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第二章 それぞれの出会い
2-17 アリス ~キティホークでの催事 その二(共演)
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ケイシーは壇上の中央に立ってマイクを握った。
「演奏の前に、ご来場の皆様に一言お礼を申し上げ、同時に告白しなければならないことが御座います。
演奏までの暫しの間、私にその時間をお与えください。
音楽家は、常に至高の音を目指して日々精進いたします。
その精進を怠った時は、音楽家として失格の烙印を押されるべきでしょう。
私は、10代後半で、ある意味でこの世界の頂点に立ってしまった男です。
それ以来、自分の中では精進を怠ったつもりなど決してなかったと思います。
毎年出てくる若手演奏家の音を聞き、それら若手の精進振りも拝見して参りました。
ある意味で確信にも似た慢心が御座いました。
ここ当分は私の座を脅かす者は現れないと。
おそらく皆様方が御承知のアルショークニストの中にそうした存在が居ないのは事実であり、決して私の傲慢ではないのです。
ですが、私はこの船の中で私をはるかに凌駕する天才音楽家に出会ってしまったのです。
私はこのような客船に招かれて演奏をすることもままございます。
その都度音楽家の卵がどの程度の技量を持っているかを確かめるのが習性になっているのです。
船が出航した翌日からの音楽室詣ででもこれはという音楽家の卵には出会えませんでした。
船が出航して1週間目、これ以上は無駄かなと思いつつも音楽室に足を向けていました。
いつものように音楽室に出向いて、普段と違う若い人二人がさほど大きくは無い音楽室に入って行くのに気づきました。
美男美女のとても似合いのカップルでした。
そうした場合は、ほとんど例外なく音楽家ではなく、単にデートの場所で音楽室を使うことが多いのです。
そうは思いながらも、他の音楽室を占めている人たちの力量は判っておりましたから、ダメで元々という気持ちで、彼らの音楽室の二階にある席に腰を下ろして彼らの演奏を拝聴したのです。
若い女性はヤーヴェロンを、若い男性はセロディエスを手にしていました。
そのいずれもが音楽室の受付で借りた物であり、それだけでも大した演奏にはならないだろうと思っておりました。
バリ・アルショークのような大きな楽器は運ぶのが大変ですから、止むを得ず現地で一番いいものを調達するのですが、ヤーヴェロンやセロディエスならば音楽家たる者自前で相応の楽器を持たなくては演奏になりません。
そうしてまた、一方でヤーヴェロンとセロディエスと言う組み合わせは非常に稀なのです。
私はこれまでそうした二つだけの組み合わせでの演奏を聞いたことが無いのです。
何とも素人は無茶をする。
そう思ったのは事実です。
しかしながら、二人が演奏を始めた時、この二つの楽器が何とも心地よいメロディを奏でたのであります。
曲はヤーヴェロンの独奏曲で「サルマリス」、従ってセロディエスの楽譜は無い筈なのです。
ヤーヴェロスの奏者は素人としてはかなりの腕前、私どもがお上手と評するランクです。
プロになれるかなれないかの境目にあるので、ある意味でプロの演奏家になる可能性がある段階なのです。
しかしながらかなりの練習をしなければその上のランクには行けない腕であり、その99%はそれ以上の上達は望めない段階でもあるのです。
但し、セロディエスの奏者は正しくプロの腕前でした。
しかしながら彼の顔に或いは演奏に、記憶は無いのでアマチュアの筈なのです。
彼が演奏するのは伴奏に過ぎないのにヤーヴェロスの音色を際立たせ、素晴らしい重奏に仕上げていました。
無論楽譜などないのですから彼の編曲であることは確かです。
少なくとも私はヤーヴェロスとセロエディスの重奏でサルマリスを聞いたことは一度もありません。
彼らは、そのサルマリスに続いていくつかのヤーヴェロスの独奏曲を演奏してくれました。
勿論、セロエディスとの二重奏です。
驚くべきは、僅かに一時間ほどの練習の合間で、ヤーヴェロスの奏者の技量がかなり上がっていたのです。
正直申し上げて、これは有り得ないことだと思いました。
ヤーヴェロスの師匠が付いて一時間の稽古であればそれが仮に稀なことであったとしても頷けます。
しかしながら彼ら二人は重奏を演じていただけなのです。
それだけで壁を乗り越えられるものなら、これまで多くの音楽家の卵達がこの世界を諦めて去る必要など無かった筈なのです。
私の頭が、耳がおかしくなったのではと一瞬疑いました。
彼らは次の日は音楽室には来てはくれず、私は意気消沈していました。
もう一度彼らの演奏を聞きたかったのです。
その翌日彼らが音楽室に現れました。
女性はヤーヴェロン、男性はダルフェルを手にしていました。
その二日前にはセロディエスを手にしていた男性に違いないのです。
複数の楽器を演奏する人もいないわけではないのですが、音楽家と自称する人にはそうした人は居りません。
ですから、これは何かの間違いではと思いました。
ですが私の考えはまたも裏切られたのです。
彼らの重奏はまたもヤーヴェロンの独奏曲でありながら、ダルフェルも見事な腕で追随して素晴らしい音を奏でたのです。
ヤーヴェロン奏者の腕は更に上達していました。
彼らは奇数日の午前11時から1時間だけ音楽室で二重奏を楽しみ、二人連立って昼食に行くのです。
そうして転機が訪れたのは11日目、彼らの演奏では三日目のことです。
彼が選んだ楽器はバリ・アルショークでした。
彼女が持つのはいつものヤーヴェロンですが、最初の5分間はバリ・アルショークの調律で失われました。
5つほどの鍵盤の音がほんのわずかずれていたのです。
本職の調律師でもあれほど短い時間に調律を済ませるのは見たことが有りません。
そうして彼らは何と楽譜を読み始めたのです。
彼が言いました。
『聞いたことも弾いたことも無いけれど、これはいい曲だし、ヤーヴェロンにも合うと思うよ。
楽譜を読んで、イメージを膨らませてご覧。』
楽譜を読むのにおよそ10分、それから何事か二人で話しながら再度読み込んでいました。
そうして二人は、初見で重奏を始めたのです。
それはラスバンのクレリア・イマージュでした。
超絶技巧のラスバンでしか成しえないとされているバリ・アルショークの独奏曲です。
彼はそれを見事に弾きこなし、あり得るはずのないヤーヴェロンとの重奏を見事に演じていたのです。
彼女の腕はそれに見合うだけの腕に達していました。
感動に打ちのめされるほど見事な演奏でした。
更に彼らはもう一曲を披露して、時間になり去っていきました。
その曲はガザンのハルディオ行進曲、私が17歳の時に挑戦し、見事にコンクールで優勝を飾ったものの、実のところ失敗の演奏でした。
それ以来、私は一度も演奏したことの無い曲なのです。
彼らはそれを見事な演奏で締めくくりました。
私は、その日から一日おきに彼らの演奏を欠かさずに聞きました。
そうして私の前に遂に高い壁が聳え立っていることに気づいたのです。
彼らこそ百年に一人出るかどうかの天才です。
それが二人も同じ船に乗り合わせ、私に至高の音楽を聞かせてくれた。
私はそれから暫し虚脱していたようです。
そうして彼らへの対抗心故にがむしゃらに稽古に励みました。
これほど稽古にまい進したのは久しくなかったことです。
そうして一つ壁を乗り越えたように思えるのです。
私は人を介して彼らに共演してほしいとお願いをいたしました。
実のところは、仮に断られたならば、即座に引退するつもりでいたのです。
幸いにも彼らに私の願いが聞き届けられ、演奏会の最後の二曲を共演してくれることが決まりました。
今からの私の演奏はその前座で有ります。
私が漸くに壁を乗り越えたその音を聞いていただきたい。
それは彼らと同じ舞台に立つために乗り越えなければならない壁であったと信じています。
前置きが長くなりました。
私が見つけた新境地、是非に見届けて頂きたいと切に祈るものであります。」
ケイシーは、マイクを放して、バリ・アルショークの席に腰を降ろした。
それから1時間半、ケイシー・ドグマンの見事な演奏がホールを満たした。
素晴らしい演奏であり、聴衆は演奏が終わるたびに惜しみない拍手をした。
ケイシーが立ち上がり、マイクに着いた。
「本日の演奏も後二曲を残すばかりとなりました。
こよなく音楽を愛する皆様に改めてご紹介申し上げます。
若き天才のお一人、アリス・ゲーブリング嬢、それに今一人マイク・ペンデルトン氏、どうぞ、舞台にお越し願います。」
スポットライトが立ち上がった二人を照らした。
聴衆は凛々しい若い男と、真っ赤なドレスの若い娘を見た。
どちらも衣装がとても似合うモデルの様でもある。
二人は連立って壇上へ上がった。
「さて、演目は「マリエルの恋人」と「四季の海」と決まっているのですが、アリス嬢は無論ヤーヴェロンとして、マイク君はどの楽器を選ぶのか私は知らないのです。
リハーサルもしておりません。
彼らには昨日午後8時頃に二つの曲の譜面を渡しただけであります。
無論、いずれの曲もバリ・アルショークの独奏曲であり、他の楽器の譜面など有りません。
しかし、彼らならばその譜面だけで見事に私の演奏に合わせてもらえると信じて止まないものであります。
マイク君、楽器は何を使うか教えてくれますか?」
「一曲目『マリエルの恋人』にはセロエディスを、『四季の海』にはダルフェルを使いたいと思います。」
ケイシーは大きく頷いた。
「出だしは、バリ・アルショークでいいかね。」
「はい、それに合わせるようにいたします。」
またも頷いて、ケイシーはバリ・アルショークについた。
その間に二人はケースからヤーヴェロンとセロエディスを取り出して調律を始めた。
二人とも素早く調律を済ませると、ケイシーに合図を送った。
ケイシーが演奏を始めた。
軽やかなボルッカのリズムに乗って、バリ・アルショークの音色が始まるとすぐにヤーヴェロンの高い音色とダルフェルのやや低い柔かな音が絡み合った。
ヤーヴェロンとダルフェルは決してバリ・アルショークの音色を打ち消すものではなく引き立てた。
聴衆は緑の草原に佇む二人の男女を思い浮かべた。
さわさわと心地よい風が吹き、草原の名も無い花々を揺らしている。
まばらな林の木漏れ日が春の温かさを伝えている。
見事な演奏程心に感銘を与えるが、この三重奏は主題の情景を心に描かせるほど鮮明な印象を心に残した。
この種の演目はハッピーエンドに終わることが少ないが、この曲はそれを匂わせて、暖かい心のままで終わっていた。
演奏が終わった時、聴衆はスタンディング・オベイションで見事な演奏を讃えた。
そうして二曲目、マイクはセロディエスを手に取り、素早く音階を確かめて、ケイシーに合図を送った。
冬の海から始まる四季の海は、長い曲である。
終了までに20分程掛かるのである。
演奏が始まると聴衆はその音楽に酔いしれた。
四季の海はクラシックでは一番聞きなれた音楽である。
しかし、今彼らが聞いているのは全く新しい曲想にさえ思えるのである。
バリ・アルショークの旋律は四季の海そのものである。
荒涼とした冬の海、心地よい風で漣が寄せる春の海、強い日差しを浴びた夏の砂浜、木枯らしが吹き始める寂しい海岸がそのイメージである。
だが、ヤーヴェロンとセロディエスの音色がその中に新たな生命の育みを描いていた。
冷たい冬の荒れた海の底にも多数の生命が育まれ、たくましく生きていた。
春の産卵の時期には多くの生命が生まれ出ていた。
暑い夏の盛りに大海を移動する魚群を垣間見た。
枯葉が舞う秋に、川をさかのぼる鮭の魚影を垣間見ていた。
これまでのバリ・アルショークの独奏では決して見えなかったもの、生きている四季の海が聴衆に大いなる感動を引き起こしていた。
元の曲想はそのままに、全く新たな感慨が吹き込まれていたのである。
演奏が終えた時、奇妙なほどホールは静まり返っていたが、次の瞬間、拍手の嵐に見舞われていた。
壇上ではケイシーが立ち上がって二人の若者を順次抱きしめていた。
ケイシー自身も涙を溢れさせていた。
「演奏の前に、ご来場の皆様に一言お礼を申し上げ、同時に告白しなければならないことが御座います。
演奏までの暫しの間、私にその時間をお与えください。
音楽家は、常に至高の音を目指して日々精進いたします。
その精進を怠った時は、音楽家として失格の烙印を押されるべきでしょう。
私は、10代後半で、ある意味でこの世界の頂点に立ってしまった男です。
それ以来、自分の中では精進を怠ったつもりなど決してなかったと思います。
毎年出てくる若手演奏家の音を聞き、それら若手の精進振りも拝見して参りました。
ある意味で確信にも似た慢心が御座いました。
ここ当分は私の座を脅かす者は現れないと。
おそらく皆様方が御承知のアルショークニストの中にそうした存在が居ないのは事実であり、決して私の傲慢ではないのです。
ですが、私はこの船の中で私をはるかに凌駕する天才音楽家に出会ってしまったのです。
私はこのような客船に招かれて演奏をすることもままございます。
その都度音楽家の卵がどの程度の技量を持っているかを確かめるのが習性になっているのです。
船が出航した翌日からの音楽室詣ででもこれはという音楽家の卵には出会えませんでした。
船が出航して1週間目、これ以上は無駄かなと思いつつも音楽室に足を向けていました。
いつものように音楽室に出向いて、普段と違う若い人二人がさほど大きくは無い音楽室に入って行くのに気づきました。
美男美女のとても似合いのカップルでした。
そうした場合は、ほとんど例外なく音楽家ではなく、単にデートの場所で音楽室を使うことが多いのです。
そうは思いながらも、他の音楽室を占めている人たちの力量は判っておりましたから、ダメで元々という気持ちで、彼らの音楽室の二階にある席に腰を下ろして彼らの演奏を拝聴したのです。
若い女性はヤーヴェロンを、若い男性はセロディエスを手にしていました。
そのいずれもが音楽室の受付で借りた物であり、それだけでも大した演奏にはならないだろうと思っておりました。
バリ・アルショークのような大きな楽器は運ぶのが大変ですから、止むを得ず現地で一番いいものを調達するのですが、ヤーヴェロンやセロディエスならば音楽家たる者自前で相応の楽器を持たなくては演奏になりません。
そうしてまた、一方でヤーヴェロンとセロディエスと言う組み合わせは非常に稀なのです。
私はこれまでそうした二つだけの組み合わせでの演奏を聞いたことが無いのです。
何とも素人は無茶をする。
そう思ったのは事実です。
しかしながら、二人が演奏を始めた時、この二つの楽器が何とも心地よいメロディを奏でたのであります。
曲はヤーヴェロンの独奏曲で「サルマリス」、従ってセロディエスの楽譜は無い筈なのです。
ヤーヴェロスの奏者は素人としてはかなりの腕前、私どもがお上手と評するランクです。
プロになれるかなれないかの境目にあるので、ある意味でプロの演奏家になる可能性がある段階なのです。
しかしながらかなりの練習をしなければその上のランクには行けない腕であり、その99%はそれ以上の上達は望めない段階でもあるのです。
但し、セロディエスの奏者は正しくプロの腕前でした。
しかしながら彼の顔に或いは演奏に、記憶は無いのでアマチュアの筈なのです。
彼が演奏するのは伴奏に過ぎないのにヤーヴェロスの音色を際立たせ、素晴らしい重奏に仕上げていました。
無論楽譜などないのですから彼の編曲であることは確かです。
少なくとも私はヤーヴェロスとセロエディスの重奏でサルマリスを聞いたことは一度もありません。
彼らは、そのサルマリスに続いていくつかのヤーヴェロスの独奏曲を演奏してくれました。
勿論、セロエディスとの二重奏です。
驚くべきは、僅かに一時間ほどの練習の合間で、ヤーヴェロスの奏者の技量がかなり上がっていたのです。
正直申し上げて、これは有り得ないことだと思いました。
ヤーヴェロスの師匠が付いて一時間の稽古であればそれが仮に稀なことであったとしても頷けます。
しかしながら彼ら二人は重奏を演じていただけなのです。
それだけで壁を乗り越えられるものなら、これまで多くの音楽家の卵達がこの世界を諦めて去る必要など無かった筈なのです。
私の頭が、耳がおかしくなったのではと一瞬疑いました。
彼らは次の日は音楽室には来てはくれず、私は意気消沈していました。
もう一度彼らの演奏を聞きたかったのです。
その翌日彼らが音楽室に現れました。
女性はヤーヴェロン、男性はダルフェルを手にしていました。
その二日前にはセロディエスを手にしていた男性に違いないのです。
複数の楽器を演奏する人もいないわけではないのですが、音楽家と自称する人にはそうした人は居りません。
ですから、これは何かの間違いではと思いました。
ですが私の考えはまたも裏切られたのです。
彼らの重奏はまたもヤーヴェロンの独奏曲でありながら、ダルフェルも見事な腕で追随して素晴らしい音を奏でたのです。
ヤーヴェロン奏者の腕は更に上達していました。
彼らは奇数日の午前11時から1時間だけ音楽室で二重奏を楽しみ、二人連立って昼食に行くのです。
そうして転機が訪れたのは11日目、彼らの演奏では三日目のことです。
彼が選んだ楽器はバリ・アルショークでした。
彼女が持つのはいつものヤーヴェロンですが、最初の5分間はバリ・アルショークの調律で失われました。
5つほどの鍵盤の音がほんのわずかずれていたのです。
本職の調律師でもあれほど短い時間に調律を済ませるのは見たことが有りません。
そうして彼らは何と楽譜を読み始めたのです。
彼が言いました。
『聞いたことも弾いたことも無いけれど、これはいい曲だし、ヤーヴェロンにも合うと思うよ。
楽譜を読んで、イメージを膨らませてご覧。』
楽譜を読むのにおよそ10分、それから何事か二人で話しながら再度読み込んでいました。
そうして二人は、初見で重奏を始めたのです。
それはラスバンのクレリア・イマージュでした。
超絶技巧のラスバンでしか成しえないとされているバリ・アルショークの独奏曲です。
彼はそれを見事に弾きこなし、あり得るはずのないヤーヴェロンとの重奏を見事に演じていたのです。
彼女の腕はそれに見合うだけの腕に達していました。
感動に打ちのめされるほど見事な演奏でした。
更に彼らはもう一曲を披露して、時間になり去っていきました。
その曲はガザンのハルディオ行進曲、私が17歳の時に挑戦し、見事にコンクールで優勝を飾ったものの、実のところ失敗の演奏でした。
それ以来、私は一度も演奏したことの無い曲なのです。
彼らはそれを見事な演奏で締めくくりました。
私は、その日から一日おきに彼らの演奏を欠かさずに聞きました。
そうして私の前に遂に高い壁が聳え立っていることに気づいたのです。
彼らこそ百年に一人出るかどうかの天才です。
それが二人も同じ船に乗り合わせ、私に至高の音楽を聞かせてくれた。
私はそれから暫し虚脱していたようです。
そうして彼らへの対抗心故にがむしゃらに稽古に励みました。
これほど稽古にまい進したのは久しくなかったことです。
そうして一つ壁を乗り越えたように思えるのです。
私は人を介して彼らに共演してほしいとお願いをいたしました。
実のところは、仮に断られたならば、即座に引退するつもりでいたのです。
幸いにも彼らに私の願いが聞き届けられ、演奏会の最後の二曲を共演してくれることが決まりました。
今からの私の演奏はその前座で有ります。
私が漸くに壁を乗り越えたその音を聞いていただきたい。
それは彼らと同じ舞台に立つために乗り越えなければならない壁であったと信じています。
前置きが長くなりました。
私が見つけた新境地、是非に見届けて頂きたいと切に祈るものであります。」
ケイシーは、マイクを放して、バリ・アルショークの席に腰を降ろした。
それから1時間半、ケイシー・ドグマンの見事な演奏がホールを満たした。
素晴らしい演奏であり、聴衆は演奏が終わるたびに惜しみない拍手をした。
ケイシーが立ち上がり、マイクに着いた。
「本日の演奏も後二曲を残すばかりとなりました。
こよなく音楽を愛する皆様に改めてご紹介申し上げます。
若き天才のお一人、アリス・ゲーブリング嬢、それに今一人マイク・ペンデルトン氏、どうぞ、舞台にお越し願います。」
スポットライトが立ち上がった二人を照らした。
聴衆は凛々しい若い男と、真っ赤なドレスの若い娘を見た。
どちらも衣装がとても似合うモデルの様でもある。
二人は連立って壇上へ上がった。
「さて、演目は「マリエルの恋人」と「四季の海」と決まっているのですが、アリス嬢は無論ヤーヴェロンとして、マイク君はどの楽器を選ぶのか私は知らないのです。
リハーサルもしておりません。
彼らには昨日午後8時頃に二つの曲の譜面を渡しただけであります。
無論、いずれの曲もバリ・アルショークの独奏曲であり、他の楽器の譜面など有りません。
しかし、彼らならばその譜面だけで見事に私の演奏に合わせてもらえると信じて止まないものであります。
マイク君、楽器は何を使うか教えてくれますか?」
「一曲目『マリエルの恋人』にはセロエディスを、『四季の海』にはダルフェルを使いたいと思います。」
ケイシーは大きく頷いた。
「出だしは、バリ・アルショークでいいかね。」
「はい、それに合わせるようにいたします。」
またも頷いて、ケイシーはバリ・アルショークについた。
その間に二人はケースからヤーヴェロンとセロエディスを取り出して調律を始めた。
二人とも素早く調律を済ませると、ケイシーに合図を送った。
ケイシーが演奏を始めた。
軽やかなボルッカのリズムに乗って、バリ・アルショークの音色が始まるとすぐにヤーヴェロンの高い音色とダルフェルのやや低い柔かな音が絡み合った。
ヤーヴェロンとダルフェルは決してバリ・アルショークの音色を打ち消すものではなく引き立てた。
聴衆は緑の草原に佇む二人の男女を思い浮かべた。
さわさわと心地よい風が吹き、草原の名も無い花々を揺らしている。
まばらな林の木漏れ日が春の温かさを伝えている。
見事な演奏程心に感銘を与えるが、この三重奏は主題の情景を心に描かせるほど鮮明な印象を心に残した。
この種の演目はハッピーエンドに終わることが少ないが、この曲はそれを匂わせて、暖かい心のままで終わっていた。
演奏が終わった時、聴衆はスタンディング・オベイションで見事な演奏を讃えた。
そうして二曲目、マイクはセロディエスを手に取り、素早く音階を確かめて、ケイシーに合図を送った。
冬の海から始まる四季の海は、長い曲である。
終了までに20分程掛かるのである。
演奏が始まると聴衆はその音楽に酔いしれた。
四季の海はクラシックでは一番聞きなれた音楽である。
しかし、今彼らが聞いているのは全く新しい曲想にさえ思えるのである。
バリ・アルショークの旋律は四季の海そのものである。
荒涼とした冬の海、心地よい風で漣が寄せる春の海、強い日差しを浴びた夏の砂浜、木枯らしが吹き始める寂しい海岸がそのイメージである。
だが、ヤーヴェロンとセロディエスの音色がその中に新たな生命の育みを描いていた。
冷たい冬の荒れた海の底にも多数の生命が育まれ、たくましく生きていた。
春の産卵の時期には多くの生命が生まれ出ていた。
暑い夏の盛りに大海を移動する魚群を垣間見た。
枯葉が舞う秋に、川をさかのぼる鮭の魚影を垣間見ていた。
これまでのバリ・アルショークの独奏では決して見えなかったもの、生きている四季の海が聴衆に大いなる感動を引き起こしていた。
元の曲想はそのままに、全く新たな感慨が吹き込まれていたのである。
演奏が終えた時、奇妙なほどホールは静まり返っていたが、次の瞬間、拍手の嵐に見舞われていた。
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