を不意に思い出してしまい、思わずリシェは舌打ちする。
「どうしたの、リシェ?」
「いえ…ちょっと嫌な事を思い出しただけです」
 彼には物凄く不愉快な気持ちにさせられた。出来るなら顔を合わせたくない。
 彼は自分の知らないロシュの顔を知っている。それは仕方無いと思うが、それを小出しにひけらかすのが気に入らなかった。
 きっとレナンシェとは根本的に合わない性質なのだろう。
「この部屋の持ち主、相当この部屋を大事にしてるんだろうね」
 調度品に触れる事を諦め、サキトは室内を改めて見回した。
 それぞれ時間を持て余していると、遠くからこちらに向かって足音が聞こえてくる。どうやらファブロスが戻って来たらしい。
 ヴェスカは顔を上げ、小さく開いた扉を抜けて室内に入った彼に「どうだった?」と話し掛けた。
『お前が言うように、あれは精霊達の悪戯の一部だった。ちょうど心臓部に核の鈍い光が見えたからな。あれを突けば奴らは離散するかもしれない』
「あぁ、やっぱりか。それなら解決出来そうだな」
 …さて、どうするか。
 暖炉に当たりながら、サキト以外のメンバーは固まって座り込む。彼は備え付けの椅子に悠々と腰掛けると、ちょっと硬いねと感想を述べていた。
「ええっと…どうするんです?」
 控え目にクロスレイはヴェスカに問う。
『向こうが交戦したいとなれば、こちらもやらざるを得ないだろう。やれる者が行けばいいと思うぞ』
 そう言い、ファブロスはサキトに目を向けた。
『サキトはここで待機した方がいいんじゃないか』
「えぇ?」
 名指しで告げられたサキトは、ファブロスの発言に驚く。大きな目を瞬きさせながら「どうしてさ?」と疑問を投げ掛けた。
『厄介事が落ち着いて、安全だと判断したら迎えに来てやる。何事も無かったら何の苦も無く水汲みが出来ただろうが、予期しないアクシデントが発生しているからな』
「ううん…そりゃそうだけど」
 出来るものならば一緒に行きたい。
 ただ、ファブロスの言いたい事も理解出来るのだ。自分は隣の国から来た人間で、しかも王族となると身の安全を考えなければならない。大聖堂から離れ、ちょっとした冒険に連れて行って貰えるだけでも危険なのに、更に危険な目に合う可能性も無くはないのだ。
 この状況になって改めて、自分の立場の窮屈さや不自由さを感じてしまう。アストレーゼン側にこれ以上迷惑を掛けるのも申し訳無い。
「…ごめん。僕はこれ以上我儘を言う立場ではないね。大人しくここで待機しようと思う」
 破天荒な性格だと思っていたが、行き過ぎると自分で急ブレーキを掛けるのだろうか。何に対しても興味が湧く年頃だろうにとヴェスカは哀れに思った。
「その代わりに、終わったら僕を迎えに来て欲しい。目的の水が湧くのをこの目で見てみたいからね」
「それは勿論です、サキト様」
 故郷の国の王子に、リシェは丁寧に答える。
「サキト様を一人でここに待機させるのもあれだからな。もう一人待機する人を置いた方がいいだろ」
 一人欠いても、戦力は十分にあるはず。ヴェスカはううんと考えた後、サキトと同じ年齢のリシェに目を向けた。
「リシェ」
「え?」
「お前、ここに残れ」
 行く気満々だったリシェは「何故俺が」と顔を顰めた。
「お前が残れよ…制服も着てないくせに。何の耐久性も無い私服で行く気か?」
「………あ」
 改めて自分の身を確認する。
 確かに言われてみればそうだった。リシェに指摘されて改めて気付く。支給された宮廷剣士の制服は特殊な加工を施されており、魔法や多少の攻撃を受けたとしてもある程度は防いでくれる。
 現在のヴェスカの服装といえば、完全にラフな普段着のままだ。護身用の武器は持っていても防御力はほぼ無いに等しい。
「き、着なくてもどうにかなるんじゃね?」
「今以上に澱んだ魔力のある場所に行くんだぞ。お前、それ系の耐性は絶望的に無かったんじゃないのか」
 森に入って以降、全身の皮膚がいつもよりピリピリしているのを堪えていた。魔力が入り組んでいるような森に入った以上、こればかりは仕方無いとは思っていたのだ。全身を覆う制服を着ていたらまだ防御出来ただろうが、完全に布の服で半袖のシャツとなれば少なからず影響が出てしまう。
 体に関しては絶対的な自信があるので、変調が多少あったとしても口にしないようにしていたのだが。
「制服着て来れば良かったなぁ!もう…」
『…こればかりはどうしようも無いだろう。ヴェスカ、ここに残れ』
「耐性付けられる特訓的なもん無いの?ほら、オーギュ様とか知ってるんじゃないのかなって…」
『お前は体質的に、ほんの僅かな魔力でも受け付けないというじゃないか。魔力が逃げるタイプなら耐性を付けようにも付けにくいんじゃないのか?自分で防御するより他無いだろう』
 体質的にと言われればどうしようもない。
 ぐぬぬと悔しそうな顔をすると、ヴェスカは仕方無ぇなと苦々しく呟いた。
「分かったよ…本当は俺も行きたかったけどな!大体、俺なんて留守番って柄じゃ無いだろー!」
 残念がる上官に、リシェは半ば呆れながら返す。
「確かにそうだな。頼んでもいないのに勝手に動くし」
『…では赴くのは私とリシェとクロスレイの三人でいいだろう。すぐ片付くだろうから時間もそうかからないはずだ』
 ファブロスは自信無さげなクロスレイに目を向ける。彼はそれに気付くと、反射的に背筋を伸ばしていた。
『大丈夫か?』
「は…はい。だ、大丈夫です…ただ」
 何か不安な事でもあるのだろうか。ファブロスはクロスレイにどうした?と問い掛ける。
「またあの水の噴射が来るかもしれないと思うと」
「…………」
 誰にでも苦手なものはある。
 歴戦の戦士であるヴェスカですら虫が嫌だとごねる位なのだ。リシェはふっと隣に居るファブロスを見上げると、彼も自分と同じように複雑な表情を見せていた。
『水が飛んできたらなるべく避けるように走れ』
 その場面にならなければどう対処したらいいのか分からない。現時点ではどうにか自力で避けてくれと言うより他無い。
「は…はぁ…」
「…もう。情けないねクロスレイ…何だか僕まで恥ずかしくなってくるよ。一応シャンクレイスの剣士なんだから情けない姿は控えて欲しいものだね」
「すみません…」
 サキトに注意され、クロスレイは余計臆してしまう。
「…大丈夫ですよ、サキト様。誰でも無理なものはありますし…それにヴェスカだって虫が嫌だってかなりごねるので。先に苦手なものを言ってくれると助かります」
 リシェはクロスレイをフォローしながら、自分の上着の状態を確認する。まだ少し湿った感じはするが、先程よりはマシだろう。
「どうする?もう行くか?」
 リシェは上着を手にしたままファブロスに問う。
 そうだな…とファブロスは萎縮しているクロスレイに視線を向けると、さっさと終わらせた方がいいだろうと決断した。
『ここでずっと居残っていても仕方無い』
「分かった」
 持ち寄った荷物は室内に置き、比較的身軽になった状態で向こうで居座っている石人形の対策を取る事にした三人は、準備を済ませると早速外部に出ようと動き始める。
 残されたヴェスカとサキトは彼らが石人形を始末するのを室内で待機という形になった。外に出たがっていたヴェスカは最後まで未練がましそうに文句を言っていたが、リシェによって遮られてしまう。
 お前はこんな所で死にたいのか、と。
 外に出て暴れたいが、勿論命は惜しい。
 ぶーぶーと文句を言っていたが、やがて諦めたのか「そうだ」と顔を上げた。
「クロスレイさんよう」
「は、はい」
「あんた剣よりこっちの方がいいんじゃねえの?貸してやるからさ、試してみなよ」
 床に寝かせていた自分の武器を持つと、刃先を包んでいた分厚い布を剥がす。彼が宮廷剣士の剣とは別に、扱いやすいからという理由で常に持っているハルバードタイプの斧。アストレーゼン内の有名な刀鍛冶によって特注で造り込まれており、刃の素材も軽量且つ簡単な事では刃溢れしない頑丈な材質を使用している。柄の部分にも持ちやすさを追求し、グリップの部分は厚みを含ませ手に馴染みやすく優しい素材を施されている。
 そして良く手入れをされている為か、切っ先も照明の光に照らされ、重厚感溢れる輝きを放っていた。
 刃先が大きいので扱う際にはかなりの注意が必要だ。
「あ…」
「何だか剣だと窮屈な感じがするんだよ。あんた、自分に合うよう得意武器がまだ分かって無さそうだし。実家が伐採業なんだろ?手伝いとかして来たと思うんだ。それならこっちがしっくり来るんじゃねえか」
 初めて手にする武器を持たされ、クロスレイは握らされた手を見下ろす。自分の手の大きさにちょうど合っているのか、変にしっくりと馴染んだ。
 クロスレイは顔を上げると、ヴェスカに礼を告げる。
「あ、ありがとうございます」
「こういうタイプが丁度いいなら、自前の武器を持つっていうのも自信になるかもしれないぞ」
 確かに剣を振るうにしても、自分には扱い難い部分があった。練習や特訓を重ねても、何度も先輩剣士達から甘過ぎると言われる位だ。
 自分はまだ未熟故かと思っていたのだが、窮屈な感じがすると言われたのは初めてだった。
「あんた、剣の練習しかしてこなかったろ」
「は、はい…練習するにも剣の稽古中心だったので」
「武器は剣だけじゃねえ。試しに斧を振ってみるといい。何か違うものを感じるかもしんねぇからな」
 勧められて持たされたヴェスカ専用の斧を軽く動かすと、何かを感じたようだ。
「それ、頑丈だし遠慮無く振っていいぞ」
「は、はい…」
 待機するサキトとヴェスカを残し、他の三人は地下の部屋から外へと再び顔を出す。時間の経過と共に上から降り注ぐ日の光の明度が落ち着いているのを確認すると、ファブロスは大分時間が経ったようだなと言った。
 夕方に近い時間だろう。服を乾かすついでに作戦を立てていると、恐らくその位になっているはずだ。
「早く厄介なものを取り除かないと。サキト様が帰って来ないとなれば向こうにもご迷惑をかけてしまう」
 リシェに同意するようにファブロスも頷く。
 流石にここまで時間を掛けてしまうとは想定外だった。だが、早めに出て正解だったのかもしれない。これが昼頃に出発していたならば、既に夜間になっていただろう。
 空腹に備え、一応携帯用の食事は持ち出してはいたがその場凌ぎ程度にしかならない。地下の部屋で待機している最中、それらを取り分けてそれぞれ口にしたが流石に足りなかった。
 森の中に稀に見かける実などは魔力の淀みの影響下にあり、迂闊に口にする事は出来ない。開けた場所にあるものならば辛うじて食用として使えるが、様々なタイプの魔力が混在する森に生息する草木や実は危険を伴う可能性があった。
 廃墟の敷地を抜け、三人は一旦来た道を辿り廃教会方面へ進む。
 相変わらず足元の泥濘みが酷いが、やや落ち着いているような気がするのは気のせいだろうか。
 元々足元が悪いせいで、泥まみれになっていても気にならなくなってしまったのかもしれない。
「どうですか、クロスレイさん」
「は、はい?」
「ヴェスカの武器。扱えそうですか?」
 試しにと渡された斧を背中に掛けているクロスレイは、リシェの声に反応した。武器用の斧は一般的な剣より重みがあるが、彼には悠々と使いこなせそうに見える。
 ほぼ強引に持たされた感があるので大丈夫だろうかと思っていた。
「…はい。凄く使いやすそうです。というか、久しぶりに斧を握った気がします」
「それは良かった。重さは大丈夫ですか?」
「いつも使っている剣よりは少し重さを感じる位ですけど…」
 やはりその恵まれた体格だからこそそう感じるのだろう。
 以前ヴェスカの武器を持ってみたが、自分には重くて扱う事は出来ないと思っていた。長い柄がある分、相手との間合いに余裕が作れそうなので羨ましかった記憶がある。
 ただ、リーチがあればある程周りに気を付けなければならないのが難点だが。
 廃教会に近付くにつれ、淀みの濃度が高くなってくる。
「う…やっぱり違和感があるな」
 水分を含む土の匂いに混じり、異様な雰囲気を感じたリシェは顔を歪めて咽せてしまった。このような奇特な環境下に長時間置かれていると、魔力を持つ者は全身に違和感を感じてしまう。影響を受けたくない術者は前もって薬草やお香の類を持って来るだろうが、流石にそこまで気が回らない。
『精霊の集合体が一気に詰まっているようなものだからな。気分が悪くなったら遠慮無く退いてもいいぞ』
 ファブロスはそれほど気にならないようで、至って普通に見える。
「あんたは大丈夫なのか?」
『私は大丈夫だ』
「そうか…やっぱり召喚獣は人間と違うんだな」
 けろっとしている事から、ファブロスのような召喚獣にとってこの辺りの精霊の力など大した問題では無いのだろう。
 体調の変化が著しいリシェを気遣いながら、『あまり無理をするな』と言う。その一方でクロスレイはファブロス同様、何の変化も感じない様子だ。
 魔力の干渉が原因となる体調不良も個人差があるのかもしれない。
「多分、解決すれば治ると思う」
 気分の悪さも自分がまだ未熟だからなのだろう、と自分に厳しいリシェは思っていた。
 もう少し魔法に関する鍛錬や耐性があればマシになるはずだと。
 教会の朽ちた佇まいが見えると同時に、例の結晶体の姿も見えてくる。先程と変わらず上からの光によって鈍い輝きを所々に放ちながら、その大きな身をゆっくりと動かしていた。
 リシェは草木に隠れながら石人形を遠くで確認した後、ファブロスを見上げる。
「…これからどうするんだ?一気に叩いてたとしても向こうの動きが分からない以上対処もし難いと思うけど…」
 無闇に動くのは危険を伴う。出方次第ではいかにも殺してくれと言わんばかりの命知らずの行動になりかねない。
 どう先手を打てばいいのか。
 すると、ファブロスの回答を待つ前に大人しいクロスレイが口を開いた。
「そうですね…最初は動きを観察すれば、どうにか行動パターンも読めてくるのでは?…あれだけの結晶をくっ付けた体だと、そんなに自由に体を動かすようには思えません」
『なるほど』
 意見を聞いた後、ファブロスはその身を獣の姿へと変化させる。変身させる際に出現する魔力の粒子は二人の目の前でキラキラと輝き、目線の位置が高い所から低い所まで下がっていった。
 クロスレイはその見慣れない光景に一瞬視線を奪われてしまう。
『様子を見るか。動きを把握したら頃合いを見て来るといい』
「分かった」
 リシェの返事を待つ間も無く、屈強な獣は飛び出して行った。
「わ!!…ひぇえ…凄いですね…」
「俺は慣れたけど、あまり見ない人は当然びっくりしますね」
 素早く駆け抜けていった獣の後姿を見送りながら、リシェは腰の後ろに収納している杖の準備を始める。クロスレイもまた、ヴェスカから預かった斧の柄を握った。
 真っ直ぐに向かっていったファブロスの存在に気が付くと、巨大な石人形はその身を向け大量の水を噴射していく。
「水を出すのは頭部からですね」
「はい。動作は遅い気がします」
 頭部…顔の部分に黒い窪みがあり、そこからファブロス目掛け水を噴射する。幸い、それ以外からの噴射は無いようだ。
 一定の時間噴射が終わると、一瞬隙が出来る。ぐらりとよろめきながら攻撃を仕掛けたファブロスの姿を探すと、両手を振り威嚇を始めた。精霊達の寄せ集めで作られた為か、動きもどこかぎこちない。
 獣が石人形の背後に回るとその姿を探すのに時間を要している事から、相手は見掛け倒しでそれ程脅威の存在では無いと判断した。
 粗方の動作が分かればどうにか出来そうだ。
「それ程素早くなさそうです。行きましょう、クロスレイさん」
 延々と待機している訳にもいかない。すればする程、ファブロスの負担も増えていってしまう。
 行動を把握しつつ、石人形に対応しながら観察していけばいい。
 素早いリシェの後を追うようにして、クロスレイも追い掛けていく。まだ幼いアストレーゼンの宮廷剣士の戦い方を観察するいい機会だ…とこの話を受けた際、先輩剣士であるイルマリネが言っていたのを思い出した。
 故郷を捨ててまでアストレーゼンの剣士になった事情は知る由も無いが、サキトと同じような年齢にも関わらず司聖の専属として仕える位なので相当の手練れのようだ。彼の姿を見た際、これだけあどけない顔をしながらその地位まで登り詰めるとは一体どれだけ凄い殊勲を上げたのかと疑問に思った程、司聖の登用に疑問を抱いてしまった。
 本音を敢えて言うなら、彼の剣技を見てみたかった。
 この幼い剣士が一体どの位秀でているのかをこの目で確認したかったが、自分と同じように怪我明けとなれば仕方無い。
『…リシェ!!奴の視界の中に入るな!!』
 獣化したファブロスが吠える。
 その声に呼応するように、リシェは一旦真っ正面から向かうのを止めて石人形の目線を避けるように身を隠すと自分の後を追うクロスレイに対し「…逸れて!!」と声を掛ける。
「………っ!!」
 石人形がこちらに顔を向けるのを躱すように、クロスレイは生い茂った草木の中に身を伏せた。
 ファブロスは出来るだけ自分に集中させるかのように石人形に向かって威嚇する。その威嚇は周辺の大気を大いに震わせ、精霊の集合体である石人形に対しても怯ませるだけの力が含まれていた。
 人形はファブロスに向かって大きな体を揺らしながら迫って行く。
 まずは核を狙えば状況が変わるかもしれない、と作戦を立てていた際に聞いた言葉を思い出す。
「リシェさん」
「?」
 やや離れた先で伏せるクロスレイは、リシェに話し掛けた。既に彼の真っ白な特注の衣装は泥に塗れていた。それでも気にしない辺り、普通の剣士らしさを感じさせる。
「相手の油断を見計らって核を突いてみます。硬いかどうかもまだ分かりませんが、まずは確認してみないと」
「え…あ!!ちょっ…」
 血気盛んな傾向にあるのか、クロスレイはそう言うと立ち上がり斧を手に走り出してしまう。
 身にかかった汚泥を振り払うようかのようにダッシュした彼に、そんな馬鹿なとリシェは本音を漏らした。
 ファブロスが視界に入るなと忠告したにも関わらずいきなり飛び出してしまうなんて、折角の彼の言葉が全くの無駄になってしまうではないか。
変わらず石人形と対峙していたファブロスは、相手側の後方で蠢く影に気付いた。その姿を明確に双方の目で確認した瞬間、小さく舌打ちする。
 …危険だと言うのに!
 内心で毒吐きながら、大きな口を開き威嚇した。出来るだけこちらに注意を惹きたかったが、大抵の者は距離が開いている相手よりも近辺の物音に対して過剰に反応してしまう。石人形も例外では無い。
 精霊達はただでさえ動きに過剰だ。その集合体ともなれば更に過剰さは大きくなるだろう。
 石人形は向かって来たクロスレイにぐるりと体を向けると、頭部から溜め込んだ水を一気に噴射した。
「!!」
 ちょうど構えた斧を引き、振り抜こうとしていた彼は明らかに大量の水の噴射が自分に向けられているのを知り一瞬怯む。大の大人ですら太刀打ち出来ない程の流れを耐え切れるはずが無いのは身を持って知っていたのに、やはりいきなり飛び出すのはあまりにも浅はかだったかと奥歯を噛んだ。
『この…っ!!』
 ファブロスは無防備に石人形に斬りかかろうとしたクロスレイに向かって進路を変えた。あまりにも愚か過ぎる行動に呆れ、苛立ちを見せる。
 一方、全身に大量の水を浴びたままのクロスレイは流れの勢いから身を逸そうと少しずつ動こうと足掻いている最中だった。
 この放出が終わったら隙が出来るはず…とひたすら耐える。しかし一気に水を煽る形になり、強烈な風圧と水圧に加えて更にずぶ濡れの不快感が増していくのみ。
 幸い上半身はそれほど煽りを受けていないが、顔を逸らして避けるだけで精一杯だ。それに自分は泳ぐ事が出来ない。食い縛る事でしか、この攻撃に耐える方法が見つからなかった。
 水の流れは想像以上に激しい。
 …甘かったかもしれない。
 クロスレイは水を受けながら今更悔いても遅い事を知った。
 最初は踏ん張って我慢していたものの勢いに飲まれそうになる。流れが途切れるまで、とにかく全身の力を奮って体勢を保とうとした瞬間、自分の重い体がふわりと浮かんだ。
「は…え!?」
 水の感触は無くなったが、代わりに体の一部一部が若干チクチク痛む。何事かと自分の周りを見回すと、目の前に大きな角と赤い瞳が見えた。
「あ…ファブロスさん!?」
 あの濁流から強引に自分を咥えて引き上げてくれたようだ。自分は大きな獣の口に咥えられているらしい。若干彼の目が怒っているようにも見えたが、確かに怒られても仕方無い行動だったと反省する。
「…す、すみません…」
 石人形の視界から離れた場所で着地すると、ファブロスはクロスレイの体を吐き出すように解放した。同時に呆れた口調で叱咤する。
『死にたいのか!!』
「すみません…!でも、どうにか隙を見て動かないと」
『だからと言って真っ正面から飛び出すとは!』
 濁流を避けて身を隠す彼らに、リシェが近付くと「水が収まってきた」と声を掛ける。溜め込むのに時間を要するのを見て、今が頃合いだと続けた。
 ファブロスは一旦咎めるのを止めると、くっと顔を石人形の方へ向ける。石人形は吐き出していた残りの水をぼたぼたと垂れ流し、頭を左右に揺らしていた。
 その動きもぎこちなく、常に自由に散会している精霊達の集合体だとは思い難い。そこまで動き難いならば、最初から結合しなければいいものをとファブロスは突っ込みたくなる。
 湿気を含む重苦しい空気が森の中を包み込んでいた。水をしきりに浴びた草木は、雨を浴びたように水滴を落とし地を湿らせ続けていく。
「俺がどうにかして核の部分を突く。あんたは撹乱して欲しい」
『剣も無いままで突っ込む気か?』
 まだ魔法に関しては熟練が足りないのは本人は勿論の事、ファブロスも知っていた。それでも弱点と思しき懐の核部分目掛けて突っ込もうとする行動を取るのは、流石に如何なものか。
「試してみたい事があるんだ」
『………』
 誰よりも小柄で、力も他の剣士より無いリシェは、戦う際は自らの利点や工夫を凝らしながら仕掛けるタイプだ。
 今度は何を考えているのだろう。
 無茶振りを振ってくるが、彼も経験を積み重ねているベテランの剣士である。試したい事があるなら、その策に乗るべきだろう。
『…まぁいい。それなら奴の目を逸らす事に集中しよう。クロスレイ、お前も私と同じく奴の目線を撹乱させる事に集中しろ』
「わ…分かりました」
『リシェが危なかったら加勢に動く。それでいいな?』
「はい!」
 最後の数滴を吐き終えた後を見計らい、リシェはファブロスとクロスレイを見上げる。そして小声で「では」と一言告げると、持ち前の素早さで石人形の方へと駆け出した。
 ガサガサッ、という葉が擦れる音と近付いてくる気配を察した石人形はぴくりと大きな体を動かす。迎撃の為の攻撃材料が乏しくなったせいか、両腕を広げてぐるぐると見境無く振るい回すという古典的な抵抗を始めた。
 …少なくとも、あいつの足下は安全だ。自分まで手が届かない。
 リシェは、相手の大きな体を揺さぶって動く状態を見ながら判断する。魔石のような結晶の塊は人間や動物が持つ特有の柔軟性など無いに等しい。仮に筋肉があれば屈む事は可能だろうが、この石人形は見る限り屈伸運動など出来そうも無さそうだ。
 迂闊に目線の下に居る自分を狙えば、その瞬間に均衡を失って地面に伏すはず。
 現に、その動きは非常に無機質でカクカクしている。
 サキトが第一声で呟いていた石人形という名称は確かに納得出来るネーミングの通りだと思わずリシェは感心した。
 周囲を彷徨く邪魔者をどうにかしようと、先に目線で姿を追いかけようとしている様子だ。しかしリシェの動きが早い為か、目線で追うのが精一杯で体が追い付かないのが暗がりでも分かる。
「やっぱり寄せ集めだな」
 内部に入り込む個々の反応にバラつきがあるのだろう。そもそも大勢の個体が集まって一つの個体になり、尚且つそれを操作するのは無理があるのだ。
 不意に上空が暗くなった。ふと見上げると、ファブロスの大きな影が空中を遮っていた。石人形も影に反応し、回していた両手を止める。
 …上手い事、撹乱に動き始めたようだ。
 目論見通り視界にチラついた獣に目線が向かっていくのを見ると、リシェは杖の先端に魔力を込める。オーギュによって魔石に力を与えられた杖は、力が入るにつれて徐々に輝きを放っていた。
杖は輝きを放つと同時に、強烈な熱を生み出していく。
「…リシェさん!!」
 不意にクロスレイの声が聞こえる。その声に反応し、リシェが顔を上げると石人形の目線がこちらに向けられている事に気付いた。
「………っ!!」
 どうやらファブロスの動きが早過ぎた為に見失ってしまったようだ。同時に、すぐ近くで出現した魔力の熱に反応したらしい。
 石人形は自分の足元に居るリシェの存在を確認すると、両手を上に上げて一気に下へと振り下ろしてきた。
 リシェは一旦魔法を中断し、振り下ろされる腕から逃れる為に横に逸れて回避する。ほぼ同時に、クロスレイが石人形の頭部目掛けて斧を一気に振り下ろしていた。
 独特な静けさが広がる森の中で、金属を打ったような激しい異音が響いていく。
「…んのっ…か、硬い…っ!!」
 掴んでいた手から腕、そして全身に強烈な痺れが走った。
 結晶部分の硬度が高いのか、振り下ろした斧から伝わる振動が強過ぎて手応えを感じない。結構な力で振り下ろしたはずだが、その直撃部分にはヒビ一つ入っていなかった。
 やはり関節部分を狙うべきか、とクロスレイも回避の為に一旦その場から退くと、再び出現した相手の異変にハッと気付いた。
 …また水を出そうとしている!
 そう思い、すぐにリシェの方へ声を掛けた。
「…リシェさん、逃げて下さい!!」
「え?」
「また噴射が来ます!!」
 注意喚起の言葉が放たれた後、石人形の口の部分が大きく開かれゴボゴボという音と共に少しずつ水が吐き出されていく。
 リシェは舌打ちし、出来るだけ視界から逃れようと走った。
『掴まれ!!』
 耳にファブロスの声が飛び込む。
 同時に目の前に獣の巨躯が横切った。リシェは言われるままファブロスの鬣に手を伸ばすと、ぐっと掴んで飛び乗ってその背にしがみつく。
 ぐっ、と呻き、必死にファブロスにくっついた。獣の体は薄暗い森林の中を風を斬るように空を駆け抜けて行く。
 轟音が森の中に響き、水が激しく溢れる音が下方で聞こえてきた。
「…クロスレイさんは!?」
 自分はどうにか逃れたものの、声を掛けて注意してくれたクロスレイは何処に居るのだろうか。ファブロスは乱雑に並ぶ木を利用して飛び回りながら彼の姿を探す。
『…周辺が暗くて見つけられないな。上手い事逃げ回ってくれればいいが』
「………」
 泳げないと言い、同行するにもあまり気が進まない様子だったが、果たして彼は大丈夫なのだろうか。
『ある程度収まってきたらまた下に向かう。今はあの水が邪魔だ』
「いい具合に水から逃げてくれればいいけど」
『吐き出されるのを確認した段階で、自分が逃げる方法も考えるはずだ。あれでも剣士の端くれだろうしな』
 ファブロスは冷静にそう言うと高木の太い枝に着地し、下の様子を見届けた。

 …全身にもろに水を浴びてしまい、体が非常に重たい。
 ただでさえ泥を浴びたままだったというのに、余計に不快感が増した。
「う………」
 クロスレイはギリギリ水が激しいスポットから飛び退くと、そのまま滑る形で低木が生い茂る場所でうつ伏せになっていた。泥水が染み込み、擦り剥いた場所が酷く染みて痛みを感じる。
 起きないと…と先に両腕に力を込めながら上体を起こそうとするが、全身を覆う冷たさと重みで思うように動けない。
 …シャンクレイスに居る時の任務よりもハードだ、と思った。
 重たい身をどうにか起こすと、浴びた泥を弱々しく払う。
 向こうに居る時は殆どサキトの護衛中心。その他は護衛としての腕を磨いたり、護衛の際に魔物を寄せ付けさせないように払う程度のもの。
 城内で主に仕事をする護衛剣士らは、外部の魔物の動向に関してはかなり疎いと思う。自分は外部からの出身なのでどのようなものかは何となく把握はしていたものの、サキトの近くに就いた事によって同じように疎くなっていた。
 訓練の質は城内剣士も常に鍛錬しているので高いが、場数を考えれば場外の方で実践を積んできた剣士の方が臨機応変に対応出来る能力があるかもしれない。
 体を起こし、様々な事を考える。
「考えなきゃ…」
 幸い、擦り剥いた場所があるだけで骨などに異常は無さそうだ。
 攻撃の隙を見つける事が出来ずに必死に回避していたので、ここからどう動いたらいいのか未だに分からない。
 頭を押さえ、僅かな記憶を頼りに必死に思い出そうとした。
 動いている間は隙や弱点を見分ける事は難しいかもしれない。ただ、一瞬だけでも頭に残る場面から何かを引き出す事が出来るはずだ…と過去にイルマリネが言っていたのを思い出す。
 頰に貼りついていた泥塗れの葉に気付き、それを剥がして捨てながらクロスレイはひたすら考えていた。
 水を吐き出す瞬間。その場面しか頭に残っていない。そこから何か捻り出す事が出来ないだろうか。
 …駄目だ、全然糸口が引けない。
 首を振り、溜息を吐く。また顔を合わせて対峙してみないと、どう出たらいいのか判断出来なそうだ。
 ズシャッ、と水を含む体を引き摺って押しやられた道を進む。それ程まで遠くには行っていないはず。リシェによって持たされた照明用の発光石も魔力切れを起こしたせいか、光を放たなくなっていた。上空からの僅かな光を頼りにするしか無い。
 泥水で染み込む体を冷たい風が撫で付けていく。体温は既に下がっていて、気を抜けばガタガタ震えてしまいそうだった。これが終わればあの地下部屋の暖炉で存分に暖まる事が出来るだろうと自らを奮起する。
 ここで弱気になっては、自分を登用してくれたサキトを更に呆れさせてしまうかもしれない。彼が何故田舎出身の自分を引き上げてくれたのか理解出来なかったが、彼の期待を裏切る行為だけはしたくなかった。
「あ…?」
 不意に風を斬る音が上空で聞こえてくる。反射的に上空に顔を向けると、大きな獣の影が木々の合間を縫うように飛び跳ねているのが見えた。
 煌々を何かの光を放ちながら駆け回るのを確認し、クロスレイはホッと安心の吐息を漏らす。どうやらリシェはファブロスによって無事に濁流を避ける事が出来たようだ。
 石人形の水は貯める時間を要するだろう。叩くなら今のうちかもしれない。クロスレイは上空のファブロスの動きを頼りに前へ進み始めた。

「見えるか?」
『いや、暗くなってきたからな。どうにか助かってくれればいいが』
 リシェを背中に乗せ、下に居るであろうクロスレイの姿を確認しているファブロスは彼の問い掛けに目を伏せた。経験の無い一般民よりは緊急時の回避の方法を十分に知っているはずなのでそれ程不安になる事は無いものの、発光石の光すら確認出来ないので何処に居るのか知る術も無い。
『奴は自力でどうにかするはずだ。まずはあの石の塊をどうにかする事に集中した方がいい。探すのはその後だ。お前に策があるのだろう?行けるか?』
「…分かった」
 リシェはこくりと頷くと、持っている杖のグリップに力を込めた。
 大木の側面をガツリと蹴りつけた後、ファブロスの屈強な体は地に向けて下降していく。暗闇に近い状態の中、ぼんやりと青白く光る一部へ真っ直ぐ突き進んでいくと、こちらの気配に気付いた石人形はゆっくりと体を向けた。
『…どの辺りまで行けばいい!?』
 下降しながらファブロスはリシェに問う。
「…奴の目線に入らない場所なら何処でも構わない!」
 振り落とされないように鬣を掴んだままのリシェは彼の問い掛けにそう答えると、杖に魔力を込めた。
 油断させる為に少し回るぞ、と地面に足を付けた後に怒鳴る。
『奴の反応は遅い。こちらが動き回る事で頭が付いていけなくて混乱を生み出すかもしれん』
「………」
 その間にクロスレイの姿が見えればいいが、とリシェは周囲を見回した。発光石が僅かにでも光ってくれればまだ見つけられるのにと悔やんだ。
 魔力を追加補充していなかった事を今更悔いる。
 動き回る事で、石人形はこちらの姿を捉えようと重い体を動かし続けていた。むしろ動き回って勝手に倒れてくれるのを待ちたい所だが、それでは背に乗せているリシェが目を回してしまうかもしれない。
『リシェ』
「?」
『少しスピードを緩める。お前はそれを見計らって降りろ。奴の目線が私に向いているから隙を見て突貫しろ』
「分かった」
 撹乱の間にファブロスは一旦生い茂る草の影に隠れた。リシェは隠れた隙に即座に降り、魔力が貯まりきった杖を手にしたまま石人形へ向けて走り出す。彼が駆け出すと同時に、再びファブロスの巨体は草からばっと飛び出し再度撹乱に飛び出した。
 ファブロスの方に目線が向いているのを見ながら、隠れて相手に近付いていく。足場の悪い道に気を取られそうになるが、出来るだけ力を込めて進んだ。
「…はっ…あぁ、り、リシェさん!!」
「!!」
「良かった…ご無事だったんですね」
 暗闇の何処からか声が聞こえる。リシェは足を止め、きょろきょろと見回した。向こうはこちらの姿を確認出来た為か、ぼんやりとした視界の中から出現する。
 先程見た時よりも更に泥に塗れていたクロスレイは、ようやく見つけた仲間の姿に安堵した表情を見せていた。
 あまりにも酷く汚れてしまった彼に、つい凄い格好ですねとリシェは苦笑してしまう。彼は相当必死だったのかを知る事が出来た。
 暗さもあり、ここまで辿り着くのは至難の業だっただろう。
「クロスレイさん!…良かった。無事だったんですね」
「はい、どうにか…」
 リシェは近付いて来たクロスレイの首元にある発光石に魔力を込め、光の補充を済ませる。これでまたしばらくは足元の安全は保てるだろう。ぽわりと暖かそうな発光石の光を浴びながら、お互い妙な安心感を覚えた。
 注入を終わらせると同時に、リシェはクロスレイを見上げ決意したように告げる。
「俺、これから向こうに突っ込んで行きます。クロスレイさんは休んでて下さい」
「え…」
「ほら、策があるって言ったでしょう。それを試したいので」
「俺も行きます。上手いこと撹乱に動きますから」
 しかしあまりにも泥に浸かったような出で立ちで、自由に動けるとは思えない。
 動こうにも相当居心地の悪さを感じるだろう。
 大丈夫ですか…?と不安げにリシェはクロスレイに問う。
「大丈夫です。こんな状態ですが動けますから」
「では、軽く汚れを飛ばします」
 杖を一旦収め、リシェは魔法の詠唱を始める。小規模の風を手の平から生み出し、クロスレイの体目掛けて魔力を放った。風は大柄な彼を包み込み、付着した泥水を強く撫でて吹き飛ばす。
 様々な汚れと風力に巻かれた後、風はクロスレイを通り抜けていった。風によって冷気が襲うが、全身に纏わりつく泥水の不快感は少しばかり和らいだ気がする。
「…少し寒かったと思いますが、気持ち悪さは弱まったかと思います」
「あ…ありがとうございます」
 前よりはやや体の軽さを感じる。泥と共に水分が消えた事によって、身動きが取りやすくなったのだろう。
 クロスレイの状態が良好になるのを確認し、リシェは「では」と再び収納していた杖を引き出した。
「早くこの状況を終わらせてしまいましょう。ファブロスの体力も心配だし」
「ファブロスさんは…」
「俺の攻撃を待ちながら撹乱に走っている最中です。俺なんかより体力はあると思いますが、ずっと駆け回っているのにも限界がある。俺が動かない限り向こうも動き続けているので」
 …それならば、注意を引く頭数を増やせば彼の負担も減るだろう。注意力散漫になり、油断が多くなった瞬間が勝負だ。
 クロスレイは固唾を飲み、「…俺も加勢します」と告げた。
「先に俺が向かいますから、目線がどちらかに向いた時に動いて下さい」
 内向的な彼が自らそう発言してくれる事に若干驚いたが、リシェはクロスレイの申し出にこくりと頷いて素直に受け取る。
 …彼もまた、自分と同じ剣士だ。
「分かりました。どうかご無事で」
 ただ水を取るだけだったはずが、とんだアクシデントに見舞われたものだ。汲むにも相当な遠回りしなければならない羽目になってしまうとは。申し出た通り、クロスレイはリシェよりも先に石人形が放つ光の方向へ向けて走り出して行く。彼の背を目で追い、リシェも続いて足を進めた。
 …さっさと終わらせて帰らなければ。
 青白い光に向けて近付いていくと、撹乱によって起こされる風と共に木々が騒ぎ葉擦れの忙しない音を感じる。自分より先に向かっているクロスレイも身に危険が及ばぬ程度に石人形の注意を引き付け始めていた。
 頭数が居るだけでもこちらが有利に働く筈である。
 物陰に身を隠しつつ、リシェは石人形に近付き頃合いを見て飛び出す用意を始めた。
 密やかに間合いを詰めているリシェとは逆に、クロスレイは預かった斧を手に石人形に駆け寄り、わざと大木を叩きながら注意を引く。ずっと動き回っているファブロスに少しでも休める瞬間を与えておかなければ、という一心で出来るだけ音を大きく鳴らしていった。
 相手は自分よりも背丈が大きい。
 他の誰よりもガタイが大きいのは自覚しているが、そんな自分よりも精霊達が積み上げた魔力によって造られた魔物の方が巨大となれば、気を引く音も出来るだけ大きいものでなければならない。
 小さければ小さい程、向こうにも気付かれ難いからだ。
 しかも周囲は暗くなっている。可能な限り近付き、こちらの存在を知らせなければならない。
 上空では変わらずファブロスが木の枝を介して飛び移りながら目線を逸らそうと動き回っている。石人形も自分の上にチラつく邪魔者の存在を気にしながら、こちらが立てた音にも気持ちを取られている様子だ。
 …このままで油断させる事が出来れば…と思っていたその時、嫌と言う程聞き慣れたゴボっという異音が耳に入った。
「しまった、また…!!」
 クロスレイはリシェの方に視線を向けた。彼も同じように音を聞いたのか、早々に石人形の噴出範囲外へ動こうとしている。
 良かったと安心したその瞬間、自分の足元でバキっという大きな音と共に踏んでいた大振りの枝が割れてしまった。
 石人形は同時にこちらに目を向けると、クロスレイの姿を捉えて頭部の噴射口をぱっくりと開けた。
「…………!!」
 水が大量に口から吐き出されていく。
「クロスレイさん!!」
 発光石の光で、吐き出される方向に彼が居るのを知ったリシェは思わず叫んだ。
 休憩を置き、水を溜め込んだ上に噴射口から近い為に流れの勢いも凄まじい。
 クロスレイは迫ってくる水をチラッと見た後、ぐっと奥歯を噛み、濁流から逃れようと周囲を見回した。だがこの辺りには高台も無く、薄暗い為に回避出来る物が見当たらない。
 また流されるのも御免だ、と思うのと同時に幼い頃の記憶が不意に脳裏に蘇った。
 …流れる水はそこまで高さは無い。少しだけ上に上がれば流されずに済むかもしれない。
 記憶が呼び起こされると同時に彼は枝数の多い大木に目を付けると、借りた斧を出来るだけ高い位置に叩き込んだ。
「っぐ…」
 素早く大木の裏側に周り、全身の力を込めながらよじ登っていく。小さい頃とは違い、体が重いせいでなかなかスムーズにはいかないが、絶対落ちるものかと踏ん張りながら先程打ち込んだ斧の上まで辿り着く。
 もう少し、と歯を食い縛り枝分かれした部分まで這い登った。
「…っはぁっ、はあっ…ま、間に合った」
 上手い具合に差し込まれた斧刃の部分に軽く片足を乗せ、身を安定させて一息吐くと、濁流が自分の下を走っていくのが見えた。
 木登りなんて久し振りだ…と流れる汗を拭う。
 石人形は自分を探しているのか、終始こちらに体を向けている様子。水を流している間は動きが取れないのを見つつ、ここからどうするかを思案する。足元の斧を引き抜き、相手の様子を見下ろしながら水が出終えるのを待った。
 しばらく窺っていると、クロスレイはふと気になった事を呟く。
「…上の方までは首が動かないのか…?」
 先程から真正面か、頑張ってもちょっと下の方向しか石人形の頭が動いていないような気がする。目線の行き届かない場所から声を掛けた場合、相手は自分を探すのに躍起になるかもしれない。
 その考えに辿り着いた瞬間、クロスレイは口を大きく開いた。
「…俺はここに居るぞ!!探せるものなら探してみろ!!」
 出来るだけ大声を張り、石人形に伝わるように叫ぶ。その声はリシェや威嚇に動くファブロスにも存分に伝わり、両者共に驚愕の表情を浮かべる。
『(あいつ…何のつもりだ!?)』
 自らの場所を大声で伝えてくるとは、あまりにも浅はかではないか。それとも何か意図があっての行動なのだろうか。
 声のした方向に向け、ファブロスは動き始める。
 木の上に居るクロスレイは、石人形が声に反応しこちらに足をゆっくり進めて行くのを見て「やっぱり」と呟いた。
 声を頼りに動いているが、自分の頭の動ける範囲内でしか目線が向いていない。煌々とした青白い光を放つ頭部は、ずっと下方ばかり向いていて天を仰ぐ様子は無かった。
 それなら、と誘き寄せるべく更に大声を張り上げる。
「どっちを見ている!こっちだ!」
 のしのしと声のする方へ寄って来る。やはり、上を見る事が無い。声しか聞こえていないのだ。クロスレイは斧の柄を握り、丁度自分の下に来るのを待つ。
 …繋ぎ目を割ればバランスを崩せるはず。
 心臓の鼓動が激しく高鳴っていく。これまで、自分が前に立ってトドメを刺すような経験は無かった。自分より優秀な先輩達がどうにか動いてくれていたから、そこまで前に出る必要が無かったのだ。
 今は状況が違う。自分がどうにか動かないとアストレーゼン側の人達の印象が変化する可能性がある。逃げてばかりでは、シャンクレイスの印象が悪くなってしまうかもしれない。
 サキトのお付きの剣士になった以上は、彼や先輩剣士の顔に泥を付ける訳にはいかない。
 石人形がちょうど自分の下にやってきた。
 押し潰されそうな心臓の鼓動に耐えながら、クロスレイは今だ、と言わんばかりに斧を振りかざし木から飛び降りた。繋ぎ目に目掛け、ひと思いに刃先を振り落とす。
「…ぁあああああああっ!!」
 全身に激しい衝撃を覚えた。硬さはそれなりにあったが、結晶部分よりは柔い気がする。
 ビキキッ、と亀裂が走る音と共に刃が当たる場所が、ぱっくりと切断された。切れた部分はいつもより強く光放つ。
 割れた結晶か、それとも砕けた繋ぎ目なのか判別し難い細かな破片を顔面に浴びつつもクロスレイは手応えを感じていた。
「あ…!!」
 思惑通りだ。
 やったかと思った瞬間、リシェの声が飛び込んできた。
「…ファブロス、俺を乗せてくれ!!」
『ぬ…!?』
 瞬時に移動を切り替え、ファブロスはリシェの元へと跳ねた。
 石人形の右腕部分が肩から切断されたのを確認したリシェはこの隙を見るや、すかさずファブロスの背に乗せられ相手の懐に入った。胸元から何かを取り出すと真っ先にそれを核に当て、杖を手にして詠唱を開始する。
「…砕けてしまえ!!」
 当てられた箇所から炎が発生するのに続き、杖の魔石から雷撃が生じると一気に核の部分が暴発した。クロスレイに部位破壊された挙句、リシェによって弱点と思われる核を直接攻撃された事によって、石人形は完全に力を無くしていく。
 片膝を地に付け、動きも遅くなる石人形の胸部を更にファブロスの爪に追撃されると、核の集合体は最後に大きな光を放って砕け散っていった。精霊達はそれぞれの身の危険を感じたのか、一斉に小さな光として分散していく。
 そしてゴツン、という何かが落ちる音が聞こえた。
「はぁっ…はぁっ…」
 一気に体力を使い果たしたのか、クロスレイは目の前で起きた出来事を見届けた後その場に崩れ落ちてしまった。
「大丈夫ですか、クロスレイさん」
「はい…久し振りに木登りしたので、ちょっと…」
 ファブロスは上を見上げる。
『何処で叫んでいるのかと思えば』
「動きを観察していて、上をあまり見ないと思ったんです。わざと上から声を出しておびき寄せても、あの石人形はこっちを見なかった。というより、体の構造上見辛かったのかな?だから上から関節の部分を砕いてやろうと思って」
『…ふん。単なる腰抜けな性格では無かったか。泳げないだの何だの言っていたくせに、上手い具合に爪を隠していたとは』
 へへ、と嫌味を込めたファブロスの褒め言葉にクロスレイは照れ笑いした。
「クロスレイさんの一撃が無かったらずっと停滞したままだったかもしれません。有難うございました」
 リシェが座り込んだままのクロスレイに手を差し伸べる。彼は照れながら自らの大きな手を伸ばして掴み返した。
「いいえ、俺はサキト様や先輩方に失礼が無いように動いたままですから」
 クロスレイはリシェの手に引かれ、身を起こして再び立ち上がる。
 これでどうにか体面は保てると思った。正直怖かったが、それを出さずにいれたのは自分なりに成長したのだと思いたい。
『リシェ。核に魔法を当てる時に最初に何を突き出したんだ?』
 攻撃の際に彼の動きに疑問を抱いたファブロスは、杖を収納したリシェに問い掛ける。彼もまた、クロスレイ程では無いが服に泥跳ねの為に汚れが目立っていた。
 帰ったら即洗いに出さなければならない。
「あぁ」
 思い出したように彼は口を開く。
「あの地下部屋にあった発火剤だ。あれに魔法を突っ込んで暴発させたんだ。魔力に特化した加工を施してるからいい具合に調和されるんじゃないかと思って…俺の魔力だと、まだそんなに勢いが出ないから」
 暖炉を前に、彼が燃え盛る発火剤を眺めていたのを思い出す。あの段階で何かに使えそうだと持って来るのも凄い。
 だからあれだけ激しい暴発っぷりを見せていたのか、と理解した。
『なるほどな。…なかなか狡い事を考えるものだ』
「いい素材があるなら試してみたいじゃないか。褒めるなら賢いって言ってくれ」
 まだ十代とは思えない発言に、ファブロスはふっと獣の瞳を緩ませた。応用として何かを利用してみたいという思考は、彼に魔法を教えてきたオーギュの考えに似ている。
 無防備に動き回るのは如何なものかと思うが、その無防備さに助けられているのも事実。
「そういえば、湧き水の原石って」
 思い出したかのようにクロスレイは顔を上げた。同時にリシェとファブロスも石人形が居た場所に目を向ける。
 …少し前に何かが落下したような音が聞こえてきたような気がしたが。
 足元は相変わらず水浸しの状態で、力を込めて歩かなければ滑りそうなままだ。彼らは石人形が居たであろう場所へゆっくりと近付く。
「あ」
 ぼんやりと青白い光を放つ大きな石は、泥に塗れ不安定な地面の上で静かに鎮座していた。先程の変異した魔物の姿ではなく、ただの不可思議な魔石と化して。
 微かに浴びる光を受けながら、少しずつ水を表面から流している。
『水が湧き出している。少しだけだが』
「これがサキト様が言ってた湧き水なのか?湧くには随分と遅い気がするけど」
 大の大人が手を大きく広げた位の大きな石を様々な角度から見ながら、リシェは疑問を呈した。
 表面からちょろちょろと水滴が浮かんでくる湧きっぷりに拍子抜けしてしまう。微弱、というよりそれ以下ではないか。
 これでは水を回収したくても更に無駄に時間を要してしまう。
「これじゃボトルに入れられない」
「そうですね…」
 ちょっと教会の方を見てくる、とファブロスは一旦その場を後にした。石人形が消失して落ち着いたのはいいが、この魔石の地味な水の出具合をサキトが見ればどう思うのだろう。
 とても残念がってしまうに違いない。
「これって元々何処にあった石なんでしょうか」
 じわじわと水滴を放つ石を眺め、クロスレイは呟いた。
「…この石の存在もそこまで把握してなかったので、俺もあまり分からないんです」
 精霊達の悪戯によって移動された石は、本来どの場所に安置されていたのだろうか。もしかしたら、置かれた場所との相乗効果で水の湧き具合の違いを見せるかもしれない。
 ファブロスはその可能性も考えて見に行ったのだろう。
 彼を待つ事数分後、ガサリと草をかき分けるようにして二人の元へ戻って来る。
「何かあったか?」
『教会の敷地内に盛り土のような山があって、一部に大きな窪みのようなものがあった。そこから引きずり出された跡が付いていたな。そこにこれを安置させるとどうだろう』
 三人…いや、二人と一匹は同時に魔石へ目線を配った。
「あー…」
 これを自分達で運ぶのか?と悩む。運ぶにしても、もう少し力が欲しい。流石にこの面子では心細さを感じる。
 天を仰いだ後、一息吐いたリシェは「もう一人呼ぶか」と呟いていた。

 一旦地下室へ戻り室内を片付けた後、待機していたサキトとヴェスカを連れ出し再び巨大魔石が置かれた場所へ戻る。
 早めに済ませて帰るつもりだったのにひたすら回り道をするような動きばかりで、更に森の中は薄暗さに拍車がかかっていた。
「これが元の石なんだ?…それでもデカいなあ。てか、全然湧かねぇじゃん」
 じわじわと溢れる水と、僅かに周囲から照り付けられる光で不思議な輝きを放つ石を見下ろすヴェスカ。
『異様に湧き水が少ない。元の位置に戻してやれば、これよりは湧くのではないかと思ってな』
「ふうん…まあいいけどさ。んで、どうするんだ?」
 これだけの大きな石では持つ事も大変だろう。
「三人じゃ厳しいからお前も手伝って欲しいんだ。持っていけないから手押しして元の位置に戻そうと思う」
 へぇ…とヴェスカはちらりとファブロスに目を向けた。流石に彼の力があっても厳しそうか、と唸る。
 一時的にでも力が増幅させる魔法でもあればいいのだが、流石にそこまで上手い事いかないだろう。過去、リンデルロームに行った際にロシュの魔法で体力が回復し、更に動きも機敏になった事があった。
 あの魔法の派生で力が増幅するタイプがあっても変では無い。司祭特有の魔法なのか、魔導師でも扱える類なのかヴェスカには知るよしも無かった。
 魔法が無ければ力業で切り抜けるしかないのだ。
「んじゃ、引っ張る係と押す係に分かれるか…」
 これで動かなかったら手詰まりだが、とにかくやるしかない。ヴェスカの言葉にリシェもこくりと頷き、続けてクロスレイとファブロスも同意した。
「んん?これを動かしていくの?」
 泥跳ねの影響が無い場所で控えるサキトはきょとんとした顔で問い掛けてきた。石を前に、リシェは振り返り彼に向けてこくりと頷く。
「サキト様はそちらで待機していて下さい。これは俺達がどうにかしますので」
 一国の王子の手を借りる事は最初から考えていない。
 これは自分達に課せられた仕事の一部だ。それが終わるまでは彼には大人しく待機して貰えれば助かる。
 リシェの言葉に、サキトは首を傾げて意味深に返事をする。
「そぉ?みんなの体力を削るより、もっと効率的なやり方があるけど」
「え?」
 森の中は既に暗く、足元も未だに泥濘んでいる。巨大な魔石を引っ張れるだけの道具も持ち合わせておらず、頼れるのは自分らの力のみだ。
 それなのに、彼の言う効率的なやり方とは何なのだろう。
「僕が自分に確実に無い能力を持った人間を傍に置いてる事は、こっちの護衛剣士を見て分かるでしょ?」
 ヴェスカは僅かに残る発光石に照らされているクロスレイを見る。
「はぁ…そりゃ見るからに分かるっていうか…」
「んっふ…ここに連れて来たのがこの子で良かったよ」
「え?」
 サキトの発言の意味。
 アストレーゼンの面子は当然の事ながら、勿論クロスレイも知るはずは無い。ぽかんとした間抜けな面持ちで主人であるサキトの言葉をさながら犬のように待っていると、その先の台詞を続けた。
「僕には盟約の証がある。これは僕が指定した相手をただ無条件で従わせるだけでなく、僕の特殊な魔力によって更に力を与える事が出来る代物さ」
「え…え!?は…!?」
 華奢なサキトの指に嵌められた指輪が鈍く光った。
 彼の発言に、リシェ達は元よりクロスレイも初耳と言わんばかりの驚愕の表情を浮かべる。彼はサキトに何の説明も聞かされていないらしく、意味が分からなそうに動揺していた。
「ええっと…それって」
「要は僕が命令すると、盟約の証の対象になっているクロスレイに特殊な能力が宿るって事さ」
 主人であるサキトの言葉に、クロスレイは自らの両手を広げた。
 彼に付いている指輪は、単なる嫌がらせの為では無いのか。サキトなりに何か考えがあっての事かもしれないが、その相手は何故自分になったのだろう。
 護衛の剣士は他にも居るにも関わらず。
「能力が宿るって…」
 ヴェスカは自分の背丈とそれ程変わらないクロスレイに目を向ける。この王子様の発言から考えれば、あの巨大な石を放り投げるレベルの怪力が一時的に備わるという事なのかと思った。
 それならば試して貰った方が、こちらとしては都合がいい。
『…それはいいが、豹変しないだろうな?』
 ファブロスは思わず穿った言い方をしてしまった。
 どうしても食事会の騒動が頭に浮かんでしまうらしい。魔力の干渉によってクロスレイの頼りない顔からは想像出来ないレベルの変化と力には、もう懲り懲りのようだ。
「あはは、流石にそれは無いよ。僕が持っている魔力は他の魔導師とはちょっと違うんだ。シャンクレイスの王族特有のものだから決して悪いものではない。それに僕は魔法を使えるけど、人に危害を与えるようなレベルでは無いさ。簡単に身を守る程度の微弱なものだよ」
『そうか。それならいい。またあれを抑えるのは御免だからな』
「…ど、どういう事?」
 あの騒ぎを直接見ていなかったヴェスカは眉を寄せ不思議がった。
『そういう事だ』
「端折り過ぎてリシェみたいな語弊力になってるじゃねぇか…」
 言葉が足りな過ぎだ、とヴェスカは溜息を吐いた。もう少し位親切な説明があってもいいのに、と。
「…失礼な奴だな!」
 突然流れ弾を喰らい、リシェは頬を膨らませて憤慨してしまう。
「あ、あのう…それじゃあ、俺が石を持ち運ぶって事ですか?俺一人で…?」
 当事者は自信無さげに主人に問い掛ける。
 無理もない。力を与えてやるから自分でどうにかしろと言われている気分になったのだろう。大の大人が頑張ってどうにか押せる大きさの石なのだ。
 それを自分一人で運べとは無茶振りにも程がある。
「大丈夫だよ。君はいつも通りにしてくれればいいさ。ただ力が爆発的に増えるだけで、その後はちょっと疲れる位だと思うけど」
「へ…」
 サキトはにっこりと微笑むと、自分の指輪を嵌めている手を突き出した。そして聞き慣れぬ言葉をつらづらと口にし始める。詠唱を進めていくに連れ、特殊な魔法の対象者であるクロスレイの首元に前に見掛けた首輪のようなものが出現した。
「あ…!?さ、サキト様…?」
 違和感が出たのか、クロスレイは自分の首に手を当てると動揺した様子でサキトの方を見る。
「これって…?」
 これまで自分に施された盟約の証の効力を知らない彼は、一体何が起こるのか頭が追い付かない様子だ。
 魔法が進むにつれて、首元がじんわりと暖かくなっていく。
 盟約の証のように、サキトによって他人を強制的に従わせる方法は珍しい部類だろう。しかも契約の主の魔力によって力を増幅させる事が出来るとは。
 ファブロスは魔力を与えられながら驚くクロスレイを黙って見守っていた。自分のように魔力が高く、尚且つ相性の良い魔導師を探り当てて同意を求める回りくどいやり方しか主従の契約を知らないので、それ以外のやり方を見るのは初めてだ。
『人間同士でも魔力を介して主従契約を結べるのだな』
「…別に魔法の力が無くても結べるだろ。現にリシェは魔法抜きでロシュ様に従ってるようなもんだ。魔法は例外だと思うぞ」
『なるほど…』
 指輪を通じ、サキトはクロスレイに特殊な魔力を込めていく。首に付着する印が色濃くなると、彼の全身にさらさらした光の粒子が出現した。
「わ…わぁ…!?」
 シャンクレイスの王族のみに伝わるというサキトが放つ魔法の詠唱の文句は、魔法を多少聞き齧った程度のリシェや高位召喚獣であるファブロスには分からない文言が多く非常に難解を極めた。
 司祭であるロシュが放つ魔法と似たような雰囲気があるが、恐らく別物なのだろう。
 特殊な魔法を発揮する対象が、ある種の隷属の指輪なのは若干気に掛かるものの、護衛剣士に与える事によって非常事態を免れる意味では相当心強いアイテムなのかもしれない。盟約の証を作った者は一体何が目的でこのような不可思議な指輪を作ったのかが気になってくる。
 …悪く言えば、奴隷アイテムだと思われても仕方無いのだから。
「さて、準備が出来たよぉ」
 サキトの明るく能天気な声が森の中に響いた。彼の手にある指輪も、クロスレイと同じように光の粒子が集まり円環を描いている。
「サキト様…?俺はどうしたらいいんでしょうか」
 ここでもやはり自信無さげな顔をする従者。先程の勇ましさは何処へ消えたのだろうかとファブロスは思った。
「君は僕の言う通りに動いてくれればいいんだよ。僕が命じる事で、勝手に体が動くようになるからね」
「は、はぁ…」
 いつもと違う感覚に、クロスレイはずっと動揺し続けている。
 魔法を受ける唯一の対象者となっているので気持ちは分からなくもないが、あまりにも頼りない顔をするのでついファブロスは呆れてしまった。
『…お前はその体に似合わず何故そこまで弱気な顔になれるんだ?さっきまでの威勢の良さは何処に隠した』
 威勢が良かったという発言を聞くや、サキトは「へぇ!」と目を丸くする。今まで威勢のいいクロスレイの姿を見た事が無いのか、非常に興味を持ったようだ。
 彼は目を輝かせて「本当?威勢が良かったの?」と本人に問い掛ける。
「君はとても大人しいからどんな感じになるのか気になるなぁ!ねね、どんな感じだったの?」
「い、いやあの、その時は凄く必死だったので…」
 どんな感じと言われても困る…とクロスレイが答えに詰まっているのを、見兼ねたリシェが遮った。
「サキト様、お言葉ですがまず先に目先の問題を解決致しましょう。これはあなたにしかお願い出来ない事ですから」
「あ…そ、そうだね。ごめんね、あまりにも聞き慣れない言葉だったからびっくりしちゃった」
 えへへ、と可愛らしく笑いながら謝罪した後、改めて魔法に集中する。手元の円環は緩やかな回転を始めたかと思うと、詠唱を続ける事によって激しく回り始めた。
「じゃあ始めるよ」
 引き続き魔法の文言を放つと、サキトとクロスレイは共鳴するかのように光に包まれていく。
「あ…あぁ…?!?」
 自身を更に包み込んでいく輝きに驚きながら緊張した面持ちでサキトの命令を待っていると、ようやく彼は口を開いた。
「準備出来た。さぁ、いまから僕が命じた瞬間、君はあり得ない位に強い力が備わる。一瞬で済ませておくんだよ」
「は…はい」
「じゃあ行くよ!!…クロスレイ、君はあの大きな魔石を元の位置に戻すんだ!!」
「………!!」
 サキトが口にした命令を受けた瞬間、クロスレイは自分の身に何かが入り込んだ感覚がした。同時に、体の底から有り余るばかりの強い力が湧き上がってくる。
 全身を巡る細胞が一気に活性化され、目が覚め漲っていくのが分かった。魔法によって引き出された未知の能力が一気に発揮されていくような、あり得ないレベルの力が溢れ出す。
 俄然やる気が出てきた、という表現をした方が分かりやすいかもしれない。与えられた魔力によって引き出された彼の体は、一時的とはいえ覚醒状態を更に突き抜けていた。
「うあぁああああああああ!!」
 魔法を与えられる前とは全く違い、一気に全身の気力や胆力が引き出されたクロスレイは雄叫びを上げたかと思うと、一直線に魔石の方へ駆け出して行った。
「へぇええええっ!?何、何したの」
 目の前を猛スピードで横切り通り過ぎたクロスレイに、ついヴェスカは身構えてしまう。
「大丈夫だよ、この子は僕の命令に従うだけだから」
 サキトは艶然と笑みを浮かべた。クロスレイはひたすら大声を張り上げ続けていた。
「ちょっと待っ…俺達も手伝わないと」
『一人だけでは無理だ』
 彼は魔石の前に立つと同時に両手を広げて下部に手を掛ける。流石に持てないだろ…とヴェスカとファブロスが続けて駆け寄るが、彼は咆哮と共に石を軽々と持ち上げてしまった。
 持ち上げる事によってぼたぼたと泥が魔石から零れ落ちていく。
「『………はぁあああああっ!!?』」
 目の前で起きた信じられないレベルの馬鹿力に、二人はあり得ないとばかりに同時に声を上げてしまった。
 リシェも呆気に取られ、口をぽかんと開けたまま。
 明らかに石の方が重さがある。だから人手が欲しいとヴェスカを呼んだのに。
 サキトの盟約の証の効力とはいえ、流石にここまでは予想していない。自分達も加勢してこそ解決するものだと思っていたのだから。
「な…何これ、おいファブロス、こんなんあり得るのか!?」
『…知るか!!』
「いくら魔法が絡むからってこんな馬鹿力が出るもんなのかよ!どうなんだよ、ファブロス!!」
『だから知らんと言っている!!』
 屈強な二人が言い合う最中、馬鹿力を超えた力を得たクロスレイは鈍く光を放つ水色の巨大魔石を高く持ち上げた。全身にかなりの負荷が掛かるはずだが、大股を広げながら上手い具合にバランスを保っている。
 普通ならばぺしゃんこになるはずなのに。
「嘘だろ…」
 リシェもあまりの信じられなさに狼狽していた。
「…ふっ…ぬううぅおおぉおああ!!!」
 ややよろめき、クロスレイは体の底から一気に吐き出すような叫び声を上げた。石の重みもあり、更に泥濘みで足元が埋まりそうになりつつも全身から溢れんばかりに強靭な力を放出する。
「っせぇええええいっ!!」
 ただでさえ太さを感じさせる腕は、重たい石を抱える事によって更に膨張して見えてしまう。そのまま破裂するのではないかと不安になる前に、強く猛り叫び声を放ちながら彼は巨大な石を放り投げた。
「え…!?は!?う、嘘!?」
 リシェはその一瞬の光景に驚き、声を上げてしまう。
 巨大な石が空中を裂き、天高く無防備に投げ出される。それだけでも異様だと思うのに、その先の着地点へ一直線に向かっていた。
 慌てて石の行先に向けて駆け出す。
 べっしゃべしゃと水に濡れた道をひた走り、石が地面に近くなっていくのを目視した。
 教会の敷地内に向けて投げているのは角度を見て分かっていたが、問題は無事に落下したとして石が破損しないかどうかだ。
 確かに、このような形でもきちんと持ち場に移して貰えるのは助かる。確かにそれは助かるのだが、最終的に原型を保ったまま鎮座してくれるかどうかが心配なのだ。
 これで落下と同時に魔石が大破したとなれば、余計な問題が増える可能性がある。
 リシェは石を追い、ようやく廃教会の敷地内に入り込んだ。同時に重いものがドスンと落ちた音が聞こえてくる。
「は…はぁ、はっ…」
 湿気を含み過ぎた髪を振り乱しながら落下したと思われる方向へ走る。草がぼうぼうに生い茂った庭のような場所に踏み込み、鬱陶しそうに前髪を払いつつ奥へと進んだ。
 …埃のようなものが舞っている。湿気も含む重苦しい空気で然程激しく埃は巻き上がらないが、恐らく魔石の落下地点だ。
 クロスレイはピンポイントで石を放り投げてくれたらしい。全員の力を合わせて運ぶ必要が無くなったのは大分助かったものの、果たして魔石は無事なのだろうか。
 リシェは現場にようやく辿り着き、魔石の状態を確認すると同時に全身の体温がサッと低下していくのを感じた。
 この間に脳内で様々な事を一気に思考してしまう。纏まらなくなり、頭がパンクしそうになるのを回避するかの如く、彼は大声を上げてしまった。
「うわー!!!」
 わー、わー、わー…と悲痛な叫びは森中に響き渡った。
 リシェを追いかけ、他の仲間達も続いて敷地内に入ってくる。
『何があった、リシェ!』
「めっちゃ叫んでたぞ…」
 ばしゃばしゃと水音を立ててヴェスカとファブロスが同時に辿り着いた後、やや遅れてサキトを抱えたクロスレイがやって来た。
 ショックを受け、あわあわと戸惑うリシェにヴェスカは「どうしたんだよ?」と眉を寄せる。
「お前が焦るとか珍し…」
 普段年齢にそぐわない位に冷静なリシェが、言葉を失うレベルで慌てているのが非常に珍しいらしく面白いなと思ってしまう。
『…ヴェスカ。これはちょっとあれなんじゃないか』
 トントン、とヴェスカの腕を突いた。
「んあ?何だよ…何が」
 ファブロスに指摘され、ヴェスカは彼が指し示す方へようやく顔を向ける。
 そこにはリシェが言葉を失う原因になった物があった。ヴェスカもまた、同じように何かを言いかけて声にならない声を放ってしまう。
 魔石は特定の位置に置かれた効果なのかドボドボと湧き水を垂れ流していた。汲むには丁度いい。水を存分に汲むという目的は果たせそうだ。
 しかし折角ここまで漕ぎ着けたのに、肝心な魔石が分割されていた。完全にそれは想定外というか、アストレーゼンにおいて貴重な遺産といえるべき保存物を壊すという問題が発生してしまう。
 放置同然の物に過ぎないが、仮にも大聖堂の保護下に置かれたもの。
 それを結局、最終的に破壊したのだ。
 彼もまた、様々な事を思考する。
「…ぎゃあぁああああああああ!!!」
 そして、ヴェスカもリシェ同様に叫び声を放っていた。

 分割された魔石を前に、魔法の加護を失い冷静になったクロスレイはずううんと凹み続けていた。
 決して彼のせいでは無いのだ。しかし実際腕を振るったのでかなり責任を感じてしまったのかもしれない。
 それでも彼は、ひたすらリシェやヴェスカに謝罪しながらどうしようどうしようと混乱している。
「あぁあああ、本当にすみません!!俺は何という事をしてしまったんだ…!!」
「い、いや…大丈夫ですよ。これは不可抗力ですし」
 必死にクロスレイを宥めるリシェは、彼の気持ちを汲みながらも大聖堂側にどう説明しようかと考えていた。任務に事故は不可欠なのだ。しかもこの場合は意図しないアクシデントが多過ぎて、状況がどう転ぶか分からない。
 仮に魔力に感化されてしまった動物らが魔石に悪戯しても変では無い状況下にあった。言い訳としてはどうにでもなると思う。
 応急処置として、割れた石をリシェが前もって持参していた麻のロープで強引にくっつけるようにして縛った。
 湧き水はその間にも効力を発揮し、ボトルに水を汲む事が出来たので当初の目的は達成するが、割れた事によって余計な問題が増えてしまった。
「いやぁ…まさかこうなるなんて思いもしなかったよ…ごめんね…」
 サキトもややしゅんとしてアストレーゼンの剣士達に謝罪する。
「い、いや…むしろこちらは石の移動に関しては物凄く助かったし…割れた事は事故として報告しておけばいいと思うんで、気にする必要は無いっすよ」
 ただどう説明したらいいのか、とヴェスカは思う。
 この件に関しては自分は単なる同行者の扱いになるのだろうか。それとも立ち会った事を考えれば当事者の扱いになるのか。当事者となれば、確実に始末書を書かされる羽目になるのでは…と先の事を考えてしまう。
 自分は公休で、単にリシェの任務に着いてきただけなのだが。
「あぁああ…俺は何という事を」
 ヴェスカよりも深刻に問題を受け止めてしまったクロスレイは、サキトの側でしきりに頭を抱えながら悶え苦しんでいた。サキトの命令とはいえ、魔法によって増幅された力で魔石を投げて割ってしまったと一気に罪人になった心境なのだろう。
 自国ならばまだ救いようがあるかもしれないが、他国でこのような損害を与えてしまった事で罪に問われるかもしれないと恐怖する。
「俺は死刑になるかもしれない…」
 大きな体を揺らしながら嘆く。
「く、クロスレイさん…大丈夫ですよ。この件はこちらで上手く処理しますから!」
 リシェは必死に彼を説得した。
「まぁ、ほら。あの石を保護しようとしてって理由があれば説明出来るし…無防備な管理下に置かれていたのはこちらにも落ち度があるからな。後処理はこっちに任せてくれればいい」
 必死にクロスレイを宥めるリシェの側で、ファブロスは元の位置に戻された魔石の状態をちらりと横目で確認する。きつめに縛り、原型を強引に留めさせてはいるが雨上がりのみに湧く水はしっかりと放出している。
 割れても効果を発揮している事から、そこまで深刻に捉えなくても良いような気がした。そもそも元から放置されていたようなものである。自然現象によって分割されてしまった、と言い訳も出来そうなものだ。
 正直に言う事によって、余計話がおかしくなるかもしれない。
「割れた事は報告するとして…どう説明しよっかなぁ。勝手に割れたとでも言えばいいのかなぁ」
『面倒ならそう言えばいい。説明の時間が省けるだろう』
「まぁ、それもそうか。…てか、俺よりリシェが報告するといいな。俺、一応公休の身だし、ここで首を突っ込むと余計面倒な話に向かっていくかもしれない」
 副士長という立場になってから更に何事にも報告しなければならない。一般剣士よりも上からの目線がより厳しくなると同時に、責任も重大になっていた。
 公休扱いとはいえ、何か異変があれば報告や書類作成、損害があればそれも書類に認めなければならない事もある。軽度の物損なら報告に加え補修の依頼も出来るが、このように対応出来ない事柄だと何枚書類を書かねばならないのだろう。
 …想像するだけでもゾッとする。
『役人の仕事も面倒臭いものだな。現場で発生した事も全部報告しなければならぬとは』
「報告程度なら今までとは変わりないよ。ただこの場合はある意味過去遺産のようなもんだからな…大聖堂側も放置してるから、全部が全部こっちの非とは思えないし。報告書の提出だけで、流石に始末書は書かされないだろ」
 ようやく落ち着いたクロスレイは、表情は暗いもののリシェによって立ち直る事が出来たようだ。よろよろとふらつきつつ「すみませんでした…」とヴェスカに近付く。
 ヴェスカは「まぁまぁ」と気にしないように手をヒラヒラさせた。
「あの魔物が出た段階で、石に何かしら傷が着くかもしれないっていうのは予想は付いてたし…でも普通に湧き水は出てるから、別にどうって事は無いと思うよ。気にしなくていいって!…あ、そうだ!リシェ」
「?」
 突然話題を振られたリシェは、きょとんとした顔でヴェスカを見上げていた。
「水汲むんだろ?」
「あっ…そ、そうだった…」
 肝心の水を汲まないと戻れない。リシェは慌てて、地下部屋から回収したボトルの数々を引っ張り出しながらサキトに近付いた。
「サキト様」
「んん?」
「どの位の大きさのボトルが良いですか?」
 リシェが持ち寄った様々な大きさのボトルをサキトはゆっくり吟味していく。流石に大き過ぎるのは持って帰れないね、と言いながら手に収まる程度の入れ物を引っ張った。
「この位がいいかなぁ。飴を作る分にはいいでしょ」
「では同じ大きさのを二つお渡しします」
 予備用にも持たせた方がいいと判断し、追加で彼に手渡した。サキトは満足げに微笑み、ありがと!と礼を告げる。
「リシェは本当に優秀な子だねぇ。こっちに居ないのが惜しい位だよ…って、なぁにこの小さいボトル」
 空のボトルが沢山入っていた袋の隅にひっそりと入っている極小の空ケースを摘み、不思議がるサキト。それを見てあぁ、とリシェは思い出したように呟いた。
「スティレンが自分も欲しいって言ってたので。それに詰めてやろうって思ったのです」
「ええ…?」
 本気で言っているのか。
 人差し指位程度しか無い大きさだが。
「これだけ沢山入れ物があるのにそれでいいの…?」
「他はサキト様用に持ってきた物だったから…」
 飲むにしてもすぐ無くなってしまうではないか。
 サキトは呆気に取られたが、流石にそれっぽっちはいけないと困惑気味にリシェに言った。せめて適当な入れ物に入れて持って帰りなよと。
 お土産用に頃合いのボトルに水を詰め終えた後、ようやく目的と達成した事でホッとしたのだろう。サキトはすっかり暗くなってしまった周囲を見回す。
「もうすっかり遅くなってしまったね。ここまで僕の我儘に付き合ってくれて本当に感謝するよ」
 まさかこんなに時間が掛かってしまうなんてね、と申し訳無さそうに言う。
「まぁまぁ。俺らも丁度良い運動になったし…なぁ、リシェ?」
 それ程疲れた様子も見せないヴェスカとは対照的に、変に気疲れしたのかリシェは頭をかくりと垂れる。
「お前、待機しかしてないじゃないか…」
 獣の姿のファブロスに荷物を結わえ、帰りの準備をしていたリシェは未だに肩を落としているクロスレイに目を向けた。まだ気にしているのだろうか。
「クロスレイさん」
「あ…は、はい!」
「お疲れでしょう。ここまでずっと付き合ってきたから」
「いえ、大丈夫です…でも、これ…良かったんでしょうか」
 彼はちらりと石の方に顔を向けた。
「石の件はこちらでどうにか上手い事話を処理するので安心して下さい。厳重に保管っていう割には物凄く無防備に置かれていたので、管理体制がなっていないって訴える体で報告します」
 本当に申し訳ありませんでした…とクロスレイは改めて頭を下げる。彼は根が物凄く真面目なのだろう。
 もう幾年も石が存在しているのだから、少しずつ綻びがあってもおかしくは無い。割れたからどうという話にはならないはずだ。
「後は大聖堂に真っ直ぐ戻るだけだな」
『…あぁ。ではサキト。私の背に乗れ』
 荷物をその身に固定されたファブロスはサキトを促した。
「それだけ荷物を抱えて僕を乗せてくれるの?大丈夫?」
 獣の姿の彼は人よりは大きく、筋肉もがっしりしているのでそこまで負荷は掛からないようだが、荷物を持ったままの彼に乗るのは少し躊躇ってしまうようだ。
 ファブロスは『ああ』と軽く首を振る。
『ここでヴェスカを乗せるよりは苦では無いから安心しろ』
「比較がおかしいだろ!!何だよそれは!!」
 確かに自分よりは遥かにサキトの方が軽いだろうが、わざわざ持ち出して比較しないで欲しい。
『筋肉が無い分負担は少ないっていう話だ』
「それならそうだって言えよ!」
 周りを照らす発光石に魔力の補充を済ませたリシェは、「ほら」とヴェスカを促すように声を掛けた。
「さっさとここを離れよう。あまり時間を置くと余計危険だ」
 すっかり暗くなってしまった森に、もう用は無い。一刻も早く大聖堂へ戻らなければ。
「流石に帰る時までも邪魔は入ったりしないだろ…」
 それだけは勘弁して欲しいものだ。このちょっとした旅路だけでも中身の濃い物になってしまっただけに、体力も減っている。
 ヴェスカはクロスレイに貸した武器を受け取り、最初に入った時と同じく先頭を切って歩き出した。

 ようやく大聖堂に戻る事が出来たが、既に正門は塞がっており門番として任務に着いていた宮廷剣士達に「お前ら何をやって来たんだよ!」と驚かれてしまう。やっと戻って来たかと思えば、彼らのあまりの汚れっぷりに更に苦言を言いたくなるのも無理も無い。
 未だに戻らないシャンクレイスの王子の事もあり、上からの伝令なのかずっと正門前で待機していたようだ。
「話せば長くなるんだ…」
 余程待ちくたびれたのだろう。言い方にやや刺々しさを感じた。
「なかなか戻って来ねぇから士長から閉門後も待機しろって言われてたんだぞ。もうちょっと時間を考えて動けよ」
 ヴェスカはそのまま自分が住む寮の方へ直帰していたので、正門に居るのはリシェとファブロス、そしてシャンクレイスの客人二人。
 自分達を待ち続けて長時間その場に留まっていたのだろう。それはこちらに理由があれど申し訳無い事をしてしまった。頭を下げ、素直に「悪かった」と謝罪する。
「あれ、ずっと待っててくれてたの?それは申し訳無かったね…」
 別に全員を叱責するつもりは無い。
 だが隣国の王子にまで謝罪されてはどう返事をしたら分からなくなってしまう。剣士らは慌て、背筋をしゃんと伸ばすと「い、いえ!!」と改まった。
 野太い声が周辺に大きく響く。
「サキト王子様を長い事お連れして回るのはどうかと思っただけで!」
「ご来賓の方に失礼の無いようにしろと伝えたかったのです!」
 彼らはそう言い、リシェにちらりと目配せした。お前からも何か言え、と言わんばかりに。
「…確かに思っていた以上に時間を掛けてしまったのは事実だ。申し訳無い。サキト様が戻られないので護衛の方々にもご迷惑をお掛けしてしまったと思う」
 先輩剣士の怒りや意見もごもっともだ、とリシェは大人しく頭を下げた。立場的に考えればロシュの専属剣士であるリシェの方がある意味上かもしれないが、剣士としては自分は真下の位置だ。
事を更に面倒にさせない為に大人しく謝罪するしかない。
 素直に受け入れて折れれば、時間を超過して苛立っていた彼らも溜飲が下がるだろう。
「…っ、まぁ後はお前がどうにか説明しろよ!俺らはもう戻るからな!」
「さっさと入れ!閉められねぇだろ!」
 大柄な男達が怒ると流石に威圧感を感じる。リシェは「済まなかった」と頭を下げると同行していたファブロス達を促し自分も大聖堂の中に入った。
「ロシュ様のお気に入りだからってあんま甘えるなよリシェ!」
「あーあ、やってらんねぇわ。帰ろ帰ろ」
 ガシャン、と鉄格子が閉じられると、剣士達はようやく解放された安堵感と長時間の拘束状態で苛立ちを含んだ表情のまま兵舎の方へ戻って行く。
 彼らを見送った後、リシェははぁと一息吐いた。
「ごめんね、リシェ。嫌な気分になったでしょ…」
「いえ、大丈夫です。こういうのは慣れていますから」
 これまで散々文句や嫌味を聞いていた為か、リシェの感覚は麻痺していた。心配そうな顔をするサキトとは対照的に、けろりとした表情を見せる。
『長い事待っていたのは分かるが、言い方があるというのに。何だあいつらは』
 ヴェスカに文句を言ってやろうかと舌打ちするファブロス。
「いや、あの人らの言う事は確かに最もな意見だ。遅くなってしまったこっちに非があるからな」
 一連の会話を聞いていたクロスレイは、やはり何処でもこういうのがあるんだな…と自分の事のようにひっそりと心を痛めていた。
 明らかに年上の怖い先輩方に詰められるのは自分も堪えてしまう。まだ少年であるリシェならば尚更だろう。
「リシェさん」
「ん?どうしたんですか、クロスレイさん」
「あの…どうかお気になさらずに。いろいろアクシデントもありましたし…」
 まるで自分の事のように不安そうな顔をする彼に、リシェはぽかんと口を開けながら「え?」と返した。
 そこまで気にしているように見えたのだろうか。確かに彼らには申し訳無いとは思ったが、ただそれだけだった。
「いや…あの、別に気にする程でもないので。怒られても確かにそうだなって思うし…」
「は…はぁ、そうですか…強いなぁ…」
 自分だったら萎縮してしばらく立ち直れないと思う。血の気の盛んな男ばかりの職場に居るからには、様々な性質の男も居るのは分かっているが、自分も強い気持ちを持たなければ仕事も出来ないのだろう。
 実際、理不尽さに嫌気が差して辞めていく者も多いのだ。
 ふあぁ、と呑気にあくびをするサキト。流石に疲れ果てたらしい。
「リシェ、ファブロス。君達のおかげでお水も無事に手に入れる事が出来たよ。ありがとう。もう疲れたでしょ?」
「いえ…遠征の経験もあるのでこういうのには慣れています。お怪我は無いですか?どこか痛む所とか」
「ふふ、ずっと安全な場所に居たからね…僕は何もしていないようなものさ。今日はもう大人しく休む事にするよ」
 泥に塗れてしまった上着を脱ぐクロスレイは「あのう」と声を掛ける。
「洗い場とかありますかね…?流石にこのまま来賓室に向かうのもどうかと思いまして…」
 来客が消え、照明も最小限になった大聖堂だが泥に塗れ過ぎた彼の姿は流石に異様に見えてしまう。不審者として扱われてもおかしくないだろう。
 リシェはその歴戦の汚れ具合を見て唸った。まずは泥を落とさなければならない。汚れ落としに良い洗剤も大聖堂の中にあるはずなので、それを借りてこよう。
「あ…そうですね。良かったらご案内します。ええっと…ファブロス、サキト様をお部屋にご案内して貰ってもいいか?」
『分かった』
「頼む」
 場所によって逐一変えるようにと言われているファブロスは、城下街に入った段階で獣の姿を人の形に変化させていた。よろしくねぇ、とサキトが彼の手にそっと触れると、ファブロスもそれを握り返す。
 嬉しそうに微笑むサキト。人懐っこいのは王子という立場から形成された為なのだろうか。
『お前が終始手間の掛かる奴だというのは承知だ』
「んふふ、一言余計に多いのは年長者だからなのかな?オーギュ殿と一緒に居る時もそうなの?」
『お互いの性格を熟知している。だからもう奴は気にもしていないだろう』
 タイプは違えど何かしら波長が合うのだろうか。
 二人は冗談で嫌味を込めつつそのような会話をして、仲良く来賓室の方に向かって姿を消していった。
「では参りましょうか。良い洗剤も頼んできますから、汚れはすぐに落とせますよ」
「ありがとうございます」
 あの無邪気なサキトとそれ程年齢も大差無いのに、ここまで違いがあるのか。はしゃいで帰路に着いた王子を見た後にリシェと接していると、強烈に違和感を感じずにはいられない。
 環境が人を育てるという話は良く耳にするが、あまりにも顕著だ。
 明らかに若過ぎている大人びた剣士を前に、クロスレイは改めて頭を下げた。

 翌日、リシェは大聖堂の中庭で怒られていた。
「お前、冗談で言ったのかと思ったら本気でミニボトルに詰めてきた訳!?」
「………」
 スティレンは受け取った手の平サイズのボトルの水に大層不満そうだ。リシェは怒る彼の目線から逃れるように別の方向を見下ろし、うんざりするかのように溜息を吐いていた。
「調べてみたら希少価値のある凄くいい水だっていうじゃない!美容とかにもいいって…それなのにお前、何で俺だけミニボトルなのさ!!」
「そうなのか」
 あれだけ苦労して採ってきた水なのだ。希少だと言われても理解は出来る。
「どうせ自分用にいくつか詰めて来たんでしょ!それでいいから出しな!!」
「そんな訳無いだろ…」
 水を取りに行くだけであれだけ苦労したのだ。早めに赴いたのに、結局大聖堂に戻って来たのは閉門時間を超過していた。
 次の日に響かないように早めに寝たはずなのに、まだ疲れが残っている。
「あぁ、もう。気が利かない奴だと思っていたのにここまで酷いなんて思わなかったよ…せめてもっと大きなボトルに詰めて来るでしょ普通。何なのお前…」
 苛立つスティレン。
 そんな彼の眼前に、リシェは持ち運び出来る位の大きさのボトルをずいっと差し出した。中には水が満タン状態で入っている。
「…はぁ?」
 何今度は?と怪訝そうに眉を寄せた。
「俺は別にお前にお土産を持ってこようなんて思ってもいなかったぞ。ミニボトルに詰めてやっただけでも有難いと思って欲しい位だ。…ただ、サキト様が流石にそれは無いんじゃないかって言うからな」
 ほら、と突き出されたボトルを反射的に受け取ると、スティレンは「…何なの」と呟いた。
「要するに王子様に言われたから渋々持ってきてやったって感じじゃない!!お前、どんだけ性根が悪いのさ!」
「お前は目的の物を受け取っても文句しか言わないのか?」
「それなら最初っから素直に渡せば良かっただろ!」
 お互い捻くれているのか、すんなりと会話が終わらない。
「それを貰って飲むだけなら別に普通の水でもいいじゃないか。何に使う気なんだ?」
 サキトは飴を作りたいという明確な目的があったので理解出来たが、スティレンは何をしたいのか不明のままだった。
 彼は目的を言ったのかもしれないが、リシェの頭には入っていない。忘れたのかもしれないが。
 スティレンはふふんと鼻を鳴らすと、何故か得意気に答える。
「この水が手に入ったら他に特殊な材料を集めて特製の美容液を作ろうと思っているのさ。希少価値のある水で、美容にもいいならもっと良さを引き立てる事が出来るでしょ」
「………」
「ま、お前みたいに美しさに興味が無い奴なら分からないだろうけど。でもこれだけ水があればしばらく困る事は無いね。この件に関しては、あの我儘王子に感謝しないと。王子の一声が無かったらお前はミニボトル程度にしか詰めてくれなかっただろうし?ほんっとケチ臭いんだから」
 リシェは「そうか」と言うとそのまま立ち去ろうとした。とりあえず渡せる物は渡せたので良かったと思いながら。
 あとはあの魔石が分割してしまったという報告をしに行かなければならない。帰ったら帰ったでやる事が山のように残っている。
「リシェ。お前何処に行くつもりさ?」
「…何だよ。もういいだろ」
 希望の物を持ってきたら持ってきたで文句ばかり言いやがって、とうんざりしながらリシェは背後を振り返った。
「報告に行くんだよ。うるさいから邪魔するな」
「ふーん…」
 破損報告は何処でやるんだっけ…と悩みながら、リシェは再び歩きだした。ゼルエに聞いた方が早いかもしれない、と兵舎方面に爪先を向けると同時に、再びスティレンに呼び止められてしまう。
「ねえ」
「あぁ、何だようるさいな!」
 疲れもあり、ついリシェは怒ってしまった。
 要件は纏めて言って欲しいと言わんばかりに。
 するとスティレンはボトルを軽く手前で振り、無表情で「ありがと」とリシェに言う。
「………」
 彼はお礼を自分で言う事は少ない。ちょっと驚き目を見開くリシェは、しばらくその言葉の意味を考えてしまった。
 時間を置いてからようやく理解する。
「…礼を言うならサキト様に言うといいぞ」
 そして礼に対する返事をした。
 兵舎へ向かうリシェの背中を見送ったスティレンは、ふんと呆れつつ清水の入ったボトルに目線を落とす。
「全く。素直じゃないね。可愛げのない」
 第三者から見ればお互い様だと思うが、スティレンにはその自覚は全く無かった。
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