冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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10.夢から醒めた夢

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 吐く息は荒く消え、吸う空気は冷たく肺を刺す。しかし今はそれを苦しいと思う余裕すらなかった。
 通りを走り抜け、階段を駆け上がり、もどかしくはしごを上ってテーブルに新聞を投げつける。
 開いたページを焦りとともに読むと、混乱するシムの頭にも多少状況が理解できるようになった。

 夢で描き、存在しないはずだった二枚の絵は、現実に存在し、無名の画家には奇跡的なとてつもない高値で売れたと書かれている。
 シムの絵はいつのまにかオークション形式の展示会に出品されていた。
 著名な現代アーティストの作品なども並ぶ中、新人画家のエリアに飾られていたシムの作品は、その異様な雰囲気と強烈に目を引く個性で来場者を魅了した、らしい。
 数人が競り合いになって値がつり上がり、異例の高値で落札された。
 絵はすでに購入した者の手に渡ったが、画家「シモンズ・キーン」の名は一切知られておらず、出品元の画廊に詳細の問い合わせが殺到しているという。今のところ画廊は返答をしておらず、作者の素性と行方に期待が寄せられている……といった内容で記事は締めくくられている。

「なんだ、これ……」

 読み慣れない新聞記事を頭から三回読み返して、シムは思わずつぶやいた。
 文章中に出てくるシムの名前や、不鮮明な白黒ではあるがあの絵を写した写真などは、明らかに渦中の人物がシムだと伝えてくる。
 しかしなんの実感も湧かない。
 新聞を力なくテーブルへ置き、よろよろと後ずさってベッドに倒れる。

(一番の問題は、あの絵が実在していたってことだ)

 天井の木目を数えながら、シムは「夢」だと思っていた作品のことを思い浮かべた。
 衝動的に絵筆を取り、零れる涙をパレットに取ることすらせず、直に筆をつけて描き殴った二枚の絵。
 悲しみと怒り、裏切られたという勝手な被害妄想と、ひとつまみの憎悪。
 それらをすべて絞り尽くしたあとに残ったもの、心の底に蹲ったシムの本当のきもち。
 すべてをさらけ出して描き上げたあの絵が、夢の産物ではなく実在していて、あろうことかとんでもない価格で売れ、すでに人様の手にあるなんて。
 遅れてやってきたのは猛烈な羞恥だった。

「うーっ!」

 顔を両手で覆って左右に転がり、足をじたばたさせるが、新聞にくっきり書かれた事実は消えてくれなかった。
 もしいつか、シムの作品が立派な額に入れられ真っ白な壁に展示され、その右下に「解説」なんて薄いプレートが掲げられたら……そんな妄想があながちあり得ないとも言い切れなくて、更に悶えた。
 潔癖そうなフォントでどんな解説を書かれるのか、考えたくもない。
 ともあれ、売れてしまったらしい作品のことはいまさらどうすることもできそうになかった。「恥ずかしいので買い戻したい」などと言っても、現状シムの手元に金はないし、そんな個人的な理由で持ち主へコンタクトを取ろうものなら、二度と画家などと名乗るなと追い返されるだろう。
 そこまで思い至って、はっとした。
 絵が売れたのなら、代金は誰が手にしたのか。
 シムの手元にはもちろんない。さっき新聞を買ったせいでなけなしの小銭もほぼ尽きた。
 無くなってもいいと思って散財した金ではあったが、いざ消えかけると体の中を直に風が通り抜けたような、足元がおぼつかない感覚に陥る。
 ただそんな不安も、もしこの絵の代金が転がり込めば話は百八十度違ってくる。
 ある程度仲介手数料を取られたとしても、質素倹約を旨とするシムなら数十年は働かず暮らしていける額だ。
 大金はいったいどこへ。

「シモンズ、いるかい」

 珍しく玄関のドアがノックされ、ややしゃがれた女性の声が響いた。
 飛びはねるおもちゃのような動きで立ち上がり、慌ててドアへ駆け寄る。

「大家さん」
「なんだい、幽霊でも見たような顔して。あんたに手紙だよ」

 勢いよくドアを開けたシムに大家は目を丸くし、若干引き気味に持っていた封筒を差し出した。
 シムが受け取ったのを確認してさっさとはしごを降りていく。
 手にした封筒はやや青みがかった白で、触り心地の良い上質紙が膨れている。重量も少しある。紙だけが入っている重さではないようだ。
 表面には大家の住所と、シムへ宛てたとの明記。
 裏返した先は真っ白で、差出人はなかった。
 違和感を感じてもう一度表を見ると、切手も消印もない。大家のポストに直接投函されたものだろうか。
 中身がまったく想像できないながらも、用心のためにテーブルの奥から存在を忘れかけていたペーパーナイフを取り出して開封する。
 中から出てきたのは、銀行キャッシュカードだった。
 指先でつまんでくるくる回し見たが、あまり使われた形跡はないものの新品でもなく、特に気になる点はない。ただしシムは、維持費のかかるこの銀行の口座は開いたこともなかった。
 封筒には他にも紙が入っていた。
 三つ折りを引き出し開くと、どうやら銀行口座の明細らしい。
 顔中に疑問符を浮かべながら紙面の文字を追うと、二つの点で驚くことになった。
 口座に収められた金額の多さと、口座の名義がシムであることだ。

「もう……わけが、わからない……」

 再びベッドに沈みそうになったシムは、瞬間頭を過ぎった考えによろめいた両足を踏ん張って耐えた。
 これらのことは、すべてブレイズの仕業なのではないか。
 シムの部屋へ訪れるような人間はブレイズくらいしかいない。
 泥棒が寄り付く場所ではないし、大家も用がなければシムの部屋など見向きもしない。あの作品が実在した以上、それを持ち出して展示会に出したのは当然ブレイズだろう。
 そしてこのカードとシム名義の口座明細、とてつもない残高。

「ブレイズっ……!」

 反射的に部屋を出てはしごを降りる。
 階段も一段飛ばしで駆け下り、表通りに転がり出た。
 コートを着ていない体は一瞬で冬の冷気に熱を奪われる。目的のものが見つからないことは頭では分かっているのに、行動せざるを得なかった。
 手紙を直接投函しにきた彼が、まだ近くにいるのではないかと思った。
 上品な色のコートを着こなし、すらりと伸びた背と柔らかい茶の髪の男をしばらく探したが、見つけることはできなかった。






 繁華街から離れ、大きな通りから一本入った狭い道。
 両側に路上駐車が隙間なく並び、昼時はぎゅうぎゅうに混むが奇跡的に治安だけは悪くない場所。
 色気もクソもないくすんだクリーム色の建物の二階にある事務所へ通うのは、もう何年の習慣だろう。外見だけはぎりぎり気を使っているが、中は至るところにボロが出ている雑居ビル。一階は先月閉店したカフェ、三階は地味なオフィス。それに挟まれたここは、いわゆる「探偵事務所」だ。

「おはよう」

 男が薄くて軋むドアを開け、室内にぼそっと挨拶する。

「おはようございます、所長」

 入り口すぐ横のデスクに座り、早くも書類仕事を初めていた我が事務所唯一の事務員が、愛想のない返事をして微かに顔を顰めた。
 その不機嫌そうな様子がやる気のない朝の挨拶か、たった一人しかいない調査員を便宜上「所長」と呼ばざるを得ない不快感か、呼気に含まれる濃厚なニコチン臭か、どれが原因なのかもはや探る気もない。
 胸ポケットからさっそく一本取り出して口に加えると、優秀な事務員である彼女はすかさず事務所内で一番強力な換気扇をオンにした。露骨だ。
 この都市の喫煙者への風当たりは年々強くなっているが、自分に関して言えば死ぬまでこれを手放すことはできないだろう。
 なんなら墓にも供えてほしいが、死んだ後まで付き合ってくれそうな相手候補は今のところ見当もつかない。
 タバコに火をつけながらオフィスの奥へ直行し、所長のデスクへ着席する。
 ジャケットはくたびれ、シャツは適当に仕舞うものを適当に引っ張り出すせいでくしゃくしゃだが、男は仕事ができないほうではなかった。書類業務はそこそこにこなすし、調査能力は折り紙つき。ただ素行が良くない、人柄もとっつきにくい。それらの要素が上手く相殺し合い、男としては不満のない仕事ができる場所として落ち着いていた。
 通りに面した大きなガラス窓にはブラインドカーテンが下がっている。
 その裾に埋もれているリモコンを掘り出し、部屋の角に置いたテレビを点けた。
 世間の関心やニュースについて、俗っぽいコメンテーターの視点を交えながら時間を消費するためだけの番組を見るともなしに眺める。
 無為な時を過ごしていると、衝立の向こうでなにやら動きがあった。
 すぐに事務員が顔を出し、さっきよりひどく顔を歪めたので仕方なくタバコを灰皿に押し付ける。

「所長、お客様です」
「依頼人か」
「はい」

 男と視線を合わせたときの、ほんの少し困惑したような事務員の目が気になりはしたが、特に見咎めることもなく頷く。
 彼女が去り、所長室の中には一人の男が通された。
 細身の青年だ。
 灰色の短髪やフード付きのコート、履き古したチノパンや紐がよれよれのスニーカーなどを見るに、あまり金がなく身なりに構ってもいない典型的な今どきの若者といった風情だった。
 薄い青色の瞳をおどおどと彷徨わせている。表通りには掃いて捨てるほどいるが、このオフィス内にいることは滅多に無い人種だ。

「お掛けください」

 一瞬で依頼人の品定めをした男は、デスクの前の応接セットへ青年を促した。
 かんたんに名乗って一人がけのソファへ腰掛けると、気弱そうな青年はおずおずと長ソファへ座った。

「予約もなしにすみません。こちらがとても腕の良い探偵事務所だと聞いたので」
「あなたは運がいい、この嘘だらけの町でその噂だけは真実だ」

 大仰な態度で首を振って見せると、青年はくすりと笑った。
 可哀想なほど痩せて、疲れたような顔をしているが、笑うと可愛らしい印象に変わる。
年齢は二十代半ばか、と素早く当たりをつけた。

「ぼくはシモンズ・キーンといいます。お願いしたいのは、人探しです」
「人探しですね、私どもの専門分野です。……ん、シモンズ……?」

 男はそのまま依頼の話を進めようとして、告げられた名に首を傾げた。
 どこかで聞いたことがある。
 自己紹介ではなく、あまり関心のない広告をちらっと見たときのような、脳を素通りした情報がほんの少し引っかかる程度の記憶。
 青年シモンズにとってその反応は想定内だったのか、彼は再び少し笑った。
 そして応接机の向こう、ブラインドカーテンの脇を指差す。

「あの絵の作者です」

 点けっぱなしのテレビには、二枚の不思議な絵の写真を前に下世話な話をするコメンテーターの姿が映っていた。

 謎に包まれた稀代の天才画家───それにしてはいささか栄養失調ぎみの若者、シモンズ青年からの依頼は単純なものだった。

「姿を消してしまった画商、ブレイズ・ワーズリーを探す……それが依頼ですね」
「はい」

 しっかりと頷く薄蒼色の両目には、確かな決意が浮かんでいる。

「差し支えなければですが……なぜワーズリー氏を探すのか、理由を伺っても?」

 依頼を受けるための書類を記入しながら、ちらりとシモンズ氏を窺う。
 彼は特に動揺することもなく理由を話した。

「構いません。ぼくは彼を通して作品を売っていました。これまでは気にしたこともありませんでしたが、彼が姿を消して初めて、どこにも売られた形跡のない作品がいくつかあることに気付いたんです」

 ワーズリーはそれらいくつかの作品を持ったまま、失踪してしまった。
 彼の所属する画廊も困っていて、場合によっては窃盗、横領の罪に問われる。

「しかしぼくにとっては恩人のようなもの。彼がぼくの作品のせいで犯罪者になるのはしのびない。穏便に返してもらえるのなら事を荒立てるつもりはないので、画廊が警察へ相談する前に居場所を知りたいんです」
「なるほど……わかりました。最善を尽くします」
「ありがとうございます!」

 硬い表情で話していたシモンズ氏は、男が依頼を受諾すると言うと嬉しそうに口元を綻ばせた。
 画廊とシモンズ氏は方方手を尽くして探したと言うが、自ら姿を隠したそれなりに金を持っている大人を見つけ出すのは、素人には難しい。
 これがプロの手にかかれば、事件性の薄い素人の失踪などかんたんにけりがつく。
 男は立ち上がり、喜色満面のシモンズ氏と固い握手を交わした。
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