名前を忘れた恋人たち

るいす

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第1話:さよならを決めた夜

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 楠木凛は、コーヒーカップの中で波打つミルクの模様を見つめながら、言葉を選んでいた。



「……ねえ、奏」



「うん?」



「もう、続けなくていいんじゃないかな。私たち」



 その言葉を口にするまで、何度もためらった。けれど、言ってしまえば、驚くほどあっさりしていた。



 目の前に座る佐伯奏は、短く息を飲んだものの、すぐにその視線をカップの底に落とした。



「そっか……そうだよね。なんとなく、わかってた」



 大学時代から付き合い始めて、もう6年目になる。

 一緒に暮らした部屋、たくさんの喧嘩と、たくさんの笑顔。

 だけど最近は、会話のトーンが少しずつズレはじめていた。

 夢を追う奏と、地に足をつけようとする凛。

 「好き」だけでは埋めきれない隙間が、静かに広がっていた。



 奏は、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げて言った。



「じゃあ……忘れようか」



「……え?」



「お互いのこと。きれいさっぱり、全部」



 凛は冗談だと思って笑いかけたが、奏の表情は本気だった。



「“忘却屋”って知ってる? 名前を書いた紙を交換すると、その人に関する記憶が完全に消えるっていう……まあ、都市伝説みたいなやつだけど」



「なにそれ、ばかばかしい」



「でもさ、きっとその方が楽だと思わない? 中途半端に残って、引きずって、思い出すたびに苦しくなるくらいなら……いっそ、何もなかったことにした方が、前に進めるんじゃないかな」



 あまりにも静かに、そして自然に言うものだから、凛は戸惑ってしまった。



 「忘れる」ことが、救いになるなんて、考えたこともなかった。

 記憶がなくなれば、後悔も、未練も、痛みもなくなるかもしれない。

 ——それは、思いやりの形にも見えた。



「……やってみる?」



 凛は、思わずそう返していた。



 その夜、ふたりは都心から少し離れた、古い雑居ビルの一室を訪れた。

 古道具屋のような看板の奥、秘密めいた扉の先に“忘却屋”はあった。



 部屋の奥にいたのは、男女どちらともつかない年齢不詳の人物だった。

 柔らかい声で、必要なのはたった二つ、と告げられる。



 「互いのフルネームを、紙に書いて交換すること」

 「その場で紙を燃やし、灰を重ねて“名前の契約”を完了させること」



 シンプルな手順。だけど戻れない行為。



 凛は、万年筆を手に取り、ゆっくりと名前を書いた。



 佐伯 奏



 奏も、凛の名前を書いた紙を差し出す。

 その指先が、少しだけ震えているのを、凛は見逃さなかった。



 ふたりは目を合わせずに、紙を交換し、無言で火にくべた。

 炎が名前を舐め、静かに灰となっていく。



 「——契約、完了です」



 忘却屋の声が、部屋の空気を切り取った。



 契約後、記憶の消失はおよそ数時間以内に発生すると説明され、ふたりは再び夜の街に出た。

 並んで歩く最後の時間。何を話せばいいのかわからなかった。



 信号待ちのタイミングで、奏がぽつりとつぶやいた。



「もし、またどこかで会ったら……はじめまして、って言えるかな」



 凛は少しだけ笑って、うなずいた。



「言えるよ。きっとね」



 そして翌朝——



 凛は、目覚めた瞬間、妙な空虚を感じていた。

 部屋には見覚えのある本、カップ、ソファ。

 なのに、その中にいる“誰かの気配”だけが、ごっそり抜け落ちていた。



 頭が痛いわけでも、記憶が飛んだ感覚でもない。ただ、何かが足りない。



 けれど、思い出せない。



 名前も、顔も、声も——何ひとつ。



 鏡の中の自分が、静かに問いかけてくる。



 「……わたしは、何を忘れたんだろう?」

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