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ブレイズがチケットを持って帰ってきた。
「ほら、これ。一緒に行かない?」
目の前に差し出された紙切れを覗き込む。
手のひらから余るくらいの大きさの紙片には、シックな暗色の背景に黄色の文字で「現代アート展」と書かれていた。
よくある美術展だ。
問題は文字の横、小さく描かれた展示品のひとつと思しき作品が、どう見てもシムの絵だということ。
「シムの作品もいくつか展示される。例のあの絵を買ってくれた人が出資もしているらしくてね」
あの絵というのは、シムが全身全霊で書き上げた二枚でひとつの作品のことだ。
密かにオークションに出され、買われてしまったので手許にあったのは短い時間だった。
「……」
「行きたくない?」
やや心配そうに覗き込むブレイズの視線から逃げるように、シムは顔にチケットを翳して隠す。
「なんだか、恥ずかしい……」
以前、自分の絵がどこかに飾られ、立派な額縁に入れられて、しかつめらしい解説文が横に添えられる光景が思い浮かんだことはあった。
しかしそれを実際に見る機会はないと思っていた。
「はは、シムらしい考え方だね」
嫌がっているわけではないと分かったらしい、ブレイズは笑ってシムの肩を叩く。
「実は、ずっと罪悪感があったんだ。きみの作品を勝手に出品して、すぐに売れてしまった。シムは自分の描いた絵をしっかり見る機会もなかったんじゃないかって。だから……罪滅ぼしをさせてほしい」
シムはなにか言おうと口を開いて、結局閉ざした。代わりにひとつ頷く。
ブレイズは今度はほっとした笑みを浮かべて、シムの相変わらず薄い肩をそっと抱き寄せた。
田舎の小さな家に二人で引っ越してから、一年と少し。
シムが大金を手にした実感を得てから最初に考えたことは、部屋が手狭だということだった。
一般的な借家の半分しか面積がない、収納もろくにない寒い部屋。
金の心配がないなら、まず住居をどうにかしたかった。
不動産屋に飛び込むと、良さそうな物件はいくつか見つかった。しかしシムは大きな壁にぶつかってしまった。
保証人が用意できなかったのだ。
今住んでいる部屋は不動産屋の仲介ではなく、張り紙を見て直接大家に頼んだので保証人は求められなかったから、存在を忘れていた。
実家の両親とは没交渉で、こんなときだけ頼み事をするのは躊躇われる。
そこで、シムはブレイズを頼った。正確には引きずり込んだ。
「ブレイズ、一緒に住もう。お金はぼくが出すから」
「え?」
こうしてシムは身分の確かな同居人を通じて保証人を得、理想的な住居を自ら選んで引っ越すことになった。
屋根裏の狭いかつての部屋には荷物らしいものはほとんどなく、数少ない衣類以外はほぼ画材しかない。
シムの絵を持ち去る際に転居したブレイズも同様で、合計しても小型のトラック一台分ほどの荷だけで新居に移り住んだ。
新しい住居は三角屋根の一軒家だ。
築年数は経っているし建物は小ぢんまりとしているが、庭がとても広い。
住宅街の真っ只中だが太い道路から離れているせいか、車も人も通りが少なく、自然豊かな田園風景がすぐ傍に広がっている場所だった。
それでいて主要都市や繁華街に出るための便も悪くない。
毎日のように周囲を散歩しても飽きが来ることはなかった。
元々遠出することのなかったシムの行動範囲は家の近所のみになり、必然的に他人と接する機会も減った。
社交的な性格でないため、ブレイズはシムがこのままでは人嫌いになってしまうのではないかと密かに気を揉んでいたらしい。
今回の展示会の誘いは、そういった閉塞感からシムを連れ出すという名目もあるようだった。
街にやってくるのは久しぶりだ。
以前住んでいた場所よりもさらに都会的で、シムはコートの襟をぎゅっと握りしめる。
近頃は絵を描くことと自然の中を散策すること以外は疎かにしがちで、今日着てきた襟の高いシャツもプレスの効いたスラックスも、ブレイズが買ってきたものだった。腕周りまでぴったりした衣類を見るたび、いつサイズを測ったのか聞こうと思うのだが実行したことはない。
「会場はこっちだよ」
横に立ったブレイズに自然に手を繋がれ、人の多い駅前の通りを歩く。
ブレイズがしっかりと道を把握して手を引いていてくれるので、シムはきょろきょろと辺りを見回しながら歩いた。通りに面した建物は近代的で見上げるほど高い。通り過ぎる車は皆ぴかぴかで、行き交う人々も背筋を伸ばし胸を張って堂々と歩いている。いつも誰かに迷惑をかけないよう背を丸めて歩いていたシムとは大違いだ。
「わぁ……」
さほど歩かず辿り着いたのは、どうやって建っているのか首を傾げたくなるほど前衛的な建造物だった。
ガラス張りの面が多く、全体的に傾斜がついている。見える柱はうねってデザイン性が高く、重量のあるものを支えているようには見えないのにしっかりと立っている。前庭部分には水を薄く張った川のようなものから、子供がくぐって遊びそうなオブジェ、彫像などが点々と配置されている。ガラスのポーチより奥はどっしりと立派な建物が構えられていた。
休日でもないのにかなりの数の人々が、入り口に吸い寄せられては消えていく。
「もしかして、すごく立派な美術館?」
「そうだよ。さ、行こう」
展示会に行くと了承しただけで、どんな催しに自分の作品が飾られるのかはよく調べていなかった。
口を半開きにして驚くシムを、ブレイズが苦笑しながら促す。
中はいくつかのエリアに分かれているようで、ここでいくらか人が減る。それでもシムたちと同じ方向へ行く来場者は確実にいた。
展示スペースの入り口でチケットを検められ、問題なく入場する。
「わー、すごいね。よくわからないものがいっぱい」
静かに見て回る場所だと心得ているシムが小声で、しかし確実に失礼な感想を抱く。
ブレイズは苦笑するだけだったが、感じているのは似たような気持ちだった。
「現代アート展」の最初のスペースでは、立体のアート作品が来場者を迎える。
ゴミにしか見えない小山や針金を捻って束にしたもの、変形したマネキンなど、ひと目見て理解できないと思わせる作品群。しかし不思議といくつか、目を惹かれるものがある。
シムは台座の上にぽつんと置かれたガラスの立方体の前にしゃがんで、長いことそれを見つめていた。
ブレイズはシムが他の来場者の邪魔にならないか伺っていたが、こういった展示にシムのような人がいることは珍しくないのか、学芸員にも警備員にも声をかけられることはなかった。
しばし作品の前に微動だにせず陣取っていたシムは、急に夢から覚めたように立ち上がってそこから離れた。
ブレイズの元へ駆け寄ってくる。
「気に入った?」
「んー、気に入った、とかじゃないけど……なんかいいな、と思って」
言葉にできない心情をもぞもぞと捏ね回しながら話すシムの瞳は、濡れたように輝いている。
良い作品との出会いはシムにとって良い影響となるだろう。
集中していたせいか、ややぼんやりと歩く恋人の手をブレイズはそっと引いて次のエリアへ向かった。
照明が抑えられた室内に、前衛芸術という括りに入れられることの多い絵画が多数壁にかけられ展示されている。
その中に自分のものもあるのかと思うと、シムは不思議な気持ちになった。
ずっと暮らしていたお気に入りの山から引きずり出され、海に連れてこられた鼠がきっとこんな思いを抱くのだろう。
シムの作品は部屋の角にあった。
あの二枚しかないと思っていたが、見覚えのある絵が横に四枚ほど連なっている。どの絵にもシムのサインと「シモンズ・キーン」の名が刻まれたキャプションボードが貼り付けられていて、シムはぱちぱちと瞬きした。
「どうしてぼくの絵、こんなにあるの?」
ブレイズの方を振り返ると、彼は笑っていた。
「あの二枚を競り落としてくれた所有者は、元々シムのファンなんだよ。きみの絵を何度も買っていて、これも絶対に手に入れると言ってくれていた。本当に有言実行されるとは思っていなかったけどね」
ブレイズもその時初めて、いつも小汚い格好でふらっと画廊にやってくる中年の男が会社をいくつも経営するやり手の富豪だと初めて知ったそうだ。
シムは今更ながら驚いた。
自分に「ファン」というものがいるのだと、初めて認識した。
嬉しいけど、全身が痒いような変な気分になる。
「ほら、この絵だよ。覚えてる?」
シムは改めて、あの絵たちに向き直った。
靄のかかった記憶の向こうにあった画面が、目の前に存在している。
濃い色と薄い色のそれ。右手に、黒に近い群青色のキャンバス。数センチ置いて、左手に同じサイズの薄黄色の絵が並んで飾られている。
額縁はないらしく、剥き出しのそれには記憶にあるのと同じ筆致が刻み付けられていた。
「……久しぶり」
それはもはや自分の作品に再会したときの感情ではなかった。
彼らは個人だ。切り離されたシムの感情がここに厳然と存在して、生命に似たなにかの気配を主張している。
額がないためか、より生々しい息遣いが今にも聞こえてきそうだ。
これを自分が作り上げたということが、なんだか信じられないような気分だった。
シムは恐る恐る視線を下げて、小さなキャプションボードを見る。そこには想像していたより簡素な文字列だけが記載されていた。
【「光と影」シモンズ・キーン】
「光と、影?」
シムが首を傾げ、ブレイズが解説を入れる。
作品に題名をつけない作家は一定数いて、そういう場合は通し番号で呼んだり、画廊が仮のタイトルをつけて販売することがある。ブレイズがつけた便宜上の名前がそのまま使われてしまっているのだろうと、申し訳なさそうに言われてシムはやっと納得した。
つまりブレイズは明色のほうを光、暗色を影だと捉えたのだ。
「ブレイズはぼくの作品のこと、なんでも分かるようなこと言っていたけど……まだまだだね」
「え?」
壁にくっついているボードは、簡単に剥がれるテープかなにかで固定されていた。両手で摘んで壁から剥がし、上下をひっくり返してまたくっつける。水平につけることに失敗し、少し傾いてしまったが何度も張り替えるのは粘着力が心配で、直すことは諦めた。
「し、シム!? なにしてるの!」
「だって、間違ってるんだ。絵の題名なんて考えたことなかったけど、これは逆」
「逆? ……こっちの明るい方が、影?」
「そうだよ。わからない?」
くすくすと微笑むシムに促されるように、ブレイズもこれまで何度も見つめた二枚の絵を眺める。
眩しいほどに明るい闇と、情念を塗り込め封じた光。
一般的には逆の解釈が、すとんと腑に落ちた。
「すまない、確かにそうだ。こっちが光……いや、それにしても勝手にいじっちゃダメだろう」
慌てて周囲を見回したが、幸いこちらに注意を払っている者はいなかった。学芸員も席を外しているのか見当たらないが、発見されるのは時間の問題だ。
「あ、そっか。でもここにいる人に言っても伝わらないよね」
「そうだろうが……」
「ブレイズ、なんかペン持ってない?」
「えっ。なにをする気?」
困惑したまま問いただしたが、シムは顎を突き出してペンをねだるばかりだ。
ブレイズは根負けして、持ち歩いているペンケースを渡した。
「いいね、これにしよ」
小さなケースの中からサインペンを取り出して、躊躇うことなくキャップを引き抜く。
お誂え向きなことに、展示の横に広がる白い壁紙は少しざらついているだけで、でこぼこしていなかった。
ペン先を滑らせ、キャプションボードの下に「逆」という単語と矢印の記号を書き、その横にサインを加えた。
「これでぼくの仕業だってわかるよね」
「わかるけど……まずい、逃げるよシム!」
「えっ」
ぐいっと腕を引っ張られ、シムは走った。
ブレイズの背中だけを見ていたから、通り過ぎていくほかの展示品を見る暇はなかった。後ろから警備員が追いかけてきている光景も。
会場を飛び出してもブレイズはしばらく走り続け、いくつかの通りを横切って静かな場所に出た。
人通りが多いのは一部の中心地だけで、少し奥へ進めば住宅が広がるのがこの街の構造のようだ。
「はぁ、はぁっ……久しぶりに、こんな、走ったよ。もう追ってこないかな?」
汗が滲む額を拭って、ブレイズはなぜか楽しそうに笑う。
「誰もついてきてないよ。……ごめん、チケットせっかく買ってくれたのに、ほとんど見られなかった」
シムは声色を暗くして俯いた。
入り口に程近い立体のエリアと、シムの絵に至るまでに飾られていた数枚の作品しか見られていない。前衛芸術の巨匠と呼ばれる作家のものなどは、もっと奥に展示されていたのだろう。
ごつごつしたコンクリートを見つめていた視界ががくんと揺れた。
ブレイズの大きな手が、シムの頭をわしゃわしゃ撫で回したからだ。
「気にしないで。あ、いや、勝手に壁に書いたのは良くないから、反省してくれ」
「うん……」
「展覧会にシムを連れて行ったのは、シムをもう一度あの絵に会わせてあげたかったからだ。短い時間だったけど、満足できた?」
シムは顔を上げた。
シムとあの絵たちを「会っていた」と表現するブレイズは、やっぱりシムの一番の理解者だ。
「うん、もういいよ。本当は題名も、気にするほどのことじゃないんだ」
「うーん、じゃあもっと反省してね。追いかけられたときは寿命が縮むかと思ったよ」
「それは困る、ごめんなさい」
まだ少しだけ乱れた呼吸のブレイズに抱きつくと、ぎゅっと抱き返してもらえた。
頬の横を親指が拭い、色のある汗が出てしまっていたことに今更気づく。
「ごめん! 汚れちゃったかも」
「大丈夫、私の方こそ走らせてしまってすまない。落ち着くまでのんびり歩こうか」
「うん」
抱擁を手のみに変えて、人通りのない道をゆっくりと歩いた。
この人がいれば怖くない。初めての場所でも、体質のことも。
なにげない道でも一緒に行けば、楽しい場所に変わる。お金を払ってどこかに出かける必要なんて、シムにはない。
ブレイズも同じように思っていてくれればいいな。
祈りを込めて握った手は、同じだけの強さで握り返された。
その後、シモンズ・キーンのお忍び来場および本人直筆の訂正とサインは壁紙ごと保存され、新たな話題として世に出たことをシムたちが知ったのは、しばらく後のことだった。
「ほら、これ。一緒に行かない?」
目の前に差し出された紙切れを覗き込む。
手のひらから余るくらいの大きさの紙片には、シックな暗色の背景に黄色の文字で「現代アート展」と書かれていた。
よくある美術展だ。
問題は文字の横、小さく描かれた展示品のひとつと思しき作品が、どう見てもシムの絵だということ。
「シムの作品もいくつか展示される。例のあの絵を買ってくれた人が出資もしているらしくてね」
あの絵というのは、シムが全身全霊で書き上げた二枚でひとつの作品のことだ。
密かにオークションに出され、買われてしまったので手許にあったのは短い時間だった。
「……」
「行きたくない?」
やや心配そうに覗き込むブレイズの視線から逃げるように、シムは顔にチケットを翳して隠す。
「なんだか、恥ずかしい……」
以前、自分の絵がどこかに飾られ、立派な額縁に入れられて、しかつめらしい解説文が横に添えられる光景が思い浮かんだことはあった。
しかしそれを実際に見る機会はないと思っていた。
「はは、シムらしい考え方だね」
嫌がっているわけではないと分かったらしい、ブレイズは笑ってシムの肩を叩く。
「実は、ずっと罪悪感があったんだ。きみの作品を勝手に出品して、すぐに売れてしまった。シムは自分の描いた絵をしっかり見る機会もなかったんじゃないかって。だから……罪滅ぼしをさせてほしい」
シムはなにか言おうと口を開いて、結局閉ざした。代わりにひとつ頷く。
ブレイズは今度はほっとした笑みを浮かべて、シムの相変わらず薄い肩をそっと抱き寄せた。
田舎の小さな家に二人で引っ越してから、一年と少し。
シムが大金を手にした実感を得てから最初に考えたことは、部屋が手狭だということだった。
一般的な借家の半分しか面積がない、収納もろくにない寒い部屋。
金の心配がないなら、まず住居をどうにかしたかった。
不動産屋に飛び込むと、良さそうな物件はいくつか見つかった。しかしシムは大きな壁にぶつかってしまった。
保証人が用意できなかったのだ。
今住んでいる部屋は不動産屋の仲介ではなく、張り紙を見て直接大家に頼んだので保証人は求められなかったから、存在を忘れていた。
実家の両親とは没交渉で、こんなときだけ頼み事をするのは躊躇われる。
そこで、シムはブレイズを頼った。正確には引きずり込んだ。
「ブレイズ、一緒に住もう。お金はぼくが出すから」
「え?」
こうしてシムは身分の確かな同居人を通じて保証人を得、理想的な住居を自ら選んで引っ越すことになった。
屋根裏の狭いかつての部屋には荷物らしいものはほとんどなく、数少ない衣類以外はほぼ画材しかない。
シムの絵を持ち去る際に転居したブレイズも同様で、合計しても小型のトラック一台分ほどの荷だけで新居に移り住んだ。
新しい住居は三角屋根の一軒家だ。
築年数は経っているし建物は小ぢんまりとしているが、庭がとても広い。
住宅街の真っ只中だが太い道路から離れているせいか、車も人も通りが少なく、自然豊かな田園風景がすぐ傍に広がっている場所だった。
それでいて主要都市や繁華街に出るための便も悪くない。
毎日のように周囲を散歩しても飽きが来ることはなかった。
元々遠出することのなかったシムの行動範囲は家の近所のみになり、必然的に他人と接する機会も減った。
社交的な性格でないため、ブレイズはシムがこのままでは人嫌いになってしまうのではないかと密かに気を揉んでいたらしい。
今回の展示会の誘いは、そういった閉塞感からシムを連れ出すという名目もあるようだった。
街にやってくるのは久しぶりだ。
以前住んでいた場所よりもさらに都会的で、シムはコートの襟をぎゅっと握りしめる。
近頃は絵を描くことと自然の中を散策すること以外は疎かにしがちで、今日着てきた襟の高いシャツもプレスの効いたスラックスも、ブレイズが買ってきたものだった。腕周りまでぴったりした衣類を見るたび、いつサイズを測ったのか聞こうと思うのだが実行したことはない。
「会場はこっちだよ」
横に立ったブレイズに自然に手を繋がれ、人の多い駅前の通りを歩く。
ブレイズがしっかりと道を把握して手を引いていてくれるので、シムはきょろきょろと辺りを見回しながら歩いた。通りに面した建物は近代的で見上げるほど高い。通り過ぎる車は皆ぴかぴかで、行き交う人々も背筋を伸ばし胸を張って堂々と歩いている。いつも誰かに迷惑をかけないよう背を丸めて歩いていたシムとは大違いだ。
「わぁ……」
さほど歩かず辿り着いたのは、どうやって建っているのか首を傾げたくなるほど前衛的な建造物だった。
ガラス張りの面が多く、全体的に傾斜がついている。見える柱はうねってデザイン性が高く、重量のあるものを支えているようには見えないのにしっかりと立っている。前庭部分には水を薄く張った川のようなものから、子供がくぐって遊びそうなオブジェ、彫像などが点々と配置されている。ガラスのポーチより奥はどっしりと立派な建物が構えられていた。
休日でもないのにかなりの数の人々が、入り口に吸い寄せられては消えていく。
「もしかして、すごく立派な美術館?」
「そうだよ。さ、行こう」
展示会に行くと了承しただけで、どんな催しに自分の作品が飾られるのかはよく調べていなかった。
口を半開きにして驚くシムを、ブレイズが苦笑しながら促す。
中はいくつかのエリアに分かれているようで、ここでいくらか人が減る。それでもシムたちと同じ方向へ行く来場者は確実にいた。
展示スペースの入り口でチケットを検められ、問題なく入場する。
「わー、すごいね。よくわからないものがいっぱい」
静かに見て回る場所だと心得ているシムが小声で、しかし確実に失礼な感想を抱く。
ブレイズは苦笑するだけだったが、感じているのは似たような気持ちだった。
「現代アート展」の最初のスペースでは、立体のアート作品が来場者を迎える。
ゴミにしか見えない小山や針金を捻って束にしたもの、変形したマネキンなど、ひと目見て理解できないと思わせる作品群。しかし不思議といくつか、目を惹かれるものがある。
シムは台座の上にぽつんと置かれたガラスの立方体の前にしゃがんで、長いことそれを見つめていた。
ブレイズはシムが他の来場者の邪魔にならないか伺っていたが、こういった展示にシムのような人がいることは珍しくないのか、学芸員にも警備員にも声をかけられることはなかった。
しばし作品の前に微動だにせず陣取っていたシムは、急に夢から覚めたように立ち上がってそこから離れた。
ブレイズの元へ駆け寄ってくる。
「気に入った?」
「んー、気に入った、とかじゃないけど……なんかいいな、と思って」
言葉にできない心情をもぞもぞと捏ね回しながら話すシムの瞳は、濡れたように輝いている。
良い作品との出会いはシムにとって良い影響となるだろう。
集中していたせいか、ややぼんやりと歩く恋人の手をブレイズはそっと引いて次のエリアへ向かった。
照明が抑えられた室内に、前衛芸術という括りに入れられることの多い絵画が多数壁にかけられ展示されている。
その中に自分のものもあるのかと思うと、シムは不思議な気持ちになった。
ずっと暮らしていたお気に入りの山から引きずり出され、海に連れてこられた鼠がきっとこんな思いを抱くのだろう。
シムの作品は部屋の角にあった。
あの二枚しかないと思っていたが、見覚えのある絵が横に四枚ほど連なっている。どの絵にもシムのサインと「シモンズ・キーン」の名が刻まれたキャプションボードが貼り付けられていて、シムはぱちぱちと瞬きした。
「どうしてぼくの絵、こんなにあるの?」
ブレイズの方を振り返ると、彼は笑っていた。
「あの二枚を競り落としてくれた所有者は、元々シムのファンなんだよ。きみの絵を何度も買っていて、これも絶対に手に入れると言ってくれていた。本当に有言実行されるとは思っていなかったけどね」
ブレイズもその時初めて、いつも小汚い格好でふらっと画廊にやってくる中年の男が会社をいくつも経営するやり手の富豪だと初めて知ったそうだ。
シムは今更ながら驚いた。
自分に「ファン」というものがいるのだと、初めて認識した。
嬉しいけど、全身が痒いような変な気分になる。
「ほら、この絵だよ。覚えてる?」
シムは改めて、あの絵たちに向き直った。
靄のかかった記憶の向こうにあった画面が、目の前に存在している。
濃い色と薄い色のそれ。右手に、黒に近い群青色のキャンバス。数センチ置いて、左手に同じサイズの薄黄色の絵が並んで飾られている。
額縁はないらしく、剥き出しのそれには記憶にあるのと同じ筆致が刻み付けられていた。
「……久しぶり」
それはもはや自分の作品に再会したときの感情ではなかった。
彼らは個人だ。切り離されたシムの感情がここに厳然と存在して、生命に似たなにかの気配を主張している。
額がないためか、より生々しい息遣いが今にも聞こえてきそうだ。
これを自分が作り上げたということが、なんだか信じられないような気分だった。
シムは恐る恐る視線を下げて、小さなキャプションボードを見る。そこには想像していたより簡素な文字列だけが記載されていた。
【「光と影」シモンズ・キーン】
「光と、影?」
シムが首を傾げ、ブレイズが解説を入れる。
作品に題名をつけない作家は一定数いて、そういう場合は通し番号で呼んだり、画廊が仮のタイトルをつけて販売することがある。ブレイズがつけた便宜上の名前がそのまま使われてしまっているのだろうと、申し訳なさそうに言われてシムはやっと納得した。
つまりブレイズは明色のほうを光、暗色を影だと捉えたのだ。
「ブレイズはぼくの作品のこと、なんでも分かるようなこと言っていたけど……まだまだだね」
「え?」
壁にくっついているボードは、簡単に剥がれるテープかなにかで固定されていた。両手で摘んで壁から剥がし、上下をひっくり返してまたくっつける。水平につけることに失敗し、少し傾いてしまったが何度も張り替えるのは粘着力が心配で、直すことは諦めた。
「し、シム!? なにしてるの!」
「だって、間違ってるんだ。絵の題名なんて考えたことなかったけど、これは逆」
「逆? ……こっちの明るい方が、影?」
「そうだよ。わからない?」
くすくすと微笑むシムに促されるように、ブレイズもこれまで何度も見つめた二枚の絵を眺める。
眩しいほどに明るい闇と、情念を塗り込め封じた光。
一般的には逆の解釈が、すとんと腑に落ちた。
「すまない、確かにそうだ。こっちが光……いや、それにしても勝手にいじっちゃダメだろう」
慌てて周囲を見回したが、幸いこちらに注意を払っている者はいなかった。学芸員も席を外しているのか見当たらないが、発見されるのは時間の問題だ。
「あ、そっか。でもここにいる人に言っても伝わらないよね」
「そうだろうが……」
「ブレイズ、なんかペン持ってない?」
「えっ。なにをする気?」
困惑したまま問いただしたが、シムは顎を突き出してペンをねだるばかりだ。
ブレイズは根負けして、持ち歩いているペンケースを渡した。
「いいね、これにしよ」
小さなケースの中からサインペンを取り出して、躊躇うことなくキャップを引き抜く。
お誂え向きなことに、展示の横に広がる白い壁紙は少しざらついているだけで、でこぼこしていなかった。
ペン先を滑らせ、キャプションボードの下に「逆」という単語と矢印の記号を書き、その横にサインを加えた。
「これでぼくの仕業だってわかるよね」
「わかるけど……まずい、逃げるよシム!」
「えっ」
ぐいっと腕を引っ張られ、シムは走った。
ブレイズの背中だけを見ていたから、通り過ぎていくほかの展示品を見る暇はなかった。後ろから警備員が追いかけてきている光景も。
会場を飛び出してもブレイズはしばらく走り続け、いくつかの通りを横切って静かな場所に出た。
人通りが多いのは一部の中心地だけで、少し奥へ進めば住宅が広がるのがこの街の構造のようだ。
「はぁ、はぁっ……久しぶりに、こんな、走ったよ。もう追ってこないかな?」
汗が滲む額を拭って、ブレイズはなぜか楽しそうに笑う。
「誰もついてきてないよ。……ごめん、チケットせっかく買ってくれたのに、ほとんど見られなかった」
シムは声色を暗くして俯いた。
入り口に程近い立体のエリアと、シムの絵に至るまでに飾られていた数枚の作品しか見られていない。前衛芸術の巨匠と呼ばれる作家のものなどは、もっと奥に展示されていたのだろう。
ごつごつしたコンクリートを見つめていた視界ががくんと揺れた。
ブレイズの大きな手が、シムの頭をわしゃわしゃ撫で回したからだ。
「気にしないで。あ、いや、勝手に壁に書いたのは良くないから、反省してくれ」
「うん……」
「展覧会にシムを連れて行ったのは、シムをもう一度あの絵に会わせてあげたかったからだ。短い時間だったけど、満足できた?」
シムは顔を上げた。
シムとあの絵たちを「会っていた」と表現するブレイズは、やっぱりシムの一番の理解者だ。
「うん、もういいよ。本当は題名も、気にするほどのことじゃないんだ」
「うーん、じゃあもっと反省してね。追いかけられたときは寿命が縮むかと思ったよ」
「それは困る、ごめんなさい」
まだ少しだけ乱れた呼吸のブレイズに抱きつくと、ぎゅっと抱き返してもらえた。
頬の横を親指が拭い、色のある汗が出てしまっていたことに今更気づく。
「ごめん! 汚れちゃったかも」
「大丈夫、私の方こそ走らせてしまってすまない。落ち着くまでのんびり歩こうか」
「うん」
抱擁を手のみに変えて、人通りのない道をゆっくりと歩いた。
この人がいれば怖くない。初めての場所でも、体質のことも。
なにげない道でも一緒に行けば、楽しい場所に変わる。お金を払ってどこかに出かける必要なんて、シムにはない。
ブレイズも同じように思っていてくれればいいな。
祈りを込めて握った手は、同じだけの強さで握り返された。
その後、シモンズ・キーンのお忍び来場および本人直筆の訂正とサインは壁紙ごと保存され、新たな話題として世に出たことをシムたちが知ったのは、しばらく後のことだった。
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キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
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※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
追放された味見係、【神の舌】で冷徹皇帝と聖獣の胃袋を掴んで溺愛される
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これは、捨てられた料理人が温かいご飯で居場所を作り、最高にハッピーになる物語。
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異世界転移してしまったミヤは、森の中で寒さに震えていた。暖をとるために焚火をすれば、そこから精霊王フレアが姿を現す。
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小説家になろうにも掲載中です。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
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獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
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