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第二性選択編

14.旦那様はアルファ

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 首筋が隠れるくらい髪が長いことをこれほど感謝する日が来ようとは。
 昨日颯真に噛んでもらった首の跡は、まだしっかり表皮に残ってる。
 けど中にハイネックのTシャツを着て、くるくる跳ねる寝癖を落ち着かせれば全然見えない。
 次の日体育があるときはさすがにヤバいんだけど、そういう日は近くで着替えてる颯真がさり気なく周囲の視線をガードしてくれるので、今まで気づかれたことはない。
 授業中はジャージの襟元を立てればうなじが見えることはないし。
 と、思っていたんだけど。
 さすがに長距離走となると、噛み跡に気を配るどころじゃなかった。

「はぁ、はぁ……きっつ……あと何周……?」
「がんばれ雪~あと1周~」

 長距離走とは思えない元気なスピードですれ違っていく友人の声援を聞きながら、俺はよろよろと走っていた。
 後ろから追い抜かされたということは、さっきのやつとは周回差がついてるってことだ。
 俺だっていつもはこんなヨレヨレした走りなんて見せない。
 ひとえに昨日の行為が疲労として残っているせいだ。
 結局盛り上がって三回戦にまでもつれ込み、大急ぎでシャワーを浴びて浴室を片付けて拭いて汚れたタオルを洗って……とやっていたら母さんが帰ってきて、間一髪だった。
 受け身に慣れてきたオメガの体とはいえ、疲れるものは疲れる。
 今日の体育が、学校の敷地をぐるりと4周もするマラソンだと知っていれば途中で切り上げたのに……いや、あの状況で途中でやめられたかどうか自信ないけど。

「ユキ、無理するな。先生に言いに行こう」

 ずっと並走してくれている颯真は明らかにハラハラとして落ち着かない様子だ。
 自分のせいで、と思っているんだろうけど、昨日のあれは俺の自業自得な面も大きい。

「だ、だいじょぶ……それより颯真、先行って」
「でも」
「俺は、だいじょぶ。アルファが二人とも、ベータに抜かされっぱなしじゃ、形無しだろ」

 ぜぇはぁ言いながら啖呵を切る俺の現状はだいぶダサかったが、本来なら当然一位フィニッシュの颯真が周囲のベータに抜かれ続けているのが、そろそろ我慢できなくなっていた。
 俺は元々集団の最後尾でとろとろ走るタイプなので気にならない。でも颯真はそうじゃない。
 横で走る背中を思いっきり叩いてやると、心配そうな表情は変わらないものの、一気にスピードを上げて前のやつらをごぼう抜きしていった。
 気が抜けて、ほとんど歩くような速度にまで足をゆるめる。

「はーー……」

 自分の限界と戦い、あるいはライバルと切磋琢磨するために走る勤勉なクラスメイトたちはとっくに先へ行き、後には俺のようにだらだらと距離をこなす者ばかりが残った。
 時折抜いては抜かされとする面子の半分ほどは知らない顔だ。
 そういえば今日のマラソンは他クラスと合同なんだっけ。息を整えながら考えたところで、誰かに肩を軽く叩かれる。

「よ。ずいぶん後ろにいるな」

 ほとんど歩いている俺に歩幅を合わせた大島が、疲れの見えない笑顔を向けてきた。
 合同相手のクラスとは大島のところだったか。

「てっきり椿と一緒に先頭集団かと思ってた」
「マラソンにそこまで情熱ないし。大島こそ後ろじゃん」
「俺も情熱ない組だから。それに椿と争うことになったら嫌だし」

 なんともアルファらしくない、やる気とプライドの感じられない言葉だ。
 ベータたちに混ざってたらたらと足を動かしながら、大島が俺の先に行く気配はない。
 大島と俺は、アルファ同士にしては仲がいいとはいえ、お互いをそれほど良く知っているわけではない。
 喋ることがあっても当たり障りない雑談とか、学校の授業や宿題のことくらいで。
 だから昨日今日と、大島の方から声をかけてくるのを見ると、思ったより気に入られているんだなと不思議な気持ちになる。
 それに引き換え、颯真の嫌われっぷりと言ったら。

「大島ってなんでそんなに颯真のこと嫌いなの?」

 颯真の名前を出すと、大島は人好きのする顔を露骨に顰めた。

「嫌いってより、苦手。近寄りたくないんだよ」
「それはやっぱりアルファだから?」
「だけじゃないけど……」

 大島はちらっと俺を見て、ふっと鼻で笑った。

「香川にはわかんないだろうな……」

 急に直球でディスられた。

「……」
「あ。怒った? 待ってって」

 俺は無言で大島から距離をとった。
 散歩よりゆるい速度だった歩みを、競歩くらいのスピードに上げて前方に逃げる。
 なんだよ俺にはわかんないって。どうせ俺はアルファ同士の縄張り争いに鈍感な凡骨アルファだよ。しかも今はアルファですらないよ。
 でもそんなことをこいつに馬鹿にされる筋合いはない。
 大島は俺と違って疲れてゆっくり歩いていたわけじゃないので、少し足早になったくらいじゃ撒けなかった。
 代わりに俺の不快感は正しく伝わったようだ。

「ごめんごめん。別に香川が鈍いとか劣ってるとかって意味じゃないんだ」
「他にどんな意味があんだよ」
「椿にとって香川は特別枠だってこと」

 特別枠?
 歩幅を緩めてやる。大島はほっとしたように俺の横に並んで、良く言えば気さくな、悪く言えば胡散臭い笑みを見せた。

「気づいてないだろ? それが証拠」
「また馬鹿にしようとしてる?」
「してねーって。俺が香川にアルファの敵対者として威嚇しないのと同じで、椿も香川のことは許容してるってことだ」

 アルファは己の懐に入れた者には寛容で、そうでない者へは警戒を怠らない。
 ほぼ無条件で庇護対象に入るのがオメガ、それほど警戒はされないものの心を許されるには相応の努力が必要なベータ。
 アルファはアルファであるというだけでまず身構えられる。
 対等な仲間やライバルになることはできても、心から打ち解けることは難しい。
 颯真は比較的他者に対する線引が厳しいタイプで、大島みたいなアルファは絶対に仲良くなれないと本能的にわかるらしい(またディスられた?)。
 しかし颯真は俺を受け入れている。珍しいことだと。

「俺は颯真のマブダチ、ってことか」
「そういうことかなぁ」
「……めっちゃいいなそれ……」

 他クラスのやつから見ても俺たちはニコイチなわけか。
 嬉しくて、ぐふっと変な笑い声が出た。
 あぁでも今の俺たちは友達じゃないんだった。友達以上恋人未満的な、そういう妖しい関係だ。
 素直に喜んでいいものか……と悩み始めてしまったせいで、大島が俺をじっと見つめていることには気づかなかった。

 午前の授業のマラソンで疲れ果ててしまった俺は、その後の授業をうとうとしながら過ごした。
 俺だけじゃなくクラス全体がなんとなく疲れのためか浮ついていて、そのせいか午後の英語で抜き打ち小テストが催され最悪だった。

「小テストいきなりやるとかひでーよな」
「俺半分もいってないかも」
「途中で寝そうだったわ……」

 机の周りでげっそりしながら愚痴る友人たちに、今日ばかりは同意しかない。
 英語はそれほど得意な科目じゃないけど、予習をすれば授業についていくことは難しくない。
 それが今日の抜き打ちテストは教科書じゃない場所から出題された正真正銘の不意打ちだったせいで、他のやつらと同様、俺の結果もボロボロだ。
 眠気で集中力が続かないし、授業中書いたノートはみみずがのたくっている。
 比較的眠くなかったという友人のノートを写させてもらいながら、疲れた眠いと言いつつ放課後の算段を話し合っている友人たちの会話を聞くともなしに聞く。
 今日は確か、放課後颯真は部活だ。
 別行動になりそうだなぁと思っていたら案の定、颯真が申し訳なさそうな顔で近づいてきた。

「ユキごめん、今日は」
「あぁうん。わかってるよ。いってらっしゃい」
「ごめんな。また明日」

 俺の髪をくしゃりと撫でて、襟足を名残惜しそうに指先で梳いていく。
 露骨に後ろ髪引かれながら教室を出ていく颯真に苦笑しながら手を振って、周囲がしんと静かになっていることに気づく。
 おしゃべりをしていた友人たちが、皆口をつぐんでいた。

「何?」
「いやぁ、なんていうか……」
「嫁っていうか、新妻っていうか」
「は? 何?」
「本人自覚なしかよ」
「自然体でアレとかこえ~」

 なにやら俺が嫁っぽい、という話らしいが全く意味がわからない。
 さっきのやりとりのどこにそんな要素があったというのか。

「でもさ、前より仲良くなったよな二人」
「今までもべったりだったのにさらに距離近くなったっていうか」
「あーそれな」

 最後の発言は、俺の前にいる友人たちのものではなかった。
 頭にずしりと重みがかかり、前のめりにさせられる。
 この声、そして遠慮のないウザ絡み。

「大島重い」
「お、声だけでわかった? 愛じゃん」

 適当すぎる大島を無視して払い除けた。
 隣のクラスもホームルームが終わったのだろう。廊下を歩く生徒たちからわざわざ逸れて、俺のところに来たらしい。
 ベータの友人たちは突然増えたアルファにポカンとしている。

「なんか用?」
「えっ冷たい。香川俺には冷たくね?」
「別に普通」

 特別冷たく当たったとかではないと思う。
 そうしたら友人たちが「雪はこれが普通だよ」と援護射撃してくれた。

「颯真以外には雪いつもこんな感じ」
「そうそう。旦那にはめちゃ甘だからこの人」
「誰が嫁だ」

 ふざけている友人を肘で小突くと「きゃっDVだわ!」なんて騒ぎ始めて余計にうるさくなった。
 騒がしい友人たちと戯れるのは嫌いじゃないけど、俺へのイジりで盛り上がられるのはどうにも居心地が悪い。
 全員無視して帰ろうと立ち上がると、大島が立ちはだかった。

「待って待って。この後ヒマ? 寄り道しねぇ?」
「しない」
「マジで冷たいじゃん……ほら、割引券あるからさ」

  「ナンパかよ」「ナンパだな」と周囲のベータにすら冷たく見られていることに気づいていないのか、大島は鞄から小さな冊子を取り出した。
 十数枚の紙がひとつに綴られたそれを覗き込む。

「これって……アレ?」
「そう、アレだ」

 およそ高校生が持つものではないそれは、いわゆる株主優待券。
 学生御用達のハンバーガーチェーンで使える、人気の商品が割安で買えるクーポン券の束だ。
 後から考えれば大したものじゃないんだけど、俺たちのテンションは一瞬で爆上がりしてしまった。

「すげー! それ持ってるやつ初めて見た!」
「なんで持ってんの?」
「アルファのパワーだよ」
「アルファパワーすげー!」

 極めてアホみたいな会話だが、アホの頂点である大島が「香川が来るなら使ってもいい」なんて言ったもんだから、俺は味方であるはずのベータたちに両脇を抱えられ寄り道することになってしまった。

「だいじょーぶ、旦那には浮気のこと黙っててやるから」

 誰が嫁だ。
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