冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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03.発覚

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 穏やかで優しかったブレイズはもういない。
 なぜそうなってしまったかといえば、きっとあの日からだ。

 喫茶店で初めてシムの絵が売れた日から、ブレイズはまめに連絡をくれるようになった。
 シムの絵が完成するのには、一枚につき三日ほどかかる。二枚か三枚ストックができると、その頃を見計らってブレイズが連絡をくれる。
 幸いなことに、時折シム宛に電話が来ることを大家はそんなに嫌がらなかった。耳に心地よいブレイズの声と、ハイソサエティを窺わせる柔らかい物腰は女性受けが良さそうだ。
 シムの家賃滞納がなくなったことも相まって、大家の態度は明らかに軟化していた。
 ブレイズに絵を見てもらうにあたって、彼はシムの作品をすべて買っていくわけではなかった。ダメ出しも、きつい評論も言われる。そうして批判された作品は、シム自身も方向性に迷った末の出来であるため、ブレイズの慧眼には内心舌を巻いた。

「シムの絵は素直だから、見たらすぐわかる。これに納得していないということがね」

 木枠の角を指先でピンと弾かれたその一枚は、どうしても思うように色が出なかったものだった。
 イメージ通りに描けなかった作品は、仕上がりにも迷いが滲む。ブレイズはそれを読み取っているだけだと言う。

「なんだか、恥ずかしいです……ブレイズの前でぼくは、とんでもなくすべてを曝け出してしまっているんじゃないかって」

 シムはここのところ、やっとブレイズ相手になめらかに会話できるようになっていた。
 これまでは緊張して言葉が出てこなかったり、不自然に高い声が出てしまったりしていた。名前も「Mr.さん付け」から呼び捨てに変わっている。
 羞恥に俯くシムを、ブレイズは笑った。
 蔑む笑いではなく、子供を諭す親のような微笑だ。

「それはそうだよ。作品づくりというものは、多かれ少なかれ自分を削っていく仕事だろう。シムはたまたま作品に自分が出やすいようだけど、わたしとしてはその方が嬉しいかな」
「どうして?」
「いつもどこか一線引いているシムの、心の内側に一番に触れられる役割だからね」

 役得だよ、などと言ってくるブレイズのどこまでが本心なんだろう。
 シムはごまかすような気分で、手元のコーヒーを啜った。
 あれから何度もブレイズと共に訪れている喫茶店は、言わなくても勝手にコーヒーが出てくるようになっていた。
 テラスに出るドアの横には、かんたんな額に入れられたシムの絵が飾ってある。こんな高待遇で飾ってもらえるのなら色を塗って渡せばよかったと、後日後悔したものだった。
 先程ダメ出しを受け、引っ込めた絵を見つめる。
 今日シムは、ブレイズに言いたいことがあって来ていた。
 ひとつずつ作品を検め、三枚のうち二枚を買い取ってもらえることになった。ブレイズが代金を入れた封筒を差し出してくるのをじっと見つめる。

「シム?」
「あの、ブレイズ。ぼくの……ぼくの部屋に来ませんか?」

 無意識に手の中のキャンバスをを握り締めてしまった。
 シムにとってこの誘いは、とても勇気が必要だった。
 田舎にいる頃から親しい人間はあまりいなかった。体質のことがバレたらと思うと、誰かのそばにいることは難しい。両親とも距離がある。シムは孤独だった。
 それが、ブレイズと出会ってからいいこと続きだ。
 大家はシムに優しくなった。下の階の住人とも挨拶くらいは交わすようになった。町中の人々から刺すような視線で見られていると思っていた日々は、穏やかな住人の表情を窺う余裕すら出てきた。
 それもこれもすべてブレイズのおかげだと、シムは信じていた。
 もっと彼と親しくなりたい。もっと絵のことを話したい。シムの作品に思うことがあるなら聞いてみたい。
 日に日にその欲求は高まり、ついに今日シムは勇気を振り絞ることにした。
 勢い込んで問いかけたせいか、ブレイズは目を丸くしてきょとんとしている。
 急に恥ずかしくなってシムは俯いた。仲良くなりたいと思っているのはシムだけで、こんな誘いは迷惑なだけかもしれない。
 慌てて撤回しようとしたシムは、穏やかに微笑むブレイズの表情に硬直した。

「嬉しいよ、シム。画家にとって他人をアトリエに入れるのは、気を許した証拠だというからね」
「ぁっ……そ、そんな大それたことじゃ……ただもう少し、ブレイズと話したくて、ぼく……」
「もちろん招待を受けよう。これからついて行けばいいかい?」
「えっ! あ、ありがとう!」

 了承してもらえたうえに、これから来てくれるという。シムは舞い上がってしまいそうな気持ちを必死に押さえつけ、震える手でコーヒーを飲み干した。
 横に並ぶブレイズの顔をまともに見ることもできないまま、アパートメントへの道を急ぐ。
 後先考えず誘ったはいいが、自室の清潔さが気になり始めた。いつも掃除はしているし、ブレイズを誘おうと決めてからは毎日天井まで埃を払い、雑巾掛けをして過ごしたから不衛生ではないはずだ。しかし部屋の壁はところどころ絵の具が散っているし、収納が少ないので画材は出しっぱなしだ。テーブルもベッドも古びているし、シムの淹れるコーヒーは豆をケチっているためあまりおいしくない。堂々と人を招けるような家では、そもそもないのだ。
 でもどうしても、ブレイズに来てほしかった。
 その衝動がどこから来るものなのか、シムはよく理解できていなかった。

 アパートメント内では誰ともすれ違わなかった。
 大家がいれば大騒ぎになったかもしれないので、人気がないのは好都合だろう。
 物珍しそうに建物内を見渡しながらついてくるブレイズを気にしつつ、最上階まで上がる。さらにはしごに手をかけると、ブレイズは目に見えて驚いていた。

「さぁ、あがって。狭くて申し訳ないのだけど……」
「おじゃまするよ」

 シムは先に部屋の奥へ行き、初めての客を迎えた。
 革靴とスーツで慎重にはしごを上ったブレイズは、部屋の中を見回して感嘆の声を漏らしている。口が半開きになっていて、幼い仕草が珍しくシムは少し笑った。

「本当に狭いでしょう」
「あぁ……あ、いや。屋根裏とは聞いていたが、予想以上だ……」
「いいんだよ、狭くて汚くて埃っぽいことはわかってる。でもぼくはけっこう気に入っているんだよ」

 屋根に沿って斜めについたガラス窓を押し開ける。建物四階相当のここは、窓を開けると風がやや強い。
 青が多い乾いた空と黒い点のような鳥たち、ところどころ高い建物だけが見える街並み。それだけで絵になりそうな風景がシムは好きだった。
 ブレイズは部屋の中を見て周り、最終的には画材と描きかけの絵の前に陣取った。
 シムは苦笑して、その横にしゃがみ込む。

「すごいな。不思議な絵の具を使うとは思っていたが、こんな色は見たことがない」
「そ、そうかな? 市販品とそう変わらないと思うけど」

 心臓が不自然に跳ねたことを悟られないよう、シムは精一杯とぼけた。
 一度ブレイズに顔料について尋ねられたことがあった。なにか特別なものなのかと。
 シムにとっては慣れ親しんだものだったから、そこに着目されるとは思っていなくてしどろもどろにごまかしたことしか覚えていない。確かその時は、市販のものになにか混ぜ物をしているとか言ったのだったか。
 シムの絵の具は現在、唾液と涙液が主だった。比較的出すのがかんたんで、使いやすい色が出る。
 ただ、パレットに唾液を垂らしている光景などブレイズには絶対に見られたくないので、真相を話す気はなかった。
 ブレイズはシムの返答などどうでもいいのか、パレットや絵筆を熱心に見つめていた。それ以上追及されなかったことにほっとする。

「好きに見ていていいし、触ってもいいよ。今お茶を入れるね」
「あぁ……」

 生返事が返ってきて、シムは再び小さく笑った。
 コーヒーは泥水のようにしかならない。シムはそれでも飲むが、ブレイズにそれを飲ませるのは気が引けた。それよりは、同じようなインスタントでも新しいティーバッグを出せるお茶のほうが飲める代物になるだろう。
 アパートメント全体で共用のキッチンへ走り、お湯を沸かして急いで戻る。
 住み始めた頃は片手でやかんを持ったままはしごを上ることができず、途方に暮れたものだった。二年も住んでいれば慣れたものだ。
 部屋に入るとブレイズはまだ画材を見ていた。
 まだ鉛筆の線画だけの、微妙に歪んだキャンバスを持って眺めている。思いっきり張りを間違えたそれをじっと観察され、シムは恥ずかしさに頭が沸いてしまいそうだった。

「ブレイズ、お茶だよ」
「あぁ、ありがとう。つい夢中になってしまった」
「そんなに面白いものがあったかな?」

 ベッドにぽすんと座ると、ブレイズは向かいにある椅子に腰を下ろした。
 手には描きかけデッサンのまま放置した8号キャンバスがある。

「もちろん、興味深いものばかりだよ。芸術家ってみんないくらか気難しいところがあって、描きかけの絵や手足に等しい道具なんか触らせてもらえないから」

 満足そうにつぶやくブレイズの言葉に嘘はなさそうで、シムは照れた。彼の中ではシムのような、吹けば飛ぶ枯れ葉の如き絵描きも芸術家という括りのようだ。

「それにわたしは、きみのファンなんだ。シモンズ・キーンのアトリエに入れるなんて、ファン冥利に尽きるよ」
「そんな、ファンだなんて。ブレイズは褒めるのが上手だね」
「お世辞じゃないさ。この絵も、どんなふうに完成するのか……今から楽しみだよ」

 抱えたキャンバスを見つめるブレイズは、鉛筆の線だけの生地に未来の完成図を透かし見ているかのような、熱の篭もった目をしていた。
 髪の色と同じ、明るいブラウンアイが黄金色に光ったように見えて、シムはなぜだか背筋を震わせた。

(彼にはなんだか不思議な魅力がある)

 芸術家はみな気難しいなどと話してはいたが、きっとブレイズは優雅な物腰と零れんばかりの笑みで、そうした芸術家とも上手く折り合いをつけているに違いない。
 大した金にならない作家へも、こうして接待の心を忘れないのだから。
 彼は公平で公正だ、いっそ残酷なまでに───。

(? どうして残酷だなんて考えてしまったんだろう、彼はこんなに優しいのに)

 自らの内に突如沸き起こった思考に、シムはしばし沈んだ。
 その様子をブレイズがこっそり見ていたことには、気が付かなかった。

 窓から差し込む光がすっかり傾き、オレンジ色に染まり始めた頃、はっと気がついた。
 思ったより自己分析の海に沈んでしまっていたらしい。慌てて周囲を見回すと、ブレイズはさっき見た姿勢のまま、シムが淹れたお茶を飲み干したところだった。

「ブレイズ、ごめんなさい。ぼうっとしてしまっていたみたいだ」
「いいんだよ。きっとまた素晴らしい作品の構図が浮かんだんだろう?」
「……うん、そんなところ」

 咄嗟に嘘をついてしまったことが後ろめたく、シムは顔を背けた。
 ブレイズが立ち上がり、椅子の背にかけていたコートとジャケットを持って部屋の戸へ歩く。

「偉大なシモンズの思索を邪魔しては悪いから、わたしは帰るよ。お茶と、貴重な体験をどうもありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。来てくれてありがとう、下まで送るよ」
「それには及ばない。それより早く作品を描いてくれ。いちファンとして、先生の次回作を首を長くして待っているからね」

 きざなウィンクを残して、ブレイズはさっさと出ていってしまった。
 その未練のなさがなんとなく寂しいと同時に、「描きたい」という欲求が腹の奥底からふつふつと湧き出してくるのを感じる。

(よし、描こう。日没まではもう少しあるはず)

 シムは画材を引っ張り出し、背丈の低いイーゼルにキャンバスを立て掛けた。
 それはさっきまでブレイズが持っていた、下書きだけのものだった。
 一刻も早くこれに色をつけたい。
 気が急いていた。すぐに描き始めたい、しかしパレットには一筆目にふさわしい色が乗っていなかった。シムの絵の具は在庫制のような部分がある。絵を描く前に必要そうな色をイメージしながら体液を絞り出すことで、作業をスムーズに進めることができる。
 しかし今は色が足りず、創作意欲は早く早くと異様なまでにシムを攻め立てる。
 普段は滅多にしない禁じ手を、シムは使うことにした。
 パンを切ったり果物の皮を剥くための、小さな折りたたみナイフ。
 それを指先に押し当て、皮膚を切る。
 ぷつりと血が玉のように出て、すぐに伝い落ちた。
 パレットに触れた真紅は、すぐさま粘度の高い焦げ茶色の絵の具に変わる。
 ブレイズが部屋に来たとき開け放った窓が、風でびりびりと鳴っている。
 いつもより少しだけ強い風圧は、はしごを上る音をかき消していたのだろう。

「ごめん、かっこいいこと言っておいて忘れ物を……」

 ノックと同時に扉が開いて、照れた顔のブレイズが床に座るシムを見た。
 ナイフを握りしめ、指から滴る血を止めようともしていない。
 赤い珠が落ちる先にはパレットがあり、血溜まりはなく、空気に触れたそばからそれは色を変える。
 時間が止まったように感じた。

「シム……それは、」

 ブレイズの声が掠れ、途切れて、シムは自らの失敗を悟った。
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