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1章
11
しおりを挟む「ちょ、おま、何で」
いつもの恐ろしいまでのスルーっぷりはどうした。
何でここに至って彼らを引き止める必要がある。
アトリは相棒のローブを乱暴に掴んで、けれど言葉を飲んだ。
射抜くような冷ややかな視線は、真っ直ぐにカグに向けられている。
抜き身の刃のような冷徹さだ。
相棒は静かに口を開く。
「その発言は許容出来ない。撤回してもらおうか」
「………………」
カグは気圧されたように、何も言わない。
ちりちりと肌を刺すような緊迫感に、誰かが息を飲んだ。
そんなに怒ることはないのに。
掴んだローブを離して、アトリはユーグレイの背中を宥めるように叩いた。
ありがたいし全く嬉しくないと言えば嘘になるが、まあ、状況が状況だ。
ユーグ、と呼びかけると、張り詰めた空気が微かに揺らぐ。
意を決したように、悲壮な顔のニールが謝罪を口にしかけて。
ぱしゃりと、水音が響いた。
同時に、全員が周囲に視線をやる。
防壁に囲まれた区画には、通常の生物はいない。
いるとすれば、カンディードの組織員或いは人魚のどちらかだ。
この状況下では、残念ながら後者だろう。
「ニール!」
カグは慌ててニールと手を繋いだ。
ニールは彼の魔力を受けて海中の探査に集中する。
音はかなり近かった。
人魚は既にこちらに気づいているとみて良いだろう。
こんなところで悠長に言い合いしていれば、こうなって当然だ。
ユーグレイは手早く防壁内に通信を入れて、腰の銀剣をするりと抜いた。
名を呼ばれるまでもなく、差し出された彼の手に触れる。
『第二区画、担当各員。人魚と哨戒員の接近を確認。安全確保と第三区画への誘導を優先して下さい』
防壁内のオペレーターが、区画内にアナウンスを流す。
それを聞きながら、アトリは魔術を展開する。
差し迫った脅威は、自身の異常を忘れさせるのに十分なものだった。
見つけ出せ、と脳が警鐘を鳴らす。
向こうがこちらを狙っているのであれば、近づいて来るものを捕捉すれば良いだけだ。
とぷりと水中に潜ったような感覚。
ぐん、と視線が引き寄せられる。
濃紺の海の中とは思えないほど、鮮明に黒い影が浮かび上がる。
それはやはり鱗のないのっぺりとした魚に見えた。
泳いでいるというよりは、まるで滑るような速さで近付いてくる。
ゆっくりと開いていく口、鰭は既に手のようなものに変異しつつある。
もう飲み込む相手を見定めているのだろうとわかった。
同時に、それが誰なのかも理解出来る。
ばちんと魔術を切り替えた。
酷く機械的に、思考は攻勢に転じた。
一歩、二歩と進んで、アトリはユーグレイを背後に庇う。
「いたか?」
まだユーグレイには人魚の姿は見えていないのだろう。
けれど相棒の問いに答える余裕はなかった。
それは真っ直ぐに彼を飲み込もうと泳いで来る。
照準を合わせるために視力に魔力を回した。
残りの全てを外に放つ。
指先から、水中のそれに向けて。
弓を引くようなイメージだったが、実際には指先を振り下ろす単純な動きだった。
普段矢のように打ち出す魔力とは、全く違う。
鋭く、速く。
それは、海面を叩き割って人魚の頭部を正確に潰した。
どん、と鈍い音が響く。
水飛沫が魔力の残滓を受けて、ちらちらと光った。
ニールだろうか、驚いたような悲鳴が背後から上がる。
「ーーーーッ!」
一瞬、全身の血が沸騰するかのような感覚があった。
それはあの抗うことの出来ない興奮に似ている。
幸いその波は静かに引いて、纏わりつくような虚脱感だけが残った。
アトリ、と名前を呼ばれて振り返る。
ユーグレイは僅かに目を見開いて、静けさを取り戻した海面とアトリとを交互に見た。
滅多に見られない表情だ。
んな呆然として、と笑おうとして。
更に相棒の背後、カグとニールの凍りついたような顔に我に返る。
「……い、まの」
呟いたのはニールだった。
同じエルとして一連の魔術行使が異常だと本能で理解しているのだろう。
アトリは「そんな驚かなくても」とニールの言葉を遮る。
おかしい、異常だと他者に指摘されてしまったら、取り返しがつかないような気がした。
「ちょっと切羽詰まって調整ミスっただけだろ。何か上手いこと人魚も討伐出来てるし、ここは賞賛してくれるとこじゃねぇの?」
「それは……、良いが。大丈夫なのか?」
ユーグレイの窺うような視線に、アトリは苦笑する。
「大丈夫ーって言いたいとこだけど、流石に頭が痛い」
嘘だ。
身体のどこも、痛みを訴えてはいない。
けれど全然大丈夫と言えば、その嘘は流石にユーグレイに見透かされるだろう。
緊急時に通常より能力が高まる事例は多々ある。
それに加えてきちんと不調を訴えれば、決してこの状況は「あり得ない」ことではなくなる。
ユーグレイはようやく安心したように息を吐いた。
「だろうな。全く、無茶をする」
「パニくってたもんで。あ、ちょっと手、貸して頂けると」
歩こうとした瞬間、膝から崩れそうな予感がしてアトリは素直に助けを求めた。
痛みはないが、唐突に意識が飛びそうな嫌な脱力感が続いている。
ユーグレイは当然のように、アトリの腕を取って身体を支えてくれた。
最近は少なくなったが、活動限界を踏み越えたアトリを防壁内に連れて帰るのは、ユーグレイにしたら慣れっこの後始末である。
防壁に向かって歩き出すと同時に、おい、と躊躇いがちに声をかけられた。
カグだ。
けれど続く言葉が出て来ないのか、沈黙する。
ユーグレイは背後に視線をやって、「報告はそちらに任せる」と言い捨てた。
カグからの返答はなかったが、代わりにニールが「わかりました」と慌てたように答える。
その声が近く聞こえたり遠く聞こえたりして、アトリは目を閉じた。
「痛むか?」
「ん、まーな。久々、ちょっと馬鹿やった感じ」
「昔は良くひっくり返っていたからな。比べれば、マシだろう」
酷い言い草だ。
けれど歩き出すその一歩一歩、アトリを気遣っているのがわかる。
ああ、本当良いやつ。
「ユーグ、何か適当に喋っててくんない?」
どういう要求だ、と彼はアトリの唐突な希望に呆れた。
星も月もない夜でも、決して見失いそうにない銀髪が揺れる。
「気が紛れるから。何でも良いよ」
「…………せめて何の話をするか指定しろ。難題が過ぎるだろう」
心底困ったようにけれどやらないとは言わない相棒に、アトリはそれもそうかと笑って。
本当ごめん、と謝った。
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