青い炎

瑞原唯子

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5. 別れて嬉しいんだろう

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「僕の勝ちだな」
 昼下がりの炎天下、悠人は中庭で大地とともに組み手を行っていたが、またしても地面に組み伏せられてしまった。だが、その余裕を感じさせる言葉とは裏腹に、彼の息は荒い。紅潮した顔からも滝のような汗が滴っている。
「今回は本当に危なかったな、ヒヤヒヤしたよ」
 軽く笑いながらそう言うと、悠人の拘束を解いて安堵の息をついた。
 悠人もすぐさま立ち上がり真剣なまなざしを送る。
「……頼む、あともう一回だけ」
「すこし休んでからにしないか?」
 そう苦笑まじりに提案されてようやく、自分も喉がカラカラに渇いていることに気が付いた。直射日光を浴びながら運動を続けていたのだ。休憩をとらなければ二人とも熱射病になりかねない状態だった。

 夏休みも半分が過ぎた。
 悠人は毎日のように朝から夕方まで橘の家に入りびたっている。大地がいようがいまいが関係なしに。実際、彼は結城先輩とどこかへ出かけていることが多い。それでも櫻井に格闘術の稽古をつけてもらったり、ひとりで宿題や読書をしたり、ときどき大地の母親の瑞穂と話をしたりして、彼のいない時間をここで過ごしていた。
 大地に来いと言われたからというのが建前だが、悠人自身も自宅にいたくないので、橘の家に置いてもらえることは都合がよかった。夏休み前は毎日どこへ行っているのかと訝っていた母親も、何も言わなくなった。どうやら瑞穂が何か連絡を入れてくれていたらしい。

 縁台に腰掛けて一息つくと、櫻井が部屋のガラス戸を開けてタオルと麦茶を持ってきた。顔を流れる汗を拭い、冷たい麦茶で喉を潤し、生き返ったような心地で細く息を吐き出す。
「惜しかったですね、悠人さん」
 櫻井が背後から優しく声をかけてきた。
「でも、負けは負けです」
 さきほどのように惜しいことは過去にも何度かあったが、結果としてまだ一度も勝てていない。なぜだかどうしても追い越せない。大地がデートしているあいだもひたむきに頑張っていたのに。引きむすんだ口もとに無意識に力がこもる。 
「悠人って負けず嫌いだよな」
 隣に座っていた大地が、麦茶の入ったグラスを持ったまま笑って言う。
 しかし、悠人は何も答えず表情を硬くしてうつむいていた。
「さ、そろそろやろうか」
 大地はグラスを置いて立ち上がり、歩いていく。
 悠人もあとを追おうと腰を上げかけたが、悠人さん、と背後から呼び止められて振り向いた。声の主である櫻井は、膝をついたまま微かに笑みを浮かべると、すこし前屈みになりこっそりと耳打ちする。
「大地さんも負けず嫌いですよ。悠人さんに負けたくなくて、毎日朝練をしていますから」
 思いもよらない話に、悠人は大きく目を見開いた。
 知らないところで大地は不在を取り戻すように訓練を行っていた。だとすれば、彼に勝てなくてもそこまで落ち込む必要はないのかもしれない。それにしても——いつも涼しい顔をして優位に立っているように見えた大地が、悠人に負けじと必死になっていたなんて。そのことが無性に嬉しかった。
「悠人、なにやってるんだよ」
 振り返った大地に呼ばれ、あわてて櫻井にぺこりと一礼して小走りであとを追う。中庭の中央で待っていた彼は、腰に左手をあてながら怪訝な目を悠人に向けた。
「櫻井さんと何を話してたんだ?」
「格闘術のアドバイスだよ」
 正直に答えて大地の反応を見たい気持ちもあったが、告げ口をした櫻井が怒られるのではないかと思い、嘘をついた。しかし、その発言が不自然だったのか挙動がおかしかったのか、大地は疑わしげな表情を崩さない。
「どんな?」
「それを教えたら僕が不利になる」
「ふーん……でも僕が勝つけどね」
「僕だって、今度こそ負けない」
 悠人が強気にそう言いつのると、大地はニヤリと口もとを上げて挑戦的な目を向ける。そしてどちらからともなく距離を取り、腰を落として構え合った。

「そうだ、これから舞花と花火大会へ行くから」
 格闘術の訓練を終えて着替えに向かう途中、大地は思い出したようにそう言った。
 今夜は何万人もの人出で賑わう大きな花火大会があるらしい。付き合っている二人が楽しむにはいいイベントなのだろう。悠人は今まで花火大会に行ったこともないし、彼女がいたこともないが、何となくそういうものだと知識として知っている。
 彼女とどんな付き合いをしているか、悠人はいちいち聞かないし、大地もほとんど話さない。ただ、たまにこうやって行き先を言ってくることがある。深い意味はないはずだ。しかし、悠人はそのたびに光景を想像してしまいモヤモヤとしていた。
 そして、彼女を名前で呼ぶことにも同様にモヤモヤとしていた。夏休みに入ったころから、結城先輩ではなく舞花と呼び捨てにするようになっていた。先輩ではあるが、付き合っているのだから別に不思議ではない。何もおかしくはない。けれど——。
「おまえは行かないの?」
 何気ない調子で尋ねられ、悠人はムッとして口をへの字に曲げた。
「ひとりで行っても楽しくない」
「それもそうだな」
 大地は無邪気に笑いながら同調する。しかし、悠人は心に冷たい風が吹き抜けるような寂しさを感じた。自分がどんな反応を期待していたのかも気付けないままに。

「じゃあ、行ってくるよ」
 着替えていつもの部屋で文庫本を読んでいると、大地がひょっこりと姿を現した。それを見て悠人は固まる。花火大会に行くとは言っていたが、まさか浴衣を着るとは思わなかった。濃色にうっすらと細いストライプが入った落ち着いたデザインで、意外なほどよく似合っている。
「変か?」
「いや」
 めずらしく心配そうに尋ねてきた彼に、短くそれだけ答えた。
「初めてなんだよ、舞花が着ろっていうからさ」
 大地は頭に手をやりながら言い訳がましくぼやく。しかしながら満更でもなさそうに見える。これはいわゆる惚気というやつだろうか。反応に苦慮して微妙な面持ちになると、彼は腰を屈めて不思議そうに覗き込んできた。
「何だ、寂しいのか?」
「……別に」
「いつか一緒に行こうな、浴衣で」
 屈託なく笑いながらそんなことを言われて、息が止まった。だが、何気なく言っただけで本気ではないのだろう。ただの社交辞令なのだから期待してはいけない。そう自分自身に強く言い聞かせながらも、顔が火照るのは止められなかった。

「君が、楠悠人くんだな」
 大地が花火大会に出かけたあと、ひとり残された悠人はしばらく静かに本を読んでいたが、そろそろ帰ろうかと思ったところへ見知らぬ大人の男性が現れた。随分と仕立ての良さそうなスーツを身につけている。威厳すら感じさせる堂々とした佇まいと声音からしても、使用人ではなさそうだ。だとすれば——反射的に背筋が伸びて、身が引き締まる。
「……はい」
「大地の父の剛三だ」
 彼はわずかに口もとを上げて自己紹介すると、正面に座った。
 予想どおりなので驚きはしなかったが、緊張が高まり、おずおずと頭を下げて上目遣いで窺う。年齢的には悠人の父親と同じくらいだろうか。その居住まいからは自信や力が満ちあふれている。大地と顔はあまり似ていないが、醸し出す雰囲気には通ずるものがあった。
「大地が新しい犬を飼い始めたと聞いてな」
 剛三は愉快そうに含みのある笑みを浮かべて言う。挑発しているのだということはすぐにわかったが、それでも冷静に受け流せなかった。逆に挑み返すかのような強気なまなざしで睨めつける。
「大地が、そう言ったんですか」
「不服そうだな」
 剛三は鼻先でフンと笑い、机に腕を置いてズイッと身を乗り出す。思わず悠人は身をのけぞらせた。
「君の扱いは飼い犬のようなものだろう」
「……僕は、望んでここに来ています」
「しかし、君が望むのは犬扱いではあるまい」
「…………」
 彼の言うことは何も間違っていないが、だからこそ抉られる。現状で構わないと思っているだけで、積極的にこの状況を望んでいるわけではない。けれど、深くは考えないようにしていた気がする。
「君は、何を望む?」
 畳みかけるように問われるが、何も答えられない。目を泳がせてうつむくと、彼はふっと笑った。
「思う存分、悩んで考えるがいい」
 そう言って立ち上がり、言葉を継ぐ。
「君が何を望むかは知らんが、何の努力もせずにあきらめては人生つまらんだろう。確かに世の中には思い通りにならないことの方が多い。だが、本気でぶつかれば不可能が可能になることもあるのだ。覚えておくといい」
 悠人は去りゆく彼の背中をじっと見つめた。
 いったい何をしに来たのか今ひとつわからない。悠人がここに来ることを咎めているわけではなさそうだ。からかっていたのだろうか。試していたのだろうか。それとも心配していたのだろうか。
 君は、何を望む?
 低く深みのある声が頭の中で響く。望んだものなんて自分には何ひとつ手に入らない。つまらない人生だとしても、それが事実なのだからどうしようもない。流されるだけの現状で満足している。だから——くちびるを噛み、答えが見つかるまえに思考を放棄した。

 夏休みが終わって二学期が始まり、数日が過ぎた。
 当然ながら、夏休みのように大地と過ごすことはできなくなった。学校ではあいかわらず行動をともにしているが、放課後はひとりで橘の家へ行き、飼い犬のように従順に大地の帰りを待つ日々だ。夏休み前から何も変わっていない。これからもずっと変わらないのだろう。この日まではそう思い込んでいた。

「ただいま」
「おかえり」
 時計を確認してそろそろ帰らなければと思っていたところへ、大地が帰ってきた。涼しい顔をしたまま悠人の前に座る。悠人が読んでいた文庫本にしおりを挟んで閉じると、彼は何気ない口調で切り出した。
「舞花と別れてきた」
「えっ……?!」
 きのうまではそんな素振りなど微塵もなかったのに、あまりにも普通に告げられて混乱する。言い方からすると彼の方から別れたように聞こえる。
「どうして……」
「悠人のためじゃないよ」
「それは、わかってる」
 からかうような物言いにムッとしながら言い返し、じっと彼を見つめる。本当のことを知りたい気持ちはあるが、無理に聞き出す権利はない。せめて感情だけでも読み取れないかと思ったが——。
「誰にも言うなよ」
 彼はすこし真面目な顔になってそう前置きする。
 悠人もつられるように表情を引き締め、無言で頷いた。
「何か違うと思ったんだ」
「……は?」
「このひとじゃないって」
「何が……?」
「わからないならいいよ」
 大地はクスッと笑って話を打ち切る。
 喧嘩をしたとか、嫌になったとか、明確な理由があるわけではないのだろうか。いや、そもそも最初から彼女のことなど好きではなかったのだ。努力はしたが好きになれなかったと考えれば合点がいく。それならもっと早く気付いてくれれば良かったのに。そうすれば——。
「悠人、おまえさ」
 彼の声で我にかえる。顔を上げると、大地が含みのあるまなざしでじっとこちらを見つめていた。そのままゆっくりと頬杖をついてくちびるにかすかな笑みをのせる。
「僕が別れて嬉しいんだろう」
「そんなことっ……!」
 ドキリと心臓が竦み上がった。
 動揺のあまりもう何も考えられない。否定の言葉さえまともに口にできないまま、顔が次第に熱を帯びていくのを感じ、きまり悪さから逃れるように斜め下に目を落とす。そのとき大地がどんな表情をしているのかなど、見る勇気はとてもなかった。
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