ひとつ屋根の下

瑞原唯子

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第20話 今夜だけは

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「ごめん、僕から誘ったのに遅れて」
 遥が店員に案内されて間接照明のともる個室に入ると、富田は振り向いて気にするなと笑った。暇つぶしなのかその手には携帯電話が握られている。スーツの上着は脱ぎ、ビジネスバッグとともに隣の椅子に置かれていた。
 遥は空いていた奥側の長椅子に腰掛けて、彼と向かい合った。駅から小走りで来たせいですこし汗ばんでいる。スーツの上着を脱いで軽くネクタイを緩めながら、ふうと息をついた。
 テーブルの上を見ると、水の入ったグラスとおしぼりしかなかった。
「先に飲んでてって言ったのに」
「ひとりじゃつまらないからな」
 富田は携帯電話をしまいながら苦笑する。
 そうはいってもさすがに三十分は長いだろう。遥が遅刻したことへの当てつけなどではなく、ただ単に律儀に待っていただけなのだろうが、だからこそ余計に申し訳なく感じてしまう。
 すぐに店員がおしぼりと水を持ってきた。遥は熱いおしぼりで手を拭くと、気を取り直してドリンクメニューを広げた。富田が一ページずつゆっくりとめくっていき、二人で眺める。
「遥、おまえ何にする?」
「スパークリングワイン」
「じゃあ、俺も」
 つきあいならビールも飲むが、好きなのは発泡性ワインとそれをベースにしたカクテルである。ただ普段はアルコール自体ほとんど飲まない。富田とのプライベートか会社関係で必要に迫られたときくらいだろう。
 富田は冷えたビールが一番だと言っていたが、ワインも好んで飲むようだ。遥といるときはたいてい遥と同じものを頼んでいる。いつもビールばかりなのでたまにはということらしい。
 店員を呼んでスパークリングワインをグラスでふたつ注文すると、そう時間をおかずに運ばれてきた。ついでにいくつか料理を注文してから乾杯する。渇いた喉に、辛口スパークリングワインのシュワッとした刺激が心地いい。
「今日は急に誘ってごめん」
「いや、どうせ暇だったし」
 先約はなくても夕食など何かしら予定はあっただろう。それでも快諾して来てくれたのだから感謝しかない。今日はどうしても富田と一緒に飲みたい気分だったのだ。
「仕事はどう?」
「あー……いっぱいいっぱいだな」
「最初は覚えることも多いしね」
「おまえは余裕だろ?」
「後継者教育もあるし結構大変だよ」
「もうそんなことまでやってるのか」
「まあね」
 それぞれ就職して約四ヶ月、互いの会社や仕事のことなど話は尽きない。そのうち注文した料理が運ばれてきた。大皿のサラダとパスタを適当に取り分けていると、富田が思い出したように言う。
「そういや、何か話があるんじゃなかったのか?」
「ああ、うん……」
 それが今日誘った理由のひとつだ。
 気は重いが、いつまでも富田に黙っているわけにはいかない。七海との関係を隠すために、何年も偽装恋人を続けてもらっているのだから。取り分けた皿を手渡しながらさらりと告げる。
「七海と別れた。ふられたんだ」
「えっ……」
 富田は目を丸くして絶句した。
 遥はうっすらと自嘲まじりの笑みを浮かべると、順を追って話していく。七海は昔からずっと武蔵に恋心を抱いていたこと、遥はそれを承知のうえで告白して付き合ったこと、帰ってこないはずの武蔵が帰ってきたこと、七海から別れを切り出されて受け入れたこと、今朝武蔵と付き合うことになったと報告されたこと——守秘義務に抵触する部分はぼかしたが、七海とのあいだに何があったかは伝わっただろう。
「ひどいな……自分さえ良ければいいのかよ……」
 富田はテーブルの上でこぶしを震わせて呻くように言う。その眉間には深い皺が刻まれていた。まさかこれほどまで七海への怒りを露わにするとは思わず、驚くと同時に、板挟みになったような複雑な気持ちになる。
「仕方ないよ。武蔵が帰ってくるなんて誰も思ってなかったんだから」
「それにしても二年半も付き合ってたってのに、好きなひとが帰ってきた途端にほいほい乗り換えかよ。普通なら躊躇するだろ」
 事実だけを追えば、そういう印象になるのかもしれない。
 確かに決断は早かった。だからといって悩んでいないことにはならない。あのときの涙に震えた声は、決して演技ではなかったと断言できる。彼女なりに罪悪感で苦しんでいたはずだ。それでも——。
「自分の気持ちに嘘がつけなかったんだよ」
 遥はそう言うと、グラスに手を伸ばしてスパークリングワインを飲んだ。勢いよく流し込んだせいか喉の奥がカッと熱くなる。グラスを戻して、細かな泡がはじけるのを眺めつつ静かに吐息を落とす。
「無理して付き合いつづけてもお互いつらいだけだし、これで良かったんだと思う。仕方ないよね。誰を好きになるかなんて自分でもコントロールできないんだから」
「それは……まあ……」
 そのあたりは富田にも思い当たることがあるはずだ。眉を寄せてうつむき、テーブルの上にのせた左手をぐっと握り込んでいく。そのときキャンドルに照らされてプラチナの指輪がきらりと輝いた。
「ペアリングは今日で終わりにしようか。僕はこれからも女避けのために何か嵌めておくけど、富田に嵌めてもらう意味はもうあんまりないからさ。会社が別々で普段ほとんど一緒にいないし」
「いや、やめないほうがいい」
 富田は真顔で反論する。
「相手がいないと説得力がないから俺が協力してるんだ。それに大学時代のことを知ってるヤツは結構いるし、俺だけ外してるのを知られたらマズいと思う。別れたのかとか詮索されるのも面倒だし」
 そんなことは言われるまでもなく承知していた。
 それでも終わりにしようと言ったのは、彼をいつまでも縛り続けるわけにはいかないと考えてのこと。だがこれまでと同じようにやはり引き留められてしまった。遥としてはありがたいのでついつい甘えてしまうのだが。
「富田はさ、もっと自分を大切にしたほうがいいよ」
「別に彼女がほしいとか思ってないから心配するな」
「それって、まだ澪が好きだってこと?」
「……そんなんじゃない」
 じっと覗き込んで尋ねると、富田は目をそらしてムッとしたように言い捨てる。しかし頬の紅潮は隠せていない。澪を意識するような素振りはなくなっていたし、子供ができたと聞いても平然としていたので、もうふっきれたものとばかり思っていたのに。
 いつまで想い続けるんだろう——。
 難儀だなと思うが、遥もいずれ同じ道をたどりそうな気がしている。七海のことを忘れて他の女性を好きになるなんて、とてもじゃないができる気がしない。数えきれないほどの思い出があるからなおさらだ。
「食べよう。もうだいぶ冷めてるけど」
「ああ」
 富田は気を取り直したように笑顔で頷いた。
 冷めたパスタを完食したあと、今度はあたたかいうちに食べようとピザを注文する。それからは再び仕事のことを話したり、とりとめのない話で笑い合ったり、楽しい時間を過ごした。

「思ったより元気そうで安心した」
 最後にひとりでデザートを食べる遥を見ながら、富田は安堵まじりに言う。
 確かに自分でも意外なくらい笑うことができていたが、それは富田のおかげだ。自分ひとりでいたらひたすら沈んでいたかもしれない。もっとも傷が癒えたわけでもふっきれたわけでもないのだが。
「まあ、本当につらいのはこれからかもね。付き合ってるふたりを、ひとつ屋根の下で見守らないといけないわけだし。考えただけで頭がどうにかなりそうだよ。何の罰ゲームなんだろうね」
 そう冗談めかして言うと、エスプレッソのかかったアイスクリームを口に運んだ。その冷たさがほろよいの体にしみわたる。本当はパフェを食べたかったが残念ながらメニューになかった。
 カランと音が聞こえて視線を上げると、富田が氷水の入ったグラスに手を掛けて難しい顔をしていた。
「なあ、おまえあの家を出て一人暮らししたほうがよくないか?」
「そういうわけにはいかない。僕はまだ七海の保護者なんだから」
「そうか……」
 七海が二十歳になるまでは論外だし、それ以降も橘の後継者という立場では難しいはずだ。もっとも武蔵と七海のほうが居を移すかもしれないが、それまではふたりを見守る覚悟でいる。
「でも、今夜だけは帰りたくないな」
 情けない本音が口をついた。
 だいぶ酔いがまわっているという自覚はある。すこし失敗したなと思いながらも表情には出さず、黙々とアイスクリームをすくって口に運んでいると、ふいに正面の富田が口を開いた。
「じゃあ、俺んちに来るか?」
 遥はきょとんとして手を止めた。富田はグラスに手を掛けたままうつむいていたが、気恥ずかしそうにそろりと視線を上げて言い添える。
「そんなに広くないけどな」
「知ってる」
 思わず遥はくすりと笑った。
 富田は実家暮らしだ。子供のころに何度か遊びに行ったことがあるが、広くないというのは橘の屋敷と比べてのことで、一般的にいえばむしろ広い。そのくらいのことは理解している。
 今日は金曜日か——。
 富田の言葉に甘えて一晩だけ泊めてもらおうか。そうしたらあしたからきっとまた頑張れるはず。ふわふわした頭でそう考えると、スプーンを手にしたまま無防備な笑みを彼に向けた。
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