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6章
0.3
しおりを挟む「君は、こういうのは嫌がると思ったが。良かったのか?」
容易く引き下がりそうになかった少女は、結局たった数秒の口付けを目の当たりにして「ごめんなさい!」と叫んで転がるように去って行った。
真っ赤になった顔を手で覆って何やら意味不明な悲鳴を上げていた辺り、彼女もそれなりに思い知っただろう。
ユーグレイとしては願ってもないが、アトリがこんな方法を選ぶとは思いもよらなかった。
少女を見送ってから疲れたように椅子に腰を下ろした彼は、ユーグレイの問いかけにため息を吐く。
「良くはないけど。お前、機嫌悪いし」
「それでも大抵は放置だろう? 君は」
日頃の恨みを滲ませてわざとそう言うと、アトリはカップに残ったコーヒーを舐めように飲んだ。
いやだって、とはっきりしない言葉が続くところを見ると、彼としても多少の葛藤はあったようだ。
「ペアなんだからお前が牽制すれば良いだろって言われてさ」
「……誰に?」
頬杖をついたアトリは不貞腐れたように、「みんなに」と答える。
どうやら防壁内では傷を負ったユーグレイが入院生活を余儀なくされ、その上厄介な相手に言い寄られているとかなりの噂になっていたようだ。
当然ペアであるアトリには多々その手の話題が振られたことだろう。
或いは酒が入った同僚などは、冗談半分過激な発言で彼を焚き付けた可能性もある。
「そこまで言われんなら、多少羽目を外しても『牽制』で済むかなーって」
ふっと笑うアトリは、まだ少し色のある気配を纏っている。
わかっているのか、いないのか。
如何せん、節制を強いられている今の状況では目の毒である。
「お前がモテんのはいつものことだけど、俺だって別に何とも思わない訳じゃない」
「………………」
「お前が嫌がってんの、黙って見てたい訳でもない。ユーグの味方しかしないって、言ったろ?」
「………………」
「……何で無言なの、お前ぇ。ここはペアの絆を確かめ合うとこだろーがぁ!」
アトリとしては、それなりの気力を振り絞っての行為だったのだろう。
今更羞恥が込み上げるらしい。
癖のない黒髪をくしゃりと握って、彼は項垂れた。
僅かに晒された首筋が、ほんのりと朱に染まっている。
知らず唾を飲み込んで、ユーグレイはそこに指先を伸ばす。
無防備な首に触れると、アトリは驚いたように顔を上げた。
「馬鹿、お前っ!」
「……君の選択には感謝をするが、それはそれとして、飢えた獣に餌を見せびらかすようなことをした自覚はあるんだろう?」
「喩えが怖い! いや、自重しろ。怪我人!」
ぱっとユーグレイの手から逃れたアトリは、椅子から腰を浮かせた。
いつでも逃げられる体勢である。
彼の言う通り、自重するべきなのだろう。
けれど一度触れてしまえば、耐えるという概念など脆く崩れて当然である。
「アトリ」
静かに名前を呼ぶと、アトリはぐっと言葉に詰まった。
彼はこの手の懇願に弱い。
ただ、今回はユーグレイの怪我があるからだろう。
逡巡の後アトリははっきりと首を振る。
「駄目。そーいうのは退院してから」
「…………そうか」
意外にも明確な拒否を受けて、ユーグレイは仕方なく頷いた。
苦痛ではあるが、耐えること自体は慣れている。
そうだ。
少なくとも目下のストレス要因は去った。
今後は誰にも邪魔をされずに彼と過ごすことが出来ると思えば、それだけで救いがある。
ユーグレイは未練がましく宙を彷徨った手を引く。
駄目だと言ったのはアトリなのに、彼は何故かそれを見て痛みを堪えるような表情をした。
「…………お前だけが、我慢してんじゃねぇかんな」
アトリはぽつりとそう呟いて、ユーグレイの手を掴む。
ああもう、と唸って彼は勢い良く立ち上がる。
釣られて腰を上げたユーグレイに、彼は言葉少なに「戻ろ」とだけ言った。
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