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第二章
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しおりを挟むその日も十八時に図書室を出て、無駄にゆっくり歩いて帰宅した。
本当は英語の課題をしようと思ったのに、楓先輩とのやりとりを思い返してはひとり悶えて、なにも手につかなかった。
ずっと遠くで見ていただけの先輩と、連絡先を交換して、一緒にテスト勉強をする約束までしてしまった。
もちろんふたりきりじゃないし、目的は京ちゃんと日野先輩の距離を縮めるためだけど、それでもドキドキと胸が高鳴って仕方ない。どう頑張っても頬が緩み、つい舞い上がってしまいそう。
けれど、家が近付いてくると徐々にその気持ちは萎んでいき、さっきまでとは違った意味で息苦しくなってくる。
「ただいま」
玄関の扉を開けながらそう言うのは、幼い頃からの習慣。家に誰がいようがいまいが、必ず帰ってきたらただいまと言う。
そのまま目の前の階段をのぼって二階に上がってしまえば、誰とも会わずに自分の部屋へ行けるけど、そんなことをするのは反抗期の子供っぽい気がして一度もしたことがない。
階段の下にスクールバッグを置いて洗面所へ行き、手洗いとうがいをしてリビングに顔を出すと、栗色の柔らかそうな髪をシュシュで纏め、シンプルなエプロンをつけた女性がこちらを見て微笑んだ。
「おかえりなさい」
彼女は真央さん。お父さんの再婚相手で、私の義理の母になった人。
今年の三月、私の中学卒業と同時に再婚し、高校進学とともに引っ越して、この家で父と彼女と私の三人で暮らしている。
実の母は、私が小学校三年生の頃に病気で亡くなった。
膵臓がんと診断された頃には手遅れで、最終的には身体のいろんなところに転移し、手術もできないままに逝ってしまった。
お母さんが亡くなった時の記憶は、正直ほとんどない。
そのくらい悲しくて苦しくて、日常というよりは世界が崩れてしまったような感覚だった。
喪失感よりも恐怖が先に立ち、もうこの世に大好きなお母さんがいないのだという現実を、小学校三年生の私は受け止めきれなかった。
毎日声が枯れるまで泣き、帰ってきてほしいと必死に願った。
誕生日プレゼントも、サンタさんからのプレゼントも、お年玉もいらない。ちゃんと宿題をするし、テストも百点取れるように頑張るし、家事のお手伝いだってする。誰よりもいい子になる。
だから神様、お母さんを私に返して……!
ひたすらにそう祈り続けたけれど、願いが聞き届けられることはなく、母は天国の住人となった。
お母さんはハッキリ物を言うサバサバした性格で、儚げな美人顔に似合わず豪快な笑い方をする人だった。
友達も多かったし、母の周りはいつも明るくて、まるで向日葵のような人だと思う。
だからきっと、天国でもたくさんの人に囲まれて幸せに暮らしているに違いない。大好きだったコーヒーを飲みながら、きっと私たちを見守ってくれているはずだ。
「洋司さん、今日は遅くなるんだって。先に夕飯食べちゃおうか」
「……うん。カバン置いて着替えてきます」
洋司さん、と鈴の鳴るような声で父を呼ぶ彼女がふわりと微笑む。なるべく直視しないようにして踵を返した。
そして、すぐに罪悪感に胸が軋む。
今の、感じ悪かったかな。ふたりきりの夕食だと知って、少し声が低くなってしまったかもしれない。
リビングにはキッチンから漂うデミグラスソースのいい匂いが充満していて、否が応でも食欲をそそられる。
彼女はとても料理上手で、なにを食べても美味しい。夕食はもちろん、毎日の朝食もお弁当も嫌な顔ひとつしないで手作りしてくれる。
血の繋がらない連れ子の私を疎んだりしないし、それどころかいつもにこにこ笑って接してくれる。
わかってる。悪い人じゃない。むしろとってもいい人だと思う。
四十歳のお父さんより八つ年下の三十二歳と聞いているけれど、二十代と言われてもわからないほど若く、服装もとてもおしゃれ。
いつも私より先に起きていて、朝からメイクもバッチリだし、髪もスタイリングされている。だらけた姿なんて見たことがない。
きっと今の関係じゃなければ、理想の大人の女性として憧れを抱くほど、見た目も中身も素敵な人だと、心のどこかではちゃんと理解している。
だけど、私は彼女を〝お母さん〟とは呼べないし、呼びたくない。いまだにお父さんとの再婚を素直に祝福できないままだ。
幸せそうに『結婚を前提にお付き合いをしてるんだ』と彼女を紹介された時も、反対だと声を出せなかっただけで、賛成とは言わなかった。
お母さんが亡くなって約七年。ずっとお父さんとふたりで生きてきた。寂しさも、悲しさも、やるせなさも、全部一緒に乗り越えてきた。
家事が壊滅的に下手なお父さんのために、必死に料理を覚えたし、洗濯も掃除も頑張った。
学校から帰ったらまず学校に行く前に干した洗濯物を取り込み、スーパーへ行く。夕飯と明日の朝ごはん用の材料を買い、夕食の下ごしらえをしてからお風呂洗い。
お父さんが帰宅してから夕食の仕上げをして一緒に食べて、そのあとに宿題をする。
寝る前にはお父さんのワイシャツのアイロンをかけたり、季節の変わり目にはスーツや制服をクリーニングに出したり、慣れない家事にてんてこ舞いになりながら生活していた。
当然、友達と遊んだりする暇もなく、やるべきことに追われる日々。
お父さんは「家事なんてほどほどでいいんだよ」なんて言っていたけど、外食やお弁当ばかりの食事は飽きるし、しわくちゃの制服を着るのも、埃っぽい部屋で暮らすのも嫌だった。
だから家事を頑張って覚えたし、私を育てるためにお母さんを亡くした悲しみから立ち上がり、働いてくれているお父さんの役に立ちたかった。
天国から見守っているお母さんを心配させないよう、頑張って一生懸命笑って生きてきたのに。
お父さんがお母さんを想ってた気持ちはどこに行っちゃったの? もう好きじゃないの? どうして他の人と結婚するの……?
胸の奥でグルグルと渦巻く感情を吐き出せないまま、ずっと持て余している。
考えれば考えるほど苦しくて、お母さんを思うとやりきれない。
子供心にも仲のいい両親だった。互いを「洋ちゃん」「亜紀ちゃん」と呼び、私の前でも平気でハグするような夫婦だった。そんなふたりが大好きで、私もハグをしてもらいにふたりに抱きつきにいったりして……。
お母さんが亡くなった時のお父さんの憔悴ぶりは凄まじく、いつの間にか私のほうが励ます側に回ったりもしていたのに。
どうして再婚なんてしたんだろう。お母さんを嫌いになったり、離婚したりしたわけじゃないのに……。
鬱々とした気持ちを吐き出すように大きく深呼吸をして、スクールバッグを拾って階段をのぼる。自分の部屋に入るとようやくホッとした。
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