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04.変遷
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パレットの上に翳していた手を体に引き寄せ、その辺に放ってあった古布で患部を圧迫する。故意に切った傷は深いはずもなく、血はすぐ止まってかさぶたになるだろう。
しかしこの場の空気は、ブレイズの見たものは、元通りになりそうもない。
ブレイズの表情は見たこともないほど険しかった。温和な顔立ちは見る影もなく、眉間に寄せられた皺は深い。
彼は一歩部屋へ入ってきた。大きな革靴の音にびくりと体が竦む。
ブレイズは屈み込んでパレットを見ているようだった。
パレットには血が一滴もついていない。
その代わり、今使わない赤や青などの色の合間に、今使いたかった様々なアースカラーが広がっている。
ブレイズの鋭い視線はその状況を違うこと無く捉え、次に視線の標的になったのは当然ながらシムだった。
「……シム。きみは、自分の血を絵の具に混ぜていたのか?」
迷った。この期に及んで、ごまかそうと思ってしまった。もしかしたらごまかせるかもしれない。
でも同時に、こうも考えた。
正直に体質のことを告げて、ブレイズが受け入れてくれたら、こんなに嬉しいことはないだろうと。生みの親すら持て余した異常な自分を、おおらかなブレイズが受け止めてくれやしないかと。
そんなこと、あるわけがないのに。
シムは首を横に振っていた。
自分で切ったざんばらの髪は短くて、シムの表情もブレイズの視線も遮ってはくれない。
「ではこの絵の具はなんだ。市販のものに混ぜているのでないのなら、まさか、これは」
「ぼくの体液は……体から離れると絵の具になる。そういう体質、なんだ」
「……っ」
震える声を叱咤して告げると、ブレイズは絶句してしまった。
当然だろう、今までちょっと変わった絵の具を使うとしか思っていなかった絵画が、得体のしれない奇妙な物質を塗りたくられたものだと知ってしまったのだから。
ブレイズなら受け入れてくれるかもしれないなんて思った数秒前の自分を、シムは消し去ってしまいたくなった。
「気持ち悪いでしょう、ぼくの絵は全部この絵の具で描いたんだ。おぞましいと思うのなら、契約は終了でいいよ。今まで売ったもののお金は、返せないけど……手切れ金だと思ってくれるとありがたい」
ブレイズは黙ったまま、一言も発しない。シムは焦る気持ちから早口になっていく。
「あーあ、せっかくこれまでなんとかバレずに絵を描いてこれたのに、もうおしまいか。ぼくの体質が広まってしまえば、こんな気味が悪い絵誰も買ってくれなくなる。この家も追い出されるかな。ブレイズがぼくを避ける必要なんてないよ、ぼくは勝手に消える」
「……」
「こんなぼくを画家だって、こんな絵のファンだなんて、ブレイズも気の毒にね。幻滅したろ? 吐き気があるなら悪いけど下の階で手洗いを借りてきてよ」
「……」
「なんか……なんか言ったらどうなんだよ。こんなところにいたくないだろ、もしくはアレかな。現代で魔女裁判でもやる? ぼくに火をかければきっとよく燃えるだろうね」
布を握りしめる手の震えが、隠せないほど大きくなる。情けないそれを床に押し付け、シムは深く俯いた。
言い訳もできないし、ブレイズは去ってくれない。もう万策尽きて、彼が動くのを待つしかなくなってしまった。
長い時間が経ったように思う。
部屋の中には夜の気配が忍び込んできて、急速に光がなくなっていった。
握った拳にあたたかいものが被さったのを感じたのは、夕暮れの色が消え去った頃だった。はっとして顔を上げると、暗い中でも鈍く光るブレイズの瞳と視線が強く絡んだ。
「気持ち悪くなんてない、シム」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。すまない、わたしの気が動転していたばかりに、きみに嫌な言葉をいくつも言わせてしまった……きみの体質を吹聴したりしない。金を返せとも言わない。きみの作品は今でも好きだ、その気持ちは変わらない」
「……うそだ……」
「ほんとうだよ。どうしたら信じてくれる?」
重ねられた手が離れ、持ち上がり、気がつくとブレイズに抱きしめられていた。
呆然とするシムの体は、たしかにブレイズのあたたかさを認識して勝手に緊張を緩めてしまう。
不意に目の奥がつんと痛み、シムの両目からなにかが零れ落ちた。
それは丸くて小さくて、水に似たもので、感動する映画も泣ける小説もない今、流れるはずのないもの。
「泣かないでシム。ずっとつらかったんだね」
「っう、うぅ……」
一粒涙が流れてしまえば、堰を切ったようにそれは止まらなかった。
落ちた雫がブレイズのコートについてしまうのを、シムは体を離すことで防ごうとしたが、余計抱き寄せられてしまってどうしようもできなくなった。
ブレイズの肩に顔を寄せ、止まりそうもない奔流をやり過ごす。
ダークグレーの生地に落ちたのは、春の空より明るい水色だった。
月に数度のブレイズの訪いを、シムは待ちわびるようになった。
三日に一度だった作品の完成が、一日か二日に一度になった。
ブレイズには心配されたが、とにかく描きたくて仕方がなかった。体がつらくなって描くのを我慢すると、頭がぼうっとして、気がつくとまたキャンバスに向かっている。絵筆を握っている。そんな状態だったので、描かないほうが余程つらかった。そのうちブレイズも何も言わなくなった。
「シム……右手がつらいんじゃないのかい」
ベッドに腰掛けているブレイズが、絵を描いている最中のシムに声を掛けることは滅多にない。だからこそ余程つらく見えたんだろう。
彼は悲しそうに眉を下げていた。絵筆の先が布面を離れると、手が震える。
数日前から親指に続く筋が痛むようになっていた。
「みせて」
横に立ったブレイズに強引に手を取られる。
見上げたシムの表情には不満も顕わだったが、無言の抗議は全くなんの役にも立たなかった。
ブレイズの体温が右手を覆う。それが離れたときには、手首まで覆う薄茶色の布が右手全体を締め付けていた。
「これをつけていて。このままじゃ腱鞘炎になってしまう」
「手が動かしにくいよ」
「それなら病院に行くかい?」
シムはぐっと黙った。
ブレイズのおかげで少しは生活に余裕ができたとはいえ、医療機関にかかるほどの金はない。右腕を胸に引き寄せ、ゆっくりとさすってみる。筆を持っていなければ痛みはだいぶましだった。
「きみにはこれからもたくさん描いてもらわないといけないからね、体を労ってくれないと」
「はいはい……」
さっきまでの重苦しい空気はなくなり、ブレイズがいたずらっぽい声で言うのを適当にあしらう。
言葉だけ見ればビジネスライクに突き放したような物言いだが、利益のことだけを考えるほかの画商とブレイズは全く違っていた。そもそも一人の作家にここまで入れ込む画商など、シムは聞いたことがない。
「返事は一回! 今日は描き通しだろう、もう休みなさい」
椅子の背に掛けたコートを手にとり、ブレイズが立ち上がる。
窓を見るともう日が傾いていた。どうやら仮にも客人を、ずいぶんと放置してしまっていたようだ。もっとも近頃ブレイズは、シムが応対しなくとも勝手にお茶を淹れて飲んでいるし、なんなら階下の共同キッチンに湯まで沸かしに行く。
まるで友人か兄弟のような振る舞いに、シムは背中がこそばゆく感じることがあった。
しかしそれがどういう感情なのかはよくわからず、持て余し気味だ。
「仕方ないなぁ。おやすみ、ママ」
「こんな大きな子供を生んだ覚えはないぞ。おやすみシム」
「……うん」
近頃変わったといえばもう一つ、去り際にこうして頭を撫でられることだ。
ブレイズの大きな骨ばった手が、シムの短い灰色の髪にぽんと置かれ、一度だけくしゃりとかき混ぜる。手が離れる頃には、ブレイズは玄関から出ていく。
身長も年齢も、そこまで大きく差はないはずなのに、シムはすっかり子供扱いされていた。しかもそれが嫌じゃない。
(両親にもらえなかったぬくもりを、身近な他人に求めているだけだ)
頭ではそう理解できているのに、ブレイズに傾いていく心を止められない。胸の奥でざわざわと心臓をくすぐるそれがなんなのか、シムには分からなかった。でもそれをぶつけるすべは知っている。
放り出した絵筆を再び持ち、部屋の中が真っ暗になるまでシムは描き続けた。
ブレイズとの心の距離が縮まったきっかけは、シムの体質がバレてしまったあの日だったと断言できる。
でもその後、だんだんとブレイズの態度が変わっていったことは、明確なきっかけなどなかったのだろうと思う。
シムは変わらず描き続けていた。描くペースが上がったことで絵の具が足りなくなり、口の中がカラカラに乾くまで唾液を垂らしても満足できなくなったシムは、また少しずつ血を流して不足分を補填し始めた。
ただ、ブレイズが外傷に気づけばきっとなにか言われる。
だからシムは他人の目に触れない場所───服の中や足など、目立たないところをナイフで切って絵の具を採り始めた。
袖に隠れる二の腕の付け根に刃を滑らせ、パレットで血を受ける。
床に溢れてもヘラで掬い取れば十分使えた。
シムから離れて粘度を帯びたそれは、鮮やかな茜色に変化する。
シムの作品の雰囲気も変わった。だんだんと明るい色を使うことに抵抗感がなくなって、赤や黄、白などを用いることも多くなった。
ブレイズはあれ以来、絵の具や体質のことについて聞いてきたことはない。
あのとき見られた左手の傷はすぐに治ったし、その後手からは絵の具を取っていないから、別の手段で絵の具を生み出していると思っているのだろう。
描き終わった作品はこれまで通り買い取ってもらえていたが、時折彼が険しい表情をすることにシムは気がついていた。レモンのような淡い色味が多い完成作品を見ながら眉を顰めたブレイズに、シムは思わず声を掛けたが、笑顔ではぐらかされるだけだった。
(作品が変だったのなら指摘してくれるはずなのに、なにも言ってこない……あまり好みじゃなかったのかな?)
薄いかさぶたが何本も走る二の腕を避けて、足首の辺りから血を採っている間、シムはぼんやりとブレイズのことを思った。
彼が好きだと言ってくれた作品を描き続けていたい。彼はシムの絵のなにが好きなのだろう。
シムはさまざまな趣向を凝らして作品づくりに没頭した。
ときには普段扱わない、大きなキャンバスを用意したりもした。案の定釘打ちに四苦八苦し、広い画面に戸惑ったが、しっかり仕上げることができたのにブレイズの反応は芳しくなかった。
「ブレイズ、ぼくの作品になにか言いたいことでも?」
「……いや」
その日も結局ブレイズは首を横にふるだけで、作品を持って部屋を出ていった。近頃は会話も少ない。
シムは寂しく感じる気持ちを持て余していた。
心を許したように見せて孤独な画家を懐かせておいて、いざ思い通りになりそうになったら餌を与えない、そういう作戦なんだろうか。
ブレイズもやはりシムを絵を描く道具にしか思っていないのかもしれない。
自分の考えによって妙に落ち込んでしまたせいか、ゆっくりと冬に向かう季節のせいか。
シムは数年ぶりに風邪を引いた。
(これは、まずいかもしれない……)
熱は四日経っても引かなかった。それどころか昨日より頭をぼんやりさせる作用が強い気がする。
二日前になんとか階下で作った白湯も、すっかり冷めている上に量も少なくなっている。しかしベッドに体を起こす元気すらなかった。薬などあるはずもなく、電話を持っていないシムは助けを呼ぶこともできない。
助けを呼ぶって───誰を?
脳裏に瞬いた唯一の友人、と以前は躊躇いながらも呼べたはずの人物の影を、深く目をつぶることでかき消す。
(悪い方にばかり考えてしまいそうだ。もう一眠りしよう)
汗をかいている寝間着の内側が気持ち悪かったけど、シムは無理やり眠ることにした。
作品づくりに集中しているとき、ブレイズは外で待ちぼうけになってしまう。だからシムは日中玄関を施錠せず、いつでも彼が来られるようにしていた。その癖が抜けず、寝込んでいる今もドアの鍵は開いたままだ。閉めた方がいいかと思いつつ、怠い体を起こす気力もなくてシムの意識はそのまま薄れていった。
湿ったなにかが顔に当てられ、掛け布団が剥がされる感覚があった気がする。
顔を拭ったものが、汗まみれの体を優しく撫でる。
「……ママ……?」
濡れたものの動きが一瞬止まり、今度は髪を撫でられた。
もしかして本当に母親が来てくれたのかもしれない。
記憶が霞むほど遠い昔、シムにも母のぬくもりを感じる風邪の日があった。
喉が腫れて声を出せないシムの額にキスをして、いつまでも髪を撫でてくれていた。
こんな体じゃなければ、あの人は今も微笑みかけてくれていたのだろうか。
シムの名前を忘れたかのように「あなた」としか呼ばれなくなった、苦い記憶だけがある田舎の風景。
仲睦まじいよその家族とすれ違うたび、心臓が痛くて叫びだしたくなったあの日々。
熱に浮かされた目が痛み、まぶたの隙間から涙が零れた。
濡れた視界にはなにも映らず、シムは再び眠りに落ちる。
次の日、あんなに苦しんだ発熱が嘘のように収まっていた。
シムはベッドから起き上がって早々、家の中を見て回ったが、母が来た痕跡は見当たらなかった。
来ていたのならメッセージくらい残していくだろうし、朝起きたとき寝汗で体が気持ち悪かったので、あれは夢の中の出来事だったのだろう。期待したぶん落胆も大きかったが、そこまで引きずることはなかった。
それよりも、また絵を描ける。
五日も描かなかったから、もしかしたら感覚が鈍ったりしているかもしれない。早くカンを取り戻して、ブレイズに作品を見てもらいたい。
シムは精力的に作業へ打ち込んだが、予想に反してブレイズがやってきたのはさらに数日後のことだった。
「シム、わたしだ」
「ブレイズ!」
その日、彼は珍しくノックをして部屋に入ってきた。
近頃は勝手に開けるのにと微かな違和感があったが、それよりシムはブレイズが来てくれたことが嬉しかった。
「待ってたんだ。実は数日前風邪で寝込んでしまって、いつもより数は少ないんだけど」
ベッドの脇に立てかけてあった作品と、完成したばかりのキャンバスを見せる。ブレイズの反応を窺おうとして、彼の硬い表情に気がついた。
「ブレイズ……?」
「シム。ワーズリー画廊では今後きみの作品は扱わない」
告げられた言葉はすぐに理解できなかった。声は冷たく、視線は刺すようで、完璧な拒絶がそこにはあった。
しかしこの場の空気は、ブレイズの見たものは、元通りになりそうもない。
ブレイズの表情は見たこともないほど険しかった。温和な顔立ちは見る影もなく、眉間に寄せられた皺は深い。
彼は一歩部屋へ入ってきた。大きな革靴の音にびくりと体が竦む。
ブレイズは屈み込んでパレットを見ているようだった。
パレットには血が一滴もついていない。
その代わり、今使わない赤や青などの色の合間に、今使いたかった様々なアースカラーが広がっている。
ブレイズの鋭い視線はその状況を違うこと無く捉え、次に視線の標的になったのは当然ながらシムだった。
「……シム。きみは、自分の血を絵の具に混ぜていたのか?」
迷った。この期に及んで、ごまかそうと思ってしまった。もしかしたらごまかせるかもしれない。
でも同時に、こうも考えた。
正直に体質のことを告げて、ブレイズが受け入れてくれたら、こんなに嬉しいことはないだろうと。生みの親すら持て余した異常な自分を、おおらかなブレイズが受け止めてくれやしないかと。
そんなこと、あるわけがないのに。
シムは首を横に振っていた。
自分で切ったざんばらの髪は短くて、シムの表情もブレイズの視線も遮ってはくれない。
「ではこの絵の具はなんだ。市販のものに混ぜているのでないのなら、まさか、これは」
「ぼくの体液は……体から離れると絵の具になる。そういう体質、なんだ」
「……っ」
震える声を叱咤して告げると、ブレイズは絶句してしまった。
当然だろう、今までちょっと変わった絵の具を使うとしか思っていなかった絵画が、得体のしれない奇妙な物質を塗りたくられたものだと知ってしまったのだから。
ブレイズなら受け入れてくれるかもしれないなんて思った数秒前の自分を、シムは消し去ってしまいたくなった。
「気持ち悪いでしょう、ぼくの絵は全部この絵の具で描いたんだ。おぞましいと思うのなら、契約は終了でいいよ。今まで売ったもののお金は、返せないけど……手切れ金だと思ってくれるとありがたい」
ブレイズは黙ったまま、一言も発しない。シムは焦る気持ちから早口になっていく。
「あーあ、せっかくこれまでなんとかバレずに絵を描いてこれたのに、もうおしまいか。ぼくの体質が広まってしまえば、こんな気味が悪い絵誰も買ってくれなくなる。この家も追い出されるかな。ブレイズがぼくを避ける必要なんてないよ、ぼくは勝手に消える」
「……」
「こんなぼくを画家だって、こんな絵のファンだなんて、ブレイズも気の毒にね。幻滅したろ? 吐き気があるなら悪いけど下の階で手洗いを借りてきてよ」
「……」
「なんか……なんか言ったらどうなんだよ。こんなところにいたくないだろ、もしくはアレかな。現代で魔女裁判でもやる? ぼくに火をかければきっとよく燃えるだろうね」
布を握りしめる手の震えが、隠せないほど大きくなる。情けないそれを床に押し付け、シムは深く俯いた。
言い訳もできないし、ブレイズは去ってくれない。もう万策尽きて、彼が動くのを待つしかなくなってしまった。
長い時間が経ったように思う。
部屋の中には夜の気配が忍び込んできて、急速に光がなくなっていった。
握った拳にあたたかいものが被さったのを感じたのは、夕暮れの色が消え去った頃だった。はっとして顔を上げると、暗い中でも鈍く光るブレイズの瞳と視線が強く絡んだ。
「気持ち悪くなんてない、シム」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。すまない、わたしの気が動転していたばかりに、きみに嫌な言葉をいくつも言わせてしまった……きみの体質を吹聴したりしない。金を返せとも言わない。きみの作品は今でも好きだ、その気持ちは変わらない」
「……うそだ……」
「ほんとうだよ。どうしたら信じてくれる?」
重ねられた手が離れ、持ち上がり、気がつくとブレイズに抱きしめられていた。
呆然とするシムの体は、たしかにブレイズのあたたかさを認識して勝手に緊張を緩めてしまう。
不意に目の奥がつんと痛み、シムの両目からなにかが零れ落ちた。
それは丸くて小さくて、水に似たもので、感動する映画も泣ける小説もない今、流れるはずのないもの。
「泣かないでシム。ずっとつらかったんだね」
「っう、うぅ……」
一粒涙が流れてしまえば、堰を切ったようにそれは止まらなかった。
落ちた雫がブレイズのコートについてしまうのを、シムは体を離すことで防ごうとしたが、余計抱き寄せられてしまってどうしようもできなくなった。
ブレイズの肩に顔を寄せ、止まりそうもない奔流をやり過ごす。
ダークグレーの生地に落ちたのは、春の空より明るい水色だった。
月に数度のブレイズの訪いを、シムは待ちわびるようになった。
三日に一度だった作品の完成が、一日か二日に一度になった。
ブレイズには心配されたが、とにかく描きたくて仕方がなかった。体がつらくなって描くのを我慢すると、頭がぼうっとして、気がつくとまたキャンバスに向かっている。絵筆を握っている。そんな状態だったので、描かないほうが余程つらかった。そのうちブレイズも何も言わなくなった。
「シム……右手がつらいんじゃないのかい」
ベッドに腰掛けているブレイズが、絵を描いている最中のシムに声を掛けることは滅多にない。だからこそ余程つらく見えたんだろう。
彼は悲しそうに眉を下げていた。絵筆の先が布面を離れると、手が震える。
数日前から親指に続く筋が痛むようになっていた。
「みせて」
横に立ったブレイズに強引に手を取られる。
見上げたシムの表情には不満も顕わだったが、無言の抗議は全くなんの役にも立たなかった。
ブレイズの体温が右手を覆う。それが離れたときには、手首まで覆う薄茶色の布が右手全体を締め付けていた。
「これをつけていて。このままじゃ腱鞘炎になってしまう」
「手が動かしにくいよ」
「それなら病院に行くかい?」
シムはぐっと黙った。
ブレイズのおかげで少しは生活に余裕ができたとはいえ、医療機関にかかるほどの金はない。右腕を胸に引き寄せ、ゆっくりとさすってみる。筆を持っていなければ痛みはだいぶましだった。
「きみにはこれからもたくさん描いてもらわないといけないからね、体を労ってくれないと」
「はいはい……」
さっきまでの重苦しい空気はなくなり、ブレイズがいたずらっぽい声で言うのを適当にあしらう。
言葉だけ見ればビジネスライクに突き放したような物言いだが、利益のことだけを考えるほかの画商とブレイズは全く違っていた。そもそも一人の作家にここまで入れ込む画商など、シムは聞いたことがない。
「返事は一回! 今日は描き通しだろう、もう休みなさい」
椅子の背に掛けたコートを手にとり、ブレイズが立ち上がる。
窓を見るともう日が傾いていた。どうやら仮にも客人を、ずいぶんと放置してしまっていたようだ。もっとも近頃ブレイズは、シムが応対しなくとも勝手にお茶を淹れて飲んでいるし、なんなら階下の共同キッチンに湯まで沸かしに行く。
まるで友人か兄弟のような振る舞いに、シムは背中がこそばゆく感じることがあった。
しかしそれがどういう感情なのかはよくわからず、持て余し気味だ。
「仕方ないなぁ。おやすみ、ママ」
「こんな大きな子供を生んだ覚えはないぞ。おやすみシム」
「……うん」
近頃変わったといえばもう一つ、去り際にこうして頭を撫でられることだ。
ブレイズの大きな骨ばった手が、シムの短い灰色の髪にぽんと置かれ、一度だけくしゃりとかき混ぜる。手が離れる頃には、ブレイズは玄関から出ていく。
身長も年齢も、そこまで大きく差はないはずなのに、シムはすっかり子供扱いされていた。しかもそれが嫌じゃない。
(両親にもらえなかったぬくもりを、身近な他人に求めているだけだ)
頭ではそう理解できているのに、ブレイズに傾いていく心を止められない。胸の奥でざわざわと心臓をくすぐるそれがなんなのか、シムには分からなかった。でもそれをぶつけるすべは知っている。
放り出した絵筆を再び持ち、部屋の中が真っ暗になるまでシムは描き続けた。
ブレイズとの心の距離が縮まったきっかけは、シムの体質がバレてしまったあの日だったと断言できる。
でもその後、だんだんとブレイズの態度が変わっていったことは、明確なきっかけなどなかったのだろうと思う。
シムは変わらず描き続けていた。描くペースが上がったことで絵の具が足りなくなり、口の中がカラカラに乾くまで唾液を垂らしても満足できなくなったシムは、また少しずつ血を流して不足分を補填し始めた。
ただ、ブレイズが外傷に気づけばきっとなにか言われる。
だからシムは他人の目に触れない場所───服の中や足など、目立たないところをナイフで切って絵の具を採り始めた。
袖に隠れる二の腕の付け根に刃を滑らせ、パレットで血を受ける。
床に溢れてもヘラで掬い取れば十分使えた。
シムから離れて粘度を帯びたそれは、鮮やかな茜色に変化する。
シムの作品の雰囲気も変わった。だんだんと明るい色を使うことに抵抗感がなくなって、赤や黄、白などを用いることも多くなった。
ブレイズはあれ以来、絵の具や体質のことについて聞いてきたことはない。
あのとき見られた左手の傷はすぐに治ったし、その後手からは絵の具を取っていないから、別の手段で絵の具を生み出していると思っているのだろう。
描き終わった作品はこれまで通り買い取ってもらえていたが、時折彼が険しい表情をすることにシムは気がついていた。レモンのような淡い色味が多い完成作品を見ながら眉を顰めたブレイズに、シムは思わず声を掛けたが、笑顔ではぐらかされるだけだった。
(作品が変だったのなら指摘してくれるはずなのに、なにも言ってこない……あまり好みじゃなかったのかな?)
薄いかさぶたが何本も走る二の腕を避けて、足首の辺りから血を採っている間、シムはぼんやりとブレイズのことを思った。
彼が好きだと言ってくれた作品を描き続けていたい。彼はシムの絵のなにが好きなのだろう。
シムはさまざまな趣向を凝らして作品づくりに没頭した。
ときには普段扱わない、大きなキャンバスを用意したりもした。案の定釘打ちに四苦八苦し、広い画面に戸惑ったが、しっかり仕上げることができたのにブレイズの反応は芳しくなかった。
「ブレイズ、ぼくの作品になにか言いたいことでも?」
「……いや」
その日も結局ブレイズは首を横にふるだけで、作品を持って部屋を出ていった。近頃は会話も少ない。
シムは寂しく感じる気持ちを持て余していた。
心を許したように見せて孤独な画家を懐かせておいて、いざ思い通りになりそうになったら餌を与えない、そういう作戦なんだろうか。
ブレイズもやはりシムを絵を描く道具にしか思っていないのかもしれない。
自分の考えによって妙に落ち込んでしまたせいか、ゆっくりと冬に向かう季節のせいか。
シムは数年ぶりに風邪を引いた。
(これは、まずいかもしれない……)
熱は四日経っても引かなかった。それどころか昨日より頭をぼんやりさせる作用が強い気がする。
二日前になんとか階下で作った白湯も、すっかり冷めている上に量も少なくなっている。しかしベッドに体を起こす元気すらなかった。薬などあるはずもなく、電話を持っていないシムは助けを呼ぶこともできない。
助けを呼ぶって───誰を?
脳裏に瞬いた唯一の友人、と以前は躊躇いながらも呼べたはずの人物の影を、深く目をつぶることでかき消す。
(悪い方にばかり考えてしまいそうだ。もう一眠りしよう)
汗をかいている寝間着の内側が気持ち悪かったけど、シムは無理やり眠ることにした。
作品づくりに集中しているとき、ブレイズは外で待ちぼうけになってしまう。だからシムは日中玄関を施錠せず、いつでも彼が来られるようにしていた。その癖が抜けず、寝込んでいる今もドアの鍵は開いたままだ。閉めた方がいいかと思いつつ、怠い体を起こす気力もなくてシムの意識はそのまま薄れていった。
湿ったなにかが顔に当てられ、掛け布団が剥がされる感覚があった気がする。
顔を拭ったものが、汗まみれの体を優しく撫でる。
「……ママ……?」
濡れたものの動きが一瞬止まり、今度は髪を撫でられた。
もしかして本当に母親が来てくれたのかもしれない。
記憶が霞むほど遠い昔、シムにも母のぬくもりを感じる風邪の日があった。
喉が腫れて声を出せないシムの額にキスをして、いつまでも髪を撫でてくれていた。
こんな体じゃなければ、あの人は今も微笑みかけてくれていたのだろうか。
シムの名前を忘れたかのように「あなた」としか呼ばれなくなった、苦い記憶だけがある田舎の風景。
仲睦まじいよその家族とすれ違うたび、心臓が痛くて叫びだしたくなったあの日々。
熱に浮かされた目が痛み、まぶたの隙間から涙が零れた。
濡れた視界にはなにも映らず、シムは再び眠りに落ちる。
次の日、あんなに苦しんだ発熱が嘘のように収まっていた。
シムはベッドから起き上がって早々、家の中を見て回ったが、母が来た痕跡は見当たらなかった。
来ていたのならメッセージくらい残していくだろうし、朝起きたとき寝汗で体が気持ち悪かったので、あれは夢の中の出来事だったのだろう。期待したぶん落胆も大きかったが、そこまで引きずることはなかった。
それよりも、また絵を描ける。
五日も描かなかったから、もしかしたら感覚が鈍ったりしているかもしれない。早くカンを取り戻して、ブレイズに作品を見てもらいたい。
シムは精力的に作業へ打ち込んだが、予想に反してブレイズがやってきたのはさらに数日後のことだった。
「シム、わたしだ」
「ブレイズ!」
その日、彼は珍しくノックをして部屋に入ってきた。
近頃は勝手に開けるのにと微かな違和感があったが、それよりシムはブレイズが来てくれたことが嬉しかった。
「待ってたんだ。実は数日前風邪で寝込んでしまって、いつもより数は少ないんだけど」
ベッドの脇に立てかけてあった作品と、完成したばかりのキャンバスを見せる。ブレイズの反応を窺おうとして、彼の硬い表情に気がついた。
「ブレイズ……?」
「シム。ワーズリー画廊では今後きみの作品は扱わない」
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めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
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※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
追放された味見係、【神の舌】で冷徹皇帝と聖獣の胃袋を掴んで溺愛される
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小説家になろうにも掲載中です。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
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だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
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