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3章
0.1
しおりを挟むこれはひどい、とすぐ傍でアトリが笑った。
肩が触れるほどの距離にいるのに少し声を張り上げて喋るのは、第二区画の海に叩きつけるように降る雨が音を掻き消すからだ。
まだ陽の高い時刻ではあるが見上げる空は重く暗い曇天で、流れて行く雲の速さから防壁の外の海域は酷い嵐であろうと思われた。
幾重もの壁に囲まれた各区画の海は外がどれほど荒れていてもさほど風の影響は受けないのだが、雨は無論別である。
常であれば濃紺の海面は、打ちつける雨で白く濁っていた。
視界が悪いどころの話ではなく、嫌でも目に入るはずの第二防壁さえ雨で煙って確認出来ないのだから少々笑い事ではない。
日々の哨戒任務など請われたら請われただけ出ても構わないと思うユーグレイでさえ、この荒天には意欲を削がれる。
「寒い! 雨が痛い! ローブが重い!」
言葉としては文句ではあるが、何故か楽しそうにアトリが言った。
支給のローブについているフードは、逆に鬱陶しくなってしまったのだろう。
門から出て早々に後ろに下ろしてしまったため、すでにびっしょりと濡れた黒髪から雨が筋になって滴っている。
アトリの言う通り水を吸って重くなったローブにどれほどの意味があるのかはわからないが、滝のような雨に何の防護もなく打たれる様子にユーグレイは眉を寄せた。
「せめて被っておけ」
そう言いながらアトリのフードを掴むが、首を振られて拒否される。
代わりに差し出された左手を掴んで、ユーグレイは魔力を送った。
「音が聞こえ辛いんだって」
「……そうか」
声が、と言わなかったところを見ると多少はその探知に影響があるのだろうか。
門を背にしたまま魔術を展開したアトリは、視線を海へと向けた。
すとんと感情が抜け落ちたような横顔を、ユーグレイは黙って見つめる。
轟轟と音を立てる雨。
エルに代わってセルが魔術構築を担って負担を軽減する、という手段があると知ってから折を見て試行を繰り返してはいるが、未だアトリの防衛反応に快癒の兆しはない。
当人は気長にやろうと呑気なもので、結局苦しむと言うのに魔術行使を厭う様子もなかった。
防衛反応に振り回されるアトリを落ち着かせるのは、こう言っては何だがユーグレイとしては願ってもない役割ではある。
けれど熱に浮かされたように高みから戻れないアトリに強請られる度、それが本来は「痛み」として警告を発するものであると恐ろしくもなった。
アトリがそれを快感に変換しなかったのであれば、果たしてどれほどの痛苦を味わうことになったのだろうか。
ぎゅうっと繋いだままの手を強く握られて、ユーグレイは「アトリ」と声をかけた。
「…………ん? うん」
曖昧な返事。
殆ど反射的にユーグレイを見たアトリは、けれどまだ行使した魔術に意識の大半を奪われているようだった。
ただこうして手を握るのは、無意識ではないだろう。
探知を終えて展開した魔術を解く際、彼はこうして何かを確かめるようにユーグレイの手を強く握る。
縋るような手を握り返して肩を強く叩いた。
「アトリ!」
はっとしたように瞬いた瞳が、ユーグレイを映す。
濡れた睫毛から、ぽたりと小さな雫が零れ落ちた。
酷く無防備に見えた一瞬、目の前にユーグレイがいることを理解したアトリは心底安堵したように微かに笑う。
身を案じるが故に喉元まで出かかった苦言を飲み込んだ。
そんな表情をされては、怒るに怒れない。
アトリは片手で目を覆って、軽く頭を振った。
「今んとこは大丈夫。こんな日は人魚も引きこもってくれてると楽なんだけどな」
「それは随分と都合の良い」
肩を竦めたアトリに、ユーグレイは苦笑しながら答えた。
するりと手を離した彼は、門から数段の階段を降りる。
いつもはあまり濡れないようにと多少の配慮をするが、こうなってはもう何も気にはならないようだ。
軽く階段を蹴って、ばしゃりと海に飛び込む。
ぱっと散った飛沫。
ほら行こう、とアトリはユーグレイを急かす。
「楽しそうだな」
嫌味ではなく、単純に感想を述べた。
すぐにアトリに続いて海へと入り、並んで歩き出す。
纏わりつくような海水は重く冷たい。
「楽しい? お前、この状況で楽しい訳ないだろー!」
「明らかにいつもよりはしゃいでいるように見えるが」
ああ、確かに聞き取り辛い。
フードの上から叩きつける雨の音が、耳元に篭る。
ユーグレイはアトリに倣ってフードを脱いだ。
ほら見ろ、みたいな顔をしたアトリは目に入ったらしい雨を手で拭う。
「こんな馬鹿みたいな天気で哨戒しろって言われたら、もうはしゃぐしかないだろーが! 視界不良だし、探知した時の情報量がなんか多いし、無駄な音を拾い過ぎて疲れるし!」
「いや、別にはしゃがなくても良いだろう」
「だから自棄になってんだって! 冷静に突っ込むなよ」
ローブの裾を持ち上げて両手で絞ったアトリは、「ユーグも開き直った方が楽だぞ」と言いつつまた手を差し出して来た。
求められるままその手に触れる。
実際のところアトリが滅多にない荒天に高揚していることは確かだろう。
けれどいつもより探知の間隔が短いのは、彼が冷静であることの証明でもある。
人魚の索敵は基本的に魔術頼りだが、それでも肉眼で危機を察知することも少なくはない。
けれどこの荒天ではアトリの魔術でしか、接近する人魚を捉えられない。
本人もそれを理解している。
だから口ではどう言おうが、負っているプレッシャーは相当なものだろうとユーグレイは思った。
すでにひんやりと冷たい指先を握り込む。
雨足は、未だ弱まる気配すらなかった。
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