名前を忘れた恋人たち

るいす

文字の大きさ
2 / 5

第2話:知らないはずの誰か

しおりを挟む
 ミルクの注ぎ方がうまくいかなくて、凛はカフェのカウンターでそっと舌打ちした。
 今朝から、なぜか小さなミスが多い。手順を忘れたわけじゃないのに、感覚がずれているような、不安定さがつきまとっていた。

 「凛さん、今日ちょっとぼーっとしてない?」

 同僚の陽菜が声をかけてくる。

「あ、ごめん。寝不足かな」

 そう答えたものの、凛自身にも理由はわからなかった。
 ただひとつ、胸の奥にぽっかりと空いた“何か”の感覚だけが、ずっと抜けないままだった。

 お昼過ぎ、初めて見る顔の客が来店した。
 少し癖のある黒髪、眼鏡の奥の真剣そうな目。白いスケッチブックを小脇に抱えている。

「アイスコーヒー、お願いします」

 声を聞いた瞬間、凛はなぜか指先が強張った。
 注文を繰り返しながら、記憶の中を探る。初対面のはず。けれど、何かが引っかかっている。

「こちらでお飲みになりますか?」

「あ、はい。奥の窓際、空いてますか?」

 自然なやり取りの中に、どうしようもなく“懐かしさ”が混ざる。
 声のトーン、言葉の間合い、笑うときの口元。
 全てが、「誰か」を思い出させるのに、思い出せない。

 ふと、客がカバンから落とした鉛筆が床を転がる。
 凛が素早く拾い、手渡そうとしたその瞬間——

 目が合った。

 凛の胸が、急にぎゅっと締め付けられた。
 鼓動が速くなる。息が詰まるような感覚。
 その目を、知っている。絶対に。

「……ありがとう」

 男は何も気づいていない様子で礼を言い、微笑んだ。

 それだけで、胸がいっぱいになりそうになる。

 休憩時間、凛は裏の控室でひとりコーヒーを飲んでいた。
 ミルクを入れる手がふと止まる。

 ——誰かと、このコーヒーを飲んだ気がする。

 テーブル越し、ミルクの模様、静かな夜。
 記憶にはないのに、感情だけがそのシーンを押し寄せてくる。

 「……わたし、誰かを忘れてる?」

 その言葉に、自分自身がびくりと反応する。
 確かに、最近の生活に穴はなかった。予定も、仕事も、友人関係も順調にまわっている。
 でも、感情のどこかが空っぽだった。ずっと、“なにか”が欠けていた。

 閉店間際、例の青年——奏は再びカフェにやってきた。
 彼もまた、凛のことを知らない顔で見ている。

 なのに、注文を終えたあと、ぽつりとこう言った。

「……このお店、なんだか落ち着く気がするんです。初めて来たはずなのに」

 凛はその言葉に、思わず息を呑んだ。
 それはまさに、彼女自身が感じていた“違和感”と同じだった。

 名前も、記憶も、顔さえ思い出せない。
 けれど——

 この人を、私は知ってる。

 直感のようなものが、心の奥で静かに灯った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

おめでとう。社会貢献指数が上がりました。

水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
「正しく」生きれば、どこまでも優しいこの国。 17歳のシュウは、社会貢献指数を高め、平穏な未来を手に入れようとしていた。しかし、システムに疑問を抱く父のランクは最低の「D」。 国家機能維持条項が発令された夜、シュウの端末に現れたのは、父の全権利を支配するための「同意」ボタンだった。 支配か、追放か。指先ひとつで決まる、親子の、そして人間の尊厳の行方。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...