6 / 12
-5
しおりを挟む
医師による診断で異常は発見されなかった。
頭を打ったり、怪我をした形跡はない。
脳の認知機能や短期記憶機能の簡単なテストも行ったが、特に問題は見られない。
しかしティルクスのことと、いつも隣室に控えてくれているヨウ付き侍従の青年のこと、王の私室を警備する数名の兵士のことはどうしても思い出せなかった。
ヨウはそのまま二人の従者に両脇を固められるように付き添われ、離宮へ戻った。
自室には先程の男───ヨウの魔法の先生であるティルクスと、恋人であり多忙であるはずのグーラ、グーラによく似た髪と背格好の男、少し猫背の初老の男がいた。
今は政務の真っ最中のはずのグーラが部屋にいることにヨウは驚いたが、彼の険しい表情に言葉を詰まらせる。
「医術の範疇でヨウ様に異変を見つけることはできませんでした」
ヨウの後から室内に入った従者が医師の診断結果を告げる。
それぞれが頷いて、四人からじっと見つめられることになったヨウはややたじろいだ。
ヨウの異変はすでに彼らに伝わっているらしい。
「わかった。ヨウ」
ティルクスが屈んで下から目線を合わせてくる。
「君には今不可解な異変が起きている。自覚してるね?」
「はい」
「医者の次は、僕に体を診させてほしい。他人を害する魔法の痕跡は、魔法師でないと発見できないこともあるからね」
「わ、わかりました」
緊張しながら長椅子に座ったヨウの前にティルクスが立ち、手をかざす。
彼の手のひらは触れることなく、頭の横や肩、腹などに近づいてはまた移動していく。きっと魔力の流れなどを見ているのだろうと思うが、魔法の基礎もほとんど忘れてしまったヨウには何をしているのか詳しいことはわからない。
少し前まではできていたはずの、自身の中に流れる魔力を制御する魔法発動の初歩行動すらできなくなっていることに、ヨウはとっくに気づいていた。
かざしていた手を引っ込めたティルクスが苦々しく告げる。
「異常は見当たらない。僕と医師の見立てでは、彼は健康そのものだとしか言いようがない。病の兆候も魔力で探ってみたが、何も引っかからない」
ヨウの体に悪いところはない。それならどうして、こんな不思議な物忘れをするのだろう。
ティルクスたちが深刻そうに押し黙った間をすり抜け、グーラがヨウの横に座った。
肩を抱き寄せられ、無意識に体があたたかさに縋る。
「ヨウ、体に不調はないのか。ティルクスや勉学のことを忘れただけ、なのか?」
「うん……体は本当になんともないんだ。単なる物忘れだろうと思って、誰にも言えなかった……心配かけてごめんなさい」
「あぁ、心配した。これからは些細なことでも全て伝えてくれ」
「うん」
ヨウを抱く腕に力が籠もる。逆らうことなく身を寄せると、額に口づけが落とされた。
いつもと変わらないグーラの仕草にほっと息をつく。
勉強した内容を忘れてしまうという後ろめたさから、ここ数日ずっと不安感に心を支配されていたことに今更気づいた。
隠し事をする必要がなくなって、ヨウはやっと呼吸ができるようになった心地だった。
グーラの胸に凭れ掛かるヨウの前に、初老の男が跪く。
「ヨウ様。私の顔は覚えてらっしゃいますか」
「えぇ、と……いえ、すみません」
「問題ありません。私は宰相のレンブレーと申します」
宰相は、王族の次に権力を持つとされる偉い人ではなかっただろうか。
きっと何度も会ったことがあるであろう人物まで忘れてしまっていることに居たたまれなくて目を伏せるヨウに対し、レンブレーは気にした様子なく、かといって気遣う態度でもなく感情の読みにくい目を向ける。
「向こうの男のことはいかがですか」
レンブレーが指し示したのは、ティルクスの横に立つ金髪の男だ。
見れば見るほどグーラとの血縁関係を感じる。
ヨウの様子を心配そうに窺っていることからして、彼はヨウの知り合いであり、それなりに親しい仲の人物だったはずだが。
「……いえ。すみません」
「私どもに謝る必要はありませんよ、あなたは王の伴侶となる方なのですから」
「でも……」
「彼は王の弟にして兵団長のグリンですが、まぁ、彼のことは覚えなくて良いでしょう。記憶容量の無駄です」
「そこまで言うことないだろ宰相殿……」
金髪の男は肩を竦めて、おどけたようにひらひらと手を振って見せた。
ヨウはなんとも言えず会釈を返すしかない。
「ヨウ様。ご不安でしょうがこの私、レンブレーとティルクス、王宮医師団が必ずや不調の原因を突き止めます。そのためにまず、異変に気づいたときのことや、ご自身で分かる範囲で忘れてしまった事柄についてお聞かせください」
レンブレーの視線を真っ直ぐ見つめ返し、ヨウはしっかりと頷いた。
宰相や兵団長などという立派な肩書の人たちに頼ってしまうことに申し訳ないという気持ちはある。しかしグーラの横に立ちたいと願う以上、不安を抱えて何事もないように振る舞うことは許されない。
ヨウはできる限りレンブレーの聞き取りに応え、宰相は素早くヨウの言葉を書き留めていった。
「質問は以上です。では王、私は彼らと共にヨウ殿の変調の原因究明に取り掛かります」
「あぁ頼む」
「よろしくお願いします……」
不安そうなヨウとグーラに深く頭を下げ、部屋を出たレンブレーは深く息を吐いた。
ヨウの精神面のケアはこれからグーラが行うだろうから、これ以上外野ができることはない。一緒に出てきたティルクスとグリンを促し、本宮の側近執務室へ向かう。
人払いをした室内で、聞き取った内容の書かれた紙をめくりながらレンブレーは口を開いた。
「ヨウ様が忘れたと認識しているのは、これまで授業を受けていた座学および魔法の感覚、剣の扱い方、いくつかの体術。そして我々と側仕えの容姿、名前、その人物に関連する記憶です」
歴史も魔法も剣術も、毎日とまではいかないが数日おきに授業を行っているものだ。
前回の授業内容をひとつも思い出せず、体の動かし方まで忘れてしまうとは異常事態に他ならない。
「最初はヨウの悪ふざけかと思ったんだけど、本当に忘れちゃってるみたいで驚いたよ。昨日の魔法の授業では問題なかったはずなんだけどな」
レンブレーはティルクスの発言も書き付けた。
たった一日で教師の顔と名前を忘れ、以前は行使できていた魔法が使えなくなってしまうなど、間違いなく異様だ。
百歩譲って魔法だけであれば、ヨウのいた世界には存在しない馴染みのない法術ということで、やり方を失念してしまうこともあるだろう。
しかしヨウの「物忘れ」は剣術や体術という、忘れようと思っても難しい範囲の学びにすら及んでいる。
加えて彼は、顔と名前を見てもその人物を思い出せない。
「ティルクス、本当に魔法による害の痕跡は確認できなかったのですね?」
「はい。そもそも王宮には結界を施してありますし、ヨウが離宮に入ってからはより結界を強固にしてあります。外部からヨウだけに向けて魔法を使うというのはほぼ不可能ではありますが……内部の人間が直接何かしたにしても、痕跡は必ず残る。それが一切ありません」
「わかりました。しかし万が一のこともある、ティルクスは引き続きヨウ様の身体を魔法の側面から調べてください。グリン、あなたは王宮内の警戒をより強め、不審な者の侵入や不審物の設置がないかどうか探ってください」
「了解。いつも以上に気をつけるよう部下たちに徹底する」
いつもはおちゃらけたところのある二人の若者は、真剣な表情で頷きあった。
彼らが戴く王だけでなく、王の恋人にも忠誠心を持っていることがわかる。レンブレーは信頼できる二人の実力者の様子に少しだけ肩の力を抜いた。
「すべて憶測ではありますが、現時点で私が想定している原因は三つです」
魔法、病、精神的なもの。
レンブレーが挙げた要素に、グリンは唸りティルクスは険しい表情を浮かべた。
「ありえないとは思うけど、僕の魔法探査が及ばない相手がヨウに魔法を掛けたのなら僕だけの力じゃ対処できない。探査に強い師団の者に声をかけるよ」
「えぇ、魔法の分野は魔法師団におまかせします」
「病ならそれこそ医術か、治療魔法に頼るしかないな」
「特にヨウ様は異世界からの旅人。我々が普段頓着せず接している食物や菌類、空気中に含まれる成分が彼の身にどう影響するか未知数です。医師団にはそこを重点的に調べてもらいます」
「そうか、異世界人だからという可能性もあるんだな」
「じゃあ精神的なものってのは……」
レンブレーは皺が寄って痛いほどの眉間を指で揉み解しながら、独り言のように考えを零す。
「彼は異世界からの旅人です。我々とは環境も常識も違う場所で生きてきた。若く賢く適応力が高いとはいえ、周囲の環境全てが彼の精神に負担となる可能性があります。弱っていたところに、本来は害がないはずのものが過度にヨウ様の記憶や脳機能に影響を及ぼした可能性も否定すべきではありません」
「確かにな……ヨウはいつも気丈に振る舞っているから、多少の体調不良なら隠してしまうだろう」
「気を張っていて自分でも気づかないうちに抵抗力が落ちていたのかもしれないね」
日頃接する機会の少ないレンブレーより余程、ヨウの人となりを把握している二人が神妙に考え込むのを見て、また一つ手元に書き付けを加える。
レンブレー自身としては、ヨウの異変の原因は精神的なものとは考えていなかった。そのような不確かなものではないと、長年王宮の政情という荒波を渡ってきた勘が告げている。
「私は過去の文献から、似た症状や前例がないかどうか調べます。あなたたちもそれぞれの立場から、最優先事項として調査に当たってください。なにか分かったことがあれば連絡を」
「了解」
「すぐ取り掛かります」
表情を引き締めて踵を返し去っていくグリンとティルクスの背中を見送り、レンブレーは再び眉間の皺を伸ばすように揉んだ。
おそらく、時間はそう残されていない。
優秀な宰相の抱いた嫌な予感は、的中してしまうこととなる。
レンブレーたちが部屋を出ていってすぐに、グーラもお付きの者に呼ばれて行ってしまった。
どうしようもない不安を抱えるヨウを、従者たちがなんとか慰めようと様々に試みている。
普段は一日一人か二人しか姿を見せない彼らが、今は何人も部屋の中をあちこちへ行き交っている。
ヨウが好きなお茶を淹れたり、甘い菓子や果物を持ってきたり。窓辺の花瓶の花を入れ替えたり、結局見てこられなかった図書室から、ヨウが好みそうな冒険物語の本を何冊も持ってきてくれたり。
ヨウは精一杯の笑みでそれらに礼を述べたが、傍から見れば痛々しい努力でしかなかった。
こんなにも心配して尽くしてくれる彼らを、ヨウは誰一人思い出せない。
なんて恩知らずなんだろう。
従者たちが元気づけようと笑顔を見せるたび、ヨウは自己嫌悪の沼に沈んでいくような心地になっていた。
しかしいつまでも無気力にへこんでいる場合ではない。
宰相レンブレーから、忘れた記憶がどのような内容で、忘れたことに気づいたのはいつか、思い出せることはないかと聞かれていた。
もし後から忘れたことを思い出したり、忘れた内容を取り戻したら教えてほしいとも。
そのためにはヨウ自身が様々な事柄に触れて、以前にもその記憶を持っていたかどうか、記録や周囲の証言から探っていかなければならない。できるだけ詳細に。
身近な人に───なによりグーラに、これ以上迷惑をかけないために。
日記をつけていなかったことが悔やまれるが、どうにもできない過去に後悔している暇はない。
まずは授業ノートをもう一度始めから見直してみるべきだ。
決意して立ち上がったヨウは、突然ひどい目眩に襲われてソファに逆戻りしてしまった。
「ヨウ様!」
侍従の一人が慌てて体を支えてくれる。
それに縋りながら、ヨウは目元を押さえた。
頭が揺れているような、乗り物酔いと似て非なる感覚で視野がおぼつかない。
「ヨウ様、一度お休みになられてはいかがですか。連日のお勉強でお疲れのところに、此度の変調……御心の乱れが体にも出ているのかも知れません」
「ぅ……そう、ですね。じゃあ少しだけ……」
仮眠を取ると告げると、従者たちはほっとした様子を見せ、すぐさまヨウを寝台に押し込んだ。
心配と迷惑を際限なくかけてしまっている。立ちくらみを起こしたことはきっとグーラにも伝わってしまうだろう。また悲しい顔をさせる。
どうして自分はこんなに無力なんだろう。
ヨウは拭いきれない不安と虚しさを振り払うように目を閉じ、眠りの世界へ逃げた。
頭を打ったり、怪我をした形跡はない。
脳の認知機能や短期記憶機能の簡単なテストも行ったが、特に問題は見られない。
しかしティルクスのことと、いつも隣室に控えてくれているヨウ付き侍従の青年のこと、王の私室を警備する数名の兵士のことはどうしても思い出せなかった。
ヨウはそのまま二人の従者に両脇を固められるように付き添われ、離宮へ戻った。
自室には先程の男───ヨウの魔法の先生であるティルクスと、恋人であり多忙であるはずのグーラ、グーラによく似た髪と背格好の男、少し猫背の初老の男がいた。
今は政務の真っ最中のはずのグーラが部屋にいることにヨウは驚いたが、彼の険しい表情に言葉を詰まらせる。
「医術の範疇でヨウ様に異変を見つけることはできませんでした」
ヨウの後から室内に入った従者が医師の診断結果を告げる。
それぞれが頷いて、四人からじっと見つめられることになったヨウはややたじろいだ。
ヨウの異変はすでに彼らに伝わっているらしい。
「わかった。ヨウ」
ティルクスが屈んで下から目線を合わせてくる。
「君には今不可解な異変が起きている。自覚してるね?」
「はい」
「医者の次は、僕に体を診させてほしい。他人を害する魔法の痕跡は、魔法師でないと発見できないこともあるからね」
「わ、わかりました」
緊張しながら長椅子に座ったヨウの前にティルクスが立ち、手をかざす。
彼の手のひらは触れることなく、頭の横や肩、腹などに近づいてはまた移動していく。きっと魔力の流れなどを見ているのだろうと思うが、魔法の基礎もほとんど忘れてしまったヨウには何をしているのか詳しいことはわからない。
少し前まではできていたはずの、自身の中に流れる魔力を制御する魔法発動の初歩行動すらできなくなっていることに、ヨウはとっくに気づいていた。
かざしていた手を引っ込めたティルクスが苦々しく告げる。
「異常は見当たらない。僕と医師の見立てでは、彼は健康そのものだとしか言いようがない。病の兆候も魔力で探ってみたが、何も引っかからない」
ヨウの体に悪いところはない。それならどうして、こんな不思議な物忘れをするのだろう。
ティルクスたちが深刻そうに押し黙った間をすり抜け、グーラがヨウの横に座った。
肩を抱き寄せられ、無意識に体があたたかさに縋る。
「ヨウ、体に不調はないのか。ティルクスや勉学のことを忘れただけ、なのか?」
「うん……体は本当になんともないんだ。単なる物忘れだろうと思って、誰にも言えなかった……心配かけてごめんなさい」
「あぁ、心配した。これからは些細なことでも全て伝えてくれ」
「うん」
ヨウを抱く腕に力が籠もる。逆らうことなく身を寄せると、額に口づけが落とされた。
いつもと変わらないグーラの仕草にほっと息をつく。
勉強した内容を忘れてしまうという後ろめたさから、ここ数日ずっと不安感に心を支配されていたことに今更気づいた。
隠し事をする必要がなくなって、ヨウはやっと呼吸ができるようになった心地だった。
グーラの胸に凭れ掛かるヨウの前に、初老の男が跪く。
「ヨウ様。私の顔は覚えてらっしゃいますか」
「えぇ、と……いえ、すみません」
「問題ありません。私は宰相のレンブレーと申します」
宰相は、王族の次に権力を持つとされる偉い人ではなかっただろうか。
きっと何度も会ったことがあるであろう人物まで忘れてしまっていることに居たたまれなくて目を伏せるヨウに対し、レンブレーは気にした様子なく、かといって気遣う態度でもなく感情の読みにくい目を向ける。
「向こうの男のことはいかがですか」
レンブレーが指し示したのは、ティルクスの横に立つ金髪の男だ。
見れば見るほどグーラとの血縁関係を感じる。
ヨウの様子を心配そうに窺っていることからして、彼はヨウの知り合いであり、それなりに親しい仲の人物だったはずだが。
「……いえ。すみません」
「私どもに謝る必要はありませんよ、あなたは王の伴侶となる方なのですから」
「でも……」
「彼は王の弟にして兵団長のグリンですが、まぁ、彼のことは覚えなくて良いでしょう。記憶容量の無駄です」
「そこまで言うことないだろ宰相殿……」
金髪の男は肩を竦めて、おどけたようにひらひらと手を振って見せた。
ヨウはなんとも言えず会釈を返すしかない。
「ヨウ様。ご不安でしょうがこの私、レンブレーとティルクス、王宮医師団が必ずや不調の原因を突き止めます。そのためにまず、異変に気づいたときのことや、ご自身で分かる範囲で忘れてしまった事柄についてお聞かせください」
レンブレーの視線を真っ直ぐ見つめ返し、ヨウはしっかりと頷いた。
宰相や兵団長などという立派な肩書の人たちに頼ってしまうことに申し訳ないという気持ちはある。しかしグーラの横に立ちたいと願う以上、不安を抱えて何事もないように振る舞うことは許されない。
ヨウはできる限りレンブレーの聞き取りに応え、宰相は素早くヨウの言葉を書き留めていった。
「質問は以上です。では王、私は彼らと共にヨウ殿の変調の原因究明に取り掛かります」
「あぁ頼む」
「よろしくお願いします……」
不安そうなヨウとグーラに深く頭を下げ、部屋を出たレンブレーは深く息を吐いた。
ヨウの精神面のケアはこれからグーラが行うだろうから、これ以上外野ができることはない。一緒に出てきたティルクスとグリンを促し、本宮の側近執務室へ向かう。
人払いをした室内で、聞き取った内容の書かれた紙をめくりながらレンブレーは口を開いた。
「ヨウ様が忘れたと認識しているのは、これまで授業を受けていた座学および魔法の感覚、剣の扱い方、いくつかの体術。そして我々と側仕えの容姿、名前、その人物に関連する記憶です」
歴史も魔法も剣術も、毎日とまではいかないが数日おきに授業を行っているものだ。
前回の授業内容をひとつも思い出せず、体の動かし方まで忘れてしまうとは異常事態に他ならない。
「最初はヨウの悪ふざけかと思ったんだけど、本当に忘れちゃってるみたいで驚いたよ。昨日の魔法の授業では問題なかったはずなんだけどな」
レンブレーはティルクスの発言も書き付けた。
たった一日で教師の顔と名前を忘れ、以前は行使できていた魔法が使えなくなってしまうなど、間違いなく異様だ。
百歩譲って魔法だけであれば、ヨウのいた世界には存在しない馴染みのない法術ということで、やり方を失念してしまうこともあるだろう。
しかしヨウの「物忘れ」は剣術や体術という、忘れようと思っても難しい範囲の学びにすら及んでいる。
加えて彼は、顔と名前を見てもその人物を思い出せない。
「ティルクス、本当に魔法による害の痕跡は確認できなかったのですね?」
「はい。そもそも王宮には結界を施してありますし、ヨウが離宮に入ってからはより結界を強固にしてあります。外部からヨウだけに向けて魔法を使うというのはほぼ不可能ではありますが……内部の人間が直接何かしたにしても、痕跡は必ず残る。それが一切ありません」
「わかりました。しかし万が一のこともある、ティルクスは引き続きヨウ様の身体を魔法の側面から調べてください。グリン、あなたは王宮内の警戒をより強め、不審な者の侵入や不審物の設置がないかどうか探ってください」
「了解。いつも以上に気をつけるよう部下たちに徹底する」
いつもはおちゃらけたところのある二人の若者は、真剣な表情で頷きあった。
彼らが戴く王だけでなく、王の恋人にも忠誠心を持っていることがわかる。レンブレーは信頼できる二人の実力者の様子に少しだけ肩の力を抜いた。
「すべて憶測ではありますが、現時点で私が想定している原因は三つです」
魔法、病、精神的なもの。
レンブレーが挙げた要素に、グリンは唸りティルクスは険しい表情を浮かべた。
「ありえないとは思うけど、僕の魔法探査が及ばない相手がヨウに魔法を掛けたのなら僕だけの力じゃ対処できない。探査に強い師団の者に声をかけるよ」
「えぇ、魔法の分野は魔法師団におまかせします」
「病ならそれこそ医術か、治療魔法に頼るしかないな」
「特にヨウ様は異世界からの旅人。我々が普段頓着せず接している食物や菌類、空気中に含まれる成分が彼の身にどう影響するか未知数です。医師団にはそこを重点的に調べてもらいます」
「そうか、異世界人だからという可能性もあるんだな」
「じゃあ精神的なものってのは……」
レンブレーは皺が寄って痛いほどの眉間を指で揉み解しながら、独り言のように考えを零す。
「彼は異世界からの旅人です。我々とは環境も常識も違う場所で生きてきた。若く賢く適応力が高いとはいえ、周囲の環境全てが彼の精神に負担となる可能性があります。弱っていたところに、本来は害がないはずのものが過度にヨウ様の記憶や脳機能に影響を及ぼした可能性も否定すべきではありません」
「確かにな……ヨウはいつも気丈に振る舞っているから、多少の体調不良なら隠してしまうだろう」
「気を張っていて自分でも気づかないうちに抵抗力が落ちていたのかもしれないね」
日頃接する機会の少ないレンブレーより余程、ヨウの人となりを把握している二人が神妙に考え込むのを見て、また一つ手元に書き付けを加える。
レンブレー自身としては、ヨウの異変の原因は精神的なものとは考えていなかった。そのような不確かなものではないと、長年王宮の政情という荒波を渡ってきた勘が告げている。
「私は過去の文献から、似た症状や前例がないかどうか調べます。あなたたちもそれぞれの立場から、最優先事項として調査に当たってください。なにか分かったことがあれば連絡を」
「了解」
「すぐ取り掛かります」
表情を引き締めて踵を返し去っていくグリンとティルクスの背中を見送り、レンブレーは再び眉間の皺を伸ばすように揉んだ。
おそらく、時間はそう残されていない。
優秀な宰相の抱いた嫌な予感は、的中してしまうこととなる。
レンブレーたちが部屋を出ていってすぐに、グーラもお付きの者に呼ばれて行ってしまった。
どうしようもない不安を抱えるヨウを、従者たちがなんとか慰めようと様々に試みている。
普段は一日一人か二人しか姿を見せない彼らが、今は何人も部屋の中をあちこちへ行き交っている。
ヨウが好きなお茶を淹れたり、甘い菓子や果物を持ってきたり。窓辺の花瓶の花を入れ替えたり、結局見てこられなかった図書室から、ヨウが好みそうな冒険物語の本を何冊も持ってきてくれたり。
ヨウは精一杯の笑みでそれらに礼を述べたが、傍から見れば痛々しい努力でしかなかった。
こんなにも心配して尽くしてくれる彼らを、ヨウは誰一人思い出せない。
なんて恩知らずなんだろう。
従者たちが元気づけようと笑顔を見せるたび、ヨウは自己嫌悪の沼に沈んでいくような心地になっていた。
しかしいつまでも無気力にへこんでいる場合ではない。
宰相レンブレーから、忘れた記憶がどのような内容で、忘れたことに気づいたのはいつか、思い出せることはないかと聞かれていた。
もし後から忘れたことを思い出したり、忘れた内容を取り戻したら教えてほしいとも。
そのためにはヨウ自身が様々な事柄に触れて、以前にもその記憶を持っていたかどうか、記録や周囲の証言から探っていかなければならない。できるだけ詳細に。
身近な人に───なによりグーラに、これ以上迷惑をかけないために。
日記をつけていなかったことが悔やまれるが、どうにもできない過去に後悔している暇はない。
まずは授業ノートをもう一度始めから見直してみるべきだ。
決意して立ち上がったヨウは、突然ひどい目眩に襲われてソファに逆戻りしてしまった。
「ヨウ様!」
侍従の一人が慌てて体を支えてくれる。
それに縋りながら、ヨウは目元を押さえた。
頭が揺れているような、乗り物酔いと似て非なる感覚で視野がおぼつかない。
「ヨウ様、一度お休みになられてはいかがですか。連日のお勉強でお疲れのところに、此度の変調……御心の乱れが体にも出ているのかも知れません」
「ぅ……そう、ですね。じゃあ少しだけ……」
仮眠を取ると告げると、従者たちはほっとした様子を見せ、すぐさまヨウを寝台に押し込んだ。
心配と迷惑を際限なくかけてしまっている。立ちくらみを起こしたことはきっとグーラにも伝わってしまうだろう。また悲しい顔をさせる。
どうして自分はこんなに無力なんだろう。
ヨウは拭いきれない不安と虚しさを振り払うように目を閉じ、眠りの世界へ逃げた。
11
あなたにおすすめの小説
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
拝啓、目が覚めたらBLゲームの主人公だった件
碧月 晶
BL
さっきまでコンビニに向かっていたはずだったのに、何故か目が覚めたら病院にいた『俺』。
状況が分からず戸惑う『俺』は窓に映った自分の顔を見て驚いた。
「これ…俺、なのか?」
何故ならそこには、恐ろしく整った顔立ちの男が映っていたのだから。
《これは、現代魔法社会系BLゲームの主人公『石留 椿【いしどめ つばき】(16)』に転生しちゃった元平凡男子(享年18)が攻略対象たちと出会い、様々なイベントを経て『運命の相手』を見つけるまでの物語である──。》
────────────
~お知らせ~
※第3話を少し修正しました。
※第5話を少し修正しました。
※第6話を少し修正しました。
※第11話を少し修正しました。
※第19話を少し修正しました。
※第22話を少し修正しました。
※第24話を少し修正しました。
※第25話を少し修正しました。
※第26話を少し修正しました。
※第31話を少し修正しました。
※第32話を少し修正しました。
────────────
※感想(一言だけでも構いません!)、いいね、お気に入り、近況ボードへのコメント、大歓迎です!!
※表紙絵は作者が生成AIで試しに作ってみたものです。
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
転生したら親指王子?小さな僕を助けてくれたのは可愛いものが好きな強面騎士様だった。
音無野ウサギ
BL
目覚めたら親指姫サイズになっていた僕。親切なチョウチョさんに助けられたけど童話の世界みたいな展開についていけない。
親切なチョウチョを食べたヒキガエルに攫われてこのままヒキガエルのもとでシンデレラのようにこき使われるの?と思ったらヒキガエルの飼い主である悪い魔法使いを倒した強面騎士様に拾われて人形用のお家に住まわせてもらうことになった。夜の間に元のサイズに戻れるんだけど騎士様に幽霊と思われて……
可愛いもの好きの強面騎士様と異世界転生して親指姫サイズになった僕のほのぼの日常BL
劣等アルファは最強王子から逃げられない
東
BL
リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。
ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。
【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。
龍の寵愛を受けし者達
樹木緑
BL
サンクホルム国の王子のジェイドは、
父王の護衛騎士であるダリルに憧れていたけど、
ある日偶然に自分の護衛にと推す父王に反する声を聞いてしまう。
それ以来ずっと嫌われていると思っていた王子だったが少しずつ打ち解けて
いつかはそれが愛に変わっていることに気付いた。
それと同時に何故父王が最強の自身の護衛を自分につけたのか理解す時が来る。
王家はある者に裏切りにより、
無惨にもその策に敗れてしまう。
剣が苦手でずっと魔法の研究をしていた王子は、
責めて騎士だけは助けようと、
刃にかかる寸前の所でとうの昔に失ったとされる
時戻しの術をかけるが…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる