ロスト・ナイン

キザキ ケイ

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 泣き疲れて眠ってしまったヨウの体の軽さに恐怖する。
 運動する機会が少なく、他者に害される経験も敵と対峙する生き方もしたことがなかったというヨウは、生来戦士であるグーラからすれば痩せすぎだと思うほどに細く頼りない体をしている。
 そんな体でグーラの愛を一身に受け止めてくれていた。
 今はもう、軽々しく触れることすらできない。

「王よ、少々よろしいですか」
「……あぁ」

 気配を消して近寄ってきたレンブレーの存在には先程から気づいていた。
 眠るヨウに配慮した小さな声に頷いて部屋を出る。
 廊下で厳しい表情のレンブレーと向き合う。

「なにか分かったか」
「はい。ヨウ様の不調は呪いによるものと、ティルクスが断定しました」
「……あの黒い液体か」
「えぇ」

 部下たちには、ヨウの異変の原因が「呪法」である可能性も含めて調べろと指示してあった。
 過去に術者を駆逐したはずの呪法がもし用いられたとして、呪法に詳しい者を見つけることすら難題だったはずだ。しかし彼らは、呪いの気配を検出することができる試薬をどこからか手に入れてきた。
 半世紀以上権力の傍にある年老いた宰相を、尊敬と畏怖をもって見返す。

「よくやった。呪いを解くことは可能か」
「可能です。しかし、間に合うかどうかは断言できません」
「何?」
「ヨウ様の容態は一刻を争います。彼の記憶は確実に一つずつ失われて、一つも戻っていない」

 グーラは苦々しく思いながら頷く。
 記憶という、形がなく所在も不確かなものを奪われるという状態の把握が困難な事態ではあるが、状況が止まることなく進行し続けていることは理解できていた。
 しかし───恐ろしい仮定ではあるが───例えヨウが記憶をすべて失ってしまったとしても、それだけだ。
 記憶を失くしていても、新しく物事を記憶することができる事実はヨウ本人が申告していた。
 今は覚え直したはずのティルクスのことも忘れてしまったようだが、忘れるものがなくなってしまえばそれまで。その時点で呪いの進行が止まる可能性も十分にあったのだが。

「あの試薬を作った魔法師が申しますには、ヨウ様に掛けられた呪いはそう遠くないうちに彼の命を奪うだろう、と」
「……っ、やはり、か」

 魔法でも呪法でも、それを解くためには構造の分析と推定が必要だ。
 呪法を読み解くことができる魔法師の協力を得て、ティルクスが呪法の構造を推定した結果、ヨウに掛けられた呪いは「記憶を奪い抜け殻にする」というものだった。
 王宮の結界に阻まれて侵入できなかった呪法師が、魔力が少なく防衛手段のない、その割に王の伴侶という極めて重要なポジションにいるヨウに狙いを定め呪いを掛けたのだという。
 解析により呪法師の目論見も推察できた。
 呪法により記憶を失ったヨウに命令を植え付け、王宮の外へ自ら出てくるよう指示する。そうしてヨウの身柄を手に入れ、操り人形のように使って王もしくは王宮に何らかのダメージを与えようとした。
 しかし呪いの内容はそれだけではなかった。
 呪法が発動し、記憶がなくなったヨウに命令が植え付けられ、その後一定期間内にヨウが王宮から出てこなければ────証拠隠滅のため対象の命を奪う構造になっている、と。
 覚悟はしていた。
 呪法とは常に死と共にある、おぞましく忌々しい存在だ。
 その対象となったヨウが無事で済む内容になっていると日和見できるほど、グーラは無知ではなかった。

「今後、ヨウの身にどのようなことが起こる?」
「呪法の解除が間に合えばその時点で記憶の消失は止まります。新しい命令とやらからヨウ様を守ることもできます。しかし解呪に時間がかかれば、ヨウ様の記憶は全て失われ───肉体が生命維持活動を『忘れる』ことにより、死に至るであろうとのことです」
「……くそっ……」

 己の無力がただただ悔しい。
 拳を握り奥歯を噛み締めたグーラを、レンブレーは一瞬だけ痛ましそうな表情で見つめた。
 それは宰相が王に向けるものではなく、幼い頃から育てた子を見守る年嵩の親族のような慈愛の混じったものであったが、年老いた臣下は立ち尽くす王に言葉を掛けることなく静かに辞去した。
 今のグーラの慰めとなるのはレンブレーの言葉などではない。

 レンブレーが去った王宮の廊下で、グーラはしばしそのまま呆然と立っていた。
 侍従たちが心配そうに王を見つめているが、誰一人近づけないまま遠巻きにされている。
 周囲に心配をかけないように、などと考えたわけではなかったが、グーラは元いた部屋へと静かに戻った。
 ほんのひと時でも、ヨウと一緒に居たかった。

 ベッドの上で、しみ一つないシーツに埋もれて眠るヨウを見下ろす。
 ティルクスはすでに部下の魔法師たちを総動員して解呪作業に掛かっている。
 グリンは兵団を動かして、呪法師を捕らえるために行動を開始した。彼らの見立てでは、呪法師は自らの作り上げた呪いの行く末をどこかで見張っているはずだという。
 被呪者ヨウが生きているうちはそう遠くへは行かない。
 レンブレーは呪法師捜索の指揮に回りつつ、王たちが不在でも王宮が混乱しないよう執務を請け負ってくれた。

「……巻き込んでしまって、すまない」

 僅かに涙の跡が残る頬をそっと撫でる。
 彼が呪いをかけられたのはグーラのせいだ。
 王という立場が、王宮という権力が、異世界で平凡に生きることができたはずのヨウから大切なものを奪ってしまった。
 そう懺悔したとして、「グーラの恋人」であるヨウならきっと、気にしないでと笑うのだろう。
 厄介な相手に惚れた時点で覚悟してる、などと言って。
 想像できてしまうからこそ、今のヨウとの落差が哀しい。
 彼は今やグーラのことすら忘れてしまった。
 恋人であったことも、王宮で過ごした日々も、この世界にやってきた事実さえ。
 それなのに、グーラの悲嘆に寄り添って泣いてくれた。
 今の彼の中にグーラとの繋がりは何もないはずなのに、腕の中にいて、手のひらに頬を擦り寄せて。
 愛おしさがより一層募り、その分己の不甲斐なさが悔しい。
 最愛の恋人を守れず、みすみす記憶を奪われてしまった。かつて祖先が滅ぼしたはずの、忌まわしき闇の法術によって。

 異世界人であるヨウを守るために最善を尽くしてきたはずだった。
 王宮に張り巡らされた結界を強化するだけでなく、ヨウ個人に移動式の結界を付与した。側仕えには特殊な訓練を受けた王付き侍従を配し、不届き者の視線すら届かないよう計らった。さらに王の正式な伴侶という立場を用意して、政治的な地位も確立できたはずだった。
 いざ事が起きてみれば、なんと無力なことか。
 グーラはヨウが記憶の消失に戸惑っていることにも気づけず、部下から報告を受けるまで何も知らなかった。
 今とて、グーラが不用意に動けば周囲に人員が必要になってしまうため、どこにも行けない。ヨウのためにできることがなにもない。
 それなのに、求めてしまう。
 何もかもが元通りになる希望があるのではないかと、失ったはずの彼の想いが何らかの形でまだどこかに残っているのではと、期待してしまう。

「こんなことになっても、お前を手放すことができそうにない。罪深い俺を許してくれ、ヨウ」

 ティルクスの問い掛けに言葉を詰まらせ、なぜ話せないのか分からないといった様子で困惑していたヨウ。
 今まで彼が忘れたものは、この世界で学んだ学問や実技だけだった。
 忘却が進み、彼はついにこれまでの自己を形成してきた大部分の記憶を失った────これまで生きてきた世界での、十八年間すらも。
 同時にグーラのことをも忘れられ、思考の表層では悲しみが溢れていた。
 しかし深層の想いは……ヨウが元の世界のことを忘れたことに、昏い喜びを見出していた。
 これでもうヨウは元の世界に帰りたいとは思わないだろう。
 ずっとここにいてくれる。グーラの傍で、愛らしい笑みを浮かべて。
 二人の関係はリセットされたが、ヨウはグーラを忘れても、グーラはヨウのこれまでを全て覚えている。
 一度は恋人同士になれたのだから、時間さえかければまたこの手に取り戻せるはずだ。
 ヨウがこの世界にやってきたのは偶然で、何かの意思が介在したものではなかった。故に彼が元の世界に戻れる可能性は極めて低かった。
 それでもヨウは元の世界に帰りたかっただろうし、方法があれば一人帰ってしまっただろう。
 グーラの手を離して。振り向きもせず。
 しかしこれでもうヨウはここを離れることはない。
 命尽きるまでこの世界で、グーラの隣で生きればいい。

「すまない、ヨウ……」

 無邪気に慕っていた男がこんな考えを持つと知ったら、お前は失望するだろうか。
 恋人の不幸を望むような自分自身に嫌気がさしても、どうすることもできない。
 だからこそ────いや、グーラの思惑など関係ない。
 呪法師にヨウの命を奪われたりはしない。
 彼を助ける。例え二度とグーラのことを見つめてくれなくとも……。
 仄暗い願望を抱いてしまった贖罪のように寝台の傍で跪く王を見るものは誰もいなかった。



 夢をみるとき、それが夢であると知覚できる者とそうでない者がいる。
 グーラは前者であった。
 だからこの幸せな光景が夢であることは早々に理解していた。
 それでも早く目を覚まさなくてはと思いきれなかったのは、目の前で繰り広げられる穏やかな日常が、実際にあった過去の光景であることを思い出したからだ。

「それでね、これが僕の名前、ヨウって読むんだ」

 愛しい恋人が得意げな様子でこちらを見る。
 紙に書かれた記号のような図形のような難解なものが文字だとは、グーラには到底信じられなかった。
 ヨウが生まれ育った国では、三種類の文字を一つの言語体系に押し込めて用いているという。
 ヨウの名も三種類に書き表すことができ、グーラは先日やっと、一番線の数が少なくふにゃっとした文字でヨウの名前を書けるようになったところだった。

「む……これはなんと言う文字の種類だったか」
「漢字、だよ。グーラが書けるようになったのはひらがな。漢字は線が多くて難しいでしょう」
「あぁ、とても書けそうにない。カンジは線も種類も多すぎる。難解だ」

 ぶつくさと文句をいいながらも、見様見真似で迷路のような字を筆で描こうとするグーラに、ヨウが堪えきれない笑みを零す。
 グーラはヨウにこの世界のことを教えるだけでなく、ヨウの生まれ育った世界のことを知りたがった。
 この国とは何もかもが違う世界のことを知りたいという単純な知的好奇心と、少しでも恋人のことを知りたいという下心に基づいた欲求のためだ。
 ヨウは快く自らの知識を披露してくれたが、文化も言語も違えば実物を見ることもできない彼の話は夢物語のようで、現実味は薄かった。
 それでもグーラは政務の合間をぬってはヨウに会いに来て、話を聞きたがった。

「できた。耀ヨウ、なのだろう、これが」
「わ、すごいすごい! つくりのほうがだいぶ大きいけど、ちゃんと書けてるよ」
「そうか。ふぅ……これでは名を書くだけで疲れてしまう。ヨウは立派な名を持って生まれてきたのだな」
「ありがと。画数多いけど、気に入ってる名前だから嬉しいよ」

 寄せ合っていた体を抱き寄せてこめかみに口づけると、ヨウはくすぐったそうに身を捩った。
 グーラはそのまま甘い時間になだれ込んでも良いと思ったが、今日こそはヨウから教えてもらわなければならないことがあったのを思い出す。

「それで、今日こそ教えてくれるのだろう?」
「う……言わなきゃダメ? 絶対?」
「教えてくれると約束しただろう。書くのが恥ずかしいのなら言ってくれるだけで良いぞ」
「あーもう、いいよ、教えるから」

 ヨウは観念したように両手を上げ、紙に彼しか知らない「ニホンゴ」を書いた。
 一文字目は少し大きく画数が多い。恐らくカンジだ。二文字目以降はやわらかな線で、ヒラガナであると推測できる。

「できた、よ」
「どう読むんだ?」
「……」
「ヨウ。これは先日教えてくれた『スキ』とは違うのであろう?」
「……これは『愛してる』だよ」

 グーラがどうしても知りたかったのは、ヨウの国の言葉で愛を告げる方法だった。
 この手に収めたばかりの愛しい異界の少年を、どんな手段を使ってでも繋ぎ止めたい。そのための方法は多いほうが良い。
 ヨウにとっては未だ馴染みの薄いこの国の言葉で愛を囁くより、彼が十八年間親しんできた言葉を使うほうがより心を掴むことができるのではないか。そんな愚直な思いつきだった。

「ぁ、し、てう?」
「あ、い。あいしてる」
「あいし……て、う」
「惜しい! あ、い、し、て、る、だよ」
「あい、して、る」
「おぉ~それ、それだよグーラ!」

 上手く言えたときに大喜びしてくれるヨウに、グーラもつられて笑顔を浮かべる。
 これが彼の知る「最上級の愛情を伝えるニホンゴ」だという。
 グーラに教えるためとはいえ、彼がそんな言葉を連呼しているという状況はかなり役得だ。ヨウは閨でもなかなか愛の言葉を口にしてくれないので、貴重な機会といえる。

「ヨウ、あいしてる」
「うんうん、発音もだいぶそれっぽいよ。グーラは飲み込みが早いね」
「あいしてる」
「……う、うん。完璧だよグーラ」
「あいしてる、ヨウ……」
「ん……」

 じわじわと頬を赤く染めていたヨウが、真っ赤になって俯いた。
 すかさず顎から掬い上げて唇を奪う。
 口づけの合間に覚えたばかりの「愛してる」と、以前覚えた「好き」を何度も浴びせ、ヨウの反応を窺う。
 恥ずかしそうに両目をきつく閉じていたヨウは、ついにはふにゃふにゃと崩れ落ち、グーラに凭れ掛かってしまった。

「も、やめて、お願い……」
「なぜだ、ヨウ。俺は自らの気持ちを言葉にしているだけだ。あいしてる、ヨウ」
「あぁぁ……もうだめ……」

 控えめに袖を引く恋人の願いを聞き届けないほど野暮ではない。
 脱力した体を抱え上げ、数歩先のベッドにそっと下ろす。服を脱がせながら何度も「愛してる」と告げ、口づけを繰り返す。

「僕も好きだよ、グーラ……愛してる……」
「! ヨウっ」

 それは言葉を教えるためではない、本音の篭もったヨウの愛の言葉だった。
 感極まったグーラは激しくヨウを求め、彼もグーラに応えてくれた。
 もはや今までどうやってヨウなしで生きてきたのか思い出せないほどに、グーラの何もかもをヨウが塗り替えてしまった。

 そんな幸福な日々も、今は遠い。

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