東京ラビリンス

瑞原唯子

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32. おかえり

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 負傷した武蔵は橘家に運ばれた。
 あらかじめ剛三には電話で概況を連絡してあり、到着したときにはすでに医師が手配されていた。橘家とは先々代からの古い付き合いで、腕も口の堅さも信頼できる田辺という開業医である。年の頃は悠人よりも幾分か上だろうか。澪と遥は何度か風邪を診てもらった程度だが、亡き祖母の瑞穂が大いに世話になったことは知っていた。
 田辺医師はひとまずの処置を済ませてから、関係者の集まる廊下に顔を出した。
 一般向けと思われる簡素な説明によれば、弾は貫通しており、臓器に損傷もないが、出血量が多いので今すぐ輸血が必要とのことである。澪はパッと勢いよく前に進み出た。
「武蔵の血液型は?!」
「O型です」
「私もO型です!」
 自分の胸に血まみれの手を当てて訴える。今この場に集まっている人間の中で、血液型のわからないメルローズを除けば、O型は澪と遥だけである。武蔵に自分の血液を分けられることに、彼を救えることに、まだその段階ではないが少しだけ安堵した。しかし――。
「待って」
 背後から遥が口を挟んだ。
「僕らの血液で大丈夫なのかな。メルローズが同じ血液型なら、メルローズの方がいいと思う」
 事情を知らない田辺医師の手前ゆえか、理由は述べなかったが、その意味するところはすぐにわかった。武蔵たちは自分たちと遺伝子的にわずかながら相違がある。血液型が同じだからといって輸血が可能という保証はどこにもない。その点、同種のメルローズであれば問題はないはずだ。きょとんとした小さな少女に一斉に皆の視線が注がれる。
「そんな小さな子供一人ではとても足りませんよ。なぜ輸血を躊躇っているのですか? 澪さんや遥くんに何か問題でもあるのですか?」
 田辺医師は怪訝に眉をひそめた。
 しかし、さすがに武蔵の素性を説明するのは憚られ、誰もその問いに答えようとはしなかった。剛三でさえもどうすべきか決めかねているようだ。その隣で、悠人も腕を組みながら真剣に黙考していたが、やがて思いついたように田辺医師に尋ね返す。
「輸血をしなければどうなりますか?」
「命を捨てるようなものですよ」
 その声には、呆れとも怒りともつかない声音が滲んでいた。
 遥は軽く挙手をしながらぶっきらぼうに進み出る。
「じゃあ、僕の血を使って」
「私の血もお願いします!」
 澪も負けじと一歩踏み出して隣に並んだ。しかし、遥は冷ややかに一瞥して言い捨てる。
「澪は駄目だよ」
「どうして?!」
 もし輸血しか手段がないのであれば、同じ血液型を持つ者として、血を提供するのは当然のことである。なのに、遥自身はそう申し出ているにもかかわらず、澪には許さないなどわけがわからない。追及の目を向けるが、彼は視線を逸らせたまま答えようとしなかった。
「一人では足りません。できれば、お二人にお願いします」
 医師としての使命を感じさせる強い口調で、田辺医師は言う。一刻も早く輸血しなければならないことは、医師でない澪でも十分に理解している。遥が何と言っても自分の血を使ってもらおう、そう決意を固めて田辺医師に振り向いた、そのとき――。
「少しだけ時間をください」
 悠人が後ろから澪の手をとって、おもむろにみんなから少し離れたところへ誘導した。いったい何だっていうの――澪は反発して腕を振り払おうとするが、彼は真剣な面持ちで覗き込んで声をひそめる。
「もしかしたら、武蔵は澪や遥の血を受け付けないかもしれない。輸血することで彼が死ぬかもしれないんだよ。自分の血で彼を死なせてしまう、その現実を受け入れるだけの覚悟はあるの?」
「……助けられる可能性があるなら、それに懸けます」
 正直、そこまでの覚悟をしていたわけではなかった。悠人に言われて少し怖くなったのも事実だ。けれど、逃げ出して彼を死なせてしまっては後悔してもしきれない。まず輸血をしないことには助かる可能性さえ潰えるのだ。震えそうになる手をグッと握り締め、強い意志を秘めた瞳で見つめ返す。
 悠人は微妙に顔を曇らせながらも、頷いてくれた。
「よろしくお願いします」
 田辺医師に振り向いて真摯にそう言うと、澪の肩をそっと押して送り出す。
 遥は眉をひそめていたが、悠人の決定に異を唱えることはなかった。

 二人は許容量いっぱいまで採血され、武蔵に輸血された。
 その後、田辺医師が付きっきりで経過を観察していたが、やがて容態は落ち着き、もう心配はないだろうという診断が下された。今は薬の影響で眠っているが、そのうち意識は戻るとのことである。それでも澪はベッド脇から離れられなかった。不安のためか息苦しさを感じながらも、椅子に座ったまま彼の寝顔をじっと見守る。
「澪……」
 悠人の大きくあたたかな手が、澪の肩に置かれた。
「シャワーを浴びて着替えておいで。その格好では、彼が目覚めたときに驚くだろう?」
「……そうですね」
 採血のときに腕と手だけは洗ったが、制服のシャツもスカートも血まみれで、顔にも脚にも血がこびりついたままである。もう乾いているので血みどろという感じではないが、それでも尋常な姿とはとてもいえないだろう。武蔵のことが気がかりで離れがたくはあったが、もう大丈夫という田辺医師の言葉を信じて立ち上がる。少し、くらりと目眩がした。
「僕も行く。血を抜いたあとだし、澪を一人にしておけない」
 遥は誰にともなくそう宣言すると、澪の手をしっかりと握って先導するように歩き出した。戸惑いつつも、澪は引かれるまま素直について歩く。視界の端には物言いたげに立ちつくす誠一が映っていたが、彼はただ見送るだけで、澪が部屋を出て行くまで一度も口を開くことはなかった。

 シャワーを浴びて服を着替えたあと、遥とともにダイニングルームで食事をした。武蔵と朝食をとってから何も口にしていなかったことに、ダイニングルームに連れてこられてようやく気がついた。だが、それでもあまり食欲はなく、遥を心配させない程度に口に運んだだけだった。
 部屋に戻っても、武蔵はまだ目覚めていなかった。
 澪は再びベッド脇の椅子に腰掛ける。穏やかな顔で眠る武蔵を見ていると心配になり、布団の中に手を差し入れ、彼の大きな手を両手で包み込むように握った。顔色はあまり良くなかったが、手はいつものように温かい。そうやって彼の生存を実感していないと、漠然とした不安に心が押しつぶされそうだった。
 遥も一緒にこの部屋に来ていた。どこからか持ってきた椅子を澪の斜め後方に置いて座っている。武蔵というより澪を気にして見守っているようである。悠人と誠一はともに奥のソファに座っていたが、小声で何かを話し合うと、二人で連れ立って部屋を出て行った。澪たちと入れ替わりで食事に行ったのかもしれない。出て行く間際に遥に耳打ちをしていたが、澪には聞き取ることができなかった。
 ふと、握っていた手がピクリと動く。
 澪はハッと顔を上げて武蔵に目を向けた。微かに震える瞼がゆっくりと上がっていき、鮮やかな青の瞳がぼんやりと澪を捉える。瞬間、澪の心臓はドクンと飛び出さんばかりに跳ねた。ガタリと腰を上げて身を乗り出しながら、彼の手をぎゅっと握りしめる。
「武蔵っ! わかる?!」
「どこだ、ここは……」
「ウチだよ、橘の家」
 彼の手を胸元に抱き込みながら、まだ虚ろな瞳を覗き込む。長い黒髪がさらりと彼の頬を掠めた。
「お医者さんはもう大丈夫だって。助かったんだよ?」
「感謝してよ。僕と澪がだいぶ血をあげたんだから」
 背後で立っていた遥が、腕を組んでぶっきらぼうに言い放つ。武蔵はフッと薄く笑った。
「なるほど、おまえらが俺の命の恩人ってわけか……」
「もっとも、僕らの血で大丈夫なのか保証はないけどね」
「ああ、おまえらとは生物学的に少し違うんだったな」
 そう言ったあと、急にきょろきょろと視線を動かして部屋を見回した。
「メルローズは?」
「篤史が他の部屋で寝かせてる。連れてくる?」
「いや、そのまま寝かせといてやってくれ」
 遥の答えに安堵したようにそう言い、天井を見つめながら少し目を細める。
「大使館の連中は?」
「追って来てないよ」
 今度は澪が答えた。すぐに遥が補足する。
「あちらも事を大きくしたくないだろうし、大使館の外で強引な真似は出来ないよね。でも、橘の人間であることは知られてるから、用があればここに来るはずだよ。今のところは関係者らしき人物は来てないけど……ねぇ、いったい何があったの?」
 帰ってからまだ誰にも何があったのか訊かれていなかった。武蔵は意識をなくして話せる状態ではなかったし、澪もショックでそれどころではなかったので、配慮してくれていたのだろう。澪は助けを求めるように武蔵に目を向けると、彼は小さく頷き、ベッドで仰向けになったまま静かに話し出す。
「橘美咲はメルローズを俺に返すと言ったが、大使館の連中はそれを許さなかった。簡単にいえばそれだけだ。ただ、実験に不適格なことが判明したから、という橘美咲が口にした理由は嘘だ。大使館の連中もそれがわかったから取り戻そうとしたんだろう。メルローズの体は、人為的な作用によるせいか不安定だが、すでに大きな力を蓄えられるようになっている。原理を解明するにせよ、人間兵器を作るにせよ、必要不可欠な実験体のはずだ。なのに、なぜ橘美咲が手放そうとしたのかわからない」
 澪は現実に対処するだけで精一杯だったが、武蔵は論理的に考えを巡らせていたようだ。けれど、故意なのか失念なのか、その話からは美咲の語ったことの一部が抜け落ちている。
「お母さま、ずっとあの子と一緒にいて情が移った、みたいなことを言ってたじゃない」
「まさか。あんな非道な実験を行ってきた奴が、情なんかで大事な実験体を手放すかよ」
「武蔵がそう思うのは仕方ないけど……でも、私は……」
 母親がそこまで非道な人間だと信じたくなかったし、今まで見てきた優しい笑顔が嘘だと思いたくなかった。両手で包み込んでいた武蔵の手を、再びぎゅっと縋るように握りしめる。彼は少し困ったように顔をしかめ、視線を逸らせた。
 遥は気まずい空気をものともせず、淡々と話を進める。
「学生証のことは訊いたの?」
「ああ、はっきりとは答えてくれなかったが、心当たりがあるのは確かなようだな」
 思い返すように答えた武蔵に、澪は神妙に頷く。
「お母さま、その学生証が武蔵のものだって聞いたとたん、急に武蔵と付き合うなとか言い出したんだよね。血が許さない? みたいなわけのわからないことを言って……あ、別に私は武蔵と付き合いたいとかそんなつもりは全然ないんだけど!」
 ふと誤解を招きかねない発言をしてしまったことに気付き、パッと武蔵の手を放して、大袈裟なくらい両手をふるふると横に振りながら釈明する。しかし、彼は怖いくらいに真剣な面持ちで考え込んでいた。
「血って、どういうこと……?」
「橘美咲に訊いたが答えてくれなかった。研究については何も話せないと言ったことから考えると、やはり何かしら研究に関わることではあるようだ。記憶にはないが、血液に関する何らかの実験をされたのかもしれない」
 武蔵は天井を見つめたまま、思考を整理するように答えていく。
 それを聞いた遥は、キッと眉を上げて澪を睨んだ。
「澪も血のこと聞いてたんだったら輸血の前に言ってよ。もし、実験のせいか何なのかわからないけど、澪と武蔵の血液が相容れないって意味だったら、澪が輸血したことで拒絶反応が出るかもしれないんだよ? その危険性が示されていたなら、他のO型の人間を探してきて血を提供してもらうべきだった」
「あ……あのときは、そんなことまで頭がまわらなくて……」
 遥に指摘されるまでは思い至らなかったし、そんなことを考える余裕もなかった。しかし、彼の指摘どおり明らかに自分の落ち度だ――澪の顔から血の気が引いていく。自分の失敗のために、自分の血によって、武蔵が命を落としたらと思うと怖くてたまらない。
 うつむいた澪の頬に、あたたかい大きな手がそっと触れる。
「心配するな、俺は生きてるんだから」
 武蔵は小さく微笑んで澪の頭を抱き込んだ。為すがまま、澪は広い胸に頬を寄せて目を閉じる。穏やかな心音が、あたたかな体温が、恐怖心を落ち着かせてくれるようだった。
「これからどうなるかはわからないが、どんな結果になったとしても、絶対におまえを恨んだりはしないから……それだけはわかってくれ。まあ、おまえの血に殺されるってのも悪くないしな」
「バカなこと言わないで!」
 軽く冗談めかして言う武蔵に、澪は跳ね起きて一喝した。彼の胸に手をついたままキッと睨みつける。その目にはじわりと涙が滲んできた。慌てて再びうつぶせになり胸に顔を埋めるが、ぽろぽろとしずくが零れ落ち、彼の素肌を生ぬるく濡らしていった。
「お願いだから死なないで……死んでほしくないよ……」
「悪かった」
 自らの意思でどうにもならないことを懇願されても困るだろうが、それでも彼は優しかった。泣きながら縋りついて小さく体を震わせる澪を、慈しむように、髪を梳くようにそっと柔らかく撫でていく。
「そうだよな、これから澪ともっと楽しいことするんだ。死んでなんかいられないよな」
「ん……早く、良くなってね……」
 彼の言葉が本気なのか軽口なのか判別はつかなかったが、そんなことはどうでもよかった。生きてさえいてくれればそれでいい。そこに責任逃れの気持ちがないとは云わないが、それ以上に、一月近くともに過ごしてきた彼への情があった。
 澪たちが話している間、遥は二人を見下ろしながら難しい顔で立ちつくしていた。

 その後、念のため田辺医師を呼んで診察してもらったが、もう生命の危機は完全に脱しているとのことだった。もっとも武蔵の素性や実験のことは話していないので、拒絶反応の可能性については調べていないだろう。けれど、今のところはそれらしい兆候も見られず、意識も明瞭ですっかり元気そうである。ただ、それでもしばらくは安静が必要なため、ゆっくり朝まで寝てもらうことになった。
 澪は遥とともに部屋を出ると、大階段の方へ歩き出した。
「澪、これからどうするつもり」
「これからって、何のこと?」
「武蔵と付き合うのかってこと」
「そんなつもりは、ないよ……」
 先ほど付き合うつもりはないと言ったはずだが、信じてもらえなかったのだろうか。予想外の追及に、なんとか冷静を装って答えるものの、その声は少しうわずってしまった。遥も気付いたのか、微かに眉をひそめて不快感を滲ませる。
「誠一はさっき帰ったよ」
「そう」
「絶望的な顔してた」
「…………」
 大使館から戻ってきて以来、ほとんど武蔵のことしか見ておらず、誠一がいたことすらも記憶にない。本当に絶望的な顔をしていたとすれば、彼を顧みなかったことが原因なのだろう。それについては多少の申し訳なさを感じるが、重傷を負った武蔵の方を気にするのは当然だと、どこかしら反発するような気持ちもあった。
 遥は足を止め、静かに言葉を落とす。
「誠一、刑事じゃなくなった」
「えっ?」
「警察庁に出向になったんだって。誠一が橘家の人間と親しくしているのを知って、楠長官が利用しようと引き抜いたみたい。おかげで頑張ってた刑事の仕事も奪われてさ。楠長官には橘家の情報を流すように言われ、師匠には公安の情報を流すように言われ、意図せず二重スパイみたいな状態になってる。つらいだろうね。それでも辞めることなく耐えてきたのは、澪を救出する手がかりを掴むためだったんだよ」
 その話は、砕けた硝子のように澪の胸に鋭く突き刺さった。
 遥はさらに容赦なく追い打ちをかける。
「師匠も、一時は自責の念もあってかなり憔悴してたし、そのせいで精神状態が不安定なときもあった。楠長官のところに乗り込んでいって、逆上して首を絞めて殺しかけたりしてね。誠一が止めてなかったら取り返しの付かないことになってたよ」
 そこで大きく息を継ぐと、澪を一瞥する。
「澪が無事に戻ってきてくれたのは嬉しいよ。たとえ生かされていてもどんな扱いを受けているかわからないし、肉体的にも精神的にも嬲られて壊れているかもしれないって、そんな覚悟もしてた。けれど、帰ってきた澪は今までとまったく変わりのない元気な様子で……本当に良かったけど、師匠や誠一からするとやりきれない気持ちもあるよね。あんなに心配してたのに、誘拐犯と楽しくいちゃついていたんじゃ」
「私、そんなつもりは……」
 ドクン、ドクンと次第に大きくなる鼓動を感じつつ、澪は弱々しく否定の言葉を口にする。
「誠一と別れて武蔵に乗り換える気?」
「そんなこと、しない……よ……」
 全身から汗が噴き出して、喉がカラカラに乾いてきた。
 それでも彼の厳しい追及はやまない。
「じゃあ、いったいどういうつもりなわけ? 武蔵と楽しくセックスしていちゃついて、誠一とも付き合い続けて、愛想尽かされたら師匠と結婚すればいいとか思ってる?」
「そんなこと……っ!」
 思わずパッと顔を上げて言い返そうとする。しかし、氷のような冷たい遥の瞳に凍りついた。
「してないの? セックス」
「……し、た……けど……」
「合意の上で?」
 澪は萎縮して言葉に詰まり、ぎこちなく首を縦に振る。
 遥はわざとらしく大きな溜息を落とした。
「ふらふら流されてばかりいないで、少しはみんなの気持ちを考えたら? 澪がそんな好き勝手な態度でいたら、みんなが、誠一がどう思うかくらいわかるよね。いつも守られて甘えてそれで何とかなってきただろうけど、僕も澪が大切だから守ってきたけど、せめて自分の大切なものくらい自分で守る努力しなよ」
 呆れ口調でそう言うと、鋭く射抜くような眼差しを澪に向ける。
「言っとくけど、師匠に乗り換えようなんて絶対に許さないから。澪なんかと結婚したら師匠が不幸になるだけだ。師匠やじいさんがどういうつもりでも、僕は絶対に許さないし認めないし、どんな手を使ってでも阻止してみせる」
「私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあどういうつもり?」
 おろおろする澪を遮り、遥はきつく問い詰める。
「誠一を裏切っておきながら、何事もなかったかのように平気な顔して付き合い続けるの? それが許されると思ってるの? 少しは申し訳ないと思わないの?」
「それは、その……悪かったって思って……ごめん……」
「僕に謝っても仕方ないだろ!」
 遥とは思えないほど荒げられた声に、澪はビクリと身をすくませた。もうどうすればいいかわからない。彼の指摘どおり自分が悪いことは認めているが、何を言っても怒られてしまうだけである。涙を滲ませながら、力なくうなだれて自嘲の笑みを浮かべる。
「もう、謝る資格もない気がしてきたよ」
「謝る資格って何? それって自分が傷つきたくないだけじゃないの? 誠一に許してもらえないのが怖いだけじゃない? 自分は平然と相手を傷つけておきながら、相手に自分が傷つけられるのは嫌だなんて、本当にどこまで甘えれば気が済むわけ?」
 遥は徹底的に心の奥底を暴き立てていく。言われてみればそのとおりかもしれない。怯えて、逃げて、甘えているだけである。自分自身でさえ気付いていなかったことを突きつけられ、何もかもが音を立てて崩れていくようだった。
「このまま誠一と終わってもいいの?」
「いや……そんなの……」
 涙がはらはらと頬を伝っていく。それでも、遥は険しい表情を崩さない。
「本当にそう思うんだったら、今すぐ誠一のところへ行ってきなよ。甘えてないで、自分で自分の気持ちを伝えてきなよ。悪いと思うなら反省して謝ってけじめをつけなよ」
 それは、厳しくもまっすぐな叱咤――。
 澪はようやく彼の思惑を理解した。嗚咽をどうにか堪えつつ濡れた頬を手のひらで拭い、決意を固めてこくりと頷くと、短いスカートをひらめかせながら身を翻して駆け出した。しかし、大階段に向かおうと角を曲がったところで、ふと人影を見つけてビクリと足を止める。そこにいたのは、鷹揚に腕を組んで壁にもたれかかる悠人だった。
「あの、もしかして聞いてました?」
「だいたいはね」
 おずおずと上目遣いで尋ねると、悠人は小さく笑いながら肩をすくめて答えた。そのいつもと変わらない親しげな反応に、澪は少し安堵すると同時に、先ほどの話を思い出して胸が締め付けられる。
「すみません、師匠も私のせいでつらい目に遭ってたんですよね……」
 悠人はただ優しく穏やかに微笑んでいた。肯定も否定もせず、責めることもなく、慰めることもなく、彼が何を思っているのかはわからない。澪はドクドクと鼓動が速くなるのを感じながら、体の横でグッとこぶしを握りしめる。
「でも……私、誠一のところへ行ってきます」
「こんな夜中に女の子ひとりで外出させられないよ」
「お願いします! とても大事なことなんです!!」
 勢いよく腰を折り曲げて頭を下げた。長い黒髪がさらりと落ちて廊下についたが、構うことなくそのままの姿勢を維持する。せっかく誠一のところへ行こうと決心したのだ。こんなところで出鼻を挫かれるわけにはいかない。
「僕が車を出そう」
「えっ?」
 驚いて顔を上げると、悠人はくすっと笑って言い直す。
「彼の家まで送っていく」
「……いいんですか?」
「抜け出されても困るからね」
 そう冗談めかすと、大きな手であやすように澪の頭をぽんぽんと叩いた。またしても澪の視界はぼやけていく。しかし、今度はひとしずくの涙も零すことなく、悠人を見つめたままにっこりと笑ってみせた。

 橘家の大きな車が、誠一の住むアパートの前でゆっくりと停まった。あたりはすっかり夜の闇に包まれ、しんと静まりかえっている。澪は助手席から降りてドアを閉めると、開いたパワーウィンドウに手を掛けて運転席の悠人を覗き込んだ。
「朝まで戻るつもりはないので、師匠は先に帰ってもらえますか」
 それは、誠一に許してもらえなくても簡単に引き下がらないという決意だった。まだどうすればいいか具体的に考えてはいないが、すぐに逃げたり頼ったりせず、自分の力で誠意を伝える努力をしなければならない。それが澪のつけるべきけじめである。
 悠人は小さく頷いて「わかった」と答えた。
 澪は少しほっとして表情を緩める。そもそも誠一のもとへ行かせることからして、彼としては認めたくなかっただろうが、それでも澪の意思を最大限に尊重してくれたのだ。どれだけ感謝してもしきれない。
「師匠、ありがとうございます。それと……いろいろごめんなさい」
「遥はああ言っていたけど、僕はまだ澪を諦めてないよ。彼に振られたら僕のところにおいで。もし澪が望んでくれるのなら、遥がなんと言おうと受け入れるつもりだから」
 悠人は真面目な顔で言う。その思いは嬉しかった。けれど――。
「もう甘えないって決めました」
「……そうだったね」
 絞り出すように答えた彼の、その寂しげな笑みに胸を衝かれる。それでも、澪は未練を断ち切るようにペコリとお辞儀をすると、長い黒髪をなびかせながらアパートの階段へ向かって駆け出した。

 ピンポーン――。
 震える人差し指で扉のボタンを押すと、その向こうでチャイムが鳴った。
 何度も訪れているが、今このときほど緊張を感じたことはない。心臓が捻り潰されそうなくらい収縮し、口から飛び出しそうなくらい大きく跳ねる。遠くに聞こえる誠一の返事、急いで近づいてくる足音――ややあってガチャリと重い金属音がし、無機質な扉がゆっくりと開いた。
「澪……」
「あ、あの……ごめんなさい!」
 戸惑いの滲んだ彼の表情にビクリとしつつも、澪は勢いをつけて頭を下げた。
「私のことで誠一が刑事を辞めさせられたって聞いて……それと、あの……武蔵とのことも本当にごめんなさいっ!! 私、取り返しの付かないことをしたけど、許してもらえるなら、これからも誠一と付き合っていきたい。勝手かもしれないけど、やっぱり誠一が好きなの……」
 腰を折ったまま謝罪の言葉を口にする。目眩がしてきたが、それでもひたすらに頭を下げ続けた。
「澪、顔を上げて」
 ほとんど感情の窺えない平坦な声。
 澪は痛いくらいに暴れる鼓動を抱えつつ、そろりそろりと顔を上げていく。どんな言葉で非難されたとしても、すべてを拒絶されたとしても、ここから逃げるわけにはいかない。小刻みに瞼を震わせながら、息を詰めて正面の誠一に目を向けた。すると――。
「おかえり、澪」
 ふっと柔らかく微笑まれたかと思うと、澪の体は優しい温もりに包まれた。微かに鼻をくすぐるシャンプーの匂いが懐かしい。胸は止めようもなく高鳴っていく。しかし、本当に受け入れてもらえるのだろうか。拭いきれない不安を感じながら、おそるおそる広い背中に手をまわす。
「ただいま、誠一……」
 その途端、まるで逃がすまいとするかのように、抱きしめる誠一の腕に力がこもった。
 澪は目頭が熱くなった。黒いタートルネックの首もとに顔を埋めると、背中にまわした手で縋りつくようにパーカーを握る。堪えきれずに口から漏れるくぐもった嗚咽が、冷たい蛍光灯の下で響いた。
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