ひとつ屋根の下

瑞原唯子

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第27話 堰を切ったように

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『ペアリングが偽装だってバレてるみたいだ』
 平日の昼休み、近くの和食ダイニングに向かおうと会社のビルを出たところで、富田から電話がかかってきた。その声は深刻そうで冗談には聞こえない。遥は通行の妨げにならないよう隅に移動して足を止める。
「どういうこと?」
『午前中、知らない女が会社まで乗り込んできて、いきなり俺に平手打ちして泣きわめいてな。そのペアリング偽装なんですってね、遥さんは同性愛者なんかじゃなかった、よくもわたしを騙してくれたわね、ほかの人と結婚したからもう手遅れよ、とか何とか』
「どんな人?」
『見たところ俺らと同じくらいの年齢だと思う。どうやら運転手付きの車で来てたらしくて、身なりも良かったし、いいところのお嬢さんって感じに見えた。あ、でも結婚してるんだよな。名前を聞いとけばよかったんだけど……悪い』
「気にしないで」
 おそらく遥との結婚を狙っていた令嬢のひとりだ。遥は同性愛者だからとあきらめてほかの人と結婚したのに、それが違うとわかり、協力した富田に八つ当たりしたというところだろう。
 これだけの情報があれば、彼女が誰なのかは調べればわかるかもしれない。ただ、これ一回きりのことなら突き止める必要もないだろう。下手に関わるとなおさらやっかいなことになりかねない。
『しかし、なんでバレたんだろうな』
 そう、問題はなぜ偽装が露見したのかということだ。
 いままでも疑われることは少なくなかったが、決定的な証拠はなく、二人も答えを濁しているのでグレーなままである。ただ、どちらにも女性の影がないということで、かなりの信憑性をもたれているのが現状だ。
「澪あたりが口をすべらせたのかもね」
『あー……』
 偽装であることを知っている人間はそう多くない。
 口をすべらせるとすれば双子の妹である澪くらいだろう。基本的に口止めをすれば守ってくれるし、頭も悪くないが、かなりそそっかしいところがあるのだ。あとで本人に確かめたほうがいいかもしれない。
「ほかの人にもバレてるかもしれないから、しばらくは気をつけて。富田の手に追えないようならこっちで対処する。また何かあったらいつでも連絡して」
『ああ、おまえも気をつけろよ』
 遥との結婚を目的に近づいてくる女性はいるかもしれないので、そういう意味ではもちろん気をつけなければならないが、富田のように直接的な危害を加えられる可能性は低いと思う。
「そういえば会社のほうは大丈夫だったの?」
『おまえの名前は出さないから心配するな』
「じゃなくて、問題にならないかってこと」
『ま、大丈夫だろう』
 富田は何でもないかのように受け流した。
 会社でそんな騒ぎを起こせば、処分はされなくても説明は求められるはずだ。好奇の目にさらされることも避けられない。それなのに文句のひとつも言わないのだから、なおさら申し訳ない気持ちになる。
「面倒なことに巻き込んで本当にごめん」
『いいって。もう報酬はもらってるしな』
「報酬?」
『あ……俺、そろそろ昼メシ行かないと』
「うん、また電話する」
『じゃあな』
 どこか焦ったような声を最後に通話が切れた。
 一瞬、報酬というのが何なのかわからなかったが、おそらく一年半ほどまえのキスのことだろう。澪の身代わりとしてそれを求められていると勘違いし、不意打ちでしてしまったのだ。
 しかも富田にとってはあれが初めてだった可能性がある。当時はかなり酔っていたのでそこまで考えが至らず、翌日になって気付いたが、彼がどう思っているのかは確かめられずにいた。
 しかし報酬と表現していたことから考えると、きっとそれなりの価値は見いだしているのだろう。そのことにいまさらながら安堵を覚えた。澪への恋心をだいぶこじらせていることは心配だが——。
 そっと溜息をつくと、手にしたままだった携帯電話で澪にかけ、呼び出し音を聞きながら彼女が出るのを待った。

『いままで一度だって身内以外に話したことないよ。訊かれてもわからないって答えてるし、そもそも最近は訊かれてもないし。大学のときみたいに面識ない人に突撃されることもないから』
 ペアリング偽装の件を誰かに話さなかったかと尋ねると、澪はこう答えた。そそっかしいが記憶力は良いので信じていいだろう。確かに、研究所にまで突撃する輩がそうそういるとは思えない。
『もしかしてバレたの?』
「多分ね。富田が会社に乗り込んできた女に殴られたって」
『うわぁ……じゃあ、七海ちゃんも気をつけてあげないと』
「一応ね」
 富田が偽装なら、七海が本命と思われる可能性もないわけではない。かつて一部でそういう疑惑はあったのだ。澪が否定してくれたおかげで下火になったものの、今後どうなるかはわからない。
『あれ、七海ちゃんとはまだよりを戻せてないんだっけ?』
「ああ……まだっていうか、もう付き合うことはないけど」
『え、あきらめたってこと?』
「しつこくしすぎたせいで泣かれたからね」
『何それ……』
 電話越しでもわかる不満そうな声。彼女の思いきり眉をひそめた顔が目に浮かぶ。
『七海ちゃん、絶対に遥のことが好きだと思うんだけどなぁ』
「どっちにしても期限まであと一週間だし、どうにもならないよ」
『うーん……もういっそ押し倒しちゃえばいいんじゃない?』
「は?」
 思わず耳を疑った。
 そんな尊厳を踏みにじることをして上手くいくわけがない。保護者として友人としてそばにいることを許されているのに、七海本人の意思を蔑ろにして無理やり行為に及ぶなど、信頼を裏切ることに他ならない。だいたいそのつらさは澪自身がわかっているはずなのに——。
『最後まであきらめちゃダメだからね』
「……切るよ」
『うん、頑張って!』
 その能天気な声にますます苛立ち、思いきり眉をひそめながら通話を切った。意識的にゆっくりと呼吸をして気持ちを鎮めると、携帯電話を折りたたんでスーツの内ポケットにしまう。
 しかし——澪でないとすれば、どこから偽装の件が漏れたのだろう。
 春頃から大伯母がひそかに見合い相手を見繕っているらしいので、そのうわさ話を聞きつけての憶測かもしれないが、ただの憶測だけであそこまでの行動に出るのは不自然な気もする。
 ちなみに大伯母はペアリングの偽装については知らない。指輪には気付いているだろうが、恋人がいても婚約までに別れればいいと考えているので、いまのところあまり気にしていないようだ。
 とりあえず富田と七海には護衛をつけておこう。何も起こらないかもしれないが念のためだ。正式に婚約者が決まるまでは——遥は急ぎ足で和食ダイニングへ向かいながら、無意識に眉を寄せた。

 その日の夕方から富田と七海に護衛をつけた。
 どちらも本人には内緒なので、ある程度の距離をおいて見守ることになる。富田のほうはひとまず通勤中だけにしたが、七海のほうは通学中に加えて、大学内でも可能なかぎり見守るよう命じた。


 6月28日(木)

「あなた、橘の里子の坂崎七海さんね」
 大学を出たところで、七海はワンピースを着た細身の女性に呼び止められた。その声には自信に満ちた高圧的な響きがある。実際かなりの美人で、まるでモデルのようにメイクされていて爪先まで隙がない。
 七海は眉をひそめ、警戒心を露わにして彼女を見据えた。
「そうですけど……」
「すこしお時間をいただけないかしら。話があるの」
「そのまえに自分から名乗るのが礼儀だと思うけど」
「八重樫由紀。八重樫グループってご存知?」
 彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言う。その名を出しさえすれば何でも思いどおりになると思っているのだろう。実際、誰でも知っているくらい有名な財閥系の企業グループである。
 しかし七海はそんなものに萎縮することも媚びることもない。ただその話を聞いて何かを察したらしく、表情を引きしめてすこし考える素振りを見せると、挑むような視線を由紀に送る。
「グランドハリントン東京のラウンジでなら話を聞きます」
「ええ、それで構いませんわ」
 由紀は余裕たっぷりに艶然と微笑んだ。
「坂崎さんもご一緒にどうぞ」
 そう言い、ワンピースの裾をひらめかせて軽やかに身を翻す。彼女の向かうさきには黒塗りの大型セダンが停まっており、白い手袋をした運転手が後部座席の扉を開けて、恭しく頭を下げていた。
「僕はタクシーで行きます」
 七海はきっぱりとそう告げると、大学のまえで客待ちしていたタクシーをつかまえて、さほど遠くない場所にある約束のホテルに向かった。

「遥さんと別れていただきたいの」
 適度にざわめいている五つ星ホテルのラウンジで、由紀はそう切り出した。
 二人の前にはまだ口をつけていないアイスティーが置かれている。七海は無表情のままグラスに手を伸ばしてストローで半分ほど飲むと、あらためて正面の由紀に冷ややかな目を向ける。
「どうして?」
「あなたのせいで遥さんが結婚を渋っているそうなの。遥さんはお優しい方だから、気まぐれに手をつけたあなたを無下にできないんでしょうけど、あなたが遥さんにふさわしくないことは自分でもおわかりでしょう? 遥さんのことを思うならあなたが自ら身を引くべきだわ」
 由紀は華やかなローズ色の唇に悠然と笑みをのせた。
 それでも七海は表情を崩さず、淡々と答える。
「僕がふさわしくないっていうのは否定しないけど、その要望には応えられない。だって付き合ってもないのに別れられないでしょ? 僕はただ里子としてお世話になってるだけだから」
 由紀は整えられた栗色の細眉をひそめた。
「そんな見え透いた嘘なんかにごまかされないわよ」
「別に信じなくていいけど事実だし。遥に聞けば?」
「待ちなさい!」
 もう用はないとばかりに席を立った七海に、鋭い一声を浴びせた。
 しかし七海は動じることなく黒のリュックを肩に掛ける。
「そうそう、遥ってコソコソと陰険なことをする人は嫌いだから、あなたとの結婚はないと思うよ。今日のことは全部そのまま遥に報告するつもりだし」
 バシャッ——。
 カッと怒りを露わにした由紀が、一口も飲んでいなかったアイスティーを七海の顔めがけてぶちまけた。顔だけでなく胸元や腕までぐっしょりと濡れ、七海は呆然とする。足元には落ちた氷がいくつも転がっていた。

「そのとき近くにいた親切なお姉さんが、ホテルの人に言って場所を借りてくれて、タオルや着替えも用意してくれたんだ。ほんと助かったよ」
 七海から聞いた話は、あらかじめ護衛から受けていた報告と同内容だった。
 ちなみにこの親切なお姉さんが護衛の一人である。七海を守れなかった不手際を謝罪していたが、怪我もなかったことだし責任を問うつもりはない。そばにいられないため対応が難しいことは承知している。
 しかし当の七海はほとんど危機感を持っていないようだ。今回はアイスティーを掛けられただけなのでまだよかったが、怪我をさせられる危険性があるということを、わかっていないのかもしれない。
「七海、知らない人は無視すればいいからね」
「でも気になるんだもん」
 彼女は悪びれもせず言い返す。
「一応、話をする場所は人目のあるところを選んだし、移動も二人きりにならないようにしたし、これでもちゃんと考えて行動してるつもりだよ」
「まあ、そこは評価するけど」
 護身術だけでなく危機回避についても教えてきたが、とっさに実践するのはなかなか難しい。これならひとまず及第点だといえる。しかしながらそれを素直に褒められる状況ではない。
「好奇心に負けて必要もない話に応じるのは感心しない。百歩譲っておとなしく話を聞くだけならいいとしても、煽るのはやめてほしい。帰りぎわの捨て台詞はいらなかったよね」
「だっていいかげん頭に来てたしさ……気をつけるけど……」
 七海はきまり悪そうに口をとがらせる。
 身を案じての苦言であることは理解しているのだろう。彼女の負けず嫌いなところを愛おしく思っているし、捨て台詞も痛快ではあったが、やはり危ないことはなるべく避けてもらいたいのだ。
 遥は湯気の立たなくなったハーブティーを飲んで息をついた。七海もつられるように残り少ないハーブティーを飲み、クッキーを口に運ぶと、どこか遠慮がちにこちらを窺いながら声をかけてくる。
「ねえ、遥……あんなのと結婚するの?」
「まだ誰とも見合いさえしてないよ。でも七海の言ったようにあの子はないね。何度か顔を合わせたことはあるけど、自信家でチヤホヤされてないと気がすまないタイプで、もともといい印象はなかったから」
 見合い相手が決まっているかどうかも知らないが、たとえその中に八重樫由紀がいたとしても決して選ばない。見合いもしたくない。以前から遥に色目を使っていたが嫌悪感しかなかった。
 おそらく今回のことは彼女個人の暴走に違いない。八重樫グループとしてなら他にいくらでも利口な手段があるだろう。間違っても、わざわざ愚かな娘を差し向けたりはしないはずだ。
「よかった。いくらなんでもあれはひどいなって思ってたんだ。見合いだけで本性を見抜くのは難しいかもしれないけど、あんま変な女にひっかかるなよ」
「……気をつけるよ」
 軽く笑みさえ浮かべながら平然とそんな心配をする七海に、遥は静かに微笑み返す。それなら七海が結婚してくれればいいんだ——喉まで出かかったその言葉をどうにか飲み込みながら。


 6月29日(金)

「坂崎七海さんですね」
 大学を出たところで、七海はスーツを身につけた男性に呼び止められた。年のころは四十前後だろうか。落ち着いていながら凛とした佇まいは、いかにも仕事ができそうな理知的な雰囲気を醸し出している。
 七海は怪訝に一瞥して通り過ぎようとしたが、男性の動きのほうがそれよりすこしだけ早かった。まるで足を封じるかのようにすっと彼女の前に進み出ると、丁寧な所作で名刺を差し出す。
「弁護士の堂島と申します」
「何の用?」
 七海は仏頂面で名刺を受け取りながら尋ねる。その目はスーツの襟についた弁護士バッジを確認していた。確かにひまわりを模した小さなバッジがついている。金色でなく銀色なのはメッキが剥がれたからだろう。
「場所を変えましょう」
 堂島はそばで待機している黒いセダンに促そうとするが、七海は身を守るように後ずさった。それでも強気なまなざしで彼を睨んでいる。
「グランドハリントン東京のラウンジでなら話を聞く」
「……まあいいでしょう」
 堂島は鼻で笑いながらも七海の条件を飲んだ。
 前日と同じように同乗は断り、七海はひとりタクシーをつかまえてホテルに向かった。

「橘遥さんと別れていただきたい」
 前日と同じ開放的なラウンジで向かい合って座り、頼んだホットコーヒーが運ばれてくると、堂島はいきなり何の前置きもなくそう切り出した。七海は驚きもせず胡乱な視線を送る。
「弁護士ってそんなこともするんだ……依頼人は誰?」
「それはお話しできません」
 依頼人に身元を伏せるよう頼まれているのだろう。こうなると弁護士はよほどのことがないかぎり口を割らない。七海もそのあたりのことはわかっているらしく、しつこく問い詰めようとしなかった。
 堂島は眉ひとつ動かすことなく本題に戻る。
「別れるだけでなく、完全に縁を絶って二度と会わないでいただきたい。転居先や各種手続きなどはすべて私がお世話をいたします。もちろん相応の謝礼もご用意させていただきました」
 そう言うと、黒のダレスバッグから帯付きの札束を取り出し、テーブルの中央に二列に積み上げていった。当然のようにすべて一万円札である。
「一千万あります」
「やっす……」
 七海はあきれたようにつぶやいた。
「こんなので動くわけないじゃん。金に目がくらまない女ならそもそも意味ないし、金に目がくらむ女なら一千万より御曹司を選ぶ。弁護士先生なんだからもうすこし頭を使ったら?」
 その挑発に堂島はいささか面食らったようだ。しかしそれは一瞬のこと。弁護士としての闘争心に火がついたのか、うっすらと口元を上げ、よどみなく流れるように反論を唱え始める。
「坂崎さん、あなたが橘の御曹司と結婚できるなどと本気でお考えですか? 亡くなられたご両親はともに孤児だったと聞きました。こう言っては何ですが、どこの馬の骨ともわからない娘を後継者の妻になどしないでしょう」
「結婚も何も付き合ってすらないけどね」
「えっ」
 それは交渉の前提条件を覆す発言だった。
 依頼を受けただけの彼に真偽を判断する術はないはずだ。それでもほとんど動揺した様子を見せることなく、素早く思案をめぐらせると、気を取り直したようにすっと居住まいを正す。
「それが事実かどうかは問題ではありません。完全に縁を絶って二度と会わない、それさえ約束していただければ一千万は差し上げます。付き合っていないのなら受け取ったほうが得策かと思いますが」
 七海は無言でホットコーヒーを一口飲み、ふうと息をつく。
「僕さ、それじゃ全然足りないくらいの借金があるんだよね。遥に。就職したら一生かけて返すって約束してるから絶縁は無理。まさか弁護士先生が借金バックレろなんて言わないよな」
 堂島の眉がピクリと動いた。それでも表面上の冷静さは消えていない。
「では、もう一千万ご用意しましょう」
「だから全然足りないんだってば」
「……少々、お時間をいただけますか」
 彼は携帯電話を取り出してどこかに掛けようとする。おそらく依頼人と相談するつもりだろう。七海はそれを待つことなく椅子から立った。
「無駄だよ。いくら積まれたって受け取らない」
「お待ちください!」
 堂島は携帯電話を手にしたまま、あわてて七海の行く手を塞ぐように立ちはだかる。それでも七海に動揺はなかった。黒のリュックを背負い、刺すような冷たいまなざしを堂島に向ける。
「弁護士先生なら強要できないってことくらいわかるよね。あ、コーヒーぶっかけたら暴行罪だから」
 そう言うと、棒立ちになった堂島を軽やかによけてラウンジを出ていった。

「今日はぶっかけられなくてよかったよ」
 無邪気にそんなことを言う七海を見て、遥は嘆息した。
 今日もあらかじめ護衛から報告を受けていたので、何があったかは知っていたが、七海にはまるっきり反省している様子が窺えない。どう言い聞かせればいいのか考えるだけで頭痛がする。
「煽るのはやめてって言ったよね」
「それは……ごめん……」
「気持ちはわかるんだけどさ」
 正直、報告を聞いて胸のすく思いもあった。金を積まれても少しも揺るがず、相手が誰であろうと堂々と渡り合い、弁護士でさえやり込めてしまう、そんな七海をあらためて好きだと思った。
 ただ、それで危険にさらされる事態になっては困る。弁護士ならそうそう暴力に訴えはしないだろうが、今後どういう人物が出てくるかわからない以上、なるべく相手を刺激しないでほしいのだ。
 ティーテーブルに置いた弁護士の名刺に目を落とす。
 これだけで依頼人を突き止めるのは難しいかもしれない。素性を隠しているくらいだから、顧問弁護士を差し向けたりはしないだろう。おそらく別の弁護士にこの件のみを依頼しているはずだ。
 遥と七海が付き合っていないと聞いて驚いていたらしいので、八重樫とは別口だと思うが、揃いも揃ってなぜそんな事実誤認をしていたのかが解せない。よほど巧妙なデマを流されているのだろうか。
「七海、しばらく護衛をつけさせてほしい」
「え、護衛って……そんな物々しいの嫌だよ」
「わがまま言ってる場合じゃないよ」
 すでにひそかには護衛をつけているものの、本人に気付かれないよう護るには限界がある。離れているためとっさの事態には対応できないのだ。昨日アイスティーを掛けられたときのように。
「今度はいきなり襲ってくるかもしれない」
「そんなの言い出したらキリないじゃん」
「だから護衛をつけたいって言ってるんだ」
「こんなときのための護身術だろ」
 七海には橘に来るまえから継続的に武術を教えている。主に護身術だ。まさにこういうときのためである。教えたことは一通りできるようになっているので、自分の身くらいは守れるという自負があるのだろう。
「だけど相手のほうが腕が立つこともある」
「そんなに心配ならとっとと結婚しろよ」
 そう苛立ったように言い放たれ、遥は息をするのも忘れて呆然とした。確かに他の女性と結婚してしまえば、いや婚約さえしてしまえば、七海が恋人と誤解されることもなくなるが——。
 七海は華奢な背もたれにそっと身を預けて、溜息をついた。
「弁護士先生の言うように、僕がいなくなったほうがいいのかもね。付き合ってはいないけど、僕のせいで遥が結婚を渋ってたのは事実なんだろ。結婚するのに元カノがひとつ屋根の下にいるのもおかしいし」
「駄目だ!」
 焦るあまり、遥は思わず前のめりで声を荒げた。
 それでも彼女はまったく動じていなかった。表情をほとんど変えずにそれを受け止めると、そのまなざしにかすかな侮蔑の色をにじませつつ、遥を見据える。
「でも、成人すれば僕の意思で決められる」
「…………」
 七海が本気で出ていこうとすれば止められない、そう思い知らされた。
 認めたくないが彼女の言うことはもっともなのだ。かつての恋人をいまも想いつづけているだけでなく、里子であることを隠れ蓑にそばに置こうとするのは、結婚相手に対して不誠実といえる。たとえ二人のあいだに何もないとしても。
「安心して。黙って行方不明になったりしないから。お金も返さなきゃいけないし、出ていくって決めたらちゃんと話すよ。剛三さんにも遥にも。具体的なことはまだ何も考えてないしさ」
 七海はそう告げてニコッと微笑んだ。小さなクッキーをひとつ口に放り込むと、半分ほど残っていたハーブティーを一気に飲み干す。
「じゃあね」
 軽やかに席を立ったその背中を、遥はただ黙って見送ることしかできなかった。
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