名前を忘れた恋人たち

るいす

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第3話:ふたりはまだ、出会っていない

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 それから数日、彼は毎日のようにカフェを訪れた。
 窓際の席でコーヒーを飲みながら、静かにスケッチブックに向かう。
 時折、何かを思い出すように空を見上げて、ため息をつく。

 「常連さん、だね」
 陽菜が軽口を叩く。凛は曖昧に笑ってごまかした。
 本当は、彼が来るたびに胸がざわつくのだ。理由はわからない。
 だけどその横顔に、輪郭に、声の響きに、毎回、確かに何かが揺れる。

 「凛さんって、あの人と知り合いだったりする?」
 「……ううん、たぶん、知らない。知らないはずなんだけど」

 心が、否定しきれなかった。

 

 その日、仕事終わりに凛はひとりで古本屋に立ち寄った。
 ふと目に止まったのは、端の棚に並べられた、日記帳のようなノートの山。
 手に取った一冊の中に、数枚だけ残された未使用ページがあった。

 その間に、何かのメモが一枚挟まっていた。

 それは、破ったノートの切れ端。細いペン字で、たったひとこと——

 「奏」

 名前だった。それだけ。だけどその瞬間、凛の中で何かが弾けた。

 音のない閃光。言葉にならない感情。
 目の奥が熱くなる。耳の奥で、知らない声が響く気がした。
 ——でも、顔も、記憶も、浮かんでこない。

 「……かなで……?」

 声に出した瞬間、全身に電流のような衝撃が走った。
 痛みとも言えない、けれど確かに“何か”が崩れ落ちる感覚。

 それは、名前だけが残した記憶の“残響”だった。

 

 翌日、凛は少し迷った末に、いつものカフェに向かった。
 彼は、変わらず窓際に座っていた。
 スケッチブックを開いたまま、コーヒーに口をつけていない。

 ふと視線が合う。凛は、一歩、近づいた。

 「……あの」
 「はい?」

 彼が顔を上げる。静かな目をしていた。どこか、怯えているような。

 「前に、どこかで会ったこと、ありませんか?」

 その問いに、彼は少しだけ首をかしげた。

 「ないと思います。……でも、そう思ってくれて嬉しいです」
 「どうして?」

 「……僕も、そう思ってたから。初めてなのに、懐かしい。そんな人、初めてで」

 胸の奥が震える。
 この人は、私と同じものを感じている——たぶん、忘れている。

 何かを、ふたりして、忘れている。

 

 「名前、聞いてもいいですか?」
 凛が問う。

 彼は一瞬、返事をためらったように見えた。だがすぐに笑って答える。

 「佐伯奏です」

 凛は目を見開いた。
 やっぱり。間違いない。名前を聞いた瞬間、身体が反応している。

 なのに——記憶は、戻らない。
 彼を知っている確信だけがあるのに、思い出せない。名前も、声も、全部“初めて”のはずなのに。

 「私は……楠木凛です」

 ふたりは、改めて名乗りあう。

 それはたしかに“はじめまして”のやりとりだった。
 でも、胸の奥では静かに、確かな予感が灯っていた。

 この出会いは、もう一度の始まりだ。
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