Arrive 0

黒文鳥

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2章

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 リン、と呼びかけると彼女は嬉しそうに手を伸ばしてくれる。
 白くて柔らかい、小さな手。
 その手から流れ込む魔力が、ぱちりと熱を持って弾ける。
 熱い。
 呆気に取られたような表情のラルフに、「手出して」と端的に言った。
 
「はい? は、ーーーーえ?」

 握手をするかのように、緩く開かれて差し出される手。
 アトリはそのまま、彼の手を握り込む。
 目を閉じて、集中する。
 不思議そうな彼の声は、一瞬で驚愕の音に変わった。
 リンから受け取った魔力で、アトリはラルフの視力を強化するよう魔術を編んでいく。
 ニールにやったのと、基本は同じだ。
 あの時後先考えずに傷を治そうとして、けれど完治には至らなかった。
 他人の身体強化は、多分自身に向けるものより上手く作用しないのだろう。
 そうだとしたら、それはきっとストッパーとして使える。
 何よりこの手の魔術なら、アトリは辛うじて得意だと言えた。
 消去法で、これが一番問題が少ないと思ったのだ。
 広がる視界のイメージを、その魔術に乗せる。
 ぐんと加速する風景。
 どこまでも視せようと、魔力は一気に流れていく。
 ああ、違う。
 少しだ。
 少しだけで、良い。
 手を離れて暴走を始めようとする魔術に、アトリは唇を噛んだ。
 頼むから、ちょっとは術者の意向に従って欲しい。
 握った手が、驚きで震えるのがわかった。
 
「………………ッ」

 もう十分だろう。
 噛んでいた唇を舐めて、アトリはラルフの手を離した。
 そしてゆっくりと目を開く。
 恐れていたほどの反動はないが、一瞬ぼやけた視界に背筋が冷えた。
 幸いバレない程度の深呼吸で、明瞭な視野が戻って来る。
 目の前には、手を差し出したままの状態のラルフがいる。
 目を見開いた彼は、微動だにせず呆然としていた。
 
「あ、れ? ヤバかった?」

 まだ目の焦点の合わない彼の肩を、アトリは軽く叩いた。
 反応の鈍さに、焦る。
 やはり軽率だったのだろうか。
 攻勢の強い魔術なんかよりは、よほど安全だと思ったのだが。
 何が起こったのかわからなかったのか、リンはきょとんと周囲を見渡して魔術の痕跡を探している。

「アトリさん、今の」

「あー、せっかくだしと思って視力強化をしてみたんだけど」

 上手くは行かなかったかな、と言いかけたアトリを、「とんでもない」と興奮した声が遮った。
 強く首を振ったのは、ラルフだ。
 良かった。
 眼鏡を外して目を擦った彼は、やっと意識がはっきりしたようだった。
 ああ、と震えるような溜息を吐く。

「凄い、これが、貴方エルが視ているものですか」

 その感動で掠れた声に、アトリは咄嗟に返事も出来なかった。
 鳥のように海面を滑る疾走感と浮遊感。
 何の不安もなく魔術を行使していた頃の、あの高揚感が蘇る。
 ありがとうございます、とラルフは眉を下げて笑った。
 
「ああ、本当に、ここまで来た甲斐がありました」

「んな、大袈裟な」

 大袈裟ではありませんよ、と彼は熱の籠った声で否定した。
 そんなに感動されると、逆に反応に困る。
 ラルフは首を捻って「何かお礼を」と考え込んだ。
 それからぱっと明るい顔をして、軽く手を叩く。
 
「そうですね。お礼とお近付きの記念を兼ねて、これから一緒に食事でもいかがですか? 勿論何でも奢りますとも」

「や、別に」

「アトリさん、行きましょう」

 くい、と袖口を引っ張られてアトリはリンを見た。
 確かにお腹は空いていると言っていたか。
 じゃあリンだけでも、と言うと、彼女は「一緒が良いんです」と首を振る。
 何故か必死な様子に見えたのは、気のせいだろうか。
 いや、でも。
 食事に行くとなると、第四防壁の食堂だろう。
 当然、あそこは彼の生活圏内だ。
 いつまでも逃げていられるとは思わないけれど、敢えて遭遇する確率の高い場所に踏み込むのは避けたかった。
 
「まだお昼には少し早いですし、きっと空いていますよ。さあ」

 そうラルフに促されて、防壁へと入る。
 様々な言い訳が一瞬脳裏を過ぎって、最終的には重い溜息と共に諦めた。
 食堂は確かに人の少ない時間帯だろう。
 彼は遠目でも目立つから、いればすぐにわかる。
 そこまで考えてアトリは思考を止めた。
 防壁内で生活しているのだから、いずれユーグレイと会うことになるとわかってはいる。
 いっそさっさと顔を見て謝って、近況を聞いたりなんかして。
 じゃまた、なんて当たり障りなく別れた方がきっと楽だ。
 アトリさん、とリンがまた袖口を引く。
 
「んなに急がなくても大丈夫だって」

 そう答えて、アトリも歩き出す。
 でもいざ顔を見たら、きっと逃げ出したくなるんだろうなと自嘲気味に思った。

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