3 / 14
03.発覚
しおりを挟む
穏やかで優しかったブレイズはもういない。
なぜそうなってしまったかといえば、きっとあの日からだ。
喫茶店で初めてシムの絵が売れた日から、ブレイズはまめに連絡をくれるようになった。
シムの絵が完成するのには、一枚につき三日ほどかかる。二枚か三枚ストックができると、その頃を見計らってブレイズが連絡をくれる。
幸いなことに、時折シム宛に電話が来ることを大家はそんなに嫌がらなかった。耳に心地よいブレイズの声と、ハイソサエティを窺わせる柔らかい物腰は女性受けが良さそうだ。
シムの家賃滞納がなくなったことも相まって、大家の態度は明らかに軟化していた。
ブレイズに絵を見てもらうにあたって、彼はシムの作品をすべて買っていくわけではなかった。ダメ出しも、きつい評論も言われる。そうして批判された作品は、シム自身も方向性に迷った末の出来であるため、ブレイズの慧眼には内心舌を巻いた。
「シムの絵は素直だから、見たらすぐわかる。これに納得していないということがね」
木枠の角を指先でピンと弾かれたその一枚は、どうしても思うように色が出なかったものだった。
イメージ通りに描けなかった作品は、仕上がりにも迷いが滲む。ブレイズはそれを読み取っているだけだと言う。
「なんだか、恥ずかしいです……ブレイズの前でぼくは、とんでもなくすべてを曝け出してしまっているんじゃないかって」
シムはここのところ、やっとブレイズ相手になめらかに会話できるようになっていた。
これまでは緊張して言葉が出てこなかったり、不自然に高い声が出てしまったりしていた。名前も「Mr.」から呼び捨てに変わっている。
羞恥に俯くシムを、ブレイズは笑った。
蔑む笑いではなく、子供を諭す親のような微笑だ。
「それはそうだよ。作品づくりというものは、多かれ少なかれ自分を削っていく仕事だろう。シムはたまたま作品に自分が出やすいようだけど、わたしとしてはその方が嬉しいかな」
「どうして?」
「いつもどこか一線引いているシムの、心の内側に一番に触れられる役割だからね」
役得だよ、などと言ってくるブレイズのどこまでが本心なんだろう。
シムはごまかすような気分で、手元のコーヒーを啜った。
あれから何度もブレイズと共に訪れている喫茶店は、言わなくても勝手にコーヒーが出てくるようになっていた。
テラスに出るドアの横には、かんたんな額に入れられたシムの絵が飾ってある。こんな高待遇で飾ってもらえるのなら色を塗って渡せばよかったと、後日後悔したものだった。
先程ダメ出しを受け、引っ込めた絵を見つめる。
今日シムは、ブレイズに言いたいことがあって来ていた。
ひとつずつ作品を検め、三枚のうち二枚を買い取ってもらえることになった。ブレイズが代金を入れた封筒を差し出してくるのをじっと見つめる。
「シム?」
「あの、ブレイズ。ぼくの……ぼくの部屋に来ませんか?」
無意識に手の中のキャンバスをを握り締めてしまった。
シムにとってこの誘いは、とても勇気が必要だった。
田舎にいる頃から親しい人間はあまりいなかった。体質のことがバレたらと思うと、誰かのそばにいることは難しい。両親とも距離がある。シムは孤独だった。
それが、ブレイズと出会ってからいいこと続きだ。
大家はシムに優しくなった。下の階の住人とも挨拶くらいは交わすようになった。町中の人々から刺すような視線で見られていると思っていた日々は、穏やかな住人の表情を窺う余裕すら出てきた。
それもこれもすべてブレイズのおかげだと、シムは信じていた。
もっと彼と親しくなりたい。もっと絵のことを話したい。シムの作品に思うことがあるなら聞いてみたい。
日に日にその欲求は高まり、ついに今日シムは勇気を振り絞ることにした。
勢い込んで問いかけたせいか、ブレイズは目を丸くしてきょとんとしている。
急に恥ずかしくなってシムは俯いた。仲良くなりたいと思っているのはシムだけで、こんな誘いは迷惑なだけかもしれない。
慌てて撤回しようとしたシムは、穏やかに微笑むブレイズの表情に硬直した。
「嬉しいよ、シム。画家にとって他人をアトリエに入れるのは、気を許した証拠だというからね」
「ぁっ……そ、そんな大それたことじゃ……ただもう少し、ブレイズと話したくて、ぼく……」
「もちろん招待を受けよう。これからついて行けばいいかい?」
「えっ! あ、ありがとう!」
了承してもらえたうえに、これから来てくれるという。シムは舞い上がってしまいそうな気持ちを必死に押さえつけ、震える手でコーヒーを飲み干した。
横に並ぶブレイズの顔をまともに見ることもできないまま、アパートメントへの道を急ぐ。
後先考えず誘ったはいいが、自室の清潔さが気になり始めた。いつも掃除はしているし、ブレイズを誘おうと決めてからは毎日天井まで埃を払い、雑巾掛けをして過ごしたから不衛生ではないはずだ。しかし部屋の壁はところどころ絵の具が散っているし、収納が少ないので画材は出しっぱなしだ。テーブルもベッドも古びているし、シムの淹れるコーヒーは豆をケチっているためあまりおいしくない。堂々と人を招けるような家では、そもそもないのだ。
でもどうしても、ブレイズに来てほしかった。
その衝動がどこから来るものなのか、シムはよく理解できていなかった。
アパートメント内では誰ともすれ違わなかった。
大家がいれば大騒ぎになったかもしれないので、人気がないのは好都合だろう。
物珍しそうに建物内を見渡しながらついてくるブレイズを気にしつつ、最上階まで上がる。さらにはしごに手をかけると、ブレイズは目に見えて驚いていた。
「さぁ、あがって。狭くて申し訳ないのだけど……」
「おじゃまするよ」
シムは先に部屋の奥へ行き、初めての客を迎えた。
革靴とスーツで慎重にはしごを上ったブレイズは、部屋の中を見回して感嘆の声を漏らしている。口が半開きになっていて、幼い仕草が珍しくシムは少し笑った。
「本当に狭いでしょう」
「あぁ……あ、いや。屋根裏とは聞いていたが、予想以上だ……」
「いいんだよ、狭くて汚くて埃っぽいことはわかってる。でもぼくはけっこう気に入っているんだよ」
屋根に沿って斜めについたガラス窓を押し開ける。建物四階相当のここは、窓を開けると風がやや強い。
青が多い乾いた空と黒い点のような鳥たち、ところどころ高い建物だけが見える街並み。それだけで絵になりそうな風景がシムは好きだった。
ブレイズは部屋の中を見て周り、最終的には画材と描きかけの絵の前に陣取った。
シムは苦笑して、その横にしゃがみ込む。
「すごいな。不思議な絵の具を使うとは思っていたが、こんな色は見たことがない」
「そ、そうかな? 市販品とそう変わらないと思うけど」
心臓が不自然に跳ねたことを悟られないよう、シムは精一杯とぼけた。
一度ブレイズに顔料について尋ねられたことがあった。なにか特別なものなのかと。
シムにとっては慣れ親しんだものだったから、そこに着目されるとは思っていなくてしどろもどろにごまかしたことしか覚えていない。確かその時は、市販のものになにか混ぜ物をしているとか言ったのだったか。
シムの絵の具は現在、唾液と涙液が主だった。比較的出すのがかんたんで、使いやすい色が出る。
ただ、パレットに唾液を垂らしている光景などブレイズには絶対に見られたくないので、真相を話す気はなかった。
ブレイズはシムの返答などどうでもいいのか、パレットや絵筆を熱心に見つめていた。それ以上追及されなかったことにほっとする。
「好きに見ていていいし、触ってもいいよ。今お茶を入れるね」
「あぁ……」
生返事が返ってきて、シムは再び小さく笑った。
コーヒーは泥水のようにしかならない。シムはそれでも飲むが、ブレイズにそれを飲ませるのは気が引けた。それよりは、同じようなインスタントでも新しいティーバッグを出せるお茶のほうが飲める代物になるだろう。
アパートメント全体で共用のキッチンへ走り、お湯を沸かして急いで戻る。
住み始めた頃は片手でやかんを持ったままはしごを上ることができず、途方に暮れたものだった。二年も住んでいれば慣れたものだ。
部屋に入るとブレイズはまだ画材を見ていた。
まだ鉛筆の線画だけの、微妙に歪んだキャンバスを持って眺めている。思いっきり張りを間違えたそれをじっと観察され、シムは恥ずかしさに頭が沸いてしまいそうだった。
「ブレイズ、お茶だよ」
「あぁ、ありがとう。つい夢中になってしまった」
「そんなに面白いものがあったかな?」
ベッドにぽすんと座ると、ブレイズは向かいにある椅子に腰を下ろした。
手には描きかけデッサンのまま放置した8号キャンバスがある。
「もちろん、興味深いものばかりだよ。芸術家ってみんないくらか気難しいところがあって、描きかけの絵や手足に等しい道具なんか触らせてもらえないから」
満足そうにつぶやくブレイズの言葉に嘘はなさそうで、シムは照れた。彼の中ではシムのような、吹けば飛ぶ枯れ葉の如き絵描きも芸術家という括りのようだ。
「それにわたしは、きみのファンなんだ。シモンズ・キーンのアトリエに入れるなんて、ファン冥利に尽きるよ」
「そんな、ファンだなんて。ブレイズは褒めるのが上手だね」
「お世辞じゃないさ。この絵も、どんなふうに完成するのか……今から楽しみだよ」
抱えたキャンバスを見つめるブレイズは、鉛筆の線だけの生地に未来の完成図を透かし見ているかのような、熱の篭もった目をしていた。
髪の色と同じ、明るいブラウンアイが黄金色に光ったように見えて、シムはなぜだか背筋を震わせた。
(彼にはなんだか不思議な魅力がある)
芸術家はみな気難しいなどと話してはいたが、きっとブレイズは優雅な物腰と零れんばかりの笑みで、そうした芸術家とも上手く折り合いをつけているに違いない。
大した金にならない作家へも、こうして接待の心を忘れないのだから。
彼は公平で公正だ、いっそ残酷なまでに───。
(? どうして残酷だなんて考えてしまったんだろう、彼はこんなに優しいのに)
自らの内に突如沸き起こった思考に、シムはしばし沈んだ。
その様子をブレイズがこっそり見ていたことには、気が付かなかった。
窓から差し込む光がすっかり傾き、オレンジ色に染まり始めた頃、はっと気がついた。
思ったより自己分析の海に沈んでしまっていたらしい。慌てて周囲を見回すと、ブレイズはさっき見た姿勢のまま、シムが淹れたお茶を飲み干したところだった。
「ブレイズ、ごめんなさい。ぼうっとしてしまっていたみたいだ」
「いいんだよ。きっとまた素晴らしい作品の構図が浮かんだんだろう?」
「……うん、そんなところ」
咄嗟に嘘をついてしまったことが後ろめたく、シムは顔を背けた。
ブレイズが立ち上がり、椅子の背にかけていたコートとジャケットを持って部屋の戸へ歩く。
「偉大なシモンズの思索を邪魔しては悪いから、わたしは帰るよ。お茶と、貴重な体験をどうもありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。来てくれてありがとう、下まで送るよ」
「それには及ばない。それより早く作品を描いてくれ。いちファンとして、先生の次回作を首を長くして待っているからね」
きざなウィンクを残して、ブレイズはさっさと出ていってしまった。
その未練のなさがなんとなく寂しいと同時に、「描きたい」という欲求が腹の奥底からふつふつと湧き出してくるのを感じる。
(よし、描こう。日没まではもう少しあるはず)
シムは画材を引っ張り出し、背丈の低いイーゼルにキャンバスを立て掛けた。
それはさっきまでブレイズが持っていた、下書きだけのものだった。
一刻も早くこれに色をつけたい。
気が急いていた。すぐに描き始めたい、しかしパレットには一筆目にふさわしい色が乗っていなかった。シムの絵の具は在庫制のような部分がある。絵を描く前に必要そうな色をイメージしながら体液を絞り出すことで、作業をスムーズに進めることができる。
しかし今は色が足りず、創作意欲は早く早くと異様なまでにシムを攻め立てる。
普段は滅多にしない禁じ手を、シムは使うことにした。
パンを切ったり果物の皮を剥くための、小さな折りたたみナイフ。
それを指先に押し当て、皮膚を切る。
ぷつりと血が玉のように出て、すぐに伝い落ちた。
パレットに触れた真紅は、すぐさま粘度の高い焦げ茶色の絵の具に変わる。
ブレイズが部屋に来たとき開け放った窓が、風でびりびりと鳴っている。
いつもより少しだけ強い風圧は、はしごを上る音をかき消していたのだろう。
「ごめん、かっこいいこと言っておいて忘れ物を……」
ノックと同時に扉が開いて、照れた顔のブレイズが床に座るシムを見た。
ナイフを握りしめ、指から滴る血を止めようともしていない。
赤い珠が落ちる先にはパレットがあり、血溜まりはなく、空気に触れたそばからそれは色を変える。
時間が止まったように感じた。
「シム……それは、」
ブレイズの声が掠れ、途切れて、シムは自らの失敗を悟った。
なぜそうなってしまったかといえば、きっとあの日からだ。
喫茶店で初めてシムの絵が売れた日から、ブレイズはまめに連絡をくれるようになった。
シムの絵が完成するのには、一枚につき三日ほどかかる。二枚か三枚ストックができると、その頃を見計らってブレイズが連絡をくれる。
幸いなことに、時折シム宛に電話が来ることを大家はそんなに嫌がらなかった。耳に心地よいブレイズの声と、ハイソサエティを窺わせる柔らかい物腰は女性受けが良さそうだ。
シムの家賃滞納がなくなったことも相まって、大家の態度は明らかに軟化していた。
ブレイズに絵を見てもらうにあたって、彼はシムの作品をすべて買っていくわけではなかった。ダメ出しも、きつい評論も言われる。そうして批判された作品は、シム自身も方向性に迷った末の出来であるため、ブレイズの慧眼には内心舌を巻いた。
「シムの絵は素直だから、見たらすぐわかる。これに納得していないということがね」
木枠の角を指先でピンと弾かれたその一枚は、どうしても思うように色が出なかったものだった。
イメージ通りに描けなかった作品は、仕上がりにも迷いが滲む。ブレイズはそれを読み取っているだけだと言う。
「なんだか、恥ずかしいです……ブレイズの前でぼくは、とんでもなくすべてを曝け出してしまっているんじゃないかって」
シムはここのところ、やっとブレイズ相手になめらかに会話できるようになっていた。
これまでは緊張して言葉が出てこなかったり、不自然に高い声が出てしまったりしていた。名前も「Mr.」から呼び捨てに変わっている。
羞恥に俯くシムを、ブレイズは笑った。
蔑む笑いではなく、子供を諭す親のような微笑だ。
「それはそうだよ。作品づくりというものは、多かれ少なかれ自分を削っていく仕事だろう。シムはたまたま作品に自分が出やすいようだけど、わたしとしてはその方が嬉しいかな」
「どうして?」
「いつもどこか一線引いているシムの、心の内側に一番に触れられる役割だからね」
役得だよ、などと言ってくるブレイズのどこまでが本心なんだろう。
シムはごまかすような気分で、手元のコーヒーを啜った。
あれから何度もブレイズと共に訪れている喫茶店は、言わなくても勝手にコーヒーが出てくるようになっていた。
テラスに出るドアの横には、かんたんな額に入れられたシムの絵が飾ってある。こんな高待遇で飾ってもらえるのなら色を塗って渡せばよかったと、後日後悔したものだった。
先程ダメ出しを受け、引っ込めた絵を見つめる。
今日シムは、ブレイズに言いたいことがあって来ていた。
ひとつずつ作品を検め、三枚のうち二枚を買い取ってもらえることになった。ブレイズが代金を入れた封筒を差し出してくるのをじっと見つめる。
「シム?」
「あの、ブレイズ。ぼくの……ぼくの部屋に来ませんか?」
無意識に手の中のキャンバスをを握り締めてしまった。
シムにとってこの誘いは、とても勇気が必要だった。
田舎にいる頃から親しい人間はあまりいなかった。体質のことがバレたらと思うと、誰かのそばにいることは難しい。両親とも距離がある。シムは孤独だった。
それが、ブレイズと出会ってからいいこと続きだ。
大家はシムに優しくなった。下の階の住人とも挨拶くらいは交わすようになった。町中の人々から刺すような視線で見られていると思っていた日々は、穏やかな住人の表情を窺う余裕すら出てきた。
それもこれもすべてブレイズのおかげだと、シムは信じていた。
もっと彼と親しくなりたい。もっと絵のことを話したい。シムの作品に思うことがあるなら聞いてみたい。
日に日にその欲求は高まり、ついに今日シムは勇気を振り絞ることにした。
勢い込んで問いかけたせいか、ブレイズは目を丸くしてきょとんとしている。
急に恥ずかしくなってシムは俯いた。仲良くなりたいと思っているのはシムだけで、こんな誘いは迷惑なだけかもしれない。
慌てて撤回しようとしたシムは、穏やかに微笑むブレイズの表情に硬直した。
「嬉しいよ、シム。画家にとって他人をアトリエに入れるのは、気を許した証拠だというからね」
「ぁっ……そ、そんな大それたことじゃ……ただもう少し、ブレイズと話したくて、ぼく……」
「もちろん招待を受けよう。これからついて行けばいいかい?」
「えっ! あ、ありがとう!」
了承してもらえたうえに、これから来てくれるという。シムは舞い上がってしまいそうな気持ちを必死に押さえつけ、震える手でコーヒーを飲み干した。
横に並ぶブレイズの顔をまともに見ることもできないまま、アパートメントへの道を急ぐ。
後先考えず誘ったはいいが、自室の清潔さが気になり始めた。いつも掃除はしているし、ブレイズを誘おうと決めてからは毎日天井まで埃を払い、雑巾掛けをして過ごしたから不衛生ではないはずだ。しかし部屋の壁はところどころ絵の具が散っているし、収納が少ないので画材は出しっぱなしだ。テーブルもベッドも古びているし、シムの淹れるコーヒーは豆をケチっているためあまりおいしくない。堂々と人を招けるような家では、そもそもないのだ。
でもどうしても、ブレイズに来てほしかった。
その衝動がどこから来るものなのか、シムはよく理解できていなかった。
アパートメント内では誰ともすれ違わなかった。
大家がいれば大騒ぎになったかもしれないので、人気がないのは好都合だろう。
物珍しそうに建物内を見渡しながらついてくるブレイズを気にしつつ、最上階まで上がる。さらにはしごに手をかけると、ブレイズは目に見えて驚いていた。
「さぁ、あがって。狭くて申し訳ないのだけど……」
「おじゃまするよ」
シムは先に部屋の奥へ行き、初めての客を迎えた。
革靴とスーツで慎重にはしごを上ったブレイズは、部屋の中を見回して感嘆の声を漏らしている。口が半開きになっていて、幼い仕草が珍しくシムは少し笑った。
「本当に狭いでしょう」
「あぁ……あ、いや。屋根裏とは聞いていたが、予想以上だ……」
「いいんだよ、狭くて汚くて埃っぽいことはわかってる。でもぼくはけっこう気に入っているんだよ」
屋根に沿って斜めについたガラス窓を押し開ける。建物四階相当のここは、窓を開けると風がやや強い。
青が多い乾いた空と黒い点のような鳥たち、ところどころ高い建物だけが見える街並み。それだけで絵になりそうな風景がシムは好きだった。
ブレイズは部屋の中を見て周り、最終的には画材と描きかけの絵の前に陣取った。
シムは苦笑して、その横にしゃがみ込む。
「すごいな。不思議な絵の具を使うとは思っていたが、こんな色は見たことがない」
「そ、そうかな? 市販品とそう変わらないと思うけど」
心臓が不自然に跳ねたことを悟られないよう、シムは精一杯とぼけた。
一度ブレイズに顔料について尋ねられたことがあった。なにか特別なものなのかと。
シムにとっては慣れ親しんだものだったから、そこに着目されるとは思っていなくてしどろもどろにごまかしたことしか覚えていない。確かその時は、市販のものになにか混ぜ物をしているとか言ったのだったか。
シムの絵の具は現在、唾液と涙液が主だった。比較的出すのがかんたんで、使いやすい色が出る。
ただ、パレットに唾液を垂らしている光景などブレイズには絶対に見られたくないので、真相を話す気はなかった。
ブレイズはシムの返答などどうでもいいのか、パレットや絵筆を熱心に見つめていた。それ以上追及されなかったことにほっとする。
「好きに見ていていいし、触ってもいいよ。今お茶を入れるね」
「あぁ……」
生返事が返ってきて、シムは再び小さく笑った。
コーヒーは泥水のようにしかならない。シムはそれでも飲むが、ブレイズにそれを飲ませるのは気が引けた。それよりは、同じようなインスタントでも新しいティーバッグを出せるお茶のほうが飲める代物になるだろう。
アパートメント全体で共用のキッチンへ走り、お湯を沸かして急いで戻る。
住み始めた頃は片手でやかんを持ったままはしごを上ることができず、途方に暮れたものだった。二年も住んでいれば慣れたものだ。
部屋に入るとブレイズはまだ画材を見ていた。
まだ鉛筆の線画だけの、微妙に歪んだキャンバスを持って眺めている。思いっきり張りを間違えたそれをじっと観察され、シムは恥ずかしさに頭が沸いてしまいそうだった。
「ブレイズ、お茶だよ」
「あぁ、ありがとう。つい夢中になってしまった」
「そんなに面白いものがあったかな?」
ベッドにぽすんと座ると、ブレイズは向かいにある椅子に腰を下ろした。
手には描きかけデッサンのまま放置した8号キャンバスがある。
「もちろん、興味深いものばかりだよ。芸術家ってみんないくらか気難しいところがあって、描きかけの絵や手足に等しい道具なんか触らせてもらえないから」
満足そうにつぶやくブレイズの言葉に嘘はなさそうで、シムは照れた。彼の中ではシムのような、吹けば飛ぶ枯れ葉の如き絵描きも芸術家という括りのようだ。
「それにわたしは、きみのファンなんだ。シモンズ・キーンのアトリエに入れるなんて、ファン冥利に尽きるよ」
「そんな、ファンだなんて。ブレイズは褒めるのが上手だね」
「お世辞じゃないさ。この絵も、どんなふうに完成するのか……今から楽しみだよ」
抱えたキャンバスを見つめるブレイズは、鉛筆の線だけの生地に未来の完成図を透かし見ているかのような、熱の篭もった目をしていた。
髪の色と同じ、明るいブラウンアイが黄金色に光ったように見えて、シムはなぜだか背筋を震わせた。
(彼にはなんだか不思議な魅力がある)
芸術家はみな気難しいなどと話してはいたが、きっとブレイズは優雅な物腰と零れんばかりの笑みで、そうした芸術家とも上手く折り合いをつけているに違いない。
大した金にならない作家へも、こうして接待の心を忘れないのだから。
彼は公平で公正だ、いっそ残酷なまでに───。
(? どうして残酷だなんて考えてしまったんだろう、彼はこんなに優しいのに)
自らの内に突如沸き起こった思考に、シムはしばし沈んだ。
その様子をブレイズがこっそり見ていたことには、気が付かなかった。
窓から差し込む光がすっかり傾き、オレンジ色に染まり始めた頃、はっと気がついた。
思ったより自己分析の海に沈んでしまっていたらしい。慌てて周囲を見回すと、ブレイズはさっき見た姿勢のまま、シムが淹れたお茶を飲み干したところだった。
「ブレイズ、ごめんなさい。ぼうっとしてしまっていたみたいだ」
「いいんだよ。きっとまた素晴らしい作品の構図が浮かんだんだろう?」
「……うん、そんなところ」
咄嗟に嘘をついてしまったことが後ろめたく、シムは顔を背けた。
ブレイズが立ち上がり、椅子の背にかけていたコートとジャケットを持って部屋の戸へ歩く。
「偉大なシモンズの思索を邪魔しては悪いから、わたしは帰るよ。お茶と、貴重な体験をどうもありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。来てくれてありがとう、下まで送るよ」
「それには及ばない。それより早く作品を描いてくれ。いちファンとして、先生の次回作を首を長くして待っているからね」
きざなウィンクを残して、ブレイズはさっさと出ていってしまった。
その未練のなさがなんとなく寂しいと同時に、「描きたい」という欲求が腹の奥底からふつふつと湧き出してくるのを感じる。
(よし、描こう。日没まではもう少しあるはず)
シムは画材を引っ張り出し、背丈の低いイーゼルにキャンバスを立て掛けた。
それはさっきまでブレイズが持っていた、下書きだけのものだった。
一刻も早くこれに色をつけたい。
気が急いていた。すぐに描き始めたい、しかしパレットには一筆目にふさわしい色が乗っていなかった。シムの絵の具は在庫制のような部分がある。絵を描く前に必要そうな色をイメージしながら体液を絞り出すことで、作業をスムーズに進めることができる。
しかし今は色が足りず、創作意欲は早く早くと異様なまでにシムを攻め立てる。
普段は滅多にしない禁じ手を、シムは使うことにした。
パンを切ったり果物の皮を剥くための、小さな折りたたみナイフ。
それを指先に押し当て、皮膚を切る。
ぷつりと血が玉のように出て、すぐに伝い落ちた。
パレットに触れた真紅は、すぐさま粘度の高い焦げ茶色の絵の具に変わる。
ブレイズが部屋に来たとき開け放った窓が、風でびりびりと鳴っている。
いつもより少しだけ強い風圧は、はしごを上る音をかき消していたのだろう。
「ごめん、かっこいいこと言っておいて忘れ物を……」
ノックと同時に扉が開いて、照れた顔のブレイズが床に座るシムを見た。
ナイフを握りしめ、指から滴る血を止めようともしていない。
赤い珠が落ちる先にはパレットがあり、血溜まりはなく、空気に触れたそばからそれは色を変える。
時間が止まったように感じた。
「シム……それは、」
ブレイズの声が掠れ、途切れて、シムは自らの失敗を悟った。
20
あなたにおすすめの小説
陰キャ幼馴染がミスターコン代表に選ばれたので、俺が世界一イケメンにしてやります
あと
BL
「俺が!お前を生まれ変わらせる!」
自己肯定感低めの陰キャ一途攻め×世話焼きなお人好し平凡受け
いじられキャラで陰キャな攻めが数合わせでノミネートされ、2ヶ月後の大学の学園祭のミスターコンの学部代表になる。誰もが優勝するわけないと思う中、攻めの幼馴染である受けは周囲を見返すために、攻めを大幅にイメチェンさせることを決意する。そして、隠れイケメンな攻めはどんどん垢抜けていき……?
攻め:逸見悠里
受け:佐々木歩
⚠️途中でファッションの話になりますが、作者は服に詳しくないので、ダサいじゃん!とか思ってもスルーでお願いします。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
俺にだけ厳しい幼馴染とストーカー事件を調査した結果、結果、とんでもない事実が判明した
あと
BL
「また物が置かれてる!」
最近ポストやバイト先に物が贈られるなどストーカー行為に悩まされている主人公。物理的被害はないため、警察は動かないだろうから、自分にだけ厳しいチャラ男幼馴染を味方につけ、自分たちだけで調査することに。なんとかストーカーを捕まえるが、違和感は残り、物語は意外な方向に…?
⚠️ヤンデレ、ストーカー要素が含まれています。
攻めが重度のヤンデレです。自衛してください。
ちょっと怖い場面が含まれています。
ミステリー要素があります。
一応ハピエンです。
主人公:七瀬明
幼馴染:月城颯
ストーカー:不明
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
内容も時々サイレント修正するかもです。
定期的にタグ整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
追放された味見係、【神の舌】で冷徹皇帝と聖獣の胃袋を掴んで溺愛される
水凪しおん
BL
「無能」と罵られ、故郷の王宮を追放された「味見係」のリオ。
行き場を失った彼を拾ったのは、氷のような美貌を持つ隣国の冷徹皇帝アレスだった。
「聖獣に何か食わせろ」という無理難題に対し、リオが作ったのは素朴な野菜スープ。しかしその料理には、食べた者を癒やす伝説のスキル【神の舌】の力が宿っていた!
聖獣を元気にし、皇帝の凍てついた心をも溶かしていくリオ。
「君は俺の宝だ」
冷酷だと思われていた皇帝からの、不器用で真っ直ぐな溺愛。
これは、捨てられた料理人が温かいご飯で居場所を作り、最高にハッピーになる物語。
炎の精霊王の愛に満ちて
陽花紫
BL
異世界転移してしまったミヤは、森の中で寒さに震えていた。暖をとるために焚火をすれば、そこから精霊王フレアが姿を現す。
悪しき魔術師によって封印されていたフレアはその礼として「願いをひとつ叶えてやろう」とミヤ告げる。しかし無欲なミヤには、願いなど浮かばなかった。フレアはミヤに欲望を与え、いまいちど願いを尋ねる。
ミヤは答えた。「俺を、愛して」
小説家になろうにも掲載中です。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる