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6章
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しおりを挟む追い立てられるように踏み出した足が、段差を捉え損ねる。
咄嗟に掴んだ手すりの感触。
背後から焦ったような声がして、気配が近くなる。
相手はラルフで、しかも単純にアトリを心配してくれているだけだ。
それを、どうして怖いと思うのか。
アトリは胸元を握り込んで息を吐いた。
何だパニックを起こしてるのか、と微かな驚きと共に自覚する。
初めて海に出て人魚と対した時だって、平静ではなかったにせよ錯乱などしなかったというのに。
「待って下さい、アトリさん! 危ないです!」
駆け寄って来たラルフは、当然のようにアトリの身体を支えようと肩に触れた。
そりゃあふらふらしながら階段を上がってるやつがいたら、普通そうするだろう。
だから落ち着け。
振り払いたい衝動を抑えつけて、アトリは奥歯を噛んだ。
すみません、とラルフは小さく謝罪する。
「心配で、戻って来てしまいました。そんな状態で、無理をなさらないで下さい」
謝らなくてはいけないのはこちらだ。
ラルフはアトリの事情に巻き込まれているだけで、例え彼でなくてもきっとこういうことになったのだろう。
辛うじて首を振ったが、言葉は出て来ない。
「とにかくどこかで横になった方が。少し歩けるのなら直接病院に行っても……、いえ、ここからなら私の部屋が近いです」
「ーーーーーー」
ラルフも混乱しているのか、早口に言葉が紡がれる。
手首を取られて、アトリは顔を上げた。
いや、それは困る。
「何、してるの?」
不意に降って来た声に、傍のラルフが驚いたように数段上を見上げた。
遅れて視線をやると、黒髪の少女が階段を降りて来るのが見える。
飾り気のないシンプルな紺のワンピース。
クレハ・ヴェルテットだ。
売店の紙袋を抱えた彼女は酷く強張った表情のまま、それでも躊躇なくこちらに近付いて来る。
「ね、何してるの?」
重ねての問いには、責めるような響きがあった。
クレハはアトリを見て、それからラルフに向き直る。
ぎゅうっと腕に力を入れたせいか、彼女の胸元で紙袋が小さく音を立てた。
一度言葉を呑むように不自然な呼吸をしてから、クレハは口を開く。
「アトリに酷いことしてるなら、許さないけど」
「いえっ、そんな! 酷いことをするつもりは……。アトリさん、具合が悪いようで、休めるところまで行こうと」
ラルフは慌ててアトリの手を離して、弁明する。
クレハは僅かに眉を寄せた。
「でも、嫌がってるように見えるよ」
状況としては面倒なことに変わりはないはずだが、どうしてか安堵が勝った。
クレハがエルだからだろうか。
ただ、このまま黙って傍観者になるのは無責任が過ぎる。
ラルフは寧ろ被害者だ。
「……いや、ほんと、ちょっと、体調が悪いだけ」
掴んでいた手すりに寄りかかって、アトリは苦笑する。
ちょっとでも平静に見えれば良いと思ったが、クレハもラルフも表情を曇らせたままだ。
そんなに酷い顔をしているのだろうか。
「アトリさん、やっぱりどこかで少し休みましょう」
無意識だろう。
再び差し伸べられたラルフの手に、痛いほどの緊張感が身体を走る。
彼は悪くない。
けれど、それでも嫌なのだ。
触れられて、気持ち良いと思いたくない。
「ーー私が診るから、大丈夫」
とんとん、と軽い足音を立ててクレハは段を下りた。
詰め寄られたラルフは驚いたように一歩後退する。
少女は隠そうともせず、アトリとラルフの間に割って入った。
何だかこうやってリンにも助けてもらった覚えがある。
どうしようもない情けなさと同時に、クレハがこうして行動してくれることに言い知れない感動もあった。
あの小さな部屋で窓の向こうを眺めていた少女が、いつの間に。
「では、お手伝いを……」
ラルフの申し出に、クレハはきっぱり首を振った。
困惑するラルフは、それでも立ち去り難い様子に見える。
彼としては、無理を言って第四区画に連れ出したアトリが急にこうなったことに責任を感じているのだろう。
「ラルフさん、平気なんで、もう戻ってて下さい。すみません、お詫びは、いずれ」
決して拒絶には聞こえないよう、アトリは柔らかくそう言って頭を下げた。
ラルフがどんな顔をしたのかは、わからない。
ただ短い沈黙の後、「そうですか」と力のない返答があった。
「その、お大事になさって下さい。私の方こそ、申し訳ありませんでした」
静かな足音は、ゆっくりと階下へ消えて行く。
ああ、何とかなった。
アトリがずるずるとその場に腰を下ろすと、ぱっとクレハが振り返った。
彼女は心底心配そうな顔で、アトリの顔を覗き込む。
「防衛反応?」
「あ、さすが、わかんのか。ほんと、助かった。クレハ、ありがとな」
「うん。ユーグレイ、呼んで来る」
それが当たり前だと言わんばかりの彼女に、アトリは力なく首を振った。
ひょいと蹲み込んだクレハは、「何で?」と即聞き返す。
何で、と言われても口に出来る理由は多くない。
アトリは片膝を立てて、額を押し当てた。
「ん、まあ、いつものことだし。部屋で、一人で寝てりゃ落ち着くから……、ユーグに、わざわざ来てもらわなくても、良いかなって」
「…………いつものこと?」
「そ、よくある」
襲いかかる快感の波は、まだ収まらない。
心臓の鼓動に合わせるように身体の芯をぐずぐずに溶かして、それでもまだ足りないと熱を求めて荒れ狂う。
ユーグレイに来て欲しくないはずはない。
けれど今は、どんな顔をして彼を求めれば良いのかわからなかった。
単純に、滅茶苦茶怒られるだろうなという確信もある。
今回は、何もなかったことにするのが一番良い。
「アトリにはたくさん恩があるから、言う通りにしてあげるけど……」
クレハの言葉は微かに震えて少しずつ小さくなる。
どうしたのだろうか。
心配になって視線を上げると、彼女は唇を噛んでいた。
赤みがかった琥珀色の瞳に、焦燥と絶望が滲む。
「でもこんなことよくあったら、死んじゃうよ? アトリ」
「んな……、大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ。だって、お母さんも、そうだったもん」
そうやって段々酷くなって、気付いたら取り返しがつかなくなってた。
クレハはそう言って、静かに瞳を伏せた。
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