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本編
26.懇願
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文章でキスシーンを読むときどう書かれているかというと、「キスをした」とか「唇を重ねた」とか。「吐息を奪われる」なんて詩的な表現を見かけることもある。
呼吸を奪われるのは怖いな、と一瞬感想が浮かぶものの、それがどういう行為なのか深く考えたことは一度もなかった。
この世界に来て、妙にマオに執着する男がキスを仕掛けてきたことがある。
それは人体において露出している数少ない粘膜的皮膚に同じものを重ねるという、ただそれだけの行為で、相手の体温や唇の肌荒れ、唾液の微かなぬめりを感じる程度の行為で。
相手のことが嫌いじゃなければ、殴って止めさせるというほどでもなかった。
だがこれは違う。
「んんぅ、う、んーッ!」
唇にかじりついたユウは、どういうトリックか、重なった粘膜を傾けこじあけ、マオの口腔へ侵入してきた。
薄い肉越しに歯の感触がある。分厚い舌が入ってくる。ぬめるそれが軟体動物みたいに蠢いて、マオの縮こまった舌を捕えて引きずり出す。
絡めて、吸われて、かじられる。
あまりの暴挙にマオは呆然としてしまった。その間に好き勝手口の中を蹂躙されてしまった。
慌ててユウの胸を押し、押しのけられず。背に腕を回してシャツを引っ張ったが、どかせられず。足をバタつかせてみたが、結果は変わらず。
「は、ぁ、ぁ……」
だんだん空気が薄くなってきた。物理的に口を塞がれているのに等しいのだから当然だ。
マオの体は究極的には水と光と二酸化炭素で生存できるのだが、中途半端に人型魔族なせいで呼吸は口と、手のひらの一部でしかできない。手のひらはユウの背中に縋りついて爪を立てる役割のため塞がっていて、口は言わずもがな。
ユウの暴挙がようやく止む頃には、マオはふにゃふにゃのくたくたにされてしまった。
「顔真っ赤だぞ、大丈夫か」
「だいじょ、ぶじゃ、ないです……!」
「……すまん」
めずらしく怒っているマオにユウは謝罪したが、口の端がニヤけていて誠意が感じられない。
どうせキスのひとつもしたことがないマオを笑っているのだろう。聞かなくてもわかる。なんて意地悪な人類なのか。
今はとにかく酸欠をなんとかするため吸って吐いてを繰り返す。
そんなマオを、目の前の男は休ませる気がないらしい。
「なに、してるんです、か」
「触ってる」
はだけられたシャツの隙間からユウの手が入り込み、マオの素肌を撫でている。
触られるくらい、まぁいいか。いつも手とか触ってるし。
そんなことを考えていられたのは短い時間だけだった。
「あの、ちょっと。そこ、やめてくれませんか」
「なぜ」
「なぜとかないでしょ。やめてほしいん、っ、ですけど」
「気持ち悪いか?」
「そういうんじゃないですけど……、あの、────あ、っ!」
「なら、気持ちいいか」
そんなこと聞かれても困る。
自分で体を触ることなんてないし、他者に触らせたことなどもっとない。
触らせていたところといえばもっぱら手のひらくらいで、それも魔力を渡すときだけ。さらには、何分も何十分も触るのはこの男だけ。
あぁそうだ、ユウが魔力を吸うときと似ている。
くすぐったいような、あたたかいような、未知の感触。
神殿に監禁されていた頃も彼はマオの体に触れてきた。あのときは少ない持ち物を与えることに必死で、何を感じることもできなかったのに、今は違う。
「やめてくださ……なんか、なんかへん……」
「……」
「っ、ユウ、おねがい」
名を呼ぶとユウは顔を上げ、しっかりと視線を絡めてきた。
思いのほか冷静な金の目に怖気づく。
欲しいと言うから与えようとしたのに、今のユウはとても欲しがってなど見えない。
欲しいから応えろと言ったのに。
マオはこんなにも、与えようとがんばっているのに。
どうして。
「奪うの……?」
情けなく声が震えてしまった。
ユウがはっと目を見開いて、触れていた手が離れる。
その代わりに腕が回され、マオは寝そべったまま抱き締められた。
「すまない。あまりにも脈なしに思えて、焦った」
「……」
「真央が欲しい、それは本心だ。俺だけのものにしたい。だがそれには真央の気持ちも伴っていてほしい」
「私の、心も欲しいということでしょうか」
「そうだ。だが、もういい。これまでも待ってきた、これからも俺は待つ」
柔らかくもない畳の上に男ふたり転がって、マオは大人しく抱き込まれたまま考える。
これまでマオは求められたことを成してきた。
一番最初に求められたのは、マオの誕生を見たという年老いたダークエルフ。
足を悪くして魔界樹の見回りが十分にできないからと、マオに代わりを頼んできた。マオはやり方を教わって、求められるまま応じた。
かのダークエルフはマオに過分なものを求めることはなかったので、あの頃は平穏だった。
それからしばらくして、マオは軍属になった。
当時の魔族領は、貴族や商人、家業のある農家などでない一般魔族はほとんどが従軍していた。人間の国と戦争をしていたせいだ。
軍ではありとあらゆることを求められ、応じられないこともあった。
力づくで言うことを聞かせようとする相手はねじ伏せたが、懇願してくるものに与えられないことはストレスだった。
やがてマオはすべての頂点に立った。
何もかも得られる立場になり、魔族たちを圧倒的な力で守ることだけを求められることになった。これを叶えてやることは簡単だった。
────勇者が現れるまでは。
「あなたは……強欲ですね」
「なんだと?」
「昔からあなたは奪ってばかり。魔族の命を奪うし、魔族領も、私の魔力も、私の命も子も、なにもかも奪ってまだ満足できないなんて、欲深くて驚きます」
ユウの顔が苦々しく歪んでいる。図星過ぎて言い返せないのだろう。
「かつてなにもかも与える立場だった私に、他のものは丁寧に頼んできたのですよ。与えてほしいと。だから与えてきました。でもあなたはなんの前触れもなく現れて、ろくに合意形成せず奪おうとする」
マオは湧き上がるおかしさに任せて笑みをこぼした。
機嫌を取るように髪を撫でる仕草すらおかしくてたまらない。
「そんなあなたが、私から奪えなくてうろたえているさまを見るのは、愉快です」
横臥の姿勢を強引に傾け、マオはユウの上を取った。
見下ろす男のきょとんとした顔と、自分より大きく、強かった男を組み敷く眺めは悪くないと思える。
「私は魔のものの礎より生まれた魔王。望むものに与えることが我が勤め。────懇願しなさい、人間。そうすればいつか、与えてやれるかもしれません」
少し芝居がかった口調でにんまりと笑ったマオは、次の瞬間には再び形勢逆転されていた。
マオを見下ろすかつての勇者は、強いまなざしで挑むようにマオを睨みつける。
「魔王に懇願などするものか。俺は神に選ばれし勇者。欲しいものは自分の力で奪い取る」
「奪うのなら一生手に入らないかもしれませんよ?」
「それなら『次の一生』に賭けるだけだ。いつまでも付き纏ってやる。覚悟しろ、魔王」
「それはそれは。……ふふっ」
マオが笑ってしまったことで緊張がゆるんだ。
ユウはマオの上に陣取ったまま、がっくりと項垂れてマオの胸に溜め息を吹きかけている。それがくすぐったくてマオは身じろいだ。
「私はもう魔王じゃないですから、勤めもなにもないですけれどね」
「それなら俺だってもう勇者じゃない」
「魔王も勇者もいなくなったあの地は、どうなったのでしょう……」
「戦わなくなったと思いたい。俺達は結局、甲乙つけずに睨み合ったままでいるべきだったのかもしれないと、最近思う」
「そうですね……私もあなたも、あの地にあるには過ぎた存在だったのかもしれません」
公務員にしては明らかに伸ばし過ぎの金髪が垂れてくるのを、マオはひとすくい指に絡めてみた。
さらさらとこぼれ落ちる金糸は、安っぽい室内灯の光でもキラキラと輝いている。
その上へ目を向けると、なんとも言えない顔をしたユウがいた。
「あー。さっきの続きをしてもいいか?」
「気持ちが伴ってないとって言ってましたよね」
「やっぱり体から籠絡する……」
「ダメです。明日からまた仕事ですし」
ユウは再びマオの上に墜落した。
マオが笑うと金頭が上下に揺れて、それがなんだか余計におかしかった。
呼吸を奪われるのは怖いな、と一瞬感想が浮かぶものの、それがどういう行為なのか深く考えたことは一度もなかった。
この世界に来て、妙にマオに執着する男がキスを仕掛けてきたことがある。
それは人体において露出している数少ない粘膜的皮膚に同じものを重ねるという、ただそれだけの行為で、相手の体温や唇の肌荒れ、唾液の微かなぬめりを感じる程度の行為で。
相手のことが嫌いじゃなければ、殴って止めさせるというほどでもなかった。
だがこれは違う。
「んんぅ、う、んーッ!」
唇にかじりついたユウは、どういうトリックか、重なった粘膜を傾けこじあけ、マオの口腔へ侵入してきた。
薄い肉越しに歯の感触がある。分厚い舌が入ってくる。ぬめるそれが軟体動物みたいに蠢いて、マオの縮こまった舌を捕えて引きずり出す。
絡めて、吸われて、かじられる。
あまりの暴挙にマオは呆然としてしまった。その間に好き勝手口の中を蹂躙されてしまった。
慌ててユウの胸を押し、押しのけられず。背に腕を回してシャツを引っ張ったが、どかせられず。足をバタつかせてみたが、結果は変わらず。
「は、ぁ、ぁ……」
だんだん空気が薄くなってきた。物理的に口を塞がれているのに等しいのだから当然だ。
マオの体は究極的には水と光と二酸化炭素で生存できるのだが、中途半端に人型魔族なせいで呼吸は口と、手のひらの一部でしかできない。手のひらはユウの背中に縋りついて爪を立てる役割のため塞がっていて、口は言わずもがな。
ユウの暴挙がようやく止む頃には、マオはふにゃふにゃのくたくたにされてしまった。
「顔真っ赤だぞ、大丈夫か」
「だいじょ、ぶじゃ、ないです……!」
「……すまん」
めずらしく怒っているマオにユウは謝罪したが、口の端がニヤけていて誠意が感じられない。
どうせキスのひとつもしたことがないマオを笑っているのだろう。聞かなくてもわかる。なんて意地悪な人類なのか。
今はとにかく酸欠をなんとかするため吸って吐いてを繰り返す。
そんなマオを、目の前の男は休ませる気がないらしい。
「なに、してるんです、か」
「触ってる」
はだけられたシャツの隙間からユウの手が入り込み、マオの素肌を撫でている。
触られるくらい、まぁいいか。いつも手とか触ってるし。
そんなことを考えていられたのは短い時間だけだった。
「あの、ちょっと。そこ、やめてくれませんか」
「なぜ」
「なぜとかないでしょ。やめてほしいん、っ、ですけど」
「気持ち悪いか?」
「そういうんじゃないですけど……、あの、────あ、っ!」
「なら、気持ちいいか」
そんなこと聞かれても困る。
自分で体を触ることなんてないし、他者に触らせたことなどもっとない。
触らせていたところといえばもっぱら手のひらくらいで、それも魔力を渡すときだけ。さらには、何分も何十分も触るのはこの男だけ。
あぁそうだ、ユウが魔力を吸うときと似ている。
くすぐったいような、あたたかいような、未知の感触。
神殿に監禁されていた頃も彼はマオの体に触れてきた。あのときは少ない持ち物を与えることに必死で、何を感じることもできなかったのに、今は違う。
「やめてくださ……なんか、なんかへん……」
「……」
「っ、ユウ、おねがい」
名を呼ぶとユウは顔を上げ、しっかりと視線を絡めてきた。
思いのほか冷静な金の目に怖気づく。
欲しいと言うから与えようとしたのに、今のユウはとても欲しがってなど見えない。
欲しいから応えろと言ったのに。
マオはこんなにも、与えようとがんばっているのに。
どうして。
「奪うの……?」
情けなく声が震えてしまった。
ユウがはっと目を見開いて、触れていた手が離れる。
その代わりに腕が回され、マオは寝そべったまま抱き締められた。
「すまない。あまりにも脈なしに思えて、焦った」
「……」
「真央が欲しい、それは本心だ。俺だけのものにしたい。だがそれには真央の気持ちも伴っていてほしい」
「私の、心も欲しいということでしょうか」
「そうだ。だが、もういい。これまでも待ってきた、これからも俺は待つ」
柔らかくもない畳の上に男ふたり転がって、マオは大人しく抱き込まれたまま考える。
これまでマオは求められたことを成してきた。
一番最初に求められたのは、マオの誕生を見たという年老いたダークエルフ。
足を悪くして魔界樹の見回りが十分にできないからと、マオに代わりを頼んできた。マオはやり方を教わって、求められるまま応じた。
かのダークエルフはマオに過分なものを求めることはなかったので、あの頃は平穏だった。
それからしばらくして、マオは軍属になった。
当時の魔族領は、貴族や商人、家業のある農家などでない一般魔族はほとんどが従軍していた。人間の国と戦争をしていたせいだ。
軍ではありとあらゆることを求められ、応じられないこともあった。
力づくで言うことを聞かせようとする相手はねじ伏せたが、懇願してくるものに与えられないことはストレスだった。
やがてマオはすべての頂点に立った。
何もかも得られる立場になり、魔族たちを圧倒的な力で守ることだけを求められることになった。これを叶えてやることは簡単だった。
────勇者が現れるまでは。
「あなたは……強欲ですね」
「なんだと?」
「昔からあなたは奪ってばかり。魔族の命を奪うし、魔族領も、私の魔力も、私の命も子も、なにもかも奪ってまだ満足できないなんて、欲深くて驚きます」
ユウの顔が苦々しく歪んでいる。図星過ぎて言い返せないのだろう。
「かつてなにもかも与える立場だった私に、他のものは丁寧に頼んできたのですよ。与えてほしいと。だから与えてきました。でもあなたはなんの前触れもなく現れて、ろくに合意形成せず奪おうとする」
マオは湧き上がるおかしさに任せて笑みをこぼした。
機嫌を取るように髪を撫でる仕草すらおかしくてたまらない。
「そんなあなたが、私から奪えなくてうろたえているさまを見るのは、愉快です」
横臥の姿勢を強引に傾け、マオはユウの上を取った。
見下ろす男のきょとんとした顔と、自分より大きく、強かった男を組み敷く眺めは悪くないと思える。
「私は魔のものの礎より生まれた魔王。望むものに与えることが我が勤め。────懇願しなさい、人間。そうすればいつか、与えてやれるかもしれません」
少し芝居がかった口調でにんまりと笑ったマオは、次の瞬間には再び形勢逆転されていた。
マオを見下ろすかつての勇者は、強いまなざしで挑むようにマオを睨みつける。
「魔王に懇願などするものか。俺は神に選ばれし勇者。欲しいものは自分の力で奪い取る」
「奪うのなら一生手に入らないかもしれませんよ?」
「それなら『次の一生』に賭けるだけだ。いつまでも付き纏ってやる。覚悟しろ、魔王」
「それはそれは。……ふふっ」
マオが笑ってしまったことで緊張がゆるんだ。
ユウはマオの上に陣取ったまま、がっくりと項垂れてマオの胸に溜め息を吹きかけている。それがくすぐったくてマオは身じろいだ。
「私はもう魔王じゃないですから、勤めもなにもないですけれどね」
「それなら俺だってもう勇者じゃない」
「魔王も勇者もいなくなったあの地は、どうなったのでしょう……」
「戦わなくなったと思いたい。俺達は結局、甲乙つけずに睨み合ったままでいるべきだったのかもしれないと、最近思う」
「そうですね……私もあなたも、あの地にあるには過ぎた存在だったのかもしれません」
公務員にしては明らかに伸ばし過ぎの金髪が垂れてくるのを、マオはひとすくい指に絡めてみた。
さらさらとこぼれ落ちる金糸は、安っぽい室内灯の光でもキラキラと輝いている。
その上へ目を向けると、なんとも言えない顔をしたユウがいた。
「あー。さっきの続きをしてもいいか?」
「気持ちが伴ってないとって言ってましたよね」
「やっぱり体から籠絡する……」
「ダメです。明日からまた仕事ですし」
ユウは再びマオの上に墜落した。
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