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少しだけ仮眠するつもりが、目覚めたら日暮れだった。
オレンジから紫に変わっていく窓の向こうをしばし呆然と眺めたヨウは、一人きりの部屋でそっと身を起こす。
きっと侍従たちが気を遣って、眠るヨウを起こさずにいてくれたのだろう。できれば起こしてほしかったけど、これは明確に指示をしなかったヨウの落ち度だ。
昼間、この国のトップばかり錚々たる顔ぶれが集まったこの部屋での話し合いのことを思い出す。
数日前には使えていた体術がいきなり使えなくなり、昨日は使えていた魔法が今日は使えない。日常的に接していた人の顔も名前も忘れている。
これらの点から、ヨウの身に起こっているなんらかの事象は進行性であると判断された。
ヨウも同感だ。
どのくらいの時間でどれだけのものを忘れてしまうのかは未だわからない。
勉強や人の顔だけならともかく、体の動かし方まで、まるで記憶の入った箱を丸ごと抜き去られてしまったかのようだ。
自分はこの先どうなってしまうのかと考えると、先行き不安に体が芯から凍えて震え出しそうになる。
しかし希望はある。
魔法の専門家であるティルクスと、王宮の医師たちがヨウの症状を調べてくれるという。
この世界には脳波を図ったり、頭を開いて手術するという手段も技術もないけど、魔法がある。
人々は古来から魔法によって病や怪我から身を守り、驚異を退けてきた。ヨウは異世界からきた人間ではあるが、自分が知る限りこの世界の人々と身体構造はそう変わらない。
原因さえ分かればきっと治療できるはずだ。
「すごい人達が、僕のために知恵を絞ってくれてる……僕も自分でできるだけのことはしなきゃ」
ヨウは弱々しいながらも奮起し、図書室に返却しそびれていた本を開いた。
記憶の欠けに恐怖したきっかけの一つである、魔法学の分厚く大きな書籍。その冒頭部分には、この世界では子どもの頃に学ぶ内容だという初歩的な魔法の基礎が挿絵つきで解説されている。
一度は学んだはずの、今は全くなにも思い出せないそのページを読み進めながらヨウはふと思案した。
午睡の前に会った、忘れてしまった人物……ティルクス、グリン、レンブレーのことは今も思い出せる。そして今、一昨日以前はこの頭に入っていたはずの魔法基礎は、今少し違う形でヨウの頭の中に入ってきている。
忘れてしまった後に新しく覚えれば、また記憶できる。
「そっか……また覚えられるんだ」
ヨウの記憶の消失が進行性の疑いがある以上、覚えてもまた忘れてしまうかもしれない。しかしヨウには一つの推測があった。
忘れた記憶郡は、体系立っているのではないか。
記憶喪失といえば、自分の名前すらわからない、あるいは名前やごく僅かな記憶だけはあるというケースが多いはず。実際の記憶喪失者に会ったことがないので映画などの創作の中で得た知識でしかないが。
一方、加齢や病気で発症する記憶障害───これも実際のところは知らないが、特定の部分だけを綺麗に忘れることは稀で、まだらに思い出せなかったり、忘れまた思い出すの繰り返しだったり、日常的に使う記憶のことは忘れなかったりするらしい。
ヨウの記憶消失は、まるでナイフで切ったように特定の分野だけ忘れている。
数日前、国史は忘れたのに魔法史は覚えていたのがその証拠だ。
また、グーラのことは覚えていたのにそれ以外の人のことは忘れてしまった。ヨウが接触する回数が多い人物、または思い入れが強い人物のことは覚えていられる、忘れないという可能性が出てくる。
それになにより、物語のキャラクターたちは最終的には記憶を取り戻す。
ヨウのこの状態も一過性のものと考えれば、少しだけ、全身を包み込もうとする恐怖の気配が薄らいだ気がした。
「にしても、懐かしいなぁ。記憶喪失系の映画がいっときブームで、短期間に何本も見せられたんだっけ……」
もはや懐古の部類に入るようになった、元の世界での記憶。
その映画を誰といつ見たのか、どんな内容だったか……詳細を思い出せなくなっていることに、ヨウは気づかなかった。
終始心配そうな従者たちに苦笑を返し、夕食の配膳をしてもらう。
執務の途中でヨウのために退席したせいか、グーラとは食事を共にすることはできなかった。
元来とても忙しい人なのだ。ヨウが寂しく思っても、どうしようもない。
ゆっくりと湯浴みをして、寝間着に着替えたヨウが自室で待っていてもグーラは帰ってこなかった。
窓の外では星あかりが眩しいほどで、夜も深いことを知らせている。
執務を終えてグーラが息をついた頃には、すっかり夜が更けてしまっていた。
周囲を見渡せば、共に書類と格闘していた部下たちの顔に濃い疲労が浮かんでいる。自分の顔色も彼らとそう変わらないだろう。
ヨウの異変を聞きつけて仕事を中座し、恋人の元に駆けつけた代償はそれなりに高くついた。
予定されていた貴族各位との引見を済ませ、王の承認が必要な書類に判を押す。
字面にしてみれば大したことのない政務も、いちいち格式張った手続きや言い回しが挟まるので、簡単には片付けられない。
決まり事に雁字搦めの王という立場をこれほど厭ったことはこれまでなかった。
「……今日の執務はこれで終わりだ。皆休むように」
「陛下、最後にこちらをご覧ください」
「レンブレー……まだなにかあるのか……」
今にもぐったりと椅子の背に凭れたいほど疲労したグーラに、表情を読ませない老齢の宰相が書類を差し出してくる。
グーラの親あるいは祖父でもおかしくない歳のはずだが、レンブレーはいつだって疲労や心中の揺らぎを顔に出さない。短気な自分より余程人の上に立つ資質がありそうだと思うのだが、彼自身は王を支える立場で満足しているらしい。
紙束を受け取り、判を持ち上げようとしたグーラは動きを止めた。
書類に書かれていたのは仕事に関連する内容ではなかった。
昼に判明したヨウの不調……それをレンブレーが独自の視点と調査でまとめた報告書だ。
「なにぶん時間がなく、見返す暇もありませんでしたが、大まかなところは掴めていると思います」
「お前、この忙しいのにいつこんなものを」
「王にできない領分を補うのが私の役目ですので」
全く答えになっていない返事をする優秀な年上の部下に苦笑しつつ、疲労で霞む目を瞬かせて紙上に書かれた文章を追う。
医師の所見書のように理路整然と書かれたそれは、ほとんどが推測と対応策で占められていた。すでに行動指示を出しているティルクスや医師団にも伝わっているような内容は飛ばしながら読む。
しかし最後のページで突然、見慣れぬ禍々しいものがグーラの目に飛び込んできた。
「なんだこれは」
「古い写本の断片、その写しです。一次資料が写本、しかも劣化して完全には読み取れませんので、まだ小さな可能性の種でしかありませんが」
「……呪法……? 呪いか。しかしあれは」
「はい。王国の滅亡によって潰えた禁忌の魔法……しかし、使い手がすべて滅びたとは誰にも断言できないのです」
「……」
断片だというその写しには、過去使われていた呪法を発動する際に用意する陣の図が載っていた。
呪法と、それを執り行うための陣。
緻密で狂気的な模様と古代文字は人間の血で描かれ、数多くの生贄や時には術者の命をも奪っていったという、理性ある国家なら存在すら許さない禁法だ。
呪法は魔法と似て非なる体系を持っている。
魔法の干渉は防ぐこの王宮も、もし呪法によって攻撃されたとなれば、どれだけ結界防御が役に立つかはわからない。今この国にあるのは、呪法師をすべて滅ぼしたという認識の上で成り立っている平和だ。
報告書を読み進めるたびに焦りが募る。
ヨウの異変が呪法に関係するというのは、不気味なほどに腑に落ちる仮定だった。
「ヨウに呪いの影響があるかどうか調べる方法はあるのか」
「はい。すでに呪法に詳しい魔法師を手配しております。呪法を扱うことはできない代わりに、呪法の痕跡を見つけることができる者です」
「よくそんな者を……やはりお前は侮れない男だ、レンブレー」
「褒め言葉と受け取っておきます」
涼しい顔で一礼した宰相は、すぐに踵を返して執務室を出ていった。
グーラも疲れた体に鞭打ってヨウの部屋へ向かう。
恋人はすでに寝入っているだろう。
きっと不安だったはずだ。こんなときこそ傍にいてやりたかった。彼を一人にしたくはなかった。
しかしグーラの王という立場が、私事にかまけることを許さない。
音を立てぬようそっと入り込んだ室内は薄暗く、寝台近くのランプがひとつだけ灯っていた。
仄明かりを頼りに進み、ベッドを覗き込む。
ヨウは寝台の外に足を投げ出して、倒れたような姿勢で眠っていた。
ここに腰掛けてグーラを待つうちに寝てしまったのだろう。
手触りの良い寝間着に包まれている痩躯の背と膝裏に腕を回し、そっと持ち上げて寝台の中央に移動させる。
大人の男が何人も寝そべることができる大きなベッドで眠ることも、王と同じ生地を使った夜着を身にまとうことも、最初の頃の彼は恐縮してしまって大変だった。
従者たちが頼み込み、グーラが背中を押してやっと特別待遇を受け入れてくれた。
「ヨウ……」
額に落ちかかった髪をそっと除けてやる。
閉じられた瞼が少しだけ震えたが、開くことはなかった。
ヨウが起きる様子がないのをいいことに、グーラは手を滑らせ、頬を指の背で撫でくすぐる。
そんな刺激にもヨウは目を覚まさず、もぞもぞと身を捩った。
手を返して頬を包み込んでやると、嫌そうに寄せられた眉はすとんと離れ、グーラの手のひらにすり寄るような動きへと変わる。
決して特別な美貌や目を引く可憐さがあるわけではない、ふつうの年頃の少年だ。
持つ色味はやや珍しいが、市井にいれば紛れてしまう程度の容姿でしかない。
慎み深く、時に悲しいほど謙虚で自己評価が低いこの恋人を、どこまでも甘やかしてやりたい。
今でも、グーラが差し出す手を握るときに一瞬だけ躊躇してしまうこの恋人が、何にも不自由することなく明るく笑って過ごせるようにしてやりたい。
「そのためには、憂いを取り除いてやらねばな。しかし……記憶か……」
ヨウの体の内外を巡る、彼の魔力。
その流れをグーラ自身の魔力で絡め取るように探ってみるが、ティルクスに発見できない異変を魔法の専門家でもないグーラが見つけることはできなかった。
もし呪法による兆候が出ていたとしても、途絶えたはずの呪法を見る機会すらなかった年若い王には判断できない。
穏やかに眠るヨウは、傍目には何も問題がないように見える。
しかし彼の記憶は確実に何か得体のしれないものに蝕まれ、侵されている。
今この瞬間も、彼の大事な思い出が消えていっているかもしれない。
「……っ、ヨウ、ヨウ!」
恐ろしい想像にいてもたってもいられず、眠るヨウの肩を掴んで揺さぶった。
目覚めないのではと過ぎった不安とは裏腹に、ゆっくりと持ち上がった瞼はぱちりと一度瞬いて、茶の瞳がグーラを見つめる。
「ん、んー……あ、グーラ。おかえりなさい」
「……あぁ、ただいま」
眠たげに揺れてはいるが、ヨウの双眸はしっかりと焦点を結んでグーラを見ていた。
ぽろぽろと零れ落ちるかの如く記憶を失っているようにはとても思えない、重さも存在感もしっかりとある青年が、どうして儚く消えてしまいそうに見えたのだろう。
しかしヨウの元気な姿を確認しても、グーラの胸に巣食う漠然とした不安は消えも薄れもしなかった。
堪らない気持ちがこみ上げ、横たわるヨウの体を覆うように抱き締める。
「わ。何、どうしたのグーラ」
「……」
「ふふ、黙ってて変なの。疲れちゃった?」
寝起き故か甘ったるい声を出しながら、ヨウは胸元にある男の頭をゆっくりと撫でた。
暗闇に沈む黄金色の髪は芯が通っているがさらさらと手触りがいい。
それが余計に、グーラを男らしく威厳のある風格に仕立てていることを思い起こしてヨウは微笑む。
実際の王様は、短気で気分屋で、年下に甘えることもあるごく普通の若者だ。
彼に親しい人物と、ヨウだけが知っている等身大のグーラの姿。大好きな恋人の色んな表情。
忘れたくない。
忘れるはずがない。
グーラの額が触れている心臓の辺りから、あたたかなものが広がって全身に染み込んでいく。愛と呼ばれる感情の温度を教えてくれたのは他ならぬグーラだ。
他の何を失っても、彼への思慕が消えてなくなることはない。
───守ってみせる。
「ほらグーラ、もう遅いよ。一緒に寝よう?」
「……あぁ」
もぞもぞとヨウの懐に入り込もうとする巨体を笑いながら受け止める。
執務室から真っ直ぐ戻ってきたばかりの彼の背中から上着を脱がせ、靴もベッドの外に放り出した。
貴族や平民たちと会うために着る王様らしい立派なシャツが、明日にはよれよれになってしまうかもしれない。でも疲れているグーラをこのまま寝かせてあげたかった。
洗濯係の侍従には、あとで一緒に怒られよう。
今だけは働き者の恋人を甘やかそう。
お互いの温もりを求め合うようにしがみついて眠る二人を、月のない夜空だけが見下ろしていた。
オレンジから紫に変わっていく窓の向こうをしばし呆然と眺めたヨウは、一人きりの部屋でそっと身を起こす。
きっと侍従たちが気を遣って、眠るヨウを起こさずにいてくれたのだろう。できれば起こしてほしかったけど、これは明確に指示をしなかったヨウの落ち度だ。
昼間、この国のトップばかり錚々たる顔ぶれが集まったこの部屋での話し合いのことを思い出す。
数日前には使えていた体術がいきなり使えなくなり、昨日は使えていた魔法が今日は使えない。日常的に接していた人の顔も名前も忘れている。
これらの点から、ヨウの身に起こっているなんらかの事象は進行性であると判断された。
ヨウも同感だ。
どのくらいの時間でどれだけのものを忘れてしまうのかは未だわからない。
勉強や人の顔だけならともかく、体の動かし方まで、まるで記憶の入った箱を丸ごと抜き去られてしまったかのようだ。
自分はこの先どうなってしまうのかと考えると、先行き不安に体が芯から凍えて震え出しそうになる。
しかし希望はある。
魔法の専門家であるティルクスと、王宮の医師たちがヨウの症状を調べてくれるという。
この世界には脳波を図ったり、頭を開いて手術するという手段も技術もないけど、魔法がある。
人々は古来から魔法によって病や怪我から身を守り、驚異を退けてきた。ヨウは異世界からきた人間ではあるが、自分が知る限りこの世界の人々と身体構造はそう変わらない。
原因さえ分かればきっと治療できるはずだ。
「すごい人達が、僕のために知恵を絞ってくれてる……僕も自分でできるだけのことはしなきゃ」
ヨウは弱々しいながらも奮起し、図書室に返却しそびれていた本を開いた。
記憶の欠けに恐怖したきっかけの一つである、魔法学の分厚く大きな書籍。その冒頭部分には、この世界では子どもの頃に学ぶ内容だという初歩的な魔法の基礎が挿絵つきで解説されている。
一度は学んだはずの、今は全くなにも思い出せないそのページを読み進めながらヨウはふと思案した。
午睡の前に会った、忘れてしまった人物……ティルクス、グリン、レンブレーのことは今も思い出せる。そして今、一昨日以前はこの頭に入っていたはずの魔法基礎は、今少し違う形でヨウの頭の中に入ってきている。
忘れてしまった後に新しく覚えれば、また記憶できる。
「そっか……また覚えられるんだ」
ヨウの記憶の消失が進行性の疑いがある以上、覚えてもまた忘れてしまうかもしれない。しかしヨウには一つの推測があった。
忘れた記憶郡は、体系立っているのではないか。
記憶喪失といえば、自分の名前すらわからない、あるいは名前やごく僅かな記憶だけはあるというケースが多いはず。実際の記憶喪失者に会ったことがないので映画などの創作の中で得た知識でしかないが。
一方、加齢や病気で発症する記憶障害───これも実際のところは知らないが、特定の部分だけを綺麗に忘れることは稀で、まだらに思い出せなかったり、忘れまた思い出すの繰り返しだったり、日常的に使う記憶のことは忘れなかったりするらしい。
ヨウの記憶消失は、まるでナイフで切ったように特定の分野だけ忘れている。
数日前、国史は忘れたのに魔法史は覚えていたのがその証拠だ。
また、グーラのことは覚えていたのにそれ以外の人のことは忘れてしまった。ヨウが接触する回数が多い人物、または思い入れが強い人物のことは覚えていられる、忘れないという可能性が出てくる。
それになにより、物語のキャラクターたちは最終的には記憶を取り戻す。
ヨウのこの状態も一過性のものと考えれば、少しだけ、全身を包み込もうとする恐怖の気配が薄らいだ気がした。
「にしても、懐かしいなぁ。記憶喪失系の映画がいっときブームで、短期間に何本も見せられたんだっけ……」
もはや懐古の部類に入るようになった、元の世界での記憶。
その映画を誰といつ見たのか、どんな内容だったか……詳細を思い出せなくなっていることに、ヨウは気づかなかった。
終始心配そうな従者たちに苦笑を返し、夕食の配膳をしてもらう。
執務の途中でヨウのために退席したせいか、グーラとは食事を共にすることはできなかった。
元来とても忙しい人なのだ。ヨウが寂しく思っても、どうしようもない。
ゆっくりと湯浴みをして、寝間着に着替えたヨウが自室で待っていてもグーラは帰ってこなかった。
窓の外では星あかりが眩しいほどで、夜も深いことを知らせている。
執務を終えてグーラが息をついた頃には、すっかり夜が更けてしまっていた。
周囲を見渡せば、共に書類と格闘していた部下たちの顔に濃い疲労が浮かんでいる。自分の顔色も彼らとそう変わらないだろう。
ヨウの異変を聞きつけて仕事を中座し、恋人の元に駆けつけた代償はそれなりに高くついた。
予定されていた貴族各位との引見を済ませ、王の承認が必要な書類に判を押す。
字面にしてみれば大したことのない政務も、いちいち格式張った手続きや言い回しが挟まるので、簡単には片付けられない。
決まり事に雁字搦めの王という立場をこれほど厭ったことはこれまでなかった。
「……今日の執務はこれで終わりだ。皆休むように」
「陛下、最後にこちらをご覧ください」
「レンブレー……まだなにかあるのか……」
今にもぐったりと椅子の背に凭れたいほど疲労したグーラに、表情を読ませない老齢の宰相が書類を差し出してくる。
グーラの親あるいは祖父でもおかしくない歳のはずだが、レンブレーはいつだって疲労や心中の揺らぎを顔に出さない。短気な自分より余程人の上に立つ資質がありそうだと思うのだが、彼自身は王を支える立場で満足しているらしい。
紙束を受け取り、判を持ち上げようとしたグーラは動きを止めた。
書類に書かれていたのは仕事に関連する内容ではなかった。
昼に判明したヨウの不調……それをレンブレーが独自の視点と調査でまとめた報告書だ。
「なにぶん時間がなく、見返す暇もありませんでしたが、大まかなところは掴めていると思います」
「お前、この忙しいのにいつこんなものを」
「王にできない領分を補うのが私の役目ですので」
全く答えになっていない返事をする優秀な年上の部下に苦笑しつつ、疲労で霞む目を瞬かせて紙上に書かれた文章を追う。
医師の所見書のように理路整然と書かれたそれは、ほとんどが推測と対応策で占められていた。すでに行動指示を出しているティルクスや医師団にも伝わっているような内容は飛ばしながら読む。
しかし最後のページで突然、見慣れぬ禍々しいものがグーラの目に飛び込んできた。
「なんだこれは」
「古い写本の断片、その写しです。一次資料が写本、しかも劣化して完全には読み取れませんので、まだ小さな可能性の種でしかありませんが」
「……呪法……? 呪いか。しかしあれは」
「はい。王国の滅亡によって潰えた禁忌の魔法……しかし、使い手がすべて滅びたとは誰にも断言できないのです」
「……」
断片だというその写しには、過去使われていた呪法を発動する際に用意する陣の図が載っていた。
呪法と、それを執り行うための陣。
緻密で狂気的な模様と古代文字は人間の血で描かれ、数多くの生贄や時には術者の命をも奪っていったという、理性ある国家なら存在すら許さない禁法だ。
呪法は魔法と似て非なる体系を持っている。
魔法の干渉は防ぐこの王宮も、もし呪法によって攻撃されたとなれば、どれだけ結界防御が役に立つかはわからない。今この国にあるのは、呪法師をすべて滅ぼしたという認識の上で成り立っている平和だ。
報告書を読み進めるたびに焦りが募る。
ヨウの異変が呪法に関係するというのは、不気味なほどに腑に落ちる仮定だった。
「ヨウに呪いの影響があるかどうか調べる方法はあるのか」
「はい。すでに呪法に詳しい魔法師を手配しております。呪法を扱うことはできない代わりに、呪法の痕跡を見つけることができる者です」
「よくそんな者を……やはりお前は侮れない男だ、レンブレー」
「褒め言葉と受け取っておきます」
涼しい顔で一礼した宰相は、すぐに踵を返して執務室を出ていった。
グーラも疲れた体に鞭打ってヨウの部屋へ向かう。
恋人はすでに寝入っているだろう。
きっと不安だったはずだ。こんなときこそ傍にいてやりたかった。彼を一人にしたくはなかった。
しかしグーラの王という立場が、私事にかまけることを許さない。
音を立てぬようそっと入り込んだ室内は薄暗く、寝台近くのランプがひとつだけ灯っていた。
仄明かりを頼りに進み、ベッドを覗き込む。
ヨウは寝台の外に足を投げ出して、倒れたような姿勢で眠っていた。
ここに腰掛けてグーラを待つうちに寝てしまったのだろう。
手触りの良い寝間着に包まれている痩躯の背と膝裏に腕を回し、そっと持ち上げて寝台の中央に移動させる。
大人の男が何人も寝そべることができる大きなベッドで眠ることも、王と同じ生地を使った夜着を身にまとうことも、最初の頃の彼は恐縮してしまって大変だった。
従者たちが頼み込み、グーラが背中を押してやっと特別待遇を受け入れてくれた。
「ヨウ……」
額に落ちかかった髪をそっと除けてやる。
閉じられた瞼が少しだけ震えたが、開くことはなかった。
ヨウが起きる様子がないのをいいことに、グーラは手を滑らせ、頬を指の背で撫でくすぐる。
そんな刺激にもヨウは目を覚まさず、もぞもぞと身を捩った。
手を返して頬を包み込んでやると、嫌そうに寄せられた眉はすとんと離れ、グーラの手のひらにすり寄るような動きへと変わる。
決して特別な美貌や目を引く可憐さがあるわけではない、ふつうの年頃の少年だ。
持つ色味はやや珍しいが、市井にいれば紛れてしまう程度の容姿でしかない。
慎み深く、時に悲しいほど謙虚で自己評価が低いこの恋人を、どこまでも甘やかしてやりたい。
今でも、グーラが差し出す手を握るときに一瞬だけ躊躇してしまうこの恋人が、何にも不自由することなく明るく笑って過ごせるようにしてやりたい。
「そのためには、憂いを取り除いてやらねばな。しかし……記憶か……」
ヨウの体の内外を巡る、彼の魔力。
その流れをグーラ自身の魔力で絡め取るように探ってみるが、ティルクスに発見できない異変を魔法の専門家でもないグーラが見つけることはできなかった。
もし呪法による兆候が出ていたとしても、途絶えたはずの呪法を見る機会すらなかった年若い王には判断できない。
穏やかに眠るヨウは、傍目には何も問題がないように見える。
しかし彼の記憶は確実に何か得体のしれないものに蝕まれ、侵されている。
今この瞬間も、彼の大事な思い出が消えていっているかもしれない。
「……っ、ヨウ、ヨウ!」
恐ろしい想像にいてもたってもいられず、眠るヨウの肩を掴んで揺さぶった。
目覚めないのではと過ぎった不安とは裏腹に、ゆっくりと持ち上がった瞼はぱちりと一度瞬いて、茶の瞳がグーラを見つめる。
「ん、んー……あ、グーラ。おかえりなさい」
「……あぁ、ただいま」
眠たげに揺れてはいるが、ヨウの双眸はしっかりと焦点を結んでグーラを見ていた。
ぽろぽろと零れ落ちるかの如く記憶を失っているようにはとても思えない、重さも存在感もしっかりとある青年が、どうして儚く消えてしまいそうに見えたのだろう。
しかしヨウの元気な姿を確認しても、グーラの胸に巣食う漠然とした不安は消えも薄れもしなかった。
堪らない気持ちがこみ上げ、横たわるヨウの体を覆うように抱き締める。
「わ。何、どうしたのグーラ」
「……」
「ふふ、黙ってて変なの。疲れちゃった?」
寝起き故か甘ったるい声を出しながら、ヨウは胸元にある男の頭をゆっくりと撫でた。
暗闇に沈む黄金色の髪は芯が通っているがさらさらと手触りがいい。
それが余計に、グーラを男らしく威厳のある風格に仕立てていることを思い起こしてヨウは微笑む。
実際の王様は、短気で気分屋で、年下に甘えることもあるごく普通の若者だ。
彼に親しい人物と、ヨウだけが知っている等身大のグーラの姿。大好きな恋人の色んな表情。
忘れたくない。
忘れるはずがない。
グーラの額が触れている心臓の辺りから、あたたかなものが広がって全身に染み込んでいく。愛と呼ばれる感情の温度を教えてくれたのは他ならぬグーラだ。
他の何を失っても、彼への思慕が消えてなくなることはない。
───守ってみせる。
「ほらグーラ、もう遅いよ。一緒に寝よう?」
「……あぁ」
もぞもぞとヨウの懐に入り込もうとする巨体を笑いながら受け止める。
執務室から真っ直ぐ戻ってきたばかりの彼の背中から上着を脱がせ、靴もベッドの外に放り出した。
貴族や平民たちと会うために着る王様らしい立派なシャツが、明日にはよれよれになってしまうかもしれない。でも疲れているグーラをこのまま寝かせてあげたかった。
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お互いの温もりを求め合うようにしがみついて眠る二人を、月のない夜空だけが見下ろしていた。
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