冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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13.カラフルなキス

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 ブレイズが積極的に来てくれる様子はない。
 だからシムから仕掛けるしかない。
 遠慮なのか罪悪感からなのか、繊細なガラス細工のようにしか触れてくれないブレイズにしびれを切らし、二度目の口づけをしたのはシムからだった。
 とはいえシムは体質への恐れから、他人とこんなふうに触れ合ったことなどない。
 奇跡的にさっきのキスは失敗しなかったものの、押し付けた唇をこのさきどうすればいいか見当もついていなかった。
 その点、ブレイズは経験豊富なようで、一度火を移してやればすぐに熱くなってくれた。
 口唇をこじ開けられ、火傷しそうなほどの粘膜接触に喘ぐ。
 ブレイズとキスをしたことはあった。
 しかしシムはそれをキスだと認識していなかった。
 唾液を排出させられるだけの行為、心の伴わない触れ合い。それがどんなに味気も温度もないものだったのか、思い知った。
 舌を絡め取られ、呼吸を奪われ、気付けば膝に力が入らなくなっている。
 がくがく震えて崩れ落ちたせいでブレイズが我に返ってしまい、もう一度やる気にさせるのにはさらに時間が必要だった。

「映画の、俳優たちはもっと、長くキスしてるのに……」

 息も絶え絶えに恨み言をつぶやくと苦笑で返される。

「鼻で息をするんだよ」

 なるほどと思い、すぐに目の前の人物相手に実践を仕掛けたが、キスの合間の鼻呼吸はマスターするのにもっと経験が必要そうだった。
 何度もリベンジするために触れ合い、その度に呼吸困難になって涙目になるシムの努力の賜物か、ブレイズは徐々に興奮を顕わにしてきていた。
 いつもは優しい瞳、近頃は冷徹なだけだった双眸が、今は野生の獣のようにぎらついている。

「歩ける? 向こうへ戻ろう」

 腰砕けになってしまったシムをブレイズが抱えるようにして部屋を出る。
 ダイニングの向かい側にひっそりと置かれていた幅の広いソファに座らされたとき、シムは少しだけ不安になったが、すぐ隣にブレイズも腰掛けてくれてほっとした。
 今や縋り付いている状態の両手を広い背中に移動させ、体を押し付ける。
 どちらかと言えば抱擁より体当たりに近かったが、他人とここまで距離が近い経験がほとんどないシムにとっては大いなる挑戦だった。
 ブレイズの腕が背に回され、同じくらい強い力で抱き寄せられるのがたまらなく嬉しい。
 二人はしばらくソファの上でハグだけを続けた。
 慣れないキスに上がっていた息が整ってくると、ブレイズが体を離してシムの顔を覗き込んでくる。

「シム……触れても?」
「……うん」

 くたびれたシャツのボタンが一つずつ外されるのをつい見つめてしまい、また苦笑された。
 外は雪が降りそうなほど寒かったが、ヒーターが効いている室内は暖かく保たれている。それでも袖が腕から抜かれ、遮るものがなくなった上半身に一瞬鳥肌が立った。
 シムはそこで初めて、すべて脱いでしまうのは悪手だったと知った。
 肋骨や背骨の仔細を指でなぞれるほど、皮ばかりの貧相な体。
 栄養が足りておらず、絵を描くために真っ先に食を犠牲にしてきた結果だ。きっと抱き心地も悪かったはずだ、触り心地が良いはずもない。
 案の定ブレイズはぎゅっと眉根を寄せ、つらそうな表情になってしまった。

「こんな───。すまないシム、本当にすまない……」

 二の腕を掴まれたままブレイズが俯く。その手の下には薄っすらとナイフの痕もある。
 血液を絵の具に充てていたときの痕跡は、淡く残ってしまっていた。

「触る気に、ならない?」
「……!」

 思いの外かすれてしまったシムの声に、ブレイズが勢いよく顔を上げる。
 悲しそうな表情だ。困らせたかったわけではなかった。
 ただ互いの気持ちが今ここにあると、確かめたかっただけだったのに。

「それとも化け物の体なんて、触りたくない?」

 つい口を突いて出た言葉はとても卑怯なものだった。
 ブレイズの目が大きく見開かれ、みるみる怒りに染まる。

「シム! なんてことを言うんだ!」
「……本当のことだよ。きっとこの先、ブレイズは何度もぼくの奇妙な部分を見ることになる。まだキスしかしてないのに、ほら、もう汚れてしまった」

 ブレイズの襟元にはラベンダー色の染みが出来ていた。
 通常衣類につくとは思えない色だ。
 自分の異常性をまざまざと見せつけられ、自嘲の笑みが浮かぶ。

「あなたは優しいから、ぼくのことを突き放せない。ぼくはそこにつけ込んでるだけだ……それでもいい、一度だけでいいからぼくに触れて。ぼくはそれだけで生きていける」

 胸の内から突き上げられるように涙が溢れ、青い筋を描いた。
 こんなことを言い募って、なんて卑怯なんだろう。
 ブレイズがシムの言葉を否定してくれることだけを望む嫌な言い方だ。もっと深く触れ合ったとき、ブレイズがシムの体に怯むところを見たくないだけだ。
 卑劣な予防線を張っている。異質な証である涙の跡を見られたくなくて、シムは俯いた。
 なのにブレイズはおもむろに濡れた頬を親指で拭って、あろうことかぺろりと指先舐める。
 悲しみにぼうっとしていた頭が急激に冴え、驚きが目を見開かせた。

「ちょ!? なにしてるのブレイズっ!」

 ブレイズの唇についてしまった青い色を慌てて拭うと、その手を取られべろりと舐められた。
 今度こそシムの顔が驚愕に染まる。

「な、な……」
「いや、なに。原料が涙ならしょっぱいのかと思ってね。無味のようだが」
「そんなもの舐めないでよ! ひとの体液とは別物なんだから……っ」
「どうして。これもシムの一部だ」

 そのまま絵の具で汚れた頬をも舐め上げられ、シムはもうわけが分からなくなりかけていた。ショックなような、悲しいような気持ちがこみ上げてまた泣いてしまう。

「泣かないでシム。きみは化け物なんかじゃない。こんなに愛らしいモンスターがいるものか」
「だって、だってっ……ブレイズがぼくを、あの日、化け物だって言ったんだ。だからぼく、ぼくは……っ」
「あの日?」

 シムは泣きながら、最後の作品を描くきっかけになった画材店での出来事を話した。
 立ち聞きという行為がいけないことだと分かっていたのに、ブレイズの言葉で頭が真っ白になってしまったこと。悲しみと、シムの中にあるブレイズへの想いをすべて出し切るためにあの絵を描いたこと。描き終わったら体の中がぽっかりと空洞になって、なにも描けなくなってしまったこと。
 子供のように泣きじゃくるシムの髪を撫でながら、ブレイズは辛抱強く聞いてくれた。

「そうか……すまなかった。きみを一番傷つけていたのはわたしの言葉だったんだな」

 シムの告白を聞いても、ブレイズは慌てたり、言い訳をしたりしなかった。
 不思議に思って泣き濡れた目で見つめると、ブレイズは安心させるような笑みを浮かべてシムの目元を擦る。

「あのとき話していたのは同業者だ。画商だよ」
「……そう……」
「確かにわたしはシムのことを『モンスター』と称した。だがそれは、体質のことを言ったのじゃない。きみの恐ろしいまでの才能をそう評したんだ」
「……え?」

 ぱちぱちと瞬きをするたびにぽろぽろと涙が落ちるシムに、ブレイズはどうしようもない愛しさを感じながらその都度目元を拭ってやった。

「人は理解できないほどすばらしい才能を時に畏怖して、神や怪物に喩える。そういう意味で言ったんだが、確かに軽率な言い方だった。今後は冗談でも二度と言わない、約束するよ」
「じゃあ、じゃあブレイズはぼくのこと」
「シムの才能は規格外だ、本当はもっと優秀なサポーターがつくべきなんだろう。でもわたしはもうきみを手放せない。シムが神でも悪魔でも、一緒にいると誓ったからね」

 顔が近付き、シムは反射的に目を瞑る。
 触れた唇は優しかったが、ぼやけるほど近かったブレイズの表情は、なぜか怒りの滲んだ笑みだ。

「きみに触れられることにわたしがどれだけ喜びを感じて、それを制御しようと努力しているか、きみは分かっていない、シム。誤解もとけたところで、実践で理解してもらおうかな」
「え、えっ……痛っ」

 腕を拘束されたまま鎖骨を食まれ、跡が付くほど噛みつかれ、シムは声を上げた。
 必死に首を曲げて見下ろすと、くっきりと歯型がついている。その横に吸い付かれて思わず背骨が強張ったが、ちりっとした痛みだけが残った。ブレイズの頭はどんどん移動して、シムの薄く白い肌に赤い跡をいくつも残す。

「わたしの想いときみの想い、どちらが強いか比べてみよう」

 ブレイズの瞳はらんらんと輝いていて、楽しくて仕方がないと言いたげなのにまだどこか怒っている。シムは無意識に息を呑んだ。

 シンプルで物が少なく、清浄な空気に満ちていたブレイズの部屋の印象はもはや影も形もない。
 レースのカーテンから差し込む弱い光だけが室内を照らしている。
 仄暗い空間には二人分の熱気と、淫靡な気配が満ち満ちていた。

「あっ、ブレイズ、もう抜い、て……」
「だめだよシム。まだ足りない、それにきみもまんざらじゃないだろう?」
「ちがっ……や、あぁっ」

 何度も精を放っているのに懲りもせずまた勃ち上がっている自身を揶揄され、恥ずかしさに悶える。
 淡白だと思っていた体の裏切りを、シムは信じられずにいた。
 自らの出したもので腹の上はぐちゃぐちゃで、こんなときだけ発色が良い絵の具は混ざり合って冬の星空のような模様を描き出している。ブレイズが戯れに、シムのぺたんこの腹をキャンバスに見立てて絵の具を塗り拡げるのを、弱々しく制止することしかできずにいた。

「いい眺めだ……きれいだよシム、それにすごくカラフルだ」
「やっ、言わないで、見ないで」
「それはできない相談、だっ」
「あぁぁっ」

 腰を揺すりあげられ、意図しない声が勝手に漏れる。
 信じられないことはほかにもある。
 ブレイズはすすり泣くシムを巧妙に宥めすかし、ものを入れる用途のない後孔を確実に解していき、ついにそこへブレイズの体の一部を収めてしまった。
 逃げようとしても腰を掴まれていて、身動きできない。腹の奥で直接感じる熱や猛烈な圧迫感、引きつるような微かな痛みと、それだけではないムズムズした感覚は、頭を混乱させるのに十分なものだった。
 ブレイズはシムを翻弄しつつも、過度に痛みを感じないよう配慮してくれているらしかった。
 しかし遠慮はない。奥まで押し込まれた熱い雄がゆるゆると動き、シムはその度にこれまで出したこともない嬌声を上げてしまう。
 もはやシムの頬は涙が乾いたもので固まり、粉になった青い絵の具がパラパラと顔の両側に落ちている有様だ。
 シムにとっては地獄絵図とも言える。それなのにブレイズは手で、唇で、舌でそれに触れる。
 その度にブレイズまで様々な色に染まってしまう。

「シム……っ」
「あ、ひぁっ、だめ、あぁ───」

 律動と共に前を扱かれ、シムはあっけなく達した。体が快楽に跳ね、胎内がぎゅうっと収縮する。
 ブレイズの声で彼も悦楽を極めることが出来たのだと知る。ずるりと抜けていく感覚がなんとも言えず、シムは体を震わせることしかできない。
 シーツを握りしめていた手を解いて腕を精一杯伸ばすと、横臥したブレイズが抱き締めてくれる。
 広い背中に縋りつくと、あたたかい手がゆっくりと頭と背を撫でてくれた。

「わたしの気持ちは伝わったかな?」

 満足そうなブレイズに、シムはかろうじて頷いた。
 ブレイズとセックスをしてしまった。
 気持ちを確かめあってすぐ、というのは世間ではふつうの速度なのだろうか。
 物心ついてから他人と手をつないだ記憶すらないシムにとっては、展開が早すぎて途中を読み飛ばした物語かなにかのように感じられてしまう。でも、これが夢物語でなければいいと願ってしまう自分もいる。
 現実味が薄いのに、部屋に満ちている雰囲気はたしかに甘くて、シムは居心地悪そうに身を捩った。

「どうした?」
「なんか、むずむずする……」
「ん? 足りなかったかな」

 指先が明確な意志を持って、シムの太腿を撫で下ろす。
 ぞわぞわっと背筋を駆け抜けた感覚に悲鳴を上げ、思わず目の前のブレイズの胸を殴った。

「ばか! 違う!」
「はは、わかったわかった。きみは意外と手が出るタイプなんだな」

 性的なことなどなにも興味がないとばかりに清廉な人柄だったブレイズのほうが、こんな冗談を言うなんて意外だ。
 シムは羞恥で真っ赤になりながら目の前の胸板に顔を押し付けて隠れた。

「ぼ、ぼくはこういうの……慣れてないんだから。だから、すぐにはそういう気持ちにならないから……」
「わかっているよ。急ぎ足になってしまって悪かった」

 優しく髪を撫でて、ぎゅっと抱き込まれる。
 素肌を触れ合わせているが淫らな色は消え、シムはやっと呼吸ができたかのように息を吐いた。
 ずっとどこかで気を張って、崩れ落ちないように踏ん張っていたものがゆっくりと溶けていく。

「もうどこにも行かない?」
「あぁ……シム、ずっと傍にいるよ」
「……うん」

 きっとこの先シムは何度も、同じ質問をして答えをねだるだろう。
 ブレイズの気持ちを聞いても、体に触れても一度心が離れたことによる恐怖はまだ刻まれたままだ。
 この傷がかさぶたになっていつか癒えるまで、この人が傍にいたらいい。そう願わずにはいられない。
 この心を傷つけるのも、優しく包み込むのも、ブレイズにしかできない。
 誓いを表すように唇を重ねる。
 やっと心から笑い合うことができた二人を、僅かな夕日だけが穏やかに見守っていた。



 おわり
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