冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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12.告白

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 あの日、部屋の中は大惨事だった。
 動くことのなかった空気が、開け放たれた玄関へ向かって吸い出されていく。
 シムは掃除をしょっちゅうサボるので、薄っすら床に積もった埃も風に乗って吐き出されていった。充満していた密室の空気が入れ替わっていく。
 シムの絵の具は独特な匂いがする。
 性質は油絵の具に似ているが、水に溶ける性質から水彩にしか見えないこともある。
 そしてふつうの顔料とも違う、ふと古い記憶に紐付いて思い出されるような匂い。懐かしい香りだ。
 年中この匂いが満ち満ちている室内も、どこか郷愁を掻き立てられる空間だった。
 さまざまな匂いが去った部屋には、三つのものが残されていた。
 まずはベッドの側面に背を預け、足を投げ出して座っている家主。
 ブレイズはそこへ駆け寄ろうとして、部屋の中央に視線を縫い留められた。

「完成、したのか……」

 ブレイズが数日ぶりにやってきたとき、シムはイーゼルに立てたキャンバスへ齧りつくように作業をしていた。
 ブレイズが立てた物音に視線一つ寄越さない凄まじい集中力はいつものことだったが、このときは特に鬼気迫るものがあった。
 そのときはすごすご退散し、日をおいて改めて訪ねた結果がそこにはあった。
 あの日は一枚だったものが、今は二枚存在している。
 一見すると、立てられた一枚目は黄色っぽく、寝かされた二枚目は濃紺の絵だ。
 相変わらずシムの絵に主題はないように見える。
 絵の具のかたまり、ジャムを塗りたくったパン、典型的な抽象画だ。
 それなのに天井を見つめ続ける二枚目に、ブレイズは視線と心臓を釘付けにされた。
 画面中央から縦に伸びた細長いなにか。灰混じりの焦茶の物体は、周囲の紺色から総攻撃を受けて幅が蝕まれ、棒のようになってしまったらしい。茶と紺の境界はぎざぎざとして曖昧で、なのにそれが物体と背景にはっきりと分かたれていることが見て取れる。
 背景の紺は色と形を変えながら、薄れゆくそれを必死に抱きしめて引き留めようとしていた。そう「見えた」。
 脳裏に浮かんだのがインスピレーションなのか、被害妄想なのか、都合のいい夢なのか、ブレイズには今でも判断できない。
 ────シムが蹲って泣いている。
 細い背を小さく丸め、ぺったりと足も尻も地につけ、両腕でなにかを抱きしめている。
 なにか小さなものを抱いているのかと正面に回ると、彼の胸にはなにもない……そんな哀しいだけの風景。
 不意に涙に濡れたシムの目がこちらを見た。
 光の侵入を許さないアイス・ブルーが映し出した姿が、キャンバスの中央で居心地悪く佇んでいたか細い棒と重なる───。
 はっとして周囲を見渡したが、先ほどの光景はやはりブレイズの頭の中にしかなかったようだ。
 絵の呪縛から解放されたブレイズは、床にくずおれているシムの顔と絵の具まみれの体を拭いてベッドに横たわらせ、二枚の絵を持ってその場を後にした。
 それがあの日の出来事のすべてだ。

「わたしたちはサポーターだ。作家を助けることはあっても、作家を害する存在になってはならない。まして彼らの作品に悪影響を及ぼすようでは……プロ失格だ」
「違う! ブレイズはぼくのためにたくさんのことをしてくれた。ぼくが、ぼくの……勝手な思いで……」

 焦って立ち上がったシムに、ブレイズは柔らかく微笑みかける。

「シム、きみはなにも悪くない。きっとわたしの無意識を、敏感に拾い上げてしまっただけなんだ」
「ブレイズの、無意識?」
「わたしがきみのことを、ただ多くいる画家のひとりだと……思えなくなったから」

 今度はブレイズが席を立った。
 ほとんど飲まれていないカップを二つ持ち、シンクに置く。シムへ背を向けたまま、明るいとも取れる声で告げた。

「呆れただろう、わたしに商売人の資格はない。きみにはもっといいパートナーがいくらでも現れるだろうから、わたしのことは忘れなさい」
「ブレイズ」
「画廊から持ち出した作品は後日必ず返しに行くよ、だから今日は」

 シムが背に触れると、饒舌な言葉はびくりと震えて途切れる。

「ブレイズはぼくのこと、仕事相手以上のなにかだと思っていたってこと?」
「……っ、そう言ってる」
「今も?」
「そう、だ」
「じゃあぼくは、この気持ちをがまんしなくて良いってこと?」

 手を置いた背中に一歩近づき、額をつけた。
 衣服に隔てられていてもブレイズのあたたかさは伝わってきて、泣きたいような感情が襲う。

「……シム」

 ブレイズの声は困りきっていた。振り払えばいいのにそれもできないらしい。
 シムは堪えきれずにくすくすと笑った。

「ブレイズ。ぼくのこの感情が間違いで、あなたのせいだと言うのなら、責任を取れ」
「それは」
「あなたのせいでぼくは困ってる。次の絵を描けるかどうかも分からないし、頭の中がこんがらがって熱でも出しそうだ。今すぐ優秀なサポーターが身近に必要な状態……そう思うだろ?」

 強張ったままの背筋に髪を擦り付ける。
 ブレイズは振り返ることもできずさらに固まってしまった。

「ぼくはあなたのために絵を描くと誓った。その約束を交わした時点で、ブレイズに逃げるという選択肢はもうないんだよ」

 自分より大きな体を抱き締めるのは勇気のいることだったが、シムの腕が拒絶されることはなかった。

「ぼくの絵のために、ぼくの傍にいてよ。本望だろ?」

 高慢な言い草をする小さな友人のことが頭を過ぎって、シムは笑った。
 密着した相手が苦笑して、体を捻ってくる。
 正面からの抱擁に、今度は遠慮なく腕を回してぎゅうぎゅうと締め付けた。

 くっついているのは逃亡防止だ。また逃げられちゃ堪らないから。
 大真面目に言ってブレイズの腰から離れようとしないシムを、ブレイズは苦笑いで受け入れた。
 床につくほど長い腰巻きでもついているかのように歩きにくい体を引きずって、ブレイズはシムを唯一の個室へ案内した。

「あ、ぼくの絵」

 四方を壁に囲まれた部屋には、一方向に一枚、シムの絵が飾られていた。
 壁には無地の黒い布が掛けられ、まるで美術館の特設展のように演出されている。
 真っ黒の布が白い壁紙を覆っているだけではあったが、ダイニングとは全く違う異質な空間だと肌で感じる。
 シムはこれまで、ブレイズが絵を持ち去った理由を考えていなかった。
 転売をするつもりか、なにかの記念か、売れそうにない図柄だったか……などとちらと思い、答えが出そうにないので考えるのをやめたのだった。
 しかし、こうして四枚がひとつのモチーフとして飾られているのを見れば、なぜこれだけをブレイズが持っていったのか理解できないほど鈍くはない。

「ちょっと……ブレイズ。ぼくの絵で不埒なことしてないよね」
「誤解だ! それだけはしてない、神に誓ってもいい」
「ほんとかなぁ」

 シムの胡乱げな視線が、部屋の真ん中にぽつんと置かれた一人がけのソファに注がれる。
 ブレイズは大慌てで首を横に振り、しばらく釈明に努めた。
 シムがそう思ってしまうのも無理はないと、十人に訊けば十人が答えるだろう。
 ブレイズが飾っていた絵は、シムの精液を絵の具に使った作品だけだった。

「待ってくれ、違うんだ本当に。これだけはその、誰かに譲りたくないと思ってしまって」
「ふーん?」
「だから……その……惚れた相手の最もデリケートな部分を、別の誰かが見たり触れたりするのかと思うと……かといってこんなすばらしい作品を仕舞い込んでおくのも冒涜的で」
「……」
「シム?」

 腰に回っていた腕が勢いよく離れた。
 それまでは妙に大胆な言葉も真顔で吐いていたシムが、顔を真っ赤にして所在なさげに立っている。
 白く薄い皮膚は首まで朱に染まり、細い指先が短い前髪を引っ張っている。いかにも恥じらう姿だ。

「ほ……惚れた、相手?」

 上目遣いにブレイズの顔をちらっと見て、再び俯いてしまうシムに胸が痛んだ。
 これほど真っすぐに慕ってくれる相手にきつく当たり、突き放してしまったことを何度目か後悔する。
 髪をいじっていた手と、行き場なく下りていた手を取られ、ブレイズが跪く。
 シムはされるがままポカンと足元のブレイズを見つめた。

「シム。わたしはきみに間違った対応をし続けたひどい男だ。それでも傍に置いてくれるという、寛大な処置を嬉しく思う」

 衝動的に唇をつけたシムの手は、一瞬で真っ赤に染まった。
 逃げようとするのをやんわり捕え、さっきより強く握る。

「好きだ、シム。きみがわたしを不要とするまで、いつでも、いつまでも傍にいることを誓うよ」

 本当はあの日、こうしていれば良かった。
 体を傷つけるようなことはやめてくれと請い、一緒にすばらしい作品をつくれるよう共に高めあい努力すべきだった。
 それを放棄したブレイズをシムは許し、再びチャンスを与えてくれた。
 冷えてしまった手に体温を与えられるよう包むと、シムの方からもきゅっと握り返される。

「ぼくも……ブレイズのために描き続けるよ。ずっと傍で見てて」

 離れようとする手を追い立ち上がると、少し低いところにあるシムの瞳が潤んで笑う。
 引き合って重ねられた唇は、昔日の郷愁を思い起こす香りを纏っていた。
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