短編集 【11/1追加】

キザキ ケイ

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【シリアスBL】

きみとの別れとその顛末

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ぼくには大好きな恋人、幸介くんがいる。
でもどうしても、できればすぐに、別れなくてはならなくなった!
どうにかして、幸介くんのほうからぼくを嫌って別れてもらいたい。
そのために彼の嫌がることをたくさんして、ケンカ別れになりたいのに、なんだか余計に仲良くなっちゃってる気がして───?

【キーワード】
死ネタ / 溺愛年下攻め / 健気で空回りな年上受け / 現代 / 性描写あり


◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆



 ぼくには恋人がいる。
 かっこよくて、力が強くて、でも優しくて、年下で、男の恋人だ。
 ぼくは彼のことが大好きだ。
 でも、別れたい。


 それはもう迅速に、一日でも早く、ぼくは彼と別れなくてはならない。
 別れなくてはならなく……なった。
 気まぐれに、数年ぶりにふらりと行った病院の健康診断で、ぼくは大変な告知をされてしまった。
 そもそも健康診断なのに、大病院に紹介状を書かれた時点で変だと思ってたんだ。

「───、───……」

 お医者様の言っていることは、実はほとんどわからなかった。
 難しい言葉を言われている気がしたし、なにより呆然としてしまって、耳に残ったのはたったひとつ。
 すぐに治療を始めないと、来年の春は迎えられない。
 突然寿命が一年以下になってしまったぼくの脳裏に浮かんだのは、「彼を解放してあげる」それだけだった。

 ぼくの恋人───幸介こうすけくんは、20歳の大学生だ。ぼくとは10も離れている。
 きっかけは、彼が手当り次第にやっていたアルバイトの一つ、ハウスクリーニングの仕事でぼくの家に来て、ぼくが彼に一目惚れしたことだ。
 あくまで事務的な幸介くんと、久しぶりの恋に混乱していたぼくとでは、当然なにか起きるはずもなかった。
 でもぼくは諦めきれなくて、見ているだけでもいいからとハウスクリーニングの会社に彼を指名して契約継続を頼んだ。
 本来は担当者を指定するなんてことできないんだけど、ぼくはこれまでもずっとそこの会社に仕事をお願いしてきたし、金払いの良い客だし、なによりお互い男だからってことで、上手くいったようだ。
 それから毎週家に来るようになった幸介くんに、ぼくはアタックともいえない気弱な求愛を繰り返して───どうにかこうにか、両想いと呼べそうな状態にはなった。
 もともと幸介くんは異性愛者で、同性なんて考えられないと言っていた。
 だからぼくと付き合ってくれているのも、半分は情とか憐れみとか、そういうものに由来するんだと思う。これに関しては本当に悪いことをしたと思ってる。
 これまでは、罪悪感を抱きながらも彼を手放してやることはできなかった。
 でもこれからは違う。
 ぼくは大急ぎで彼と別れ、人生を終わらせる手続きをしなくちゃならない。

 順調にいっているぼくと彼の交際だけれど、実際はいくつか問題がある。
 彼はきれい好きで、ぼくは放っておけばすぐに汚部屋を作り出せる才能の持ち主だ。彼はぼくの部屋が散らかっているのが嫌いで、もう仕事でもないのにぼくの部屋を毎回整頓していく。
 ぼくが料理をしないのを責めるくせに、ぼくが包丁を握るのも嫌がる。
 一緒にお風呂に入るのも怖い顔で拒否されるし、ぼくが外で誰かと会うのも嫌う。
 これまでは彼のために、この辺のことにはできるだけ配慮してきたけど、別れるならこのことを上手く利用しない手はない。
 幸介くんがぼくのことを嫌いになって、愛想を尽かして出ていく。そして縁が切れる───これが最も良い方法だと思った。
 病気のことを告げるつもりは、はじめからなかった。
 彼はたくましくて男前だけれど、本当は寂しがりやで涙もろくて、人一倍情に厚いひとだ。
 ぼくの病気を知ってしまえば、彼はぼくを見捨てられなくなるだろう。ぼくの死を想像して泣いてしまうかもしれない。
 恋人を看取り、死に水を取るには彼は若すぎる。
 男と付き合っていたという事実ごと、彼の過去になる。それが一番彼の将来に汚点を残さない、良いやり方だ。

 まずは部屋を汚すことにした。
 ぼくはよく、アイディアを思いつくとそのへんの紙にそれを書き留める。書くための道具はなんでもよくて、鉛筆でもボールペンでも筆ペンでも、目についたもので目についた紙に書きなぐる癖があった。
 今日はそうしたメモ書きを、クレヨンで、大きく大げさに、床や壁にまではみ出るくらい書く。
 さらにコンビニで買ってきたお菓子やお弁当の袋やケースを、食べたそのまま散らかした。
 飲む習慣はないけど、お酒やジュースもいくつか買ってきて、飲み終わったままそのへんに転がす。
 脱いだ衣類を放置するのも忘れない。
 こうして彼がうちに来るまでの三日で、立派な汚部屋が完成した。

「……なにこれ」

 たった三日、目を離していた間にいつもの何倍も汚くなったぼくの部屋を見て、幸介くんはしばし絶句していた。
 ぼくは誇らしく胸を張りたい気持ちをぐっと抑え、つんと顔を背ける。

「知らない。片付けてよ、幸介くん」

 わざと高飛車に、偉そうに言うぼくを幸介くんは二度見していた。
 どうかこのまま怒ってしまって、「もう知らない!」って出ていってくれ。
 ぼくはそう、心から願っていたけど、幸介くんは無言でゴミ袋を持ってきて部屋を片付けはじめてしまった。
 床にクレヨンの油汚れがあるのを嫌そうに見て、それでも文句も言わず掃除していく。
 アテが外れて身の置き所がないぼくを放って、部屋はどんどん綺麗になってしまった。さすが元ハウスクリーナー、手際が良い。

「これからはちゃんと片付けろよ、あお

 ゴミ袋の口を縛りながら幸介くんが言うのを、ぼくはしゅんとしながら聞くしかなかった。
 汚部屋作戦は失敗だ。
 そもそも僕の部屋は多かれ少なかれいつも汚い。心の広い幸介くんはこのくらいで怒ったりしないと、よく考えれば分かっていた気がする。
 ならば仕方ない、次の作戦だ。
 ぼくは不慣れな包丁を握りしめて、キッチンに立った。
 幸介くんはゴミを捨てに外に行っている。今のうちにおいしくない料理を作って、彼が「こんなもん食えるか!」とちゃぶ台をひっくり返したところでケンカに持ち込み、別れる。次はこれだ。
 といってもぼくは幸介くんとは違って、難しい料理はできない。
 せいぜいが卵焼きとか、簡単な味噌汁くらいだ。
 おいしくない料理とはいっても、食材を全く無駄にするのは、ぼくの良心が咎める。
 なので卵焼きには砂糖をこれでもかと詰め込み、味噌汁は反対に色が付く程度だけ味噌を入れた薄味に。あらかじめ水多めで炊いていたべちゃべちゃのご飯と一緒に食卓に並べ、彼を待つ。
 ぼくが料理をして待っていたことに、戻ってきた幸介くんはとても驚いていた。

「なんだ、明日は槍でも降るのか」

 勘のいい彼が訝しそうにしていたけど、ぼくはなんとか笑顔を保って食卓に誘う。
 ごはんはべちゃべちゃで箸で掬えないし、味噌汁はほぼお湯みたいな味で、野菜も生煮え。卵焼きは焦げてる上に甘ったるすぎてもはや別物で、食べながら笑みを浮かべ続けるのも限界だった。
 でもはじめから顰めっ面だった幸介くんは、どういうわけかぼくのおいしくない昼食を文句も言わず、全部平らげてしまった。

「ど、どう? おいしかった?」
「……」

 おいしくない、こんなもの作るなって言ってくれたらぼくが噛み付いて、ケンカに持ち込むこともできたのに、幸介くんはむっつり黙り込んでさっさと食べ終え、ぼくの分まで空いた食器を片付けにキッチンへ消えてしまった。
 まずい食事で怒らせる作戦も失敗。
 いよいよあとがなくなってきた……。

 前から一緒に見ようといっていた映画のDVDを、幸介くんは借りてきていた。
 ソファに並んで画面を見つめる。
 彼は映画やドラマを静かに見るのが好きだから、ぼくはことさら絡んで何度も話しかけた。
 幸介くんは鬱陶しそうにして、でもぼくのほうも映画の内容がすばらしくて、いつしか声を出すのを忘れていた。
 エンドマークが画面に浮かぶ頃には、ぼくは涙でぐしゃぐしゃになってしまっていた。

「いい映画だったな」
「うん……最後主人公がみんなを助けるために……うぅっ……」
「あぁ、いいシーンだったな」

 泣き崩れるぼくを幸介くんの大きな手が撫でさすってくれる。
 ぼくはいつものようにその手に擦り寄ろうとして、なんとか思いとどまった。
 情けない姿を見せてしまったが、ぼくは彼と別れなくてはいけないんだ。ラブラブなカップルみたいなことはもはやできない。
 心を鬼にして幸介くんの手を払い、距離を取る。
 彼は目を見開いて驚いて、手を引っ込めた。
 ぼくは罪悪感で心臓がぎゅうっと縮まって、痛みに悲鳴を上げそうになった。
 でもこんなことで悲しんでなんていられない。ぼくは彼の手を永遠に離してあげなくてはいけないんだから。

「……お風呂はいる」
「あ、あぁ」

 急にそっけなくなったぼくに戸惑った様子の幸介くんを置いて、お風呂場に逃げた。
 シャワーを浴びるのには早すぎる時間だけど、戻っても間が持たないしつらいだけなので仕方なく湯を張り、情けなく歪んだ顔をごしごし洗う。
 幸介くんは変に思っただろうか。
 怪しむのではなく、いらつく方向に行ってほしい。彼はとても心優しい青年だけれど、一人前に気が短いところがあるし、ぼくは何度も生活態度のことなどを怒られている。
 怒って、イラついて、ぼくを放って行ってほしい。

 なんとか浴室で落ち着きを取り戻したぼくは、またつんとそっけない態度でリビングに戻った。
 幸介くんはそこにはいなくて、キッチンから音が聞こえてくる。
 いつものように幸介くんが、ぼくのとは違う、おいしいご飯を作ってくれているらしい。
 嬉しくて笑み崩れそうになるのを必死に堪えて、ぼくはこのチャンスを活かすことにした。
 キッチンから呼ばれても無視をする。
 いつもならお皿を出したりサラダやスープを取り分けに手伝うぼくが来ないので、幸介くんは不思議そうにしながらも、自分で全部配膳を済ませた。

「晩飯できたぞ」
「いらない!」
「……は?」
「いらない。ぼく食べない!」

 クッションを胸に抱きかかえてそっぽを向く。
 怖くて向こうを見られない。きっと幸介くんは怒ってぼくからクッションを取り上げ、無理矢理に食卓へつかせようとするはずだ。
 ぼくはそこで抵抗して、揉み合いになって、幸介くんは怒って部屋を出ていく。
 実際ぼくがそういう幼稚な態度を取ったことは何回かあって、ケンカになったこともあった。だから上手くいくはずだ。
 そんな予想を立てたのに、幸介くんはまた顰めっ面をしただけで、それ以上なにも言ってこなかった。
 一人で食べて、ぼくの分はラップをして冷蔵庫に入れて。「腹減ったら食べろよ」と言うだけで、キッチンへ引っ込んでしまった。
 食器を洗う水音が聞こえる。
 ぼくはまた心臓が痛くなって、服の上から胸を抑えた。抱え込んだクッションが痛がりそうなほど握りしめて、痛みと悲しみに耐える。
 片付けを終えて出てきた幸介くんは、持ってきたリュックを肩にしょってぼくの前に立った。

「明日早いから今日は帰るけど」
「……」
「……」

 ぼくが返事をせず、目も合わせずにいると、幸介くんは怒ることなくそのまま出ていった。
 顔を見なくても、戸惑い不思議そうに首を傾げていたのが手にとるように分かる。
 静かになった部屋で、ぼくはやっと動き出すことができた。
 冷蔵庫に収められたお皿を取って、ラップを剥がす。少し冷めてしまったけど、彼の作る煮物はどれも絶品だ。懐かしい味がする。

「おいしい……」

 彼の料理ももう食べられない。
 ぼくはいつも以上にひと口ひと口を大切に、幸介くんの手料理を食べた。

 ぼくはそれからも、汚部屋作戦や彼の嫌がりそうなことを続けた。
 時折幸介くんは、とてもイライラした表情を浮かべることがあった。
 そんなときぼくはすかさず挑発して、ケンカに持ち込もうとするのだけど、どうしてか幸介くんの方がのってきてくれない。
 今までだったら幸介くんはぼくを何度も叱りつけて、ぼくが弱々しく反論して、それを正論で捻じ伏せられる。ぼくが謝って、仲直り。そんな流れになっていたというのに。
 幸介くんはここのところ全然怒ったりせずに、機嫌の悪そうにするだけで終わっていた。言い合いにもならない。
 ぼくは日に日に焦りが募っていた。

 今日も今日とて、幸介くんが嫌がることをする。
 久しぶりに、泊まりのつもりで来たらしい彼がシャワーを浴びている音が聞こえる。
 彼はお風呂を一人で楽しみたいタイプだ。幸介くんの引き締まった体を見たくて、ぼくは何度も乱入したけど、そのたびに追い出されてしまう。
 今日もそのつもりで、ぼくは服をすべて脱ぎ捨てて浴室へ突入した。

「幸介くん」
「うわっ! おま、何入ってきてんだよ」
「一緒にお風呂はいろ!」

 ぎょっとして立ち尽くす幸介くんを押しのけて、湯船に入る。
 行動しながらもぼくは、違和感を覚えていた。
 ちゃっかりお湯に浸かっちゃっているけど、普段ならもう追い出されている頃だ。このままだと念願の一緒にお風呂が成立してしまう。
 すごく嬉しいけど、今はそのはずじゃなかった。
 なんだか無性に恥ずかしくなって、湯船の中で縮こまる。
 すると信じられないことに、幸介くんもバスタブに入ってきたではないか。

「もうちょっと詰めて」
「えっ、えっ! こ、幸介くん?」
「なんだよ」
「え……いつも、ぼくがお風呂はいろうとすると怒るじゃん」

 すっかり湯船に収まった幸介くんは、今思い出したみたいな顔で「あぁ」とつぶやくと、僕の腕を引っ張った。
 幸介くんに腕を引かれたりすれば、力が弱くて運動不足のぼくは為すすべがない。ついでに体を反転され、気がついたらぼくは幸介くんにすっぽり抱きかかえられてしまっていた。

「俺がなんで毎回蒼を追い出すか、知ってるか?」
「うぅん」
「はぁ……。おまえの裸見たら、我慢できなくなるからだよ」

 幸介くんの手のひらが妖しくぼくの体を這い回る。
 彼の言葉を咀嚼する前に、正直者なぼくの体はすぐに熱くなって、全面降伏してしまった。

「あっ……ここで、するの」

 首筋に歯を立てられ、強く吸い付かれる。
 背骨を下っていく幸介くんの唇の感覚に震えると、宥めるみたいに前面を撫でていた手が下腹に及んだ。
 ぼくの雄芯はとっくに硬さを持っていて、背後で含み笑いする幸介くんの吐息にすらその角度を変えてしまう。
 どんなに虚勢を張ったって、幸介くんの専用みたいに作り変えられてしまった体は従順に彼を迎え入れた。浴室にずっと、見慣れないボトルがあるのが気になっていたけど、まさかローションだったなんて。

「はぁっ……は、あ、ぁ、こうすけくん……っ」
「苦しくないか?」
「ん、だいじょぶ、きもちぃっ……」

 荒々しく突き上げ、でもいつものように優しくぼくの頬を撫でながら様子を伺ってくる幸介くんに、ぼくはとろとろに溶かされてしまう。
 案の定というか、ぼくはのぼせてしまい、幸介くんに抱っこされて寝室へ運ばれた。
 結局、彼が嫌がることをしてケンカ別れする作戦は全部失敗。
 むしろぼくは幸介くんと念願のお風呂エッチまでできてしまって、もっと仲良くなってしまったような気がしてならない。
 もう、時間も手段も残されていない。
 最後の作戦は、できればやりたくなかったけど、もうそんなことも言っていられなくなった。

 いつも利用しているカフェで、いつも飲むコーヒーを頼み、人を待つ。
 人嫌いというわけでは決してないんだけれど、ぼくはあまり他人に好かれるタイプじゃない。どうにも相手を怒らせてしまったり、呆れさせたりしてしまうので、交流のある人間は少ない。
 だからこうして連絡を取り合う相手は貴重だ。たとえそれが仕事の関係でも。

「先生、おまたせしました」
「うぅん、待ってないよ」
「原稿は先日いただきましたが……なにかお話があるとか?」

 走ってきたのか、少し汗をかいている彼にコーヒーを進める。
 ぼくがいつもホットコーヒーで、彼はいつもアイスコーヒーだ。付き合いが長いのでお互いの好みもすっかり分かっている。先に注文しておいてあげるのもいつものことだ。
 彼はおいしそうに冷たいコーヒーを流し込み、ぼくは彼の目をじっと見た。

「寺沢さん、今日はお願いがあって呼んだんだ」
「お願い、ですか?」
「うん。一生の、最後のお願いになると思う」
「嫌ですよ先生、不吉なこと言わないでくださいよ…………え?」

 ぼくが真剣な顔をしているので、寺沢さんは最初笑っていたのをすぐ引っ込めた。
 本当はぼくの個人的な悩みに、寺沢さんを巻き込むつもりはなかった。彼がぼくと付き合いを持っているのは、仕事だからだ。
 ぼくは作家で、彼は担当編集者。付き合いが長いと言ってもそれだけの関係。
 だから断ってくれていい、と前置きして相談したけれど……寺沢さんはそれを受けてくれた。
 それが先生のためになるのなら、と、とても不安そうな表情で。

「幸介くん。呼び立ててしまってごめんね」
「いや、いいけど……そちらは?」

 ぼくから珍しく電話を受けた幸介くんは、すぐに家に来てくれた。
 ソファに座るよう促す。いつも座るぼくのとなりではなく、来客用の一人掛けの席だ。
 ぼくの隣には寺沢さんが座っているから。

「申し遅れました、先生の担当の寺沢と申します」
「はぁ、どうも」

 名乗ってもぼくの隣から退かない寺沢さんに、幸介くんはとても訝しい目を向ける。
 これは、寺沢さんに迷惑をかけるだけじゃなく、幸介くんを傷つけるやりかただ。本当はやりたくなかった。
 でもぼくには時間がない。もう、一刻の猶予もない。

「単刀直入に言うよ。ぼくと別れてくれないか」
「……は?」
「ぼくは彼を好きになってしまったんだ。寺沢さんとはもう長い付き合いでね……友情が愛に変わることもあるだろう?」

 わざとらしく寺沢さんの肩に寄り掛かる。
 事前の打ち合わせ通りに、寺沢さんがぼくの背に腕を回してくれた。

「君には申し訳ないが、先生……蒼さんは私に任せてください」
「え」
「そういうわけだから。もうこの部屋を片付けることも、ぼくに付き合うこともない───いままで楽しかったよ、ありがとう」

 寺沢さんの手がぼくの髪をくすぐって、ぼくは幸せそうにみえるように精一杯微笑む。
 呆然と立ち尽くしていた幸介くんは、小さくなにかつぶやいて、背を向けた。結局座ることのないまま、ドアを開け、部屋を出ていった。
 ぼくはゆっくり寺沢さんから離れる。寺沢さんもさっきまでの名演っぷりが嘘みたいに、ぎこちなく距離を取った。

「先生……本当にいいんですか。彼のこと、すごく好きだって私に何回も惚気けてきてたのに」
「うん、いいんだ」

 ぼくは笑顔を作る。
 不自然じゃないだろうか。ちゃんと笑えているかな?
 寺沢さんは諦めたように頷いて、少し時間をずらして部屋を出ていった。幸介くんと鉢合わせたらいけないからと言っていたけど、たぶん彼はもう帰ってしまっただろう。電車に乗って、彼の日常へ。
 ぼくなんて必要のない、彼の人生へ。正常な道へ、やっと戻してあげられた。

「大好きだったよ、幸介くん」

 誰もいない、もう誰も来ない部屋でひとり呟く。
 心臓が、心がえぐれるように痛かったけれど、ぼくはやるべきことがまだある。すぐに腰を上げて、作業を始めた。

 病院で診断を受けたとき、ぼくは覚悟を決めていた。
 治療はしない、延命もしない。
 でも痛いのは嫌だから、痛みを取り除く緩和ケアだけは受けたいと思って、調べて、準備をしていた。
 ぼくの家系にはこの病気の人が何人もいる。ぼくの祖父も、父もそうだった。
 だから彼らがどんなに苦しんで、苦しみぬいて死ぬか知ってる。周りの人の負担が大きいことも。
 祖父は人相が変わるくらい痛みを感じながら亡くなった。
 父は当初は治療をしていたけれど、治らない病に見切りをつけ、痛みを取り除く方針に転換した。亡くなる頃には穏やかで、眠るように息を引き取っていった。
 ぼくは痛いのは大嫌いだ。終末期ケアで父が救われていたことも知っている。
 だから早々とそういう施設を探して、身の回りの整理をして、準備を進めた。
 もしこの病気になったら、と考えたことは何度もあったから、そのシミュレーション通りにすればよかった。
 誤算だったのは、思ったより発病が早かったこと、ぼくに恋人がいたこと。
 病気のリスクを考えれば、ぼくは幸介くんに想いを伝えるべきじゃなかった。でも恋はつらくて、苦しくて、吐き出してしまった。
 その結果両想いになってしまうなんて、そのときは予想もしていなくて。
 幸介くんと付き合い始めて、ぼくは世界が180度変わってしまったのかと思った。
 毎日が楽しくて、幸介くんが近くにいてもいなくても幸せだった。
 彼に触れられると肌が過敏になったみたいに、その指先に引っ張られる。彼に触れると、互いの皮膚が邪魔だと思うくらい隙間なくくっついていたくなる。
 だから忘れてしまっていた。病気のこと、別れのこと。

 その施設はとても綺麗で、白い建物が空に浮いているみたいに幻想的な場所だ。
 日当たりの良い一室を気に入って、ここに決めた。
 部屋を引き払って、不要な家具や日用品を処分して、残ったものはごく僅かだった。
 ぼくはもう大人だから、幸介くんにプレゼントを贈ることはよくやったけど、幸介くんはお金がない学生だからモノをもらうことはほとんどなかった。
 だから持っていくものもない。思い出だけが心をあたたかくしてくれる。
 紙とペンだけは持ってきた。
 寺沢さんが懇願してきたからだ。あなたはきっと書くことをやめられない、どうか要らないと思えるまで書いてくれ、って。
 彼はぼくの創作者としての一面を誰より深く理解していたと思う。
 ここに来てから何度、紙とペンの存在に救われただろう。
 薬を飲んでいても痛む体を持て余して、ぼくは今まで以上にたくさん書いた。それだけが救いだった。
 寺沢さんにだけは、ぼくの行き先を伝えてある。
 もしかしたらぼくが死んだ後、ここで書いたものをまとめて出版したりするだろうか?
 そう考えるとなんだかちょっとこそばゆくて、でもやりがいがあって良いなと思う。

 日がな一日やることがなく、考え事をするか書き物をするかしかないぼくの暮らしには、よく幻の幸介くんが現れる。
 ぼくが薬の効き目でぼうっとベッドで過ごしていると、音もなく現れて、そっと寄り添ってくれた。

「幸介くん……」

 忘れられるはずもない見慣れた指先が、ぼくの手に触れる。感触はない。
 当然だ、これは幻影なのだから。
 薬の副作用には軽い幻覚の症状もあると聞いていた。だからぼくは取り乱すことも、ことさら喜ぶこともなく、蜃気楼のような姿を受け入れる。
 ぼくは彼を手酷く突き放してしまった。でも許されるのなら、死の間際まで彼の幻と共に在りたい。
 彼の中でぼくがもう過去になってしまったとしても。

 幸介くんはベッドの周辺だけでなく、ぼくの近くによく現れた。
 日向ぼっこをしに出た中庭や、廊下を歩いているとき、食堂で食事をしているときなど。
 幻はしゃべらないし、表情もあまり定かではない。でも彼のようなものが傍にいて、時折感触のないなにかが触れるだけで、ぼくは天にも昇る心地になった。
 嬉しくて、哀しかった。
 彼の幻がぼくの傍にあるとき、二度と会えない本物の彼のことを想ってしまう。
 でも本当はぼくには、幻影の幸介くんと一緒にいる資格すらないのだから、現状をありがたく受け入れるべきだ。当然、理解している。

「幸介くん、好きだよ」

 ぼくのつぶやきにも彼は表情を変えない。
 微笑みにも、顰めっ面にも見える口元を動かしもせず、ただ傍にいてくれる。
 本物の幸介くんだったら、こんなぼくになんて言うだろう。
 楽しい想像を膨らませ、失った過去を抱いて、命の灯火が消えるまで彼と過ごす。
 こんな日々も、幸せと呼べるもののひとつなのかもしれないと、思った。





 いたみどめが効いていると、いたくない。
 くすりがきれてしまうと、体中どこもかしこもいたくて、くるしくて、息ができない。
 いよいよ、そのときが迫っているのだろう。
 幸介くんのまぼろしは、しばらくすがたを現さなかった。
 ぼくはずっとさみしくて、でもまぼろしであっても、彼を死にゆくぼくのそばにおかないことが正解のようなきがして、あきらめることにしていた。
 なのに、さいきんまた、彼のまぼろしをみる。

「こうすけ、くん」

 ベッドによこたわるぼくの右がわに、幸介くんがいる。
 ちかごろあまり見えないぼくの目に、どうしてか、泣きそうなひょうじょうの彼が見えるきがした。
 まぼろしの幸介くんの表情が変わるのをみるのははじめてだ。
 右手があたたかくなった気がして、みると、幸介くんの手につつまれていた。
 あたかかい。でも、感触はない。

「……あったかい、ね」

 まぼろしでもいい、その手をにぎりかえしたいのに、ゆびさきにはぜんぜん力がはいらなくて、ぼくはこれもあきらめた。
 幸介くんはますますなきそうに顔をゆがめて、なにかをつぶやいているように見える。
 おかしいなぁ。きょうは元気だったときみたいに、いろいろなものがよくみえる。
 まぼろしの幸介くんが声をだすこともはじめてで、ぼくは嬉しくなった。
 なんていってるのかな。きこえないかな。

「蒼、愛してる。いかないでくれ」

 あぁ、きこえた。なんて嬉しいことば。
 ぼくが幸介くんに言われたなかで一番すきなことばを、まぼろしの幸介くんも、いってくれるんだ。
 うれしいなぁ。しあわせだなぁ。
 ぼくはね、幸介くんがしあわせなら、ぼくがしあわせじゃなくてもいいんだよ。知ってた?

「おまえがいないと俺はしあわせになれない」

 まぼろしの幸介くん、すごいデレるんだね。
 ほんものの幸介くんはぜったいそんなこといわないのに。なんだかおかしくなっちゃった。
 わらうと咳がでて、口のなかがいやな味のものでうめつくされてしまう。
 まぼろしのかれがあわててしまって、それもまたおかしかった。

「こう、すけくん」
「なんだ蒼」
「だいすきだよ……だいすき」

 あたたかい右手があついくらいで、ぼくは体中がしあわせにつつまれていることを知った。
 ぼくのことをずっと見守ってくれてありがとう。
 ほんものの幸介くんにも、いまぼくがかんじているしあわせがほんのちょっとだけでも、つたわるといいなぁ。
 ぼくがしんだら、ぼくは魂になって、幸介くんのところへいこう。
 彼はぼくがしんだことを、いつか知るかもしれない。
 でもだいじょうぶ、ぼくがこのしあわせをいっぱい分けてあげたあとだから。
 幸介くんはしあわせなきもちだけ持って、ぼくじゃないだれかと、ずっとしあわせになれるんだ。うれしいなぁ。

 もう、痛みも苦しみもない。
 あるのはあたたかな気持ちだけ。
 あなたのおかげでぼくはずっと幸せに生きられました。どうか、ぼくのことは忘れて、幸せになってね。幸介くん。



おわり
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