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黒文鳥

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1章

0.5

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「俺、やっぱり、お前のペア辞めようか?」

 これまでのように無感情にその言葉を聞くことは、到底出来なかった。
 手のひらに痛みを感じて、強く拳を握り込んでいたことに気付く。
 アトリはまだ、ユーグレイを見ない。
 
「多分さ、こんなんばっかだと思うんだ。大した魔術使ってる訳じゃないのにこうやってぶっ倒れて、何度でもお前に迷惑かけるよ? これでも頑張ったつもりではあるんだけど、まあ、どーしようもないし」

 柔らかく響く声は、少しずつ小さくなる。
 お前の魔力は、とアトリは最後まで言わなかった。
 ここまで来て、ユーグレイを傷つけまいと気を遣っているのだろうか。
 そうだとしたら、彼らしい優しい嘘だと思った。
 アトリは諦めたようにようやくこちらに視線を向ける。
 その黒い瞳に、取り繕うような揺らぎはない。
 ただ静かで、真っ直ぐだ。

「俺は、お前が望むようには魔術を使ってやれない。もっとちゃんと戦いたいんなら、俺じゃ駄目だろ? ユーグレイ」

 ユーグレイは、知らず息を呑んだ。
 あの夕暮れの海で、全てを失った。
 愚かにもユーグレイを庇ってそれに呑まれた人。
 唯一家族でいてくれた兄は愛する人を失って、壊れてしまった。
 そして。
 この心の虚に辛うじて残った、人魚というものに対する執着。
 力があるのならばこの命が終わるまで、ひたすらにそれを狩ろうと決めた。
 そんなことに、気付く誰かがいるはずが。

「アトリ」

 緩やかに閉じた目を、ユーグレイは開く。
 横たわったままのアトリは、宣告を待つように黙り込んだ。
 
「君は、僕のペアを辞めたいのか?」

 問いかけだけはしようと思った。
 それに彼がどう返そうと、もう手放せないような気はする。
 アトリは怪訝そうな顔をして、あっさりと首を振る。

「辞めたい訳ないだろ。何でそうなんだよ」
 
「そうか、それなら良い」

「いや俺じゃなくて、お前が」

「僕は、君が良い。他の誰でもなくアトリ、君でなくては駄目だ」

 アトリの言葉を遮って、ユーグレイは告げる。
 困惑したような彼の表情は、意味を理解するとじわりと羞恥に染まった。

「お前、悪いことは言わないから、そーいう台詞は好きな子のために取っとけ」

 王子様か、と呆れたようにアトリは言って。
 それから緊張感のない顔で「なんだ」と続ける。
 
「俺に魔力渡すの、渋るから、そういうことなんだろうなって思ってたんだけど、違うのか」

 ほっとしたように息を吐いたアトリは、重そうに瞬きをした。
 当然、それも気付かれていたようだ。
 ユーグレイは「違う」と、はっきり首を振った。
 ただ都合良くペアという関係を続けたいだけだったはずが、いつから彼に拒絶されることが怖くなったのだろうか。
 
「僕の魔力は、生命を奪うような冷たさだと言われたことがある。君にとっても、それは不快だろうと思った。だから必要最低限の接触で済ませたかっただけだ」

 何の躊躇いもなく、素直にそう伝えることが出来て驚く。
 アトリは頭を傾けて、ユーグレイを見た。
 そんなこと言われたのか、と彼は苦笑する。
 
「冷たいかって言われたら、冷たいけど」

「………………」

 考え込むように唸って、アトリは目を閉じた。
 そのまま眠ってしまうのではないかと思ったが、耐えるように眉を寄せて彼は目を開ける。
 とろりと無防備な様子は、寝入る前のそれだろう。
 ユーグレイは思わず、手の甲でその額を撫でていた。
 アトリは特に嫌がらない。
 
「俺、寒いとこの生まれだから、平気なんかな? いや、でもさ、ユーグのは違うと思う」

「どう違う?」

 囁くほどの声で訊くと、アトリは笑った。
 瞬きすら惜しく彼に見入る。
 脳に焼き付けるように、その呼吸一つ聞き逃さないように、ユーグレイは息を殺した。

「生命を奪う冷たさには、全然足りないよ」

 優しく言い聞かせるように声は続く。

「ユーグのはそうじゃなくて、雪解けの水の温度に似てる。生きて冬を越せたって、実感出来るから、俺、寒いのは嫌いだけど、結構、あの冷たさは好きでさ……」

 雪解けの水。
 凍てつく冬の終わり。
 ゆるゆるとアトリは瞼を下す。
 小さく息を吸うと、それは穏やかな寝息に変わった。
 自身の内から溢れる感情に、ユーグレイは戸惑う。
 
「アトリ」

 普段より少し幼い、安心しきったような寝顔。
 呟くような呼びかけに返答はない。
 欲しい。
 目が眩むような鮮烈な希求だった。
 その友愛も信頼も、何もかもが欲しい。
 他の誰にも渡せない。
 突き動かされるように、指先で彼の頬に触れた。
 
 本当に相性の良いペアはーー。

 どこかで聞いた言葉の、その先を思い出す。
 友愛だけでは足りない。
 信頼だけでは足りない。
 全部だ。
 アトリという人間の、何もかもが欲しいのだと気付く。
 指を滑らせて温かな首筋を辿る。
 欲しい。

「……ん」

 アトリは擽ったそうに身じろぎをする。
 ユーグレイは先を求める指先に、歯止めをかけた。
 自覚した途端にこれでは先が思いやられる。
 規則正しく上下する胸元に視線をやって、ユーグレイは深く息を吐き出した。
 身体の芯を占めていた虚無が解けていく。
 身を切るほどの後悔と絶望が、同時に滲み出す。
 けれどそれは、生命を奪うほどの鋭さではない。

 幾つもの耐え難い事象を受け入れて。
 そして今、ここにいる。

 ようやく、ユーグレイはあの夕暮れを越えたのだと思った。
 
 
 
 
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