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25. 新しい傷
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「遅いよな」
ジークが長い沈黙を破った。向かいのリックは、彼の表情を盗み見ると、すぐに目を伏せた。
「心配ないよ。ラウルもいるんだし」
前向きな言葉とは裏腹に、その声は弱々しく説得力がなかった。
ジークはアンジェリカの寝顔に目をやった。もう何度目だろうか。アンジェリカを見て、下を向いて――ずっとその繰り返しだった。彼はぼんやりと思った。彼女の顔をこんなにしっかり眺めたのは今日が初めてかもしれないと。
「このままずっと起きないなんてこと、ないよね」
さっきよりもいっそう力のない声で、リックがつぶやいた。ジークはカッとしてその声に振り向いた。
「ラウルが言ったこと聞いてなかったのかよ。大丈夫だって言ってただろうが」
腹の奥から低い声を絞り出し、怒りを抑えながら、その言葉を噛みしめた。眉間にしわを寄せると、うつむいたリックを睨みつける。
リックは少し顔を上げると、不安げに眉をひそめた。
「そうじゃなくて……。前にサイファさんが言ってたこと。眠ったままなかなか起きなくなるって……」
ジークは小さく息をのみ、動きを止めた。あのときの、息を詰まらせたサイファの表情が頭をよぎった。顔をこわばらせ下唇を噛むと、再びアンジェリカに目を向けた。
──ガガガッ。
静寂の中、突如、濁った音が響き渡った。ジークのビクリとして振り向いた。それは、隣のリックが立てた音だった。彼は椅子から立ち上がり、ジークに笑いかけていた。
「何か食べるものを買ってくるよ。朝から何も食べてなかったよね」
ジークは、そう言われて初めて自分の空腹感に気がついた。リックはカーテンをくぐろうとして動きを止めた。
「そういえばさ。言葉をかけるとか、手を握ってあげるとか、そういうことがいいらしいよ」
「は?」
唐突なリックの言葉に驚き、ジークは振り返った。それと同時に、リックの手から落ちたカーテンが、ふたりの間を仕切った。揺れるクリーム色の布の向こうで扉の開閉する音がして、リックは医務室を出ていった。
ジークは口を開けたまま呆然としていた。ふと我にかえり、ついさっきの記憶を反芻する。頭の中で、リックの言葉が再び流れた。
「……わけわかんねぇやつ」
そうつぶやくと、背もたれに体を預けた。その動作の中、視界の端にアンジェリカが映った。彼は、自分の顔が熱くなるのを感じた。ジークは彼女の閉じられたまぶたを横目で見つめた。
「いつまでも寝てると、すぐに追い越すからな」
小さな声でそう言うと、手の甲でアンジェリカの頬を優しく二回たたいた。彼女の頬は少し冷たかった。
しばらくしてリックが戻ってきた。
「どう?」
カーテンをくぐり椅子に座ると、買ってきたサンドイッチのひとつをジークに手渡した。
「いや、なんとも……」
ジークはリックと目を合わせずに、サンドイッチを受け取った。そして袋を開けると、勢いよくかぶりついた。リックもそれに続いてサンドイッチを口にした。
ふたりは無言で食べ続けた。
「パンくず、こぼしてる」
微かに聞こえたかぼそい高音。ふたりはパンを口に入れたままで、すべての動きを止めた。そして、同時に声のした方へ振り向いた。
「アンジェリカ!! 目が覚めたか!! 大丈夫か!! 平気か!!」
ジークは身を乗り出して、黒い瞳を確認しながら一気にまくしたてた。
「ちょっと、口から食べかけのものを飛ばさないでよ」
声こそ弱かったが、彼女の口調はいつもと変わらなかった。
リックは慌てて口の中のサンドイッチを流し込んだ。
「でも、ホント大丈夫? 痛む?」
そう言って、少し覗き込むようにして、彼女の表情を窺った。
「私、刺されたんだっけ」
アンジェリカは抑揚のない声でそう言うと、ベッドに横たわったまま頭だけを動かした。ジーク、リック、点滴、そしてベッドまわりをゆっくりと見渡していく。
「ラウルの医務室ね、ここ。……ラウルは?」
ジークは答えに詰まり、難しい顔をした。だが、リックはすぐに明るい声で答えた。
「ちょっと前までいたんだけど、何か用があったみたいで出ていったんだ。ご両親も一緒だよ。ご両親、ずっと付き添ってくれてたよ」
「リックも、ジークも、ずっといてくれてたんだ」
アンジェリカは天井をじっと見ながら、無表情でつぶやくように言った。
「……ありがとう」
彼女はリック、ジークへと、順番に目を移した。そして、微かに笑顔を見せた。
ジークはほっとすると同時に、胸が締めつけられるように感じた。
ガラガラガラ──。
扉が開く音。続いて複数の足音が聞こえた。
リックは椅子から飛び上がるように立ち上がると、カーテンの切れ目から飛び出した。
「アンジェリカが目を覚ましました!」
リックのその声のあと、小走りに駆ける音が近づいてきた。そして、シャッと軽い音とともに、カーテンが勢いよく開いた。
そこに姿を現したのは、サイファとレイチェルだった。ふたりの表情には、焦りと不安が入り混じっていた。しかし、アンジェリカの目が開いているのを確認すると、安堵の息をもらし、そこでようやく柔らかい表情を見せた。
アンジェリカは両親と目を合わせると、少しためらうように笑った。
「よかっ……た……」
レイチェルは言葉を詰まらせ、瞳を潤ませた。
ジークは椅子から立ち上がり席を譲った。サイファとレイチェルは、両側からアンジェリカの枕元に進むと、腰を下ろし、それぞれ彼女の手を取った。
「ごめんね」
レイチェルは、アンジェリカの手を両手で強く包み、それを額につけると目を閉じた。その姿は祈っているようにも見えた。サイファはアンジェリカの前髪をそっとかき上げ、にっこりと微笑んだ。
「彼らを送ってくるよ」
柔らかい声でそう言って立ち上がった。アンジェリカもにっこり微笑み、こくりと小さく頷いた。
「すっかり遅くなってすまない。門のあたりまで送るよ」
サイファはジークたちに振り返って言った。ふたりは無言で頷いた。
「またあしたね」
リックは軽く右手を上げ、アンジェリカに明るい声を投げかけた。アンジェリカは、レイチェルの助けを借りて、上半身をわずかに起こした。そして、にっこりと右手を上げて応えた。ジークも少し照れくさそうに視線を外しつつも、同じく右手を上げた。
「やはり、セリカの祖父が仕組んだことだったよ」
暗く静まり返った廊下に足音を響かせながら、サイファが声をひそめて言った。
「セリカはどうなるんですか?」
リックもまわりを気にしながら、小声で尋ねた。
「彼女も被害者だ。罪に問われることはないだろう」
それを聞いたふたりは、同時に軽く息をもらし表情を緩めた。
「君たちには本当に申しわけないと思っている。我々のことに巻き込んでしまった」
「巻き込まれたなんて、思っていません」
リックは即座に切り返した。いつになく、強くはっきりとした口調だった。ジークは少し驚きながらも、それに同意して頷いた。
「アンジェリカは大切な友人です」
リックはそうつけ加えた。きっぱりと言い放たれたその言葉に、ジークはただ頷くことしか出来なかった。彼はそんな自分を少し情けなく思った。
「君たちのような友人がいて、本当に良かった」
サイファはふたりに微笑んだ。
三人は王宮からアカデミーを通り、外へと出た。ひんやりした風が、頬を撫で、髪を揺らした。
ジャッ、ジャッ――。
校庭の薄い砂の上を、音を立てて歩いていく。門のところまで来ると、サイファは足を止め、ふたりに振り向いた。
「申しわけないが、私は戻らなければならない。ここで失礼するよ」
サイファは笑顔を作った。そして、少し真剣な顔になり、ふたりをじっと見つめた。ジークも、リックも、その瞳の強さに気おされ、一言も発することが出来なかった。
「これから、私はアンジェリカに事件の顛末を伝えなければならない」
重い言葉だった。
「あした、また来てもらえるか?」
「……はい!」
少しの間のあと、ふたりは同時に返事をした。サイファはわずかに口元を緩め、目を細めた。
「ありがとう」
そして、ジークとリックを両脇から抱きしめた。
魔導省の塔。その最上階の一室にあるサイファの部屋。ラウルは明かりもつけずに、窓際に立ち外を眺めていた。
ガチャ──。
扉が開き、そこからサイファが無言で歩み入ってきた。奥まで進むと椅子に座り、背もたれに身を預けた。椅子の軋む音が、静まり返った部屋に響いた。
「すまなかったな。席を外してもらって」
サイファは、ラウルに背を向けたまま静かに言った。ラウルも振り返ることなく口を開いた。
「アンジェリカの様子はどうだった」
「泣くでもなく、動揺するでもなく、ただ無表情で聞いていたよ。……だからこそ、怖いよ」
サイファは目を伏せた。そして、軽く息を吐くと、再び視線を上げた。
「レイチェルはどうだ」
ラウルは腕を組み、外を眺めながら、低い声で言った。サイファは上を向いたまま目を閉じた。
「アンジェリカの前では気丈に振る舞っていた。だが、自分を責めているよ。すべては自分のせいだと思っているようだ」
そして、ゆっくりと目を開くと眉根を寄せた。
「十年前、か……」
そうつぶやき、遠くを見やった。
「だが、まだすべては明らかになってはいない」
ラウルのその言葉に、サイファは息を止めた。ラウルは淡々と続けた。
「あれもウォーレンが催眠術を使い、息子を仕向けたとも考えられる」
「……そうだな。そして、ウォーレンにそれを命じたのはラグランジェ家の人間だろう」
そう言い終わるや否や、サイファは椅子を半回転させた。そして、ラウルの大きな背中に、鋭い視線を投げつけた。
「今さら蒸し返す気か? レイチェルを傷つけるだけだ」
「そのつもりはない。安心しろ」
ラウルはサイファに振り返った。窓枠にもたれかかり、まっすぐに彼の目を見つめた。サイファも負けじと強く見つめ返した。いや、見つめ返すというよりは、睨んでいるという方が近かった。
「私は時折、おまえのことがたまらなく憎くなる」
サイファは低い声で言った。その顔には複雑な表情を浮かべている。しかし、ラウルは表情ひとつ変えなかった。
「そうか」
その一言だけ口にすると、扉へと足を進めた。そして、ドアノブに手をかけたところで動きを止めた。
「アンジェリカの傷だが」
ラウルは背を向けたまま、静かに口を切った。サイファはアームレストをぐっと掴んだ。けわしい顔で次の言葉を待つ。
「多少、跡が残る」
ラウルは淡々と言った。しばらくそのままで待ったが、サイファは何の反応も返さなかった。ただ、沈黙が続くだけだった。ラウルはちらりと振り返り、椅子に座る彼の横顔を一瞥した。そして、扉を開けると部屋を出ていった。
サイファは奥歯を食いしばり、右足で床を蹴った。
ジークが長い沈黙を破った。向かいのリックは、彼の表情を盗み見ると、すぐに目を伏せた。
「心配ないよ。ラウルもいるんだし」
前向きな言葉とは裏腹に、その声は弱々しく説得力がなかった。
ジークはアンジェリカの寝顔に目をやった。もう何度目だろうか。アンジェリカを見て、下を向いて――ずっとその繰り返しだった。彼はぼんやりと思った。彼女の顔をこんなにしっかり眺めたのは今日が初めてかもしれないと。
「このままずっと起きないなんてこと、ないよね」
さっきよりもいっそう力のない声で、リックがつぶやいた。ジークはカッとしてその声に振り向いた。
「ラウルが言ったこと聞いてなかったのかよ。大丈夫だって言ってただろうが」
腹の奥から低い声を絞り出し、怒りを抑えながら、その言葉を噛みしめた。眉間にしわを寄せると、うつむいたリックを睨みつける。
リックは少し顔を上げると、不安げに眉をひそめた。
「そうじゃなくて……。前にサイファさんが言ってたこと。眠ったままなかなか起きなくなるって……」
ジークは小さく息をのみ、動きを止めた。あのときの、息を詰まらせたサイファの表情が頭をよぎった。顔をこわばらせ下唇を噛むと、再びアンジェリカに目を向けた。
──ガガガッ。
静寂の中、突如、濁った音が響き渡った。ジークのビクリとして振り向いた。それは、隣のリックが立てた音だった。彼は椅子から立ち上がり、ジークに笑いかけていた。
「何か食べるものを買ってくるよ。朝から何も食べてなかったよね」
ジークは、そう言われて初めて自分の空腹感に気がついた。リックはカーテンをくぐろうとして動きを止めた。
「そういえばさ。言葉をかけるとか、手を握ってあげるとか、そういうことがいいらしいよ」
「は?」
唐突なリックの言葉に驚き、ジークは振り返った。それと同時に、リックの手から落ちたカーテンが、ふたりの間を仕切った。揺れるクリーム色の布の向こうで扉の開閉する音がして、リックは医務室を出ていった。
ジークは口を開けたまま呆然としていた。ふと我にかえり、ついさっきの記憶を反芻する。頭の中で、リックの言葉が再び流れた。
「……わけわかんねぇやつ」
そうつぶやくと、背もたれに体を預けた。その動作の中、視界の端にアンジェリカが映った。彼は、自分の顔が熱くなるのを感じた。ジークは彼女の閉じられたまぶたを横目で見つめた。
「いつまでも寝てると、すぐに追い越すからな」
小さな声でそう言うと、手の甲でアンジェリカの頬を優しく二回たたいた。彼女の頬は少し冷たかった。
しばらくしてリックが戻ってきた。
「どう?」
カーテンをくぐり椅子に座ると、買ってきたサンドイッチのひとつをジークに手渡した。
「いや、なんとも……」
ジークはリックと目を合わせずに、サンドイッチを受け取った。そして袋を開けると、勢いよくかぶりついた。リックもそれに続いてサンドイッチを口にした。
ふたりは無言で食べ続けた。
「パンくず、こぼしてる」
微かに聞こえたかぼそい高音。ふたりはパンを口に入れたままで、すべての動きを止めた。そして、同時に声のした方へ振り向いた。
「アンジェリカ!! 目が覚めたか!! 大丈夫か!! 平気か!!」
ジークは身を乗り出して、黒い瞳を確認しながら一気にまくしたてた。
「ちょっと、口から食べかけのものを飛ばさないでよ」
声こそ弱かったが、彼女の口調はいつもと変わらなかった。
リックは慌てて口の中のサンドイッチを流し込んだ。
「でも、ホント大丈夫? 痛む?」
そう言って、少し覗き込むようにして、彼女の表情を窺った。
「私、刺されたんだっけ」
アンジェリカは抑揚のない声でそう言うと、ベッドに横たわったまま頭だけを動かした。ジーク、リック、点滴、そしてベッドまわりをゆっくりと見渡していく。
「ラウルの医務室ね、ここ。……ラウルは?」
ジークは答えに詰まり、難しい顔をした。だが、リックはすぐに明るい声で答えた。
「ちょっと前までいたんだけど、何か用があったみたいで出ていったんだ。ご両親も一緒だよ。ご両親、ずっと付き添ってくれてたよ」
「リックも、ジークも、ずっといてくれてたんだ」
アンジェリカは天井をじっと見ながら、無表情でつぶやくように言った。
「……ありがとう」
彼女はリック、ジークへと、順番に目を移した。そして、微かに笑顔を見せた。
ジークはほっとすると同時に、胸が締めつけられるように感じた。
ガラガラガラ──。
扉が開く音。続いて複数の足音が聞こえた。
リックは椅子から飛び上がるように立ち上がると、カーテンの切れ目から飛び出した。
「アンジェリカが目を覚ましました!」
リックのその声のあと、小走りに駆ける音が近づいてきた。そして、シャッと軽い音とともに、カーテンが勢いよく開いた。
そこに姿を現したのは、サイファとレイチェルだった。ふたりの表情には、焦りと不安が入り混じっていた。しかし、アンジェリカの目が開いているのを確認すると、安堵の息をもらし、そこでようやく柔らかい表情を見せた。
アンジェリカは両親と目を合わせると、少しためらうように笑った。
「よかっ……た……」
レイチェルは言葉を詰まらせ、瞳を潤ませた。
ジークは椅子から立ち上がり席を譲った。サイファとレイチェルは、両側からアンジェリカの枕元に進むと、腰を下ろし、それぞれ彼女の手を取った。
「ごめんね」
レイチェルは、アンジェリカの手を両手で強く包み、それを額につけると目を閉じた。その姿は祈っているようにも見えた。サイファはアンジェリカの前髪をそっとかき上げ、にっこりと微笑んだ。
「彼らを送ってくるよ」
柔らかい声でそう言って立ち上がった。アンジェリカもにっこり微笑み、こくりと小さく頷いた。
「すっかり遅くなってすまない。門のあたりまで送るよ」
サイファはジークたちに振り返って言った。ふたりは無言で頷いた。
「またあしたね」
リックは軽く右手を上げ、アンジェリカに明るい声を投げかけた。アンジェリカは、レイチェルの助けを借りて、上半身をわずかに起こした。そして、にっこりと右手を上げて応えた。ジークも少し照れくさそうに視線を外しつつも、同じく右手を上げた。
「やはり、セリカの祖父が仕組んだことだったよ」
暗く静まり返った廊下に足音を響かせながら、サイファが声をひそめて言った。
「セリカはどうなるんですか?」
リックもまわりを気にしながら、小声で尋ねた。
「彼女も被害者だ。罪に問われることはないだろう」
それを聞いたふたりは、同時に軽く息をもらし表情を緩めた。
「君たちには本当に申しわけないと思っている。我々のことに巻き込んでしまった」
「巻き込まれたなんて、思っていません」
リックは即座に切り返した。いつになく、強くはっきりとした口調だった。ジークは少し驚きながらも、それに同意して頷いた。
「アンジェリカは大切な友人です」
リックはそうつけ加えた。きっぱりと言い放たれたその言葉に、ジークはただ頷くことしか出来なかった。彼はそんな自分を少し情けなく思った。
「君たちのような友人がいて、本当に良かった」
サイファはふたりに微笑んだ。
三人は王宮からアカデミーを通り、外へと出た。ひんやりした風が、頬を撫で、髪を揺らした。
ジャッ、ジャッ――。
校庭の薄い砂の上を、音を立てて歩いていく。門のところまで来ると、サイファは足を止め、ふたりに振り向いた。
「申しわけないが、私は戻らなければならない。ここで失礼するよ」
サイファは笑顔を作った。そして、少し真剣な顔になり、ふたりをじっと見つめた。ジークも、リックも、その瞳の強さに気おされ、一言も発することが出来なかった。
「これから、私はアンジェリカに事件の顛末を伝えなければならない」
重い言葉だった。
「あした、また来てもらえるか?」
「……はい!」
少しの間のあと、ふたりは同時に返事をした。サイファはわずかに口元を緩め、目を細めた。
「ありがとう」
そして、ジークとリックを両脇から抱きしめた。
魔導省の塔。その最上階の一室にあるサイファの部屋。ラウルは明かりもつけずに、窓際に立ち外を眺めていた。
ガチャ──。
扉が開き、そこからサイファが無言で歩み入ってきた。奥まで進むと椅子に座り、背もたれに身を預けた。椅子の軋む音が、静まり返った部屋に響いた。
「すまなかったな。席を外してもらって」
サイファは、ラウルに背を向けたまま静かに言った。ラウルも振り返ることなく口を開いた。
「アンジェリカの様子はどうだった」
「泣くでもなく、動揺するでもなく、ただ無表情で聞いていたよ。……だからこそ、怖いよ」
サイファは目を伏せた。そして、軽く息を吐くと、再び視線を上げた。
「レイチェルはどうだ」
ラウルは腕を組み、外を眺めながら、低い声で言った。サイファは上を向いたまま目を閉じた。
「アンジェリカの前では気丈に振る舞っていた。だが、自分を責めているよ。すべては自分のせいだと思っているようだ」
そして、ゆっくりと目を開くと眉根を寄せた。
「十年前、か……」
そうつぶやき、遠くを見やった。
「だが、まだすべては明らかになってはいない」
ラウルのその言葉に、サイファは息を止めた。ラウルは淡々と続けた。
「あれもウォーレンが催眠術を使い、息子を仕向けたとも考えられる」
「……そうだな。そして、ウォーレンにそれを命じたのはラグランジェ家の人間だろう」
そう言い終わるや否や、サイファは椅子を半回転させた。そして、ラウルの大きな背中に、鋭い視線を投げつけた。
「今さら蒸し返す気か? レイチェルを傷つけるだけだ」
「そのつもりはない。安心しろ」
ラウルはサイファに振り返った。窓枠にもたれかかり、まっすぐに彼の目を見つめた。サイファも負けじと強く見つめ返した。いや、見つめ返すというよりは、睨んでいるという方が近かった。
「私は時折、おまえのことがたまらなく憎くなる」
サイファは低い声で言った。その顔には複雑な表情を浮かべている。しかし、ラウルは表情ひとつ変えなかった。
「そうか」
その一言だけ口にすると、扉へと足を進めた。そして、ドアノブに手をかけたところで動きを止めた。
「アンジェリカの傷だが」
ラウルは背を向けたまま、静かに口を切った。サイファはアームレストをぐっと掴んだ。けわしい顔で次の言葉を待つ。
「多少、跡が残る」
ラウルは淡々と言った。しばらくそのままで待ったが、サイファは何の反応も返さなかった。ただ、沈黙が続くだけだった。ラウルはちらりと振り返り、椅子に座る彼の横顔を一瞥した。そして、扉を開けると部屋を出ていった。
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