青い炎

瑞原唯子

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6. ただ空を飛びたかっただけ

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「ハンググライダー?」
 大地が結城先輩と別れた翌日の放課後、久しぶりに彼とともに橘の家へ向かっていると、思いもよらない話を切り出された。空を飛ぶものだということは何となく知っているが、一度もやったことはないし、それどころか実際に飛んでいるところを見たことさえない。
「そう、今度の三連休に行こうよ」
「三連休って……泊まりで……?」
「ずっと待っててくれたご褒美だよ」
 いたずらっぽくそんなことを言う大地に、目を大きくする。
 まさか彼に待たせていたという意識があったなんて。これまですこしも悪びれた様子がなかったので、感謝などまったくしていないと思っていたのに。嬉しい反面、誘いの内容を考えると素直に喜ぶことはできなかった。
「ハンググライダーなんてやったことない」
「僕もだよ。だから一緒に習おうって話」
「でも……親がなんて言うか……」
 口ごもりながら、曖昧に顔を曇らせてうつむく。
 日頃から橘の家に入りびたってはいることは承知しているはずだが、泊まりでどこかに出かけるとなると許してもらえるかわからない。いや、それ以前に二泊もの旅行に出かけるだけの金銭的余裕がない。財閥御曹司である大地とは違い、あくまでただの中学一年生でしかないのだから。
「心配しなくてもうちから説明して許可をもらうよ。コテージはうちの持ってるものだし、車も出してもらうし、ハンググライダーも用意しておく。悠人は身ひとつで来ればいいから」
「……わかった」
 断られることなど考えてもいなさそうな口ぶりである。
 しかし、実際に橘家がそう申し出れば母親はきっと断りきれない。ただでさえ気が弱いのに、相手が橘財閥の人間となれば萎縮することは目に見えている。納得がいかなくても最終的には押し切られてしまうだろう。

 それから二週間と数日が過ぎて、約束の三連休になった。
 大地の言ったとおり、あのあとすぐに瑞穂が直々に話をつけていたようで、母親は反対することなくすんなりと許可してくれた。父親には話をしていないが、母親の方から報告くらいはいっているはずで、まったく知らないということはないだろう。厳めしい顔つきで新聞に目を通している彼の横を素通りし、悠人は家を出た。

「悠人、この人がコーチの真田隆弘さん」
 橘の家に行くと、大地とソファで談笑していた見知らぬ男性を紹介された。はじめまして悠人君、と彼本人からにこやかに握手を求められ、悠人は戸惑いながらもおずおずと応じる。
 彼はこの三連休のために雇ったハンググライダーのコーチだという。コテージまで同行し、初心者の悠人と大地に基本からきっちりと指導してくれるらしい。そういう話は聞いていたが、実際に本人と顔を合わせたのはこのときが初めてだった。
 年齢は父親よりすこし若いくらいだろうか。長身にほどよく筋肉がついた均整の取れた体型で、笑顔はさっぱりとしていてさわやか、いかにもスポーツマンといった雰囲気を醸し出している。普段はスポーツジムでインストラクターをしていると言っていた。
 面識のない人と三日間を共有しなければならないことが憂鬱だったが、人当たりが良さそうな彼であれば、あまり気まずい雰囲気にはならないような気がする。その点では幾分か懸念が払拭できた。

 現地までは橘所有の四輪駆動車で行く。
 悠人と大地はともに後部座席に、真田コーチは助手席に座っている。運転手は執事の櫻井だ。いつものスーツ姿ではなく、タートルネックにジャケットを合わせた若干カジュアルな格好をしている。その運転は物腰と同様にとても丁寧でやわらかく、舗装されていない道でも安心して乗っていられた。
 目的のコテージは山道を上ったところにひっそりと建っていた。見渡す限りほかの建物はない。
「さ、入ろう」
 大地に促されて、櫻井が鍵を開けたコテージに足を踏み入れた。思いのほか明るく広々とした内部をぐるりと見回す。仕切りのない空間と吹き抜けが開放感を作り出しているようだ。高窓からはまばゆいくらいの陽光が降りそそいでいる。
「一階がダイニングキッチンやお風呂、二階が個室になってるんだ」
 大地はスポーツバッグを下ろしながら簡単に説明する。
 それを聞きながらぐるりと視線をめぐらせると、奥の方に二階へ続く階段が見えた。個室ということは一人一部屋あるのだろうか。コテージというともっと野性的なものを想像していたが、エアコンがついているようだし、お風呂も個室もあるというし、思ったより快適に過ごせそうでひそかに安堵する。
「さっそくハンググライダーしに行こうよ」
「お昼を食べてからだよ」
 大地は無邪気に真田コーチの手を引いて外に連れ出そうとするものの、苦笑しながら諭されて頬を膨らませた。なぜか真田コーチの前では驚くほど甘えた態度になるようだ。行きの車中でもすでにそうだった。今日が初対面のはずなのにどうしてこんなに懐いているのかわからない。そのことを考えるだけで無性に苛立ちがつのった。

 櫻井が持参した昼食のサンドイッチを食べてから、ハンググライダーの講習を始める。
 実際に飛ぶ前に、ハンググライダーの組み立て方や扱い方、仕組みなどを勉強することになっているらしい。いつになったら飛べるんだろう、と大地はときどき不満げに口をとがらせながらも、基本的には悠人とともに真面目に講習を受けていた。
 悠人たちの理解が遅かったわけではないと思うが、それでも今日は事前準備だけで終わってしまった。実際に飛ぶのはあしたからだという。悠人たちが教えられていなかっただけで、最初からその予定だったのかもしれない。
「今日、飛ぶの楽しみにしてたのに」
「あしたは飛ばせてあげるからね」
 大地は思いきり不満顔で真田コーチに文句を言っているものの、やはり甘えているようにしか見えない。真田コーチもニコニコと余裕で受け流している。そんな仲睦まじげな二人の後ろをついて歩きながら、悠人はひとり静かに唇を引きむすんだ。

 コテージに戻ると、櫻井が夕食の準備をしているところだった。
 美しく盛りつけられたパスタ、サラダ、ポタージュ、キッシュ、パンなどが、次々と木製のテーブルに並べられていく。まるでしゃれた洋風レストランのようだ。見た目だけでなく、実際に食べてみても期待を裏切らない美味しさである。
 元護衛で現執事の櫻井に、まさか料理の素養まであるとは思いもしなかった。悠人は目をぱちくりさせながら彼を見つめ、真田コーチは「すごいですね」と素直に感嘆していたが、大地は知っていたからか反応もせず黙々と食していた。

「そうだ、悠人は僕と一緒のベッドでいいよな?」
 食事を終えて一息ついたあと、大地は思い出したようにそう切り出した。構わないだろうと言わんばかりに。えっ、と悠人は眉をひそめて混乱ぎみに聞き返す。
「ここ、シングル二部屋とダブル一部屋なんだよ。だから」
「…………」
 事情は理解した。
 四人で来ているので誰かがダブルベッドの部屋を使わなければならない。だとすれば、同級生である大地と悠人にあてがわれても不思議ではない。けれど——。
「そんなに嫌がられると僕も傷つくんだけど」
「別に嫌がってるわけじゃ……」
 難しい顔をしていたので大地に誤解されてしまったようだが、決して嫌だとは思っていない。ただすこし動揺しただけだ。自分でもなぜかわからないのでうまく弁解できないのだが。
「悠人さんはひとりでないと眠れないのでしょうか?」
 櫻井が尋ねてきた。
 小学生になってからは他人と一緒に寝たことがないのでわからない。ただ、大地とひとつのベッドで身を寄せ合いながら寝るなど、想像するだけで緊張して眠れないような気がしたのだ。じっと無言で目を伏せていると、大地は頬杖をつきながらあきれたように大きく溜息をついた。
「だったら僕とコーチが一緒に寝るよ。いい?」
「僕は構わないよ」
 真田コーチがためらいなく了承すると、大地はニコッと微笑む。
 自分はまだ何も答えを出していないのに、何も言っていないのに——悠人は笑顔を交わしている二人を呆然と眺めた。そして頭の中で何かが弾けるのを感じた瞬間、ダン、とテーブルに勢いよく両手をついて立ち上がった。空の食器が音を立てて揺れる。
「……僕が大地と寝る」
 首が折れそうなほど深く下を向き、テーブルについた自分の手を見つめて噛みしめるように言う。どうしても嫌だった。大地が目の前で自分以外の誰かを選ぶことが。
「無理しなくてもいいんだぞ」
「無理なんてしてない」
「ふぅん……ならいいけど」
 大地の冷ややかな返事が胸に突き刺さる。
 彼にとってはどうでもいい些細なことなのかもしれない。自分だけがこんなに動揺して必死になって馬鹿みたいだ。胸の内でそう自嘲して、うつむいたままテーブルの上で強くこぶしを握りしめた。

 二階の部屋に行ってみると、ダブルベッドは想像していたよりもずっと大きかった。これなら身を寄せ合わなくても寝られるはずだ。ほっとしたが、同時に肩透かしを食わされたようにも感じた。先に部屋を見ておけば良かったと今さらながら思う。
 部屋の中は身震いするほど冷えきっていた。秋が始まったばかりだが、このあたりは標高が高いので平地より早く寒くなるようだ。だが個室内にもエアコンがついており、先ほど暖房を入れたのでしばらくすれば暖かくなるだろう。
 悠人は荷物を置き、窓越しに外の景色を見る。
 見渡す限りあかりはなく遠くまで闇が広がっているが、その分、満月や星がくっきりと鮮やかに見える。空気が澄んでいることも影響しているのだろうか。こんな絵に描いたような夜空は今まで見たことがなかった。
「悠人ってロマンチスト?」
「……そんなんじゃない」
「星、きれいに見えるよな」
 大地はそう言いながら足を進めて悠人の隣に並び、ガラス窓を全開にした。ひんやりとした空気が部屋に滑り込んでくる。
「せっかく暖かくなってきてたのに……」
「窓越しより直で見た方がきれいだよ」
 屈託のない笑顔でそう言われると反論できなくなってしまう。口をとがらせつつ、熱を帯びてきた頬を冷ますように窓の外に顔を向ける。隣の大地も窓枠に両腕をのせて大きく星空を見上げた。そのきれいな横顔に、悠人は若干の緊張を感じながらそろりと視線を流す。
「なあ、どうして急にハンググライダーしようと思ったんだ?」
「ただ空を飛びたかっただけさ。気持ち良さそうだろう?」
 大地はニコッとして振り向いた。
 なんとなくだが煙に巻かれたような気がした。本当は別の理由があるのではないか。それをごまかすための笑顔ではないか。だとしても、言いたくないものを無理に聞き出すつもりはないのだが。
「そろそろ寝よう。あした朝早いからな」
 悠人が考え込んでいると、大地は何気ない調子でそう言って窓を閉めた。

「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
 蛍光灯を消してふたりはベッドに入った。
 余裕で片腕分くらいは離れているが、布団は繋がっているので嫌でも隣の存在を感じてしまう。すこし身じろぎするだけでも動きが伝わってくる。だが、それを気にしているのは悠人だけかもしれない。隣の大地はまもなく静かにすぅと寝息を立て始めた。
 それから何時間が過ぎても、悠人の目は冴えたままだった。
 かすかな寝息を聞いているだけで鼓動が速くなり、横顔を見ているだけで息が詰まりそうになる。誰かと一緒に寝たことがないので緊張しているだけかもしれない。しかし、相手が大地だから意識しているという可能性も大いにある。
 悠人にとって大地が特別な存在であることは否定しようがない。今まで生きてきた中で唯一親しくなった他人なのだから。だが、大地にとっては悠人が唯一の存在ではない。その温度差を考えると苦いものがこみ上げてくる。
 君は、何を望む——。
 大地の父、剛三の言葉が脳裏によみがえる。
 大地に対してみっともない独占欲を抱いていることは、もはや認めざるを得ない。彼が親しくするのは自分だけであってほしい。せめて一番は自分であってほしい。そういう感情は自分の中にまぎれもなく存在している。今日一日ではっきりとそのことを自覚させられた。
 けれど、それがいかに非常識な望みであるかは理解している。だから自分の心の奥底に沈めておくしかないのだ。大地が誰かと仲良くしているところを見せつけられても。それが彼女ならばなおさら自分に何かを言う資格はない。
 彼女って、何だろう——。
 隣で眠っている大地に横目を流しながらぼんやりと考える。好きならまだしも、好きでもないのに付き合うなんてまったく理解できない。男友達といるだけでは満足できないのだろうか。学校から一緒に下校したり、図書館で勉強をしたり、映画を観に行ったり、花火大会に行ったりなんて悠人でもできるのに。
 板張りの天井を見つめながらふうと重い溜息をつき、あらためて大地を見やると、彼はもぞりと寝返りを打ってこちらに体を向けた。ふいに息遣いがはっきりと感じられるほど顔が近くなり、ドキリとして心臓が飛び出しそうになる。彼が目を覚まさなかったのがせめてもの救いだ。
 息をついて落ち着こうとするが、彼との距離を意識してしまうと到底無理な話だった。まるで誘うように薄く開かれた唇から目が離せない。結城先輩とはキスをしたのだろうか——ふとそんなことを考えて、胸にズキリと疼くような痛みを感じた。
「…………」
 ごくりと唾を飲む。
 彼の唇に引き寄せられるように震える手を伸ばし、指先でかすかに触れた。薄く見えたそれは思いのほかやわらかくあたたかい。そして彼の濡れた寝息が手にかかると、ぞくりと身震いしてカッと燃えるように熱くなった。
 体中が脈を打っているようだ。
 自分自身が何をしたいのかもわからないまま、息を詰めて彼の寝顔を見つめ、唇の感触を確かめるように指先を動かす。そのとき大地の目がぼんやりと開いた。びっくりして弾かれるように手を引っ込めるが、彼はまだ寝ぼけた様子で、眠そうに悠人を眺めながらぼそりと言う。
「おまえ、なにやってたんだ?」
「……くちびるがきれいだったから」
 とっさに口をついた言い訳はあまりにも苦しいものだった。言い訳にさえなっていない気がする。いたたまれず、目をそむけながら布団にもぐり込もうとしたが、そのとき彼の親指がふにっと唇に押しつけられた。一瞬、何が起こったのかわからず目を見開いて硬直する。
「悠人のもきれいだよ」
 大地はうっすらと淡い微笑を浮かべてそれだけ言うと、すうっと目を閉じた。悠人の唇を触っていた手もだらりと落ちる。続いて安らいだ寝息がかすかに聞こえてきた。
 いったい何のつもりなんだ——!
 ひとの心をぐちゃぐちゃにかき乱しておきながら、素知らぬ顔でひとり心地よさそうに眠る彼を、悠人は潤んだ目で恨めしげに睨めつけた。体を反対向きにして猫のように体を丸める。いっそ蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られるが、そんなことができるはずもない。ただ唇に残された指先の感触を反芻しながら、眉を寄せて堪えるしかなかった。
 結局、ほとんど寝付けないまま朝を迎えることになった。

「悠人君、ちゃんと聞いてた?」
「すみません……」
 今日は実際に空を飛ぶ予定になっている。だが、睡眠がとれなかったせいで何度もぼうっとしてしまい、そのたびに真田コーチに注意された。普段は温厚だが、ハンググライダーに関しては厳しい顔を見せる。油断していると事故に繋がるので当然といえば当然だ。
「枕が変わるとダメなほう?」
「そんなんじゃない」
 無邪気に尋ねてくる大地が恨めしくて、仏頂面になる。
 おまえのせいだと言ってやりたいが言えるはずもない。夜中の出来事を覚えているかどうかもわからないのに。今朝になってもまったくその話題を振ってこないし、なんとなく忘れているような気はするが確信はない。藪蛇になりかねないのでこちらからは尋ねたくない。
 ひとまず大地のことは棚上げにして、二度と真田コーチに注意されないよう、何より自分が事故を起こさないよう、真面目に操作方法や注意事項のおさらいに取り組む。両頬を叩いて気合いを入れたおかげか、これ以降はどうにかウトウトすることもなく集中できた。
 一通り終わると、真田コーチは風の方向や強さを確認してから二人に言う。
「じゃあ、心の準備ができたら飛んでもらおうかな」
「僕はすぐに飛べるよ! 飛ばせて!」
 大地は待ちかねたとばかりに勢いよく挙手をした。
 真田コーチはいささか苦笑しながらも了承し、大地を発進地点へ連れて行った。そして、準備を整えた彼に注意事項を念押ししたあと、歯切れのいい掛け声で発進の合図をした。大地はためらいなく飛び出すと、きれいに姿勢を保ったまま空中を進んでいき、教えられたとおり丁寧に着地する。
「初めてとは思えないくらい上出来だよ」
「まあね」
 大地は見たことのないくらい晴れやかな顔をして戻ってきた。真田コーチの賞賛に得意気に胸を張る。
「悠人も飛んでこいよ。気持ちいいぞ」
 彼ほど楽しみにしていたわけではないが、その興奮を目にすると期待が高まってくる。こくりと頷き、真田コーチとともに飛び立つ準備を始めた。
「3、2、1、はい!」
 真田コーチの掛け声で助走を始め、決められた地点で力いっぱい地面を蹴り、空中に飛び出す。すうっと冷たい空気を切りながら進むと、視界が広がり、パアッと見たことのない景色が広がった。感じたことのない浮遊感に心臓がキュッとなる。映像を見ているだけでは味わえない感覚だ。まるで何か解き放たれたような錯覚を起こす。
「悠人君も上出来だよ。気持ちよかった?」
「……はい」
 着地して戻ると、待ち構えていた真田コーチにニコニコしながら問われたが、どこか戸惑いがちに首肯することしかできなかった。気持ちは高揚していても表現するすべを知らない。あまり面識のない相手であればなおさらだ。それでも真田コーチは十分満足したように嬉しそうな顔を見せた。

 二日間、ふたりとも夢中になって飛んだ。
 格闘術は大地に勝ちたくて稽古している部分もあるが、ハンググライダーは今のところ純粋に楽しめている。真田コーチの言うことを聞いて無茶はしなかったものの、何度も飛んでは戻りを繰り返した。飛びすぎて疲れるくらいに。おかげで、初日はあれほど寝つけなかったにもかかわらず、二日目は大地ともどもベッドに入るなり熟睡してしまった。

「そろそろ帰る準備をしようか」
 三日目の夕方、空がほんのりと朱く色づき始めたころ、真田コーチにそう切り出された。名残惜しくはあるが、明日は学校に行かなければならないので仕方がない。悠人も、大地も、後ろ髪を引かれつつハンググライダーを片付けることにした。
「あのさ、悠人に言っておきたいことがあるんだ」
「……何?」
 もしかしてあの夜のことだろうか。
 大地にこころなしか言いづらそうに切り出され、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたように感じながらも、必死に何気ない態度をよそおって続きを促す。顔はとても見られないし見せられない。うつむいた額にじわじわと汗がにじんでくる。ハンググライダーにかすかに震える指先をかけたまま、じっと彼の言葉を待った。
「僕、あしたから惣島絵理子と付き合うことにした」
「……えっ?」
 あまりにも予想外な話に思考が追いつかず、きょとんとする。大地はくすっと笑った。
「同じクラスで僕の前に座ってる子だよ」
 うっすらとだが記憶にある。ときどき大地と気さくに話をしていた女子だ。おそらく初等部からの同級生なのだろう。おしとやかで可愛らしい雰囲気の結城先輩とは違い、さっぱりとしていて快活そうなイメージである。その彼女とあしたから付き合う——?
 大地はハンググライダーを片付ける手を止めて、ニコッと笑顔を見せる。
「だから、また家で待っててくれよな」
「付き合うって……なんで……」
「付き合ってって言われたから」
 あっけらかんと告げられた答えに、悠人は眉をひそめた。
 一週間ほど前、用があるから先に帰ってと大地に言われたことがある。多分そのときに彼女から告白されていたのだろう。結城先輩と別れたことは学校中に知れ渡っていたようだし、彼に好意を持つ女子が行動を起こしたとしても不思議はない。
 しかしながら彼が何を考えているのかは微塵も理解できない。好きでもない女子と付き合うことは、結城先輩ですこしは懲りたのではないかと思っていたのに。まさか別れて三週間も経たないうちに同じことをするなんて。違うタイプだからうまくいくと考えたのだろうか——悠人は爪が食い込むほど強くこぶしを握りしめ、そして立ち上がった。
「悠人?」
「もう一回、飛んでくる」
 無表情でそう言い置き、畳んだハンググライダーを抱えて全力で走り出した。そして真田コーチの制止もきかず茜色の空に飛び出していく。剥き出しの顔に打ちつける風はひどく冷たくて、痛くて、堪えきれずにじわりと熱い涙がにじんだ。
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