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黒文鳥

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1章

22

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 さっと血の気が引いた。
 背中をカグに預けるように横抱きにされたニールは、眠っているかのように穏やかだ。
 微かに胸が上下するのを見て取れなければ、きっともう手遅れだと思っただろう。
 その首筋から肩にかけて赤黒く変色した傷が見えた。
 海水を吸ったローブにも血が滲んでいる。
 いっそ苦しげであってくれれば安堵出来たかもしれない。
 それほど、彼の色のない顔は死人のそれに近かった。
 傍に膝をついたアトリは、ニールの傷口を確認して思わず顔を歪めた。
 首筋から背中まで、一気にやられている。
 その背は殆ど元の肌の色がなく、皮下の損傷の大きさを物語っていた。
 来たのがアトリだとわかっているだろうに、カグは全くその挙動に反応をしなかった。
 感情が抜け落ちたように、死の淵にある片割れを見つめている。

「オレを、庇ったんだ。コイツ」

 ぽつりと独り言のように彼は呟く。
 
「別に、んなことしなくたって、良いのに」

 カグは消え入りそうな声でそう言って、相棒の傷口をそっと撫でた。
 その指先に、まだ生々しい赤が残る。
 ああ、ニールはちゃんとカグを守ったのか。
 その瞬間誇らしいような羨ましいような感情が、確かに浮かんだ。
 アトリは自身を戒めるようにぐっと奥歯を噛む。
 
「そんなことより早く!」

 アトリはカグの肩に手をやって促したが、彼は首を振る。
 第二区画の夜はただでさえ体温を奪う。
 カグが抱いているとは言え、ニールも半分海に浸かっているような状態だ。
 一秒でも速く防壁内の病院に運ばなければいけないのに。
 アトリの焦りに反して、カグは静かに笑った。
 
「コイツ、結構ヤバいとこが切れてて、下手に動かすと傷口が裂けちまうんだとさ。さっき、救助に来たヤツが、担架持って来るまで絶対動かすなって」

「動かすなって、だって」

 それではきっと間に合わない。
 防壁内だってかなりの混乱で、しかもこの海には他にもまだ怪我人が多数いる。
 ニールが救出されるのがいつになるのか、わからない。
 カグは震えるような息を長く吐き出した。
 彼だって、わかっているのだ。
 じわりと服に染み込む海水が、酷く冷たい。
 それなら、出来ることをするまでだ。
 アトリは右手をニールの背に当てて、もう片方の手をカグに差し出した。
 カグは理解出来ない様子で、アトリの手を見つめる。

「は? 何、ムリだって。オレらの魔術は万能じゃねーって教わっただろ。傷を癒すなんてのはーー」

 アトリは「いいから」とカグの言葉を遮った。

「お前がニールを諦めて、どうすんだよ」

 何を踏み躙ったって、カグだけはニールを諦めてはいけない。
 
「少しでも可能性があるなら、俺をぶん殴ってでも協力させるくらいの気概でいるべきじゃねぇの。お前、ニールのペアなんじゃなかったっけ?」

「…………何だよ、テメェも、くっそうぜぇな」

 彼は一瞬泣き出しそうな顔をして、それからアトリの手を握った。
 じわりと流れ込んで来る魔力に、意識を集中する。
 カグが言った通り、セルとエルによって編み出される現代の魔術は万能には程遠い。
 残されたのは対人魚に特化した攻撃と、自身の身体強化に関わる魔術のみ。
 魔力に指向性を持たせ自在に操るための「詠唱」が失われ、最早かつての域に達することは不可能だと考えられている。
 けれど身体の強化は、元々治癒の属性に近い。
 そしてアトリはその手の魔術なら得意だと言えたし、何より今は出力調整が狂っている。
 それなら、或いは。
 ニールの背に触れた指先が、熱い。
 
 深く、深く。
 裂けた皮膚、肉、血管を辿って。
 元の形を想像する。
 
 視界がさっと白くなって、アトリは目を閉じた。
 カグが強く手を握り返して来る。
 まだ、足りない。
 繋いで、繋いで、繋いで。
 元の形に。
 きんと耳鳴りがして、身体が放り出されるような浮遊感があった。
 けれど握った手の感触は確かにある。
 これ以上の魔力を受け取るな、と脳が警告を発する。
 それどころじゃないんだ、と苛立たしく思って。
 アトリはそれを文字通り、遮断した。
 身体の感覚を切り落とすのは、やってみれば案外簡単なもので呆気ない。
 何だ、最初からこうしていれば良かったのかと思ったが、そもそもこれも魔術の一環だ。
 根本的には何も解決していない。
 後が怖いな、と呑気に思って、誰かに呼ばれて目を開く。
 あるだけの魔力を渡し切ったカグは、青白い顔でアトリを見ていた。
 その腕の中、反応のなかったニールの瞼が微かに震える。

「ニール」

 カグの呼びかけに、ニールは薄らと瞳を開いた。
 感覚としては傷を塞ぎ終えた気がしていたが、その背の傷は変わらずそこにある。
 けれど幸い身体の内部の損傷には多少効果があったようで、皮膚の下に広がっていた血の色は随分と薄くなっていた。
 動かしたら危ないなんて状態は、恐らく脱しただろう。
 カグくん、と掠れた声がした。
 カグは何か言おうとして、けれど結局何も言えずに俯く。

「ほら、早く医者に見せねぇと」

 アトリがそう言うと、カグは「お前に言われなくても」と力のない反論をした。
 そしてふらつきながらもニールを背負って立ち上がる。
 彼の背から、ニールは何故か心配そうにアトリを見下ろす。
 若干足元が危うい感じはあるが、この様子であれば意地でも防壁まで辿り着くだろう。
 カグは数歩歩き出してから、僅かにこちらを振り返った。
 まだ膝をついたままのアトリを見て、「お前は?」と意外にも案じてくれる。

「俺? 俺は、ユーグと合流して帰るよ」

「そうかよ。アイツがいんなら別に大丈夫だろうけどな。まだ討伐完了したワケじゃねーんだし、とっとと避難しとけよ」
 
 カグはそれだけ言って、後は振り返らずに歩き出した。
 良かった。
 きちんと治療を受ければ、きっとニールは大丈夫だろう。
 アトリはその背を見送ってから、立ち上がろうとして。
 見事につんのめって、顔から海に突っ込んだ。
 ばしゃと水飛沫が上がって、慌てて四つん這いになって気管に入った海水を吐き出すように咳き込んだ。
 幼い子どもがやるような転び方だ。
 まあ誰も見ていないから良いか、ともう一度足に力を入れて。

「ーーーーーーあれ」

 全く、身体に力が入らなかった。
 ぺたりと完全に浅い海底に腰を下ろして、アトリは首を傾げる。
 痛みは勿論ない。
 一度遮断したあの感覚も、まだ戻って来てはいなかった。
 別にどうということはないのに。
 
「でも、ちょっと怠いか」

 ユーグレイを迎えに行くだけのつもりが、何だか大変なことになってしまったし。
 ふわふわと思考は解けて、眠りに落ちる直前のように取り留めもない。
 いや、ここは第二区画の海で。
 まだ、人魚もいて。
 そもそもユーグレイに、会えていなくて。
 でも、こんな調子なら、ちょっと休んだ方が良いか。
 前髪を払うように吹く風に、どこかで聞いたような声が幾つも混ざる。
 遠くはない。
 酷く重い頭を振って、アトリは顔を上げた。
 何と言っているのかは聞き取れないが、切羽詰まったような慌ただしい声だ。
 何にせよ、まだ身動きは取れそうにないから仕方がない。
 ひたひたと腕にかかる波は心地良いほどで、不思議と危機感はなかった。
 音が、匂いが、感覚が、曖昧になる。
 違う。
 待て、しっかりしろ。


「ーーーーアトリ!」


 
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