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11.再会と真相
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時折春の気配がにじむかと思えば、また冷たい北風が吹き付ける。
手袋とマフラー、厚手のコートでも防ぎきれない冬の空気が体を嬲り、路上を吹き抜けていった。
すぐ近くを通り過ぎていく者たちは皆似たような格好で、せかせかと先を急ぎすれ違っていく。
片腕で抱えた紙袋を揺すって持ち上げる。
仮住まいとして飛び込んだ割には、隙間風がなく清潔な部屋のことを早くも気に入り始めているのは感傷か、はたまた冬の魔法か。
目的のアパートメントまであと十数歩、といったところで、視線の先に見覚えのある影がちらつくことに気がついた。
いくらか歩を進め、自然と足が止まる。
「ブレイズ、久しぶり」
「……シム……」
壁に背を預けていた人影が行手に立ちふさがる。
一日にして大金持ちの売れっ子天才画家になった男───この場にいないはずの男、シモンズ・キーンは寒さに強張った頬を持ち上げて、ぎこちない笑みを浮かべた。
築年数は古いが、植物モチーフの近代建築美術をふんだんにあしらった外観のアパートメントはシムの住処と比べるべくもない華美さだ。敷地に入るための外扉を押し開ける手すりすら洒落ていて、シムは触れるのに躊躇した。
静まり返った階段と共用部分をお互いに無言で通り過ぎる。
ブレイズが立った部屋が、現在の彼の隠れ家なのだろう。
シムは後ろについて来たものの、すんなり招かれるとは思っていなかったのだが、ブレイズが開けた扉を閉めようとしないので首を傾げると「入らないのか?」と不思議そうに催促される。
気が変わられる前に慌てて滑り込んだ。
書類上は1DKとなっている彼の部屋は、天井が高く思ったより広々としている。
大きく取られた窓に掛かったカーテンすら上品で隙がない。一時しのぎの住居のはずなのに、センスがよくて居心地もなかなかだ。
美的感覚の優れたブレイズらしい采配に、シムはこっそり苦笑いした。
「座っていてくれ。コーヒーを淹れよう」
キッチンのワークトップに紙袋を置いたブレイズは、中身のいくつかを冷蔵庫へ詰め込んで道具を準備しはじめた。
仮の住まいなのにカフェティエールが置かれているのには驚いた。シムの部屋へ彼を招いたとき、コーヒーを出さなかったのは正解だったかもしれない。このこだわりは相当だ。
湯気の立つコーヒーをテーブルに置いたブレイズは、硬い表情で反対側の椅子を引いた。
しっかりと視線が合い、すぐに逸れる。
「……シム。すまなかった」
ぽつりと呟かれた言葉は謝罪だった。
両手でカップを包んでいたシムはそれをソーサーに戻し、熱で温まった手を組み合わせる。
「それは、なにについての謝罪?」
「作品を勝手に持ち出したこと、勝手に展示会へ出したこと、行き先を告げずに離れたことだ」
「ぼくへの直接的な仕打ちについては、謝らないんだ」
「……」
黙り込んでしまったブレイズの伏せた瞼を見つめて、コーヒーを一口含む。
場の空気が限りなく重くても、薫り高いダークブラウンの味は格別だ。
「ここのことは、調査会社の人を雇って場所を突き止めた」
評判を聞いていた私立探偵の男は本当に優秀で、シムとワーズリー画廊の人たちが一週間手を尽くして探しても見つからなかったブレイズの行方を三日で突き止めた。
彼はなんの所縁もない場所に居を移してはいたものの、偽名などは使っておらず、ふつうに外出もして生活していた。プロにとっては造作もない調査だったようだ。
「画廊に告げずにぼくの絵を持っていったんだってね。買い上げたときの代金は置いてあったそうだけど……ぼくの絵は今やとんでもない高値で売れるんだ。知らないはずないだろ?」
わざと傲慢に言い放つと、テーブルの上でブレイズの拳が握り込まれる。
「ぼくは今が大事な時期だ。好んで警察沙汰にしたいわけじゃない……だからこうして会いに来た。あなたの気持ちを訊くために」
「わたしの、気持ち?」
「あなたはぼくを売れっ子にするために、あんなことを……したの?」
覚悟を決めて来たというのに、一瞬言い淀んでしまった。
それがまだブレイズの支配下に置かれたままの心を表しているかのようで、シムは下唇を噛んだ。
制作の手順や使う道具だけでなく、生活の質やリズムまで握られていた。極めつけはあの行為だ。道具を調達するためだけに、触れられれば反応せざるを得ない生理的な場所をいたぶられ、搾取されるだけの所業。今思い出しても腑を引き絞られるようなストレスを感じる。
「……そうだ」
ブレイズは無情にも肯定した。シムは鋭く息を呑む。
「わたしはきみの他にも何人か、売れない画家から絵を買い取っていた。売れるかどうかというより、パトロンのようなつもりだった。もちろん販売努力は怠らなかったし、きみたちが一人前の作家として羽ばたいてほしいと思う心は本物だったが……本気で打ち込んでいた事業ではなかった」
薄々勘付いていた、そして画廊に残されたほかの画商たちからすでに聞き及んでいた話だったため、シムはひとつ頷いただけだった。
シムの様子を伺っていたブレイズが言葉を接ぐ。
「だがきみの絵を見て、わたしは衝撃を受けた。これが誰にも見つからないままたらい回しされてきたことに怒りさえ感じた。シムの絵を世間に認めさせたいと思い、実際できの良いものは他の作家より優先して買い上げた。決して高額ではなかったが、預かったものはちゃんと売れていたよ」
「……じゃあ、突然取引を辞めるって言い出したのは?」
「あれは……」
少し言葉に詰まったブレイズを、シムは視線で促す。今更隠し事など意味はない。
「きみがあの絵の具を……血から作っていると知ったからだ。目立つところに傷がないから油断していた。自らを傷つけてまで絵を描かせている原因がわたしだとしたら、離れたほうが良いと思った」
考えてもみなかった理由を告げられ、シムは目を見開く。
あの頃の記憶を紐解いて、彼がその事実に気付いた日にやっと思い当たった。
「あれはママじゃなくて、ブレイズだったのか……」
風邪で朦朧としているシムを、誰かが介抱してくれた。
汗だらけの体を拭う布の感覚も夢うつつだったが、そのとき体の内側の切り傷を見られたのだろう。
「わざときつく当たって、収入を制限すれば、すぐ音を上げてわたしから離れるだろう。そうすれば血を使ってまで絵を描くことはなくなる。そう思って……もちろん売れた絵の代金は取ってあった。渡さなかっただけで」
「知ってる。口座に全部入ってた」
シムの名義で勝手に作られた銀行口座には、丁寧な明細までついていた。どの絵がいつ、いくらで売れて、そのうちの何割をシムに現金で渡し、残りを振り込んだか。
あのひどい態度の裏で、盲目的とすら思えるこれほどまでの献身があったなんて、想像することもなかった。
なにもかもを知った後で、シムはただブレイズを探さなければと感じたのだった。
それにしても、だ。
「ぼくが血を使ってまで絵を描くのがブレイズのせいだなんて、どうして思ったの。それこそずいぶんと身勝手な理由付けじゃない?」
「わたしだってそうは思いたくなかった。最近までは確信もなかった。だが、あの絵を見ては……」
「あの絵?」
「展示会に出した絵だ」
思えばシムの作品は、少しずつ変わっていった。
画家とて人間だ、作風が変わることなど珍しくもない。なにかに影響を受けることも。
しかしなにに感化されて画家の作品傾向が変化するのかというのは、決して軽くないテーマだ。
シムの描く絵は抽象画と呼ばれるもので、特定の対象を描画するものではない。
描いた本人にしか、なにを主題としているかは分からないだろう。
現実に存在する物体、もしくは人々の内に潜む感情、大気を震わせる気象。
そういったものがシモンズ・キーンというフィルターを通すと、どうしてこの作品になるのか。
最初の興味はそれだった。
シムの作品の面白いところは、美術や絵画に興味がない人間でも目を引かれる作品をつくるというところだ。
なんとなくキレイ、なんとなく何かに見えそうで面白い。
画廊に今まで入ったことがないという客にもシムの絵は売れた。何が描かれているのかはさっぱり分からないが、そんなことは重要じゃない。
しかし一度なにが描かれているのか探そうとすれば、視るものを出口のない迷路へ放り込む……それが画家シモンズ・キーンの作品だ。
ブレイズも彼の作るものに魅せられた一人だった。
ある時、シムが提供してくる作品にひとつか二つ、どうも妙なものが混じることに気がついた。
それまでは特に気にもせず、技術的な未熟さが現れているだけかと思っていたが、その「不出来」な気配は徐々に他の作品を侵蝕し、シムらしい作品の色をも奪っていった。
なにかがおかしい、シムらしくない、見ていると不安が込み上げる。
しかし何が原因なのかは分からない。
ブレイズ自身も混乱しながら、そういった絵は突っ返すことで平静さを保っていた。シムもその絵をどうしても売却したいとは言わず、突っ返されたものはベッド横の空きスペースに押し込んで省みることもないようだった。
シムの絵がブレる原因が分からないまま、ブレイズはある日対処法だけを見つけてしまった。
───シム自身が苦しいほど、彼の絵は洗練される。
気付いたのは偶然だった。
たまたまその時シムは出費が重なり、画材を買うどころか日々の食事にも苦労していたようだ。
「あぁ、助かった。この絵が売れなかったらぼくは飢え死にだったよ」
痩せこけた首筋をしきりに撫で擦りながら苦笑いしたシムの横で、ブレイズは指一本動かせなほどの衝撃に全身を打ち据えられていた。
隣ではシムがこの数日、隣室の食事の匂いをおかずに味のないパンを齧って生き延びた様子を照れながら語っている。その言葉が耳を素通りしながらも、内容だけは届いていた。
困窮の中描き上げたという絵は、触れる前から肌を突き刺すような異次元のプレッシャーを与えていた。
見つめ続ければ目が潰れるかもしれないと恐れを覚えると同時に、眼球が固定されたかのように視線を捉えて離さない。悪魔に魂を売ったとはこういうものをいうのかと錯覚するほどの出来栄え。
未だ荒削りで、万人受けはしないだろうが、彼の作品の中では傑作のひとつに数えられるものであろうことをブレイズはすぐに確信した。
「だからあんなに、食事も画材も制限されたんだ」
ブレイズが頷く。
「もっとも画材は、そうは見えないだろうが特注だ」
「特注?」
「キャンバスと絵筆。きみの作品を専門家に見てもらって、絵の具の特性から最も適している素材を使って手作りしてもらっていた」
シムは目を瞬かせる。
あのぼさぼさの中古絵筆と黄ばんだキャンバスがシムのための特注品だとは思ってもみなかった。
それならふつうに買うより高くつくだろう、ブレイズは作品づくりに関しては妥協していなかったらしい。
「きみの生活を束縛したことは言い訳しようもない事実だ。シムが苦しんでいることはわかっていた。それでも……あの日手にした絵のすばらしさを忘れることができなかった。こんな仕打ちをしていればすぐにきみは離れていく、それなら少しの間だけでも、苦しさを芸術に昇華させるきみの絵を、一番近くで見ていたかった……」
ブレイズの手のひらがきつく握りしめられる。
ずっと矛盾した気持ちを抱えていた。
のびのびと絵を描いてほしい、しかし彼の絵の本質は苦痛の中にある。
シム自身、苦痛を追い求める節があり、何日も寝食をないがしろにして絵を描いたり、躊躇いなく体を傷つけて血から絵の具を取ったりする。
このままではいけないという強い気持ちと、このまま彼がどこへ行き着くのか見てみたい誘惑に、ブレイズは引き裂かれそうだったと呻いた。
「お金をちょろまかしていたのでも、ぼくが憎くて生活を縛っていたのでもないことは分かった。どうして姿を消したの?」
鋭く切り込んだシムは、自分が放った問いに生唾を飲み込んだ。
それこそが一番訊きたかったことだからだ。
睨みつけたブレイズの瞳には、もはや追い詰められた色は乗っていなかった。穏やかな諦めのようなものだけがある。
「きみがあの絵を描いている最中、一度部屋へ行ったんだ」
「えっ、そうだったの」
「あぁ。だがとても……声を掛けられる状態じゃなかった。気迫とでもいうのか……その日はそのまま帰って、日をおいてまた訪ねた。そして『あれ』を見た」
古びて足を切り落とされたイーゼルに掛けられた、それ。足元に横たわるもう一つの画面。その横で死んだように眠っているシムの姿。
「『あれ』を見たとき、わたしの役目は終わったと思ったんだ。これだけのものが描けるきみのことを、世間はもはや認めざるを得ない。眠ったきみを起こすこともできず、黙ってあの絵を持ち帰った。予想通り誰もがきみの絵の虜になって、正真正銘、わたしの役割はなくなった」
役目って、役割ってなんだ。
シムは歯噛みした。彼は一番大事なことを分かっていない。
あの絵は、二枚目のあれは───。
「同時にやはりこのままではいけないとも思った。きみの魂を削るほどの傑作に描かれるのが、わたしではだめだと」
シムの表情に驚愕が浮かぶ。
「な、んで……」
肚の内で渦巻き淀んでいた感情がすっと消えた。
二枚目には秘密があった。
誰にも告げたことはなく、誰にも言うつもりのなかった事実。
それをブレイズはあっさり看破したというのか。
「抽象画なんてなにを主題に描かれているか、第三者に分かるはずがない。でも、自分が描かれていたらそうではない……わたしも初めて知ったけれどね」
おどけた仕草でブレイズが微笑むのを、シムは泣きそうな顔で見つめた。
手袋とマフラー、厚手のコートでも防ぎきれない冬の空気が体を嬲り、路上を吹き抜けていった。
すぐ近くを通り過ぎていく者たちは皆似たような格好で、せかせかと先を急ぎすれ違っていく。
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「ブレイズ、久しぶり」
「……シム……」
壁に背を預けていた人影が行手に立ちふさがる。
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築年数は古いが、植物モチーフの近代建築美術をふんだんにあしらった外観のアパートメントはシムの住処と比べるべくもない華美さだ。敷地に入るための外扉を押し開ける手すりすら洒落ていて、シムは触れるのに躊躇した。
静まり返った階段と共用部分をお互いに無言で通り過ぎる。
ブレイズが立った部屋が、現在の彼の隠れ家なのだろう。
シムは後ろについて来たものの、すんなり招かれるとは思っていなかったのだが、ブレイズが開けた扉を閉めようとしないので首を傾げると「入らないのか?」と不思議そうに催促される。
気が変わられる前に慌てて滑り込んだ。
書類上は1DKとなっている彼の部屋は、天井が高く思ったより広々としている。
大きく取られた窓に掛かったカーテンすら上品で隙がない。一時しのぎの住居のはずなのに、センスがよくて居心地もなかなかだ。
美的感覚の優れたブレイズらしい采配に、シムはこっそり苦笑いした。
「座っていてくれ。コーヒーを淹れよう」
キッチンのワークトップに紙袋を置いたブレイズは、中身のいくつかを冷蔵庫へ詰め込んで道具を準備しはじめた。
仮の住まいなのにカフェティエールが置かれているのには驚いた。シムの部屋へ彼を招いたとき、コーヒーを出さなかったのは正解だったかもしれない。このこだわりは相当だ。
湯気の立つコーヒーをテーブルに置いたブレイズは、硬い表情で反対側の椅子を引いた。
しっかりと視線が合い、すぐに逸れる。
「……シム。すまなかった」
ぽつりと呟かれた言葉は謝罪だった。
両手でカップを包んでいたシムはそれをソーサーに戻し、熱で温まった手を組み合わせる。
「それは、なにについての謝罪?」
「作品を勝手に持ち出したこと、勝手に展示会へ出したこと、行き先を告げずに離れたことだ」
「ぼくへの直接的な仕打ちについては、謝らないんだ」
「……」
黙り込んでしまったブレイズの伏せた瞼を見つめて、コーヒーを一口含む。
場の空気が限りなく重くても、薫り高いダークブラウンの味は格別だ。
「ここのことは、調査会社の人を雇って場所を突き止めた」
評判を聞いていた私立探偵の男は本当に優秀で、シムとワーズリー画廊の人たちが一週間手を尽くして探しても見つからなかったブレイズの行方を三日で突き止めた。
彼はなんの所縁もない場所に居を移してはいたものの、偽名などは使っておらず、ふつうに外出もして生活していた。プロにとっては造作もない調査だったようだ。
「画廊に告げずにぼくの絵を持っていったんだってね。買い上げたときの代金は置いてあったそうだけど……ぼくの絵は今やとんでもない高値で売れるんだ。知らないはずないだろ?」
わざと傲慢に言い放つと、テーブルの上でブレイズの拳が握り込まれる。
「ぼくは今が大事な時期だ。好んで警察沙汰にしたいわけじゃない……だからこうして会いに来た。あなたの気持ちを訊くために」
「わたしの、気持ち?」
「あなたはぼくを売れっ子にするために、あんなことを……したの?」
覚悟を決めて来たというのに、一瞬言い淀んでしまった。
それがまだブレイズの支配下に置かれたままの心を表しているかのようで、シムは下唇を噛んだ。
制作の手順や使う道具だけでなく、生活の質やリズムまで握られていた。極めつけはあの行為だ。道具を調達するためだけに、触れられれば反応せざるを得ない生理的な場所をいたぶられ、搾取されるだけの所業。今思い出しても腑を引き絞られるようなストレスを感じる。
「……そうだ」
ブレイズは無情にも肯定した。シムは鋭く息を呑む。
「わたしはきみの他にも何人か、売れない画家から絵を買い取っていた。売れるかどうかというより、パトロンのようなつもりだった。もちろん販売努力は怠らなかったし、きみたちが一人前の作家として羽ばたいてほしいと思う心は本物だったが……本気で打ち込んでいた事業ではなかった」
薄々勘付いていた、そして画廊に残されたほかの画商たちからすでに聞き及んでいた話だったため、シムはひとつ頷いただけだった。
シムの様子を伺っていたブレイズが言葉を接ぐ。
「だがきみの絵を見て、わたしは衝撃を受けた。これが誰にも見つからないままたらい回しされてきたことに怒りさえ感じた。シムの絵を世間に認めさせたいと思い、実際できの良いものは他の作家より優先して買い上げた。決して高額ではなかったが、預かったものはちゃんと売れていたよ」
「……じゃあ、突然取引を辞めるって言い出したのは?」
「あれは……」
少し言葉に詰まったブレイズを、シムは視線で促す。今更隠し事など意味はない。
「きみがあの絵の具を……血から作っていると知ったからだ。目立つところに傷がないから油断していた。自らを傷つけてまで絵を描かせている原因がわたしだとしたら、離れたほうが良いと思った」
考えてもみなかった理由を告げられ、シムは目を見開く。
あの頃の記憶を紐解いて、彼がその事実に気付いた日にやっと思い当たった。
「あれはママじゃなくて、ブレイズだったのか……」
風邪で朦朧としているシムを、誰かが介抱してくれた。
汗だらけの体を拭う布の感覚も夢うつつだったが、そのとき体の内側の切り傷を見られたのだろう。
「わざときつく当たって、収入を制限すれば、すぐ音を上げてわたしから離れるだろう。そうすれば血を使ってまで絵を描くことはなくなる。そう思って……もちろん売れた絵の代金は取ってあった。渡さなかっただけで」
「知ってる。口座に全部入ってた」
シムの名義で勝手に作られた銀行口座には、丁寧な明細までついていた。どの絵がいつ、いくらで売れて、そのうちの何割をシムに現金で渡し、残りを振り込んだか。
あのひどい態度の裏で、盲目的とすら思えるこれほどまでの献身があったなんて、想像することもなかった。
なにもかもを知った後で、シムはただブレイズを探さなければと感じたのだった。
それにしても、だ。
「ぼくが血を使ってまで絵を描くのがブレイズのせいだなんて、どうして思ったの。それこそずいぶんと身勝手な理由付けじゃない?」
「わたしだってそうは思いたくなかった。最近までは確信もなかった。だが、あの絵を見ては……」
「あの絵?」
「展示会に出した絵だ」
思えばシムの作品は、少しずつ変わっていった。
画家とて人間だ、作風が変わることなど珍しくもない。なにかに影響を受けることも。
しかしなにに感化されて画家の作品傾向が変化するのかというのは、決して軽くないテーマだ。
シムの描く絵は抽象画と呼ばれるもので、特定の対象を描画するものではない。
描いた本人にしか、なにを主題としているかは分からないだろう。
現実に存在する物体、もしくは人々の内に潜む感情、大気を震わせる気象。
そういったものがシモンズ・キーンというフィルターを通すと、どうしてこの作品になるのか。
最初の興味はそれだった。
シムの作品の面白いところは、美術や絵画に興味がない人間でも目を引かれる作品をつくるというところだ。
なんとなくキレイ、なんとなく何かに見えそうで面白い。
画廊に今まで入ったことがないという客にもシムの絵は売れた。何が描かれているのかはさっぱり分からないが、そんなことは重要じゃない。
しかし一度なにが描かれているのか探そうとすれば、視るものを出口のない迷路へ放り込む……それが画家シモンズ・キーンの作品だ。
ブレイズも彼の作るものに魅せられた一人だった。
ある時、シムが提供してくる作品にひとつか二つ、どうも妙なものが混じることに気がついた。
それまでは特に気にもせず、技術的な未熟さが現れているだけかと思っていたが、その「不出来」な気配は徐々に他の作品を侵蝕し、シムらしい作品の色をも奪っていった。
なにかがおかしい、シムらしくない、見ていると不安が込み上げる。
しかし何が原因なのかは分からない。
ブレイズ自身も混乱しながら、そういった絵は突っ返すことで平静さを保っていた。シムもその絵をどうしても売却したいとは言わず、突っ返されたものはベッド横の空きスペースに押し込んで省みることもないようだった。
シムの絵がブレる原因が分からないまま、ブレイズはある日対処法だけを見つけてしまった。
───シム自身が苦しいほど、彼の絵は洗練される。
気付いたのは偶然だった。
たまたまその時シムは出費が重なり、画材を買うどころか日々の食事にも苦労していたようだ。
「あぁ、助かった。この絵が売れなかったらぼくは飢え死にだったよ」
痩せこけた首筋をしきりに撫で擦りながら苦笑いしたシムの横で、ブレイズは指一本動かせなほどの衝撃に全身を打ち据えられていた。
隣ではシムがこの数日、隣室の食事の匂いをおかずに味のないパンを齧って生き延びた様子を照れながら語っている。その言葉が耳を素通りしながらも、内容だけは届いていた。
困窮の中描き上げたという絵は、触れる前から肌を突き刺すような異次元のプレッシャーを与えていた。
見つめ続ければ目が潰れるかもしれないと恐れを覚えると同時に、眼球が固定されたかのように視線を捉えて離さない。悪魔に魂を売ったとはこういうものをいうのかと錯覚するほどの出来栄え。
未だ荒削りで、万人受けはしないだろうが、彼の作品の中では傑作のひとつに数えられるものであろうことをブレイズはすぐに確信した。
「だからあんなに、食事も画材も制限されたんだ」
ブレイズが頷く。
「もっとも画材は、そうは見えないだろうが特注だ」
「特注?」
「キャンバスと絵筆。きみの作品を専門家に見てもらって、絵の具の特性から最も適している素材を使って手作りしてもらっていた」
シムは目を瞬かせる。
あのぼさぼさの中古絵筆と黄ばんだキャンバスがシムのための特注品だとは思ってもみなかった。
それならふつうに買うより高くつくだろう、ブレイズは作品づくりに関しては妥協していなかったらしい。
「きみの生活を束縛したことは言い訳しようもない事実だ。シムが苦しんでいることはわかっていた。それでも……あの日手にした絵のすばらしさを忘れることができなかった。こんな仕打ちをしていればすぐにきみは離れていく、それなら少しの間だけでも、苦しさを芸術に昇華させるきみの絵を、一番近くで見ていたかった……」
ブレイズの手のひらがきつく握りしめられる。
ずっと矛盾した気持ちを抱えていた。
のびのびと絵を描いてほしい、しかし彼の絵の本質は苦痛の中にある。
シム自身、苦痛を追い求める節があり、何日も寝食をないがしろにして絵を描いたり、躊躇いなく体を傷つけて血から絵の具を取ったりする。
このままではいけないという強い気持ちと、このまま彼がどこへ行き着くのか見てみたい誘惑に、ブレイズは引き裂かれそうだったと呻いた。
「お金をちょろまかしていたのでも、ぼくが憎くて生活を縛っていたのでもないことは分かった。どうして姿を消したの?」
鋭く切り込んだシムは、自分が放った問いに生唾を飲み込んだ。
それこそが一番訊きたかったことだからだ。
睨みつけたブレイズの瞳には、もはや追い詰められた色は乗っていなかった。穏やかな諦めのようなものだけがある。
「きみがあの絵を描いている最中、一度部屋へ行ったんだ」
「えっ、そうだったの」
「あぁ。だがとても……声を掛けられる状態じゃなかった。気迫とでもいうのか……その日はそのまま帰って、日をおいてまた訪ねた。そして『あれ』を見た」
古びて足を切り落とされたイーゼルに掛けられた、それ。足元に横たわるもう一つの画面。その横で死んだように眠っているシムの姿。
「『あれ』を見たとき、わたしの役目は終わったと思ったんだ。これだけのものが描けるきみのことを、世間はもはや認めざるを得ない。眠ったきみを起こすこともできず、黙ってあの絵を持ち帰った。予想通り誰もがきみの絵の虜になって、正真正銘、わたしの役割はなくなった」
役目って、役割ってなんだ。
シムは歯噛みした。彼は一番大事なことを分かっていない。
あの絵は、二枚目のあれは───。
「同時にやはりこのままではいけないとも思った。きみの魂を削るほどの傑作に描かれるのが、わたしではだめだと」
シムの表情に驚愕が浮かぶ。
「な、んで……」
肚の内で渦巻き淀んでいた感情がすっと消えた。
二枚目には秘密があった。
誰にも告げたことはなく、誰にも言うつもりのなかった事実。
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「抽象画なんてなにを主題に描かれているか、第三者に分かるはずがない。でも、自分が描かれていたらそうではない……わたしも初めて知ったけれどね」
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批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
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追放された味見係、【神の舌】で冷徹皇帝と聖獣の胃袋を掴んで溺愛される
水凪しおん
BL
「無能」と罵られ、故郷の王宮を追放された「味見係」のリオ。
行き場を失った彼を拾ったのは、氷のような美貌を持つ隣国の冷徹皇帝アレスだった。
「聖獣に何か食わせろ」という無理難題に対し、リオが作ったのは素朴な野菜スープ。しかしその料理には、食べた者を癒やす伝説のスキル【神の舌】の力が宿っていた!
聖獣を元気にし、皇帝の凍てついた心をも溶かしていくリオ。
「君は俺の宝だ」
冷酷だと思われていた皇帝からの、不器用で真っ直ぐな溺愛。
これは、捨てられた料理人が温かいご飯で居場所を作り、最高にハッピーになる物語。
炎の精霊王の愛に満ちて
陽花紫
BL
異世界転移してしまったミヤは、森の中で寒さに震えていた。暖をとるために焚火をすれば、そこから精霊王フレアが姿を現す。
悪しき魔術師によって封印されていたフレアはその礼として「願いをひとつ叶えてやろう」とミヤ告げる。しかし無欲なミヤには、願いなど浮かばなかった。フレアはミヤに欲望を与え、いまいちど願いを尋ねる。
ミヤは答えた。「俺を、愛して」
小説家になろうにも掲載中です。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
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