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当人たちの想いとは裏腹に、事態は残酷に推移していく。
その日最初にそれを悟ったのは、昨夜ヨウと共に寝入ったグーラだった。
「わっ、え、な、誰……?」
腕の中に抱えていたはずの恋人が素早く抜け出して、なにやら喚いている。
グーラはすぐに覚醒し、身を起こした。
隣には皺の寄ったシーツだけがある。
少し目線を上げると、枕元にいくつか置かれたクッションの一つに縋り付くようにして、ヨウがこちらを凝視していた。
「ヨウ?」
嫌な予感がする。彼の視線の温度が違う。
グーラが腕を伸ばすと、ヨウは肩を竦めて小さくなってしまった。
そして彼の口から信じられない言葉が飛び出す。
「あの、どちら様、ですか?」
その日王は、将来を誓い合った恋人を失った。
ヨウが寝ていた部屋には現在数人の男がいる。
誰もが険しい表情でこちらを見るので、ヨウはその度に身を縮こませて視線を彷徨わせるしかない。
目覚めたら、なにやらとてつもなく肌触りの良いパジャマを着て、見慣れないベッドに寝ていた。
しかも見知らぬ男と、だ。
経緯を全く思い出せずパニックになるヨウを置いてきぼりにして、同衾していた男が出ていき、さらに男たちを引き連れて帰ってきた。
ヨウは内心恐慌状態だが、ヨウに比べて遥かに背が高く体格の良い男ばかりに取り囲まれている現状に慄きすぎて一声も上げられずにいる。
男たちは難しい顔で何事か話し合っていた。
やがて一人の男が輪から外れ、ヨウの元にやってきた。
ベッドの隅で縮こまっているヨウに視線を合わせるように屈んで、にっこりと笑みを浮かべて話しかけてくる。
「おはよう。着替えもまだなのに、部屋に入ってきてごめんね」
「ぁ……お、はよう、ございます」
「僕のこと、知ってる?」
ヨウはふるふると首を振った。彼は自分と知り合いなのだろうか。
長い髪を括って、時代がかったローブを身にまとう優しげな青年はヨーロッパ系の顔立ちの美形で、ヨウの記憶に引っかかる人物はいない。
「そっか。僕はティルクス」
「てぃる、くす? え、やっぱり外国人?」
「君の名前を教えて」
「あ、僕は川辺耀です」
「僕はここに勤めてるんだ。22歳だよ。君は?」
「えと、一高……岡川第一高校の三年生です。18歳です」
「教えてくれてありがとう」
ティルクスがそっと差し伸べてきた手に、そろりと手を重ねる。
導かれるままにベッドを下りた先では、朝一緒に寝ていたと思われる男がすごい目でこちらを睨みつけていた。
ぎくりと体が強張ったヨウを、ティルクスが苦笑しながら背を擦って宥めようとしてくる。
「王よ、あまり睨まないでください。今は事態の把握が先決です」
「……わかっている」
「さて、ヨウ。まずは着替えようか。君の服だよ、悪いけどここですぐ着替えてくれ」
「あ、は、はい」
どうにも高級すぎて慣れなかったパジャマを脱いで、用意されたシャツとチノパンに着替える。
自分のものではないような気がする服だけど、こちらは高級感をあまり感じず、慣れた構造と手触りだったので安心した。
脱いでみると下着まで高価そうなサラサラ素材のものだったことにヨウは驚愕したが、ここにいるのが全員男とはいえさすがに下着を脱ぐのは躊躇われ、極力気にしないことにした。
ティルクスに促され、ソファに腰掛ける。
「ヨウ、まずは落ち着いて聞いてくれ。君は今、異世界にいる」
「……は、い?」
彼がヨウに語った内容は荒唐無稽で、とてもすぐに信じられる内容じゃなかった。
ヨウが今いる場所は、生まれ育った日本───どころか地球ですらなく、全く別の世界だという。
しかもヨウは数ヶ月前からこの世界で生活していて、異世界人のティルクスと今不自由なく会話ができているのは、ヨウ自身が語学を中心に異世界文化を必死に勉強してきたからだとか。
そしてさらに信じがたいことに、ヨウは病気でこちらにやってきてからの記憶を失っている、らしい。
「き、記憶がなくなる病気……なにそれ怖い。アルツハイマーとか……?」
「すまない、まだ病の原因は特定できていないんだ。そのために、君の記憶と体を調べさせてもらいたい。特別なことはしないし、服も着たままでいいから」
「はぁ」
そのままでいいと言われたので、ソファに座ったままティルクスの問診を受けることになった。
見ようによっては医者にも思える優しげな笑みを浮かべたティルクスが、手元の書類に何か書き付けながらヨウに質問を重ねていく。
それは不思議な感覚だった。
問われる内容に難しいものなど一つもない。当然答えられるようなものばかりだった。
たとえば自身の名前の意味、好き嫌い、家族、友人、元いた世界の風土や習慣。
しかし、ヨウがそれらに答えようと口を開くと、そこから音が出ない。
体に染み付くように知っているはずの何もかもが失くなっている。
仕舞ってあるはずの引き出しの中身が、いつの間にか捨てられてしまったかのようだった。引き出しにはきちんとラベルを書いて、すぐ取り出せるように分類してあったはずなのに。
「嘘だ、なんで思い出せない、なんで、なんで」
「落ち着いてヨウ。これ飲んで」
やっと自身の異常を把握して恐怖に慄くヨウに、ティルクスは何やら飲み物を差し出してきた。
記憶にないはずなのにホッとする良い香りのお茶を、反射的に一口含む。
一杯飲み干す頃には、焦燥に似たパニック症状はほとんど落ち着いた。
取り乱したことを謝ると、ティルクスは鷹揚に首を振る。
「自分のことなのに覚えていないって怖いよね、わかるよ。すぐに原因を突き止めるからね。今度は体の状態を診せてくれる?」
「はい……」
問診の次は診察だ。
ティルクスはヨウの体の上に手のひらをかざした。
何をしているのかさっぱりだが、どうやらこの異世界には魔法があって、魔法によって触れることなくヨウの体をスキャンしているということらしい。
説明されても、ティルクスの手は光ってもいなければ魔法陣が浮かび上がったりもしてないし、何をしているかわからないことに変わりはない。
次に彼は懐から小瓶を取り出して、ぶつぶつと何か言いながら空中で瓶を傾けた。
中に入っているものが落ちたらまずいのではと思ったが、それは杞憂で、零れた黒っぽい液体はどういうわけか、床に落ちる前に煙のように空気に溶けた。
「わ……」
想像してたのとは違うけど、魔法っぽい現象が目の前で起こっている。
ヨウはわくわくしたが、周囲があまりにも真剣な様子でティルクスの動作を観察しているので、はしゃぐのはやめておいた。
小瓶の中身がすべて蒸発した後、少しだけヨウの周囲で液体と同じ色の煙がふよふよと舞って消える。
ティルクスが一瞬とても険しい表情を浮かべたが、ヨウが問いかける前にまた元のキザっぽい笑みに戻ってしまった。
「これで診察は終わり。ラクにしていいよ」
「さっきので何かわかったんですか?」
「うん、とても重要なことがね。僕はこれで失礼する。レンブレー殿とグリンは来てくれ、すぐに対処する。ヨウのことは……王、おまかせできますか?」
「……」
ティルクスは何やら急いでどこかへ行くらしい。
彼の代わりにヨウの横には、あの怖い顔の男が立った。
ソファに座るヨウを無言で見下ろす男は、ティルクスとは違ったタイプだが、これまた大層な美形だ。
しかしあまりにも雰囲気と視線が険しい。
自然と萎縮してしまい、視線で助けを求めた。ティルクスが苦笑する。
「王よ、そんな恐ろしげに睨みつけては彼が怖がってしまいますよ」
「……わかっている。以前も、そうだった」
「そう、でしたね。では我々はすぐに調査にかかります。ヨウ、またね」
「えっ……」
ティルクスは、一言も喋らなかった他の男達を引き連れて部屋を出ていってしまった。
途端に不安を覚える。
部屋にはヨウと、この怖そうな男の二人きり。
ヨウは記憶をなくして異世界にいるという。何を頼りに生きて、これからどこへ行けばいいのか。
どうやら今はこの部屋にいてもいいらしい、歓迎されてないわけではないらしい。
しかしそれ以上のことは何もわからない。
(ど、どうしよう)
恐る恐る見上げた男は厳しい表情のまま、なぜかヨウの横にどっかりと座った。
とても苦いものを噛んだように口をへの字に曲げて、眉根をきつく寄せている。痛みを堪えているようにも見える。
ティルクスは彼のことを「王」と呼んでいた。
異世界の階級制度がどうなっているのかわからないが、かなり偉い地位の人物ではなかろうか。
そんな人が供もつけず、ぽつんと置いてきぼりにされている。
「あ、あの」
「なんだ」
「僕のことは気にしないで、なんか……仕事とか、してていいですよ。大人しくしてるんで。きっと偉い人、なんですよね?」
「……」
ヨウとしては遠慮して、邪魔にならないよう気を遣ったつもりだったのに、ますます睨みつけられてしまった。
敵意を超えて殺意すら篭っていそうな視線に怯える。
涙目で縮こまるヨウの姿に男は小さく息を呑み、吸った以上の空気を深く吐き出した。
特大の溜息に失望を感じたヨウは肩を跳ねさせる。
「今日は仕事はない。そんなことをしている場合ではなかったから」
「あ、そ、そうですか……」
「……」
「……」
男は動かない。
仕事をするより大事なことがあるような言い草だったのに、その大事な用に取り掛からなくていいのだろうか。
窓の外は明るく、異世界の恒星が地球の太陽と大きく違っていなければ、多分朝だ。
大事な用なら朝早くから準備とかしたほうが良いのではないかと心配になったが、自分が気を揉むことでもないかと開き直る。
それよりも不思議なことがある。
ヨウはなぜ、この男と同じベッドで目を覚ましたか、ということだ。
(目覚めた時、知らない人がいてパニックになっちゃったけど……思い返すと僕、この人の腕枕で寝てたんだよなぁ)
ちらりと男を見る。
がっしりと筋肉がついた逞しい肩から、太く長い腕が柔らかそうな衣服の袖に包まれて伸びている。あの丸太のような腕なら、ヨウの頭が一つや二つ乗ったとしてもびくともしないだろう。
しかし実際にヨウの頭が彼の腕に乗っていたととなれば話は別だ。
もしかしたら彼は、ヨウが勝手にベッドに潜り込んだ挙句、朝イチで大声を出して眠りを妨げたことを怒っているのかもしれない。
「あの……ごめんなさい」
いささか唐突な謝罪に、男がヨウを見た。
ベッドで見た時は燃え盛る炎のようだと思った真紅の瞳は、今は燃え尽きそうな炭にちらつく熾火のような色をしている。
「何についての謝罪だ」
「あ、その……今朝のことを。勝手にベッドに入ってごめんなさい。僕は覚えてないんですけど……あと、大声出して王様の眠りを妨げたことも」
「……そんなことは気にしていない」
ヨウの予想に反して、男は謝罪を受け取らなかった。
じゃあなんで彼はこんなに怒っているんだろう。原因が思いつかない。嵐をやり過ごすように、肩身を狭くして彼の感情が落ち着くのを待つしかないんだろうか。
「……と、呼ぶな」
「え?」
「王などと呼ぶな。名で呼べ、ヨウ」
男は外方を向いていて、表情は読めない。
ティルクスの話を信じるなら、ヨウは数ヶ月この地で暮らしていたらしい。その間に異世界語をマスターし、ティルクスと知り合っていた。
もしかしたらこの男とも知り合いだったのかもしれない。
しかしその辺のことも丸ごと忘れてしまったから、彼の名前も思い出せない───はずだった。
「すみません、あなたの名前も、思い出せ……な……あれ」
「……!」
蜂蜜を溶かしたように眩しい金色の髪と、燃え盛る炎のように力強く光る赤の瞳。ヨウより二回りは大きい巨躯と逞しく頼もしい腕、見た目より繊細に動く指がそっと前髪を持ち上げる仕草。
知るはずのない断片的な情報が、言語化する前にヨウの脳裏を通り過ぎて消えていく。
何度も名を呼ばれて、何度も名を呼んだ。
そう感じるのに、たった数文字のそれを思い出せない。
胸が痛い、息が苦しい。
かけがえのないものを忘れた。絶対に失くしちゃいけないものだった。
零れた涙が一粒、また一粒と頬を伝い落ちていく。
「なんで涙が……すみません。思い出せそうになくて」
「グーラだ。グーラと呼んでくれ、ヨウ」
「……グーラ」
知らないはずの、よく知っている腕に抱かれて男の胸に収まる。
太陽に焦がされる風のような彼の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、どうしてか嬉しくて、余計に涙が止まらなくなってしまった。
「グーラ」
「ヨウ……っ!」
しがみついた体がほんの僅か、震えている。
ヨウが忘れたものはきっと彼にとっても大切だった。
なのに欠片も思い出せない。
なにか掴めそうだと思っても、手をのばす前に消えていく。
頬を寄せた肌は確かにあたたかいのに、覚えのない体温は少しだけよそよそしくて、どうしようもなく哀しかった。
その日最初にそれを悟ったのは、昨夜ヨウと共に寝入ったグーラだった。
「わっ、え、な、誰……?」
腕の中に抱えていたはずの恋人が素早く抜け出して、なにやら喚いている。
グーラはすぐに覚醒し、身を起こした。
隣には皺の寄ったシーツだけがある。
少し目線を上げると、枕元にいくつか置かれたクッションの一つに縋り付くようにして、ヨウがこちらを凝視していた。
「ヨウ?」
嫌な予感がする。彼の視線の温度が違う。
グーラが腕を伸ばすと、ヨウは肩を竦めて小さくなってしまった。
そして彼の口から信じられない言葉が飛び出す。
「あの、どちら様、ですか?」
その日王は、将来を誓い合った恋人を失った。
ヨウが寝ていた部屋には現在数人の男がいる。
誰もが険しい表情でこちらを見るので、ヨウはその度に身を縮こませて視線を彷徨わせるしかない。
目覚めたら、なにやらとてつもなく肌触りの良いパジャマを着て、見慣れないベッドに寝ていた。
しかも見知らぬ男と、だ。
経緯を全く思い出せずパニックになるヨウを置いてきぼりにして、同衾していた男が出ていき、さらに男たちを引き連れて帰ってきた。
ヨウは内心恐慌状態だが、ヨウに比べて遥かに背が高く体格の良い男ばかりに取り囲まれている現状に慄きすぎて一声も上げられずにいる。
男たちは難しい顔で何事か話し合っていた。
やがて一人の男が輪から外れ、ヨウの元にやってきた。
ベッドの隅で縮こまっているヨウに視線を合わせるように屈んで、にっこりと笑みを浮かべて話しかけてくる。
「おはよう。着替えもまだなのに、部屋に入ってきてごめんね」
「ぁ……お、はよう、ございます」
「僕のこと、知ってる?」
ヨウはふるふると首を振った。彼は自分と知り合いなのだろうか。
長い髪を括って、時代がかったローブを身にまとう優しげな青年はヨーロッパ系の顔立ちの美形で、ヨウの記憶に引っかかる人物はいない。
「そっか。僕はティルクス」
「てぃる、くす? え、やっぱり外国人?」
「君の名前を教えて」
「あ、僕は川辺耀です」
「僕はここに勤めてるんだ。22歳だよ。君は?」
「えと、一高……岡川第一高校の三年生です。18歳です」
「教えてくれてありがとう」
ティルクスがそっと差し伸べてきた手に、そろりと手を重ねる。
導かれるままにベッドを下りた先では、朝一緒に寝ていたと思われる男がすごい目でこちらを睨みつけていた。
ぎくりと体が強張ったヨウを、ティルクスが苦笑しながら背を擦って宥めようとしてくる。
「王よ、あまり睨まないでください。今は事態の把握が先決です」
「……わかっている」
「さて、ヨウ。まずは着替えようか。君の服だよ、悪いけどここですぐ着替えてくれ」
「あ、は、はい」
どうにも高級すぎて慣れなかったパジャマを脱いで、用意されたシャツとチノパンに着替える。
自分のものではないような気がする服だけど、こちらは高級感をあまり感じず、慣れた構造と手触りだったので安心した。
脱いでみると下着まで高価そうなサラサラ素材のものだったことにヨウは驚愕したが、ここにいるのが全員男とはいえさすがに下着を脱ぐのは躊躇われ、極力気にしないことにした。
ティルクスに促され、ソファに腰掛ける。
「ヨウ、まずは落ち着いて聞いてくれ。君は今、異世界にいる」
「……は、い?」
彼がヨウに語った内容は荒唐無稽で、とてもすぐに信じられる内容じゃなかった。
ヨウが今いる場所は、生まれ育った日本───どころか地球ですらなく、全く別の世界だという。
しかもヨウは数ヶ月前からこの世界で生活していて、異世界人のティルクスと今不自由なく会話ができているのは、ヨウ自身が語学を中心に異世界文化を必死に勉強してきたからだとか。
そしてさらに信じがたいことに、ヨウは病気でこちらにやってきてからの記憶を失っている、らしい。
「き、記憶がなくなる病気……なにそれ怖い。アルツハイマーとか……?」
「すまない、まだ病の原因は特定できていないんだ。そのために、君の記憶と体を調べさせてもらいたい。特別なことはしないし、服も着たままでいいから」
「はぁ」
そのままでいいと言われたので、ソファに座ったままティルクスの問診を受けることになった。
見ようによっては医者にも思える優しげな笑みを浮かべたティルクスが、手元の書類に何か書き付けながらヨウに質問を重ねていく。
それは不思議な感覚だった。
問われる内容に難しいものなど一つもない。当然答えられるようなものばかりだった。
たとえば自身の名前の意味、好き嫌い、家族、友人、元いた世界の風土や習慣。
しかし、ヨウがそれらに答えようと口を開くと、そこから音が出ない。
体に染み付くように知っているはずの何もかもが失くなっている。
仕舞ってあるはずの引き出しの中身が、いつの間にか捨てられてしまったかのようだった。引き出しにはきちんとラベルを書いて、すぐ取り出せるように分類してあったはずなのに。
「嘘だ、なんで思い出せない、なんで、なんで」
「落ち着いてヨウ。これ飲んで」
やっと自身の異常を把握して恐怖に慄くヨウに、ティルクスは何やら飲み物を差し出してきた。
記憶にないはずなのにホッとする良い香りのお茶を、反射的に一口含む。
一杯飲み干す頃には、焦燥に似たパニック症状はほとんど落ち着いた。
取り乱したことを謝ると、ティルクスは鷹揚に首を振る。
「自分のことなのに覚えていないって怖いよね、わかるよ。すぐに原因を突き止めるからね。今度は体の状態を診せてくれる?」
「はい……」
問診の次は診察だ。
ティルクスはヨウの体の上に手のひらをかざした。
何をしているのかさっぱりだが、どうやらこの異世界には魔法があって、魔法によって触れることなくヨウの体をスキャンしているということらしい。
説明されても、ティルクスの手は光ってもいなければ魔法陣が浮かび上がったりもしてないし、何をしているかわからないことに変わりはない。
次に彼は懐から小瓶を取り出して、ぶつぶつと何か言いながら空中で瓶を傾けた。
中に入っているものが落ちたらまずいのではと思ったが、それは杞憂で、零れた黒っぽい液体はどういうわけか、床に落ちる前に煙のように空気に溶けた。
「わ……」
想像してたのとは違うけど、魔法っぽい現象が目の前で起こっている。
ヨウはわくわくしたが、周囲があまりにも真剣な様子でティルクスの動作を観察しているので、はしゃぐのはやめておいた。
小瓶の中身がすべて蒸発した後、少しだけヨウの周囲で液体と同じ色の煙がふよふよと舞って消える。
ティルクスが一瞬とても険しい表情を浮かべたが、ヨウが問いかける前にまた元のキザっぽい笑みに戻ってしまった。
「これで診察は終わり。ラクにしていいよ」
「さっきので何かわかったんですか?」
「うん、とても重要なことがね。僕はこれで失礼する。レンブレー殿とグリンは来てくれ、すぐに対処する。ヨウのことは……王、おまかせできますか?」
「……」
ティルクスは何やら急いでどこかへ行くらしい。
彼の代わりにヨウの横には、あの怖い顔の男が立った。
ソファに座るヨウを無言で見下ろす男は、ティルクスとは違ったタイプだが、これまた大層な美形だ。
しかしあまりにも雰囲気と視線が険しい。
自然と萎縮してしまい、視線で助けを求めた。ティルクスが苦笑する。
「王よ、そんな恐ろしげに睨みつけては彼が怖がってしまいますよ」
「……わかっている。以前も、そうだった」
「そう、でしたね。では我々はすぐに調査にかかります。ヨウ、またね」
「えっ……」
ティルクスは、一言も喋らなかった他の男達を引き連れて部屋を出ていってしまった。
途端に不安を覚える。
部屋にはヨウと、この怖そうな男の二人きり。
ヨウは記憶をなくして異世界にいるという。何を頼りに生きて、これからどこへ行けばいいのか。
どうやら今はこの部屋にいてもいいらしい、歓迎されてないわけではないらしい。
しかしそれ以上のことは何もわからない。
(ど、どうしよう)
恐る恐る見上げた男は厳しい表情のまま、なぜかヨウの横にどっかりと座った。
とても苦いものを噛んだように口をへの字に曲げて、眉根をきつく寄せている。痛みを堪えているようにも見える。
ティルクスは彼のことを「王」と呼んでいた。
異世界の階級制度がどうなっているのかわからないが、かなり偉い地位の人物ではなかろうか。
そんな人が供もつけず、ぽつんと置いてきぼりにされている。
「あ、あの」
「なんだ」
「僕のことは気にしないで、なんか……仕事とか、してていいですよ。大人しくしてるんで。きっと偉い人、なんですよね?」
「……」
ヨウとしては遠慮して、邪魔にならないよう気を遣ったつもりだったのに、ますます睨みつけられてしまった。
敵意を超えて殺意すら篭っていそうな視線に怯える。
涙目で縮こまるヨウの姿に男は小さく息を呑み、吸った以上の空気を深く吐き出した。
特大の溜息に失望を感じたヨウは肩を跳ねさせる。
「今日は仕事はない。そんなことをしている場合ではなかったから」
「あ、そ、そうですか……」
「……」
「……」
男は動かない。
仕事をするより大事なことがあるような言い草だったのに、その大事な用に取り掛からなくていいのだろうか。
窓の外は明るく、異世界の恒星が地球の太陽と大きく違っていなければ、多分朝だ。
大事な用なら朝早くから準備とかしたほうが良いのではないかと心配になったが、自分が気を揉むことでもないかと開き直る。
それよりも不思議なことがある。
ヨウはなぜ、この男と同じベッドで目を覚ましたか、ということだ。
(目覚めた時、知らない人がいてパニックになっちゃったけど……思い返すと僕、この人の腕枕で寝てたんだよなぁ)
ちらりと男を見る。
がっしりと筋肉がついた逞しい肩から、太く長い腕が柔らかそうな衣服の袖に包まれて伸びている。あの丸太のような腕なら、ヨウの頭が一つや二つ乗ったとしてもびくともしないだろう。
しかし実際にヨウの頭が彼の腕に乗っていたととなれば話は別だ。
もしかしたら彼は、ヨウが勝手にベッドに潜り込んだ挙句、朝イチで大声を出して眠りを妨げたことを怒っているのかもしれない。
「あの……ごめんなさい」
いささか唐突な謝罪に、男がヨウを見た。
ベッドで見た時は燃え盛る炎のようだと思った真紅の瞳は、今は燃え尽きそうな炭にちらつく熾火のような色をしている。
「何についての謝罪だ」
「あ、その……今朝のことを。勝手にベッドに入ってごめんなさい。僕は覚えてないんですけど……あと、大声出して王様の眠りを妨げたことも」
「……そんなことは気にしていない」
ヨウの予想に反して、男は謝罪を受け取らなかった。
じゃあなんで彼はこんなに怒っているんだろう。原因が思いつかない。嵐をやり過ごすように、肩身を狭くして彼の感情が落ち着くのを待つしかないんだろうか。
「……と、呼ぶな」
「え?」
「王などと呼ぶな。名で呼べ、ヨウ」
男は外方を向いていて、表情は読めない。
ティルクスの話を信じるなら、ヨウは数ヶ月この地で暮らしていたらしい。その間に異世界語をマスターし、ティルクスと知り合っていた。
もしかしたらこの男とも知り合いだったのかもしれない。
しかしその辺のことも丸ごと忘れてしまったから、彼の名前も思い出せない───はずだった。
「すみません、あなたの名前も、思い出せ……な……あれ」
「……!」
蜂蜜を溶かしたように眩しい金色の髪と、燃え盛る炎のように力強く光る赤の瞳。ヨウより二回りは大きい巨躯と逞しく頼もしい腕、見た目より繊細に動く指がそっと前髪を持ち上げる仕草。
知るはずのない断片的な情報が、言語化する前にヨウの脳裏を通り過ぎて消えていく。
何度も名を呼ばれて、何度も名を呼んだ。
そう感じるのに、たった数文字のそれを思い出せない。
胸が痛い、息が苦しい。
かけがえのないものを忘れた。絶対に失くしちゃいけないものだった。
零れた涙が一粒、また一粒と頬を伝い落ちていく。
「なんで涙が……すみません。思い出せそうになくて」
「グーラだ。グーラと呼んでくれ、ヨウ」
「……グーラ」
知らないはずの、よく知っている腕に抱かれて男の胸に収まる。
太陽に焦がされる風のような彼の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、どうしてか嬉しくて、余計に涙が止まらなくなってしまった。
「グーラ」
「ヨウ……っ!」
しがみついた体がほんの僅か、震えている。
ヨウが忘れたものはきっと彼にとっても大切だった。
なのに欠片も思い出せない。
なにか掴めそうだと思っても、手をのばす前に消えていく。
頬を寄せた肌は確かにあたたかいのに、覚えのない体温は少しだけよそよそしくて、どうしようもなく哀しかった。
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