ロスト・ナイン

キザキ ケイ

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 分厚い布で出来た靴でさくさくと芝の上を歩く感覚が心地良い。
 隅々まで手入れされた美しい庭園にはあたたかく乾いた風が吹き抜け、髪をかき混ぜて去っていった。
 この景色は毎日のように眺めていたが、こうして自分の足で歩くのは今日が初めてだ。
 ヨウは────感慨深く振り返る。

 ヨウの周囲にいる人々は妙に過保護で心配性で、ヨウがいくら一人で歩けると言い張っても、敷地内の散歩すらなかなか許可が出なかった。
 彼らの考えもわからなくはない。
 少し前までは実際に立つことすら覚束なかった体だ。
 一度など、顔見知りの使用人たちが四人で担いだ椅子のようなものが用意され、座ったまま移動したときはあっけにとられたものだった。
 周囲には常時誰かがいて、小まめに具合をたずねられる。
 体のバランスを崩そうものなら傾いた瞬間に抱き上げられ、体調が悪ければ食事すら一人でとらされず、雛鳥のように口を開けて匙を運ばれる有様だ。
 気楽な散歩を楽しんでいる今も、ヨウは一人きりではない。

「ヨウ」

 斜め後ろにぴったり付き添って歩く従者に呼ばれて、振り返る。
 背が高く体格のいい、派手な色の髪と目を持つこの男こそ、複数いる過保護な付き人の筆頭だ。

「疲れていないか。足は平気か?」
「はい、大丈夫です。ていうかまだちょこっとしか歩いてないんだから、疲れるわけないですよ」
「そうだな。だが疲れたらすぐに言ってくれ、休憩にしよう」
「ふふ……はーい」

 男はヨウよりずっと背が高く、いくらか年上で、威圧的な雰囲気を持っている。
 いつも無表情か眉間に皺を寄せた難しい顔をしてばかりで、ぶっきらぼうな話し方をするので男の近寄り難さに拍車をかけてしまう。
 しかし今では彼の様子が、ヨウの身を案じ周囲を警戒しているためだと理解できていた。
 ただ不器用なだけで、周囲に慕われていることも。
 その周囲の中に、ヨウ自身も含まれている。

(かっこいい人だよなぁ)

 体が触れ合いそうな距離で歩く男をちらちらと見上げて、ヨウは溜め息を吐いた。
 グーラという名のこの美丈夫は、ヨウにつけられた従者の一人だ。
 いかにも育ちの良さそうな、他人に指示を飛ばし従わせることに慣れた振る舞いからして、ヨウについている侍従たちを束ねる役割の人物だと推測される。
 その証拠に彼はいつも忙しそうにしている。
 誰かと話したり、書類をたくさん捌いたり、本当はヨウの世話をしている暇はないのではないかと心配になるのだが、彼はどんなに多忙な日でも必ずヨウのそばにいる時間を作っていた。

 ヨウは記憶を失っている。
 数ヶ月前に長い眠りから目覚めた時は、自分が記憶喪失者であることすら認識できなかった。
 目覚めを待ち侘びて涙まで流したグーラたち従者と、意識がない間も診てくれていた医師の話によれば、ヨウは言語や常識、過去の思い出だけでなく肉体の動かし方すら忘れる特殊な病を患い、一時は生命維持まで危ぶまれるほどだったという。
 そのせいでヨウはしばらく寝たきり生活だった。
 病の後遺症で指先を動かすことすら困難だった時期が長く、今はもうすっかり体を動かすことに支障はないというのに彼らは過保護なままだ。
 目覚めてからのヨウは、寝台からは降りられないものの頭はしっかり冴えていたので、寝転がりながらたくさんの本を読み、侍従たちとたくさんおしゃべりをした。
 病に罹る前までは使いこなせていたからか、言語を習得し直すのは早かった。

 ヨウと一番長く共に過ごしてくれた従者がグーラだ。
 最初はなんとも思わなかったが、社会常識が身についてくると次第に彼が突出した人物であることがわかった。
 能力はさることながら、特に目につくのは派手な色彩と美貌だ。
 陽の光を閉じ込めたように明るく輝く金の髪と、遥か天の夜空で命を燃やす星のように力強く美しい紅の瞳。
 男らしく精悍な顔立ち、鍛え上げられた肉体。声は低く良く響いて、重いものを持ち上げる力強さと器用な手先が両立している。
 ふらついたヨウを一人で軽々と抱え上げることができる従者はグーラだけだ。
 何度彼のお世話になったか知れない。
 所作は自信に満ち溢れ、良く気がつき細やかな気配りをしてくれる。
 なによりヨウを献身的に看護し、まるで美しい花でも愛でるように慈愛に満ちたまなざしを向けてくる。
 かつてのヨウの性的嗜好がどうであったか記憶はないが、恐らく同性相手にも恋心を抱ける人間だったのだろう。
 グーラに恋をしてしまうのは自然な流れに思えた。

(でも彼はただの従者だ。この国の偉い人に命じられて、客人である僕を世話してくれているだけ。彼が僕の気持ちを知ったら、立場上拒否できないだろう)

 だからこの想いは胸に秘める。明かすつもりはない。
 いつかヨウの世話に手がいらなくなったら、彼はヨウから離れる。
 そのときに悲しくならないよう、離れがたく思わないよう、少しずつ恋心を忘れられるよう努めるつもりだ。
 四六時中彼と過ごすことも多い現在、その試みは失敗続きだが、別れの時は確実に近づいている。
 ヨウは近頃誰の手を借りずとも、さまざまなことができるようになってきていた。

「ヨウ、疲れただろう。少し休もう」
「あ……はい」

 考え事をしながら漫然と歩いていたら、足元が少しふらついた。
 途端にヨウの腰が掬い上げられ、グーラの腕に抱かれる。
 危なげない足取りで運ばれた先は庭の片隅にある四阿の長椅子だった。
 筋肉が完全に戻っていないため、気を抜くと体の力まで抜けてしまう。またグーラに手間をかけさせてしまったという罪悪感で、ヨウは項垂れた。

「気分が優れないか?」
「あっ、いいえ、大丈夫です」

 俯くとそれはそれで心配させてしまった。上手くいかない。

『だめだなぁ……』
「? ヨウ、今何と言った?」
「え?」

 完全に無意識の独り言だったが、触れ合うほど近くにいるグーラが聞き取れないようなことを言っただろうか。
 もう一度繰り返して、どうも舌や口の動かし方が普段と違うような気がした。
 この国の言語とは異なる単語が、無意識に出た。覚えていないのにどこか懐かしい響き。
 思い浮かんだ言葉をいくつか口にするヨウに、グーラは一瞬苦々しげな表情を浮かべたが、すぐに消した。

「それはヨウの母国の言葉かもしれん」
「母国? 僕はこの国の人間じゃないんですか?」
「あぁ」

 この宮殿においてヨウは客人という立場であることは知っていた。
 しかしどこから来た客なのかは思い出せず、誰からも聞かされていなかった。
 自分の身元や失った記憶より、動かない体をどうにかする方が優先だったから仕方がない。
 グーラが語ってくれたのは、まるで本の中のおとぎ話のようだった。
 魔法による不慮の事故に巻き込まれこの国へやってきたヨウは、国土地図に載っていないほど遠くの国の生まれだという。
 道理で、と納得した。
 ヨウの真っ黒い髪と濃い茶の瞳という組み合わせは、この国ではあまり見られない色合いで、従者たちと並ぶとやや目立ってしまうことが気になっていた。異国人であれば頷ける。

「じゃあこれは、僕の故郷の国の言葉なんですね」
「恐らくな。俺も僅かな単語を、記憶を失う前のヨウに教えてもらったことしかない」
「へぇ。以前の僕はグーラにどんな言葉を教えたんですか?」

 この国の言葉もまだ完全には再習得できていないヨウにとって、今日はじめて存在を認知した故郷の言葉は興味深かった。
 グーラから逆輸入される単語を足がかりに、さらに多くの記憶を取り戻せるかも知れない。
 無邪気に問うヨウを、グーラの赤の双眸がじっと見つめた。
 奥深くまで覗き込まれるような強い視線にヨウは戸惑い、たじろぐ。

「スキ」
「え?」
「『スキ』だ、ヨウ」
「あ、えと、その言葉は」
「『スキ』、『アイシテル』」
「……っ」
「ヨウから教わり、俺が発音できるようになった言葉はこれだけだ」

 思わず呼吸が止まり、喉がひゅっと鳴った。
 グーラから視線を引き剥がし、胸を押さえて呼吸を整える。
 よりによってなんて言葉を教えているのだろう、過去の自分は。
 挨拶や当たり障りない常用単語など、教えるべきものは他にいくらでもあっただろうに。
 なにより、片想いの相手に真っ直ぐ見つめられながら囁かれる単語としてこれ以上不適切なものはない。言葉に意味が篭もっていないと頭ではわかっていても、胸の鼓動がうるさいほど高鳴ってどうしようもなくなってしまった。

(もしかして以前の僕も、グーラのこと好きだったのかな)

 思いを馳せて、胸が痛くなる。
 まるで鳥に言葉を覚えさせるように、中身の伴わない愛の言葉を囁くよう仕向けた過去の自分を呪いたくなる。
 しかしまずは、グーラの認識を改めさせるのが先決だ。
 ヨウの故郷の言葉はこの国ではほとんど知られていないようだし、グーラがさっきの言葉を吹聴しても問題が起きる可能性は低い。でも誰かが意味を知っていて、グーラが笑い者にでもなったらいたたまれない。
 そう思って口を開いたヨウは、全く異なる言葉を紡いでいた。

「書き方も教えた、で、しょ───?」

 自分の発言にはっとして、混乱する。
 今のは何かを考えて言ったのではなく、まるで深層から湧き上がるように勝手に出てきた言葉だった。
 そして朧気な像が浮かび上がる。
 ヨウはやっと使い慣れてきた筆で、紙に言葉を書いてやっていた。
 それを覗き込んで読み方を教わっている男は、身を寄せ合うように至近距離でヨウを見つめ、甘く微笑み、習ったばかりの言葉を耳元に囁いてきた。
 重ねられた唇の感触と熱も、今まで忘れていたのが不思議なほど鮮明に思い出す。

「……あ……僕は、……」
「ヨウ? もしや、何か思い出したのか」

 グーラの声は期待と不安で揺れていた。
 医師からは、病によって失った記憶が戻るかどうかはわからず、このまま思い出せない可能性のほうが高いと言われている。
 しかしヨウは目覚ましい速度で言語を再習得し、体を動かすことができるようになるまでも早かった。
 本当にヨウの中からすべての記憶が失われてしまったのであれば、赤子のごとくまっさらになり、再び元の生活を送れるようになるまで何年も掛かったことだろう。
 ヨウの記憶は消えてしまったのではない。グーラは半ば確信していた。
 そして今目の前で、ヨウにとってもグーラにとってもかけがえのないはずだった記憶が舞い戻る。

「あの、ね。間違っていたらごめんなさい。僕と、グーラは……恋人同士、だったの?」

 その時見た、いつも自信に満ち溢れ堂々としている「王様」の泣きそうな笑顔を、ヨウはきっと二度と忘れないだろう。




 おわり
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