落下

大垣

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紙くずを投げる時

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 深夜、私は無性にビールが飲みたくなっていた。ホテルの部屋に入る前に廊下で見た自販機のことがやけに気になり始めたのだ。その時はあまり興味がなかったのに何故かふと目を覚ました今、飲みたいという感情が津波のように押し寄せて来た。もはやその気持ちは「飲まなければいけない」という強制の意味でさえ捉えることが出来た。日中のスキーで疲れているはずの体は何故か休息を取ることよりもビールを飲むことを優先させていた。
 私は手探りで枕元の小さな電灯のスイッチを探して押した。闇に包まれた部屋に蝋燭の火のようなぼんやりとしたか細い明かりが灯る。
 私は起き上がってスリッパを履くと、小銭を持ってゾンビのようにふらふらと歩き部屋から出た。ほとんど自分の意志ではないかのように思えた。
 
 自販機は廊下を少し行った先に並んで二つ設置されていた。右はアルコールで左はジュースなどの普通の自販機だった。自販機は暗い廊下の中で一際煌々と光っている。
 私は電灯に集まる蛾のようにその自販機の照明に誘われていった。歩いている途中、その光の中に人影が一つ動くのが見えた。どうやら私と同じような人がいるらしい。シルエットから何となく男だと分かった。
 (誰がいようが構いやしない)私はそう思った。
 自販機のすぐ近くまで来ると、夜には強すぎる光に照らされて男の顔がはっきりと見えた。ガウンを着た男は私と同じ三十代前半かそれより少し年上な印象を受けた。男は普通の自販機の方で何を買うか悩んでいる。
 男は近づいてくる私のことをちらりと見た後、自販機のボタンをピッと押した。がこん、という音がする。温かい微糖コーヒーのようだった。
 私はアルコールが並ぶ自販機の前に立った。様々な缶ビールやチューハイの姿が強烈な光と共に視界から脳へと飛び込んで来る。
私は湧水のようにこみ上がる生唾を感じながらどれを飲むか悩んだ。しばらく迷ったが結局普通の三百五十ミリリットルのスーパードライのボタンを押した。がこん、という缶ビールが落ちる音が深夜の静まり返った廊下に響く。私は急いでそれを手に取った。ひんやりとしたアルミ缶の感触が伝わってくる。そのとき、
 「眠れませんか?」という声が聞こえた。
 そこにはさっきの男が缶コーヒーを熱で温まるように両手で握って立っていた。
 「ええ、まあ」と私は言った。
 「こんな時間にビールですか。」と男はにたり、と微笑しながらいう。
 「急に飲みたくなったんです。」
 「いいですね・・・あの、どうです?不躾ですが、一緒に少し部屋で話しませんか。私も缶ビールを一つ買いましょう。私も何だか飲みたくなってきました。」
 私は男の急な誘いに少し考えた。普段からあまり知らない人間と話すのは好きではない。が、一人で来たスキー旅で誰とも話さないのも少し寂しいような気がした。誘ってきたからには喋りに自信でもあるのだろう。それに眠くなったらそう言ってすぐ引きあげてしまえばいいと思った。ともかく、私は早くビールを飲みたかった。
 「ええ、いいですよ。眠くなるまでなら。」と私は答えた。
 「それは良かった。では私の部屋に行きましょう。ロビーはもう寒くていられないでしょうし。ああ安心してください。私は別にゲイでもホモでもありませんよ。では案内します。」
 そう言って男は私と同じ缶ビールを一本買い、私の部屋とは反対方向に歩き始めた。私は缶のプルタブをカチカチと指でいじりながらついていった。
 部屋に入ると男は大きな照明をつけた。暖房は良く効いていて暖かい。荷物は整理されていて男も私と同じく一人で来ているらしかった。入り口にはスキーブーツやウェアが干されていた。
 「どうぞ上がって下さい。」と男は言った。
 男と私は窓の近くの椅子に座った。
 窓の外ではまだ雪がゆっくりと降り続いている。スキー場の照明はとうに落ち、町のクリスマスキャンドルのように僅かな灯が揺らめいているのが見えた。
 「ではまあ乾杯ということで。」
 と男が言うと、私はまるで飼い主によしと言われた犬のように素早く口をつけた。ビールは瞬時に苦みと刺激を伝えながら喉元を過ぎ、腹へと流れ込んだ。私の体は幸せな気持ちに覆われた。
 しかし、私はなぜさっきまであれほどビールを欲していたのか不思議なくらいに数口で満たされてしまった。自販機の前では五百缶を買うか迷っていたほどだったのにだ。
 「どうやらよほどビールが飲みたかったようですね。」と男は若干驚いた風に言った。
 「ええ、でも何だかもう十分満足してしまいました。さっきは飲まなければ眠れないぐらいぐらい欲していたんですけれど。」
 「そういうものですよね。なぜか飲まずにはいられなくなる。食べずにはいられなくなる。不思議なものです。誰にでもある強迫観念です。」
 「全く変なものです。」
 男と私はしばらく世間話をした。どこから来たのか、いつまで泊まるのか、ここのスキー場はどうか(ボーダーだったかもしれないが、何となくウェアや雰囲気で分かるものだ。)・・・。
 男は初対面でも話しやすかった。必要以上にこちらのことまで踏み込んでこず、丁寧で尚且つ気さくな話し方だった。独身貴族という言葉がよく似合った。
 しかしなぜかお互い名前だけは明かさなかった。
 ビールを半分くらい飲んだところで男が、
 「そうだ、さっきのビールのことと少し似ているかもしれませんが、前から誰かに話したかったことがあるんです。一つ話してみてもいいでしょうか。」と言った。
 「ええ、いいですよ。私なんかで良ければ。」と私はあっさり答えた。
 「長い話ではありませんよ。下らない話です。」と男は薄ら笑いを浮かべながら言う。
 「あれは大学の二年生の時でした。」
 そう言って男は話を始めた。
 「よく覚えています。その時大学は春休みで授業もないので私は下宿ですることもなくゴロゴロとだらけていました。ベッドで何度読んだか分からない漫画を読んだり、本を読んだりしていたんです。で、私は鼻炎を持っていてよく鼻をかみました。そんなことどうでもいいと思いますか?でもこれが大変だったのです。鼻炎が、ではなくてですよ。」
 私にはまだ話の方向が分からなかった。鼻炎が重要なのかどうかもよく分からない。私は相槌を打ちながらビールを口に運んだ。
 「鼻をかめば、ゴミが出ますよね。丸めたティッシュです。その時ゴミ箱が遠くにありました。ゴミ箱とリモコンはいつも遠くにある。不思議ですよね。でも私はベッドから出るのも億劫でした。そんな時どうしますか。」
 「投げる。」と私は答えた。
 「そうです。投げます。バスケットボールみたいにポイっとね。その時、私はふとあることを思いました。」男はビールで喉を潤した。
 「それは『これを外したら死ぬ』です。」
 男の口角が僅かに上がるのが分かった。
 「一度くらい思ったことはありませんか?ゴミを投げるじゃなくても構いません。子供のころ縁石の上を歩いてそこから落ちたらワニだかサメだかに食われるみたいな・・・。」
 私は少し笑いながら、
 「確かにやったことがありますね。」と答えた。
 「普通は子供の遊びですよ。でもその時だけは違いました。」と言って男はやや真面目な顔つきになった。
 「私は昔から軽い強迫障害みたいなものがありました。発表のような緊張した場面だと手が震えるくらいとても不安に駆られるのです。自意識過剰な面もあったと思います。・・・何だか病名を出すといくらか大袈裟な気もしますね。普段の生活に支障をきたす程ではありません。他人から見てもほとんど気がつかないでしょう。その気があると知っているのは私だけなのです。それも大学に入ってから色々自由になって随分と収まっていました。」
 「気持ちは分かります。」と私は何となく言った。ビールはもう残り少ない。
 「しかしながらそれは交通事故のように不意に私のことを強烈に襲ったのです!ここ数年起こっていなかった強迫症状が突如として沸き上がりました。それがティッシュを投げる時です。なぜかは分かりません。その時に今までで一番大きな波が来たのです。理屈じゃありません。『失敗したら死ぬ』と思った瞬間、私の心臓の鼓動はネズミの如く速くなったのです。手からは汗があふれ出しました。持っているティッシュが湿るのが分かるほどでした。軽い眩暈のようなものを覚え、意識が遠のきそうでした。」
 男は段々と真に迫る顔つきになっていった。
 「投げるのを止めたり直接入れようとは思いませんでしたか?」と私は尋ねた。
 「到底思いつきません。私は錯乱状態に陥っていました。投げることを止めるという選択はもはや出来ませんでした。私はもはやスキージャンプの滑走路を滑り出してしまっているんです。私には飛ぶか落ちるかしかありません。本当に狂いそうでした。」
 男はそういっている間にも顔色が悪くなっているようだった。何だか奇妙な話だと思った。
 「・・・大丈夫ですか?」と私は尋ねた。
 「ああすいません。思い出しただけでも嫌なものです。でも大丈夫です。最後まで話させてもらってもいいですか?そうでもないと眠れそうにありません。」と男は笑って見せた。
 「私も結末を聴きたいものです。」と私は答えた。話そのものには興味があった。
 「ありがとうございます。そして・・・私はついに投げる決心をしました。まるであとアウト一つ取れば優勝が決まるフルカウントの投手のような緊張感でした。額にもひや汗が流れます。口は渇き、腹の底から得も言えぬ高まりを感じました。遂に私は構え、ゴミ箱めがけてティッシュを投げました。私にはその瞬間がとてもスローに感じました。宙を舞う白いちり紙の形がはっきりと見えました。」
 「・・・どうなったんですか?」と私は思わず聞いてしまった。
 「入りました。綺麗なスリーポイント・シュートみたいにどこにも引っかからず、美しい放物線を描いて吸い込まれるようにしてです。私は安堵してしばらく身動き出来ませんでした。心臓の鼓動の音だけがしっかりと聞こえました。」
 男はそういうと喋りで枯れた喉をビールで潤した。顔色はすっきりとし先程のような落ち着いた様子に戻っていた。
 「それは良かったですね。もし外していたらどうなっていたんでしょうか。」と私は微笑しながら言った。中々面白い話が聞けたと思っていた。
 「そう、そこなんです。」と男は再び真剣な眼差しで私の目を見て言った。
 「あの時私はまるで背中にナイフを突きつけられているような気分でした。一体誰にでしょう。もう一人の自分か、あるいは悪魔か・・・。私は失敗していたらどうなったんでしょうか。本当に死ぬと思いますか?こんな子供の遊びのようなことで?」
 「まあ有り得ないでしょう。」と私は言った。
 「普通はそう思うでしょう。でも、私は成功したからここにいるとしたらどうでしょうか。もし失敗して、本当に死んだとしたら私は当然生きておらずあなたとこうして会話することはない。つまり、あなたも私も失敗していた時のことを知る由もないんですよ。もしかすると本当に死んでいたかもしれない。でも死因がティッシュを投げたことの失敗なんて誰が断定できるでしょうか。それは恐らく死を直感した当人だけです。片方の扉を開けたら、もう片方の扉の先の事は分からない。言っていることが分かりますか?」

 その後、私はもう寝ます、面白い話をありがとうと言って男の部屋を出た。男はこんな話はあまり身近な人に話せないから良かったと言っていた。はにかむ姿はもう誠実で優しそうな人物だった。
 私はまた薄暗い廊下を歩き途中ビールの缶を男のと二つ捨てた。カコン、と寂しく音がした。
 部屋に入ると私はトイレに行きその後真っ直ぐベッドに潜った。
 くしゅん、とくしゃみが一つでた。私は枕元のティッシュをとり鼻をかんだ。その時、私は背後から何かが迫ってくる感覚を覚えた。
 ゴミ箱は反対のテレビの方に置かれている。
 馬鹿な、と私は一人呟いた。あんな話、子供だましさと思った。外したら死ぬなんて・・・ありえるものか。
 私は二メートルほど離れているゴミ箱を見て、しっかりと狙いを定めた。
 そしていよいよ、ティッシュは宙へと放たれた。
 雪は一段と強く降り続けている。春はまだ先である。

               〈終〉












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