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3章
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しおりを挟む「ユーグレイ・フレンシッドは、どうしても、プロジェクトに必要な人材なの」
イレーナの言葉は、どこか熱を帯びて静かに響いた。
0地点の観測を目的とした計画。
過去カンディードにおいても各国の協力の元、数回そういった試みがあったと聞いたことがある。
結果は、言うまでもない。
結局何の成果も上げられず、逆に「観測は不可能である」という証明をした形で頓挫したと言うが。
「彼は体内での魔力生成能力が極めて高い。こちらでの記録上活動限界に至ったことがないのだから、相当でしょうね。膨大な魔力を必要とする私たちの計画には、欠かすことの出来ない存在だわ。わかるかしら?」
「……あいつが優秀なのは誰より俺が知ってます」
「ええ、貴方は彼のペアだものね。だからこそ、貴方の言葉なら彼も聞き入れてくれるのではないかと思って」
そう言うのであれば、すでにイレーナはユーグレイに協力を打診したのだろう。
アトリは「ああ」と小さく笑う。
「つまり、断られたと」
「色良い返事をもらえなかった、と言うのが正解かしら。完全に断られはしなかったのだけれど、あの様子では期待は出来ないわ」
「検討だけはしよう、って?」
イレーナは僅かに眉を寄せて、それから呆れたような顔をする。
「あら、彼から聞いているのかしら? 正にその通りの言葉を返されたのだけれど」
まあ、ユーグレイならそう言うだろう。
その淡々とした声音まで余裕で思い浮かべることが出来て、アトリは肩を竦めた。
「じゃ、俺からあいつにとやかく言うことじゃない。申し訳ないけど力にはなれそうもないですね」
熟考もせずにそう答えたアトリに、イレーナは顔色一つ変えなかった。
或いは然程期待されていなかったのかもしれない。
頬にかかる髪を指先で掬って耳に掛け、彼女は残念そうな表情だけは作って見せる。
「0地点の観測が可能になれば、根本的な問題の解決に繋がるかもしれない。貴方たちが、こんな牢獄のようなところで死と隣り合わせの仕事をする必要はなくなるのよ?」
「いや、そりゃあ全人類の望むところではあるんでしょうけど。ただ、俺はあいつの意思の方が大事なんで」
皿に残していたパンの一欠片を口に放り込んで、アトリは言い切る。
ユーグレイがやりたいと思わないのであれば、やらなくて良い。
話はそれで終わりだろうか。
空になった食器を重ねると、イレーナはふっと溜息を吐いた。
彼女は手の甲に軽く顎を乗せて、赤い唇を歪ませる。
「ペアというのは良くわからない関係性ね。ここ出たら貴方たちの関係は職場の同僚、或いは友人としか解されないのに。そんな風に言ってしまえるのは、やはりここが特異な環境だからかしら」
「そーいう訳でもないですけど」
ペアだから、友人だから。
それも当然あるけれど。
アトリがそうしたいのは、結局ユーグレイがどうしようもなく大切だからだ。
イレーナは残りのワインをくいと飲み干して、空になったグラスを眺める。
ユーグレイの説得に利用出来ない、とわかった時点でやはりアトリから興味は失せたようだ。
「困ったものだわ。少なくとも家族を引き合いに出せば、もうまともな話し合いになると思ったのだけれど。別の手を考えた方が良さそうね」
ご両親に手紙でも書いてもらうのが一番かしら、と彼女は何てことないように呟く。
故郷。
家族。
両親。
それが、ユーグレイにとってどういう感情を呼び起こすものなのか。
アトリはまだ、知らない。
ただその言葉を耳にして湧き上がる衝動のまま、「イレーナさん」と名を呼んだ。
反射的に向けられる眼鏡越しの視線。
そこに罪悪感はなく、また加虐による仄暗い悦びも見出せない。
単純に、効果的で効率が良いからそういう手段を選ぼうとしているだけだろう。
「そーいう言い方自体、色々まともじゃないですね。あなたは」
「酷い言い草だわ」
アトリはゆっくりと腰を上げる。
テーブルについた手を少しだけ浮かせて、真っ直ぐにイレーナを指差した。
魔術を放つ時と、同じ動き。
研究員だと言うだけあって、彼女は流石に気付いたようだった。
薄く酒精に染まる頬がほんの少しだけ強張る。
離れた席で楽しげに酒を飲む人の笑い声。
食堂に満ちる穏やかな気配。
それを乱すことのないように、アトリは静かに笑う。
「ご立派な目的掲げてんのは承知の上で言っとくけど、防壁は皇国の実験場じゃないし、俺たちは何も感じない装置じゃない。手段を選ばないってんなら、それなりの覚悟をしといて下さい」
言葉の端に鋭さが滲むのだけは、どうしても抑えようがなかった。
ユーグレイの意思を顧みずに、計画に利用したい。
そのためなら彼の縁を平気で踏み躙ると言う。
苛立つなと言うのは、無理な話だ。
「少なくとも俺は、あいつがしんどい思いしてるのを黙って見てられるほど温厚じゃないですよ? ついかっとなって、魔術の暴発でも起こすかもしれない。巻き込まれたら困るでしょう」
「……あら、貴方は皇国のカウンセリングを受けてはいないのに?」
エルが単独で魔術を行使出来るはずがない。
アトリのそれが脅しであることなど、当然わかっているはずだ。
そしてそこで黙り込む人でないことは何となく予想もしていたが。
怯みもせずに言葉を返した彼女は、言い切ってからはっとしたように小さく息を吐いた。
今この人は。
カウンセリングと魔術の暴発を自然と関連付けた。
体調不良だけじゃない。
それを受けることで魔術の暴発に至る危険性があることを、自覚しているのか。
イレーナはアトリの様子を見て、けれど動揺もなく「そう」と一つ頷く。
「その顔だと、聞き逃してはくれなかったのね。まあ、良いでしょう。データも十分に集まったし、あまりここが騒がしくなるのは私たちも本意ではないもの。カウンセリングはもうお終いにするわ」
「………………」
「飲みすぎたつもりはなかったのだけれど。意図的にせよ偶然にせよ、してやられてしまったわね」
楽しそうに笑ったイレーナは、じっとアトリを見上げる。
アトリの脅しがそうであったように、彼女の言葉もアトリ以外誰も聞いてはいない。
問い詰めたところで、今夜の彼女にはもう何も言わせられないだろう。
嘘か本当か。
カウンセリングはお終い、と言わせただけでも収穫があったと言うべきか。
「友人のために必死だったってことかしら」
ほとんど独り言のように溢れた言葉に、アトリは首を振った。
ただの「友人」ではない。
そう言おうとして、口を噤む。
夕食を終えるまで、と言ったのはアトリだ。
それじゃ、と空の食器を手にテーブルを離れる。
胸の辺りにつかえるのは、漠然とした不安だ。
意図して、イレーナを振り返ることはしない。
何だか食べた気がしないが、もう今日はさっさと部屋に戻ろうと歩調を早めて。
ふと不穏な声を拾って、アトリは足を止めた。
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